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雷鳴のラストピース  作者: 雨車狸
第二章 『爆炎のプリンセス』
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第二章42 『翔太郎とアリシア』

 翔太郎の意識は朦朧としていた。

 地面に叩きつけられた身体は動かず、焦げた空気が喉を焼いている。


 痛くて立ち上がれない。

 もう一歩も──そう思った、その時だった。


 不意に。

 耳元で、誰かの声がした。


『ねぇ、鳴神翔太郎……お願いがあるの』


 遠く。微かに。

 でも、確かに聞こえたその声は──


『何度も玲奈ちゃんを傷付けようとした私に……こんなこと、言う資格なんて無いと思うけど……』


 穏やかで、弱くて。

 それでも必死に、何かを託そうとする声だった。


『あの子を……アリシアを、お願いね』


 ──カレン。

 その名前が、翔太郎の脳裏に浮かぶ。


 次の瞬間、朦朧とした視界の中に──崩れ落ち、泣きじゃくるアリシアの姿が映った。


 何も守れなかった少女。

 救えなかった命の中で、ただ一人残されたその背中。


 ──俺が、守らないと。


 握る力すら残っていないはずの拳に、自然と力が籠った。

 倒れたままの体で、翔太郎は歯を食いしばる。


「あぁ……!」


 声にならない呻きが喉から漏れる。

 それでも叫ぶように、身体の奥で繰り返していた。


 ──絶対に、アリシアを守る。

 ──もう二度と、あんな惨劇を起こさせない。

 ──誰一人……失いたくない。


 燃える身体が、警告を告げる。

 それでも──今だけは関係なかった。

 声が消えても、想いは確かに翔太郎の中に届いていた。


 その全てを託されたと理解した瞬間、翔太郎の視線は強く前を捉えた。


 四季条輪廻。

 この世界を嘲笑い、命を弄び続ける怪物。


「あんな奴に……」


 震える身体を、翔太郎は無理やり立たせた。

 力など残っていない。

 だけど──心は折れていなかった。


「──二度と、奪わせない……!」


 カレンの声は、もう聞こえない。

 けれど、翔太郎の胸には、あの言葉が燃え続けていた。


 ──アリシアを、お願いね。


 翔太郎の全身に、雷光が宿る。

 燃え尽きる命を、今だけは刃に変えて。




 ♢




 静寂を切り裂いたのは、やけに軽い、乾いた拍手の音だった。


「いやあ、凄かったよ、今の」


 その声は、まるで映画でも見終えた後の観客のように、心のこもっていない賞賛を口にしていた。


「涙あり、感動あり、友情あり……おまけに『大好き』なんてセリフまであってさ。はっきり言って、フィクションなら文句なしの名シーンだったね?」


 血の気が引く。

 それを言ったのが、誰なのか──この場の誰もが知っていた。


 拍手の主、四季条輪廻。

 彼は高みからゆっくりと歩み寄りながら、悪びれた様子など微塵も見せなかった。

 むしろ、心底楽しそうな顔をしていた。


「ビックリしたよ。ゾンビにもさ、感情とかあるんだ? いやぁ、さっきはちょっと馬鹿にしてたけど……ゼクスの研究って、案外良いとこまでは行ってたんだなぁ。うん、それはちょっと見直した」


 アリシアは震えたまま、顔を上げない。

 その膝の上にはもう、誰もいない。

 残ったのは、灰と、砕けた記憶だけ。


 それすら、四季条は靴で踏みそうな勢いで、平然とアリシアの目の前に立ち止まる。


「でもまあ、終わったことだしさ。ね?」


 にこ、と。

 まるでクラスの友達に話しかけるように、四季条は気軽に言い放った。


「てか元々死んでたんだし、そこまで引きずる必要ある? ゾンビが消えたぐらいで、いつまで泣いてんの? 死体が焼けて灰になっただけでしょ。よくある話じゃん」


 その言葉の一つひとつが、ナイフのようだった。


「そもそも、そんな大事に思ってたんなら、最初から殺させなきゃ良かったのに」


 アリシアの肩が震える。

 彼女の呼吸が、不規則に、乱れていく。


「──あ、でも違うか」


 不意に、輪廻の目が細くなる。

 その声には、ぞっとするほどの悪意が滲んでいた。


「人を殺した罰とか言ってたもんね。カレン自身が。ふふ、あれ聞いてさ、ちょっとウケた。だってさ──ゼクスに操られてたって言い訳しても、結局は自分で焼いたんでしょ? 人間を。罪のない人を。何十人、何百人って──さあ?」


 アリシアの目から、ぼたぼたと涙が落ちる。

 それでも、四季条は止まらなかった。

 むしろ、嬉しそうに続ける。


「でもさ、悲劇のヒロインってほんと便利だよね。罪を背負った友達、最期に救ってあげました、みたいな顔してさ──その実、満足してんでしょ? 自分は友達を救えたって。そうやって、都合のいい綺麗事で生きてくのって、楽で羨ましいよ」


 四季条輪廻の足が、地面に残されたカレンの名残──灰を踏みつける。


「ねぇ、アリシア・オールバーナー。そんなに悲しいならさ──もう一度、別のお友達を作ればいいじゃん?」


 軽やかに。あまりにも、軽やかに。


「今みたいなことが起きても、またそのお友達が泣いてくれるよ。悲劇ごっこが大好きなお友達が、さ」


 ぱちん、と指を鳴らすような無邪気さで、四季条は笑った。


 その瞬間だった。


 空気が、変わった。

 呻くような雷鳴が、辺りを震わせる。

 四季条の軽薄な笑みが、一瞬だけ──止まった。


 見ると、立っていた。

 あれほどの猛撃を受けたはずの男が、なお立ち上がっていた。


「四季条……輪廻……」


 鳴神翔太郎が──立ち上がって、こちらにフラフラと歩き始めていた。


「……マジ?」


 興味深げに細められる瞳。

 だが、それは同時に愉悦だった。


「いやいやマジで? あり得ないって。あのローフラムの炎をまともに浴びた奴が立ち上がるのって……当時のドイツでも、一人もいなかったんだけどな」


 翔太郎は──立っていた。

 だが、満身創痍だった。

 焼け焦げた服。ふらつく足。

 それでも、アリシアを庇うように、一歩も退かずに。


 それを見た四季条輪廻は──にやけた。


「ま、いっか。ゼクスを消すついでだし。組織の情報知っちゃった君も、ここで処理しておかないとね」


 指を鳴らす。


「君って鳴神家最後の生き残りだよね? 特に異能力も発達してなかったら、あの時見逃したけど……」


 黄金の輝きが、掌に生まれる。

 音もなく。燃えることすら演出のように。


「運良く生き残れたんなら、オレたちに関わらず一般人として暮らして行けば良かったのに。本当にバカだよね」


 発せられた瞬間、爆ぜる黄金の炎が翔太郎を飲み込む。


 ──違う。

 アリシアの思考が焼き切れた。


 祖父が使っていた、あの炎。

 あの日、アリシアの幼い手を握ってくれた祖父の能力。

 温かくて、優しくて、誇りだったはずの力。


 それが今、祖父を殺した仇の手で、自分のもう一人の友達を、仲間を──翔太郎を焼き殺そうとしている。


「だめ……」


 呟きだった。

 声にならなかった。


「だめ……だめ、だめ、だめ、だめだめだめだめだめだめ──」


 何かが壊れる音が、自分の中で聞こえた。

 喉が引き裂かれるほど叫んだ。


「だめえええええええええええええええっ!!!!!」


 無力だった。

 止められなかった。

 足は動かず、異能力は起動すらできず、ただ目の前でそれを見ているしかなかった。


 翔太郎へと向かっていく、黄金の死。


 あれは、祖父が遺した誇りなんかじゃない。

 今、あれは──悪意の塊だ。

 誰かの命を奪うためだけに生まれた、悪意そのものだった。


 目の前でもう、友達を失いたくないのに。

 せっかく大切な人に出会えたのに。


 また、失う。


「逃げて──翔太郎ぉぉぉぉっ!!」


 泣き叫ぶ声は、黄金の熱に呑まれた。


 黄金の奔流は、無慈悲にも翔太郎に直撃した。

 爆ぜる光の中で、アリシアの絶叫は何度も何度も空に掻き消され続けた。


 ──まただ。

 また、私は──何も守れない。


 自分の手は、何のために存在しているのか。

 涙も血も枯れ果てた喉から、それでもなお叫びは止まらなかった。


「う、そ……翔太郎……?」


 アリシア・オールバーナーの心は、とっくに限界を越えていた。


 頭が、拒絶していた。

 だけど、否応なく焼き付く。

 目の前で、また、失ったのだと。


 ──カレンだけじゃ足りなかったの?

 ──私は、何をしてるの?

 ──何で、何も守れないの?


 喉の奥で引き裂かれるように溢れる嗚咽。

 苦しくて、痛くて、壊れていく感覚が止まらない。


 それなのに、笑っていた。

 泣きながら、笑っていた。


「あは……あはは……」


 何かが崩れた音が、自分の中で響いた。

 泣きながら、自分で気付かないうちに笑っていた。


「あははははははははっ!あはははははは!!」


 自分に問いかける声すら震えていた。

 もう立っている理由すらわからない。


「そっか。私、また誰かを不幸にしたんだ……。カレンも、翔太郎も……。私のせいで……」


 黒かった。


 視界の端で、自分の手が見えた。

 指先から、闇色の炎が蠢いている。


「もう、どうでもいい」


 気付けば──全身から。

 制御不能の黒炎が、本人の意思とは関係なく溢れ出していた。


「別に……もう……どうなっても……いい……」


 ぽつりと呟いた声に応えるかのように。

 黒炎はアリシア自身の身体を這い、地面を這い、何もかもを焼き始めていく。


 ──アリシアは、壊れた。


 止まらない涙。止まらない嗚咽。

 だけど、笑っていた。

 泣きながら、自嘲するように。


「あぁ……もう……私なんか、生きてる意味……無いじゃない……」


 黒炎は周囲の瓦礫を焼き尽くし、無差別に吹き荒れていた。

 燃やすことだけが存在理由のように。


 まるで、彼女の心そのものだった。

 壊れた心が、制御できない炎になって暴走していた。


 それでも、誰も止められなかった。

 燃え尽きるのは──アリシア自身か、周囲の世界か。

 その区別すら、もう彼女にはどうでもよかった。


「──は?」


 黒炎が、爆ぜた。

 四季条は思わず足を止めた。

 目の前で暴走し始めたそれは──完全にゼクスのセカンドオリジンなど比べ物にならない。


「……マジで? 何その黒い炎」


 思わず目を見開いた。

 けれど、次の瞬間──


「って、うわ怖っ!? だから何だよ、その異能力!?」


 四季条輪廻は、なぜか心底驚いたように後ずさった。

 顔を引きつらせたその反応は、場違いに軽い。

 状況の深刻さとはあまりにかけ離れていた。


「やば……ゼクスの研究って普通に成功してたんじゃん……」


 黄金の炎の主は、心底面白そうに呟いた。

 燃え盛る黒炎の奔流を前に、笑うしかないといった風情で。


「爆炎のプリンセス、だっけ? あははっ! いやいや、笑えねぇよ……普通にオレの炎と同じくらい燃えてんじゃん。ねえ、君そんなの使えたの? 聞いてないよ?」


 炎。

 黒と金の炎。

 違うのは──その温度でも、質でもなく。

 それを使っている者の心だった。


 少女は泣いていた。

 叫びながら、泣きながら、壊れながら──黒炎という地獄を解き放っていた。


 けれど、それを前にしても四季条輪廻は──愉快そうだった。


「つーか……やっば。あんな火力で泣きながら暴走とか、こっわ……」


 心底呆れたように、まるで他人事のように。

 少女の命を嘲笑う彼の声は、あまりに軽かった。


「ねぇ? 君さぁ……泣いてる場合じゃなくない? 自分ごと全部燃えちゃうよ? わかってる? まぁ……それはそれで面白いけど」


 まるで炎が遊び道具か何かであるかのように。

 少女の壊れた心すら、茶化して消費するかのように。


 黒炎が迫れば、ほんの軽い足運びでかわし。

 目の前に迫る死ですら、彼にとってはただの“暇潰し”でしかなかった。


「うわ熱っ!? あっぶな……いや冗談抜きで触れたら死ぬやつでしょこれ。はっは! やっば。ゼクスの研究とか完全にゴミだと思ってたけど……普通に良いとこ行ってたんだな、アイツ……あはは! 美味しいところ見れないとか、マジ無駄死にじゃん!」


 笑っていた。

 死そのものに価値を見出せず。

 命そのものに興味を持たない者だけが浮かべられる笑みだった。


「──なに? 目の前で鳴神翔太郎焼かれて、壊れちゃったの? 君」


 少女を見下ろす声は、軽くて、残酷で。

 それは、あらゆる人間の尊厳を踏み躙る音だった。


「さーてと。面白いもの見れたし、じゃあ今から──君を」


「殺してあげる」


 低く、壊れた声だった。

 生気のない瞳。虚ろな表情。

 それでも確かに、アリシアの唇はそう告げていた。


「わーお。聞いちゃいないね」


 四季条は笑った。

 だがその瞳には、ごく僅かにだけ、本物の興味が灯り始めていた。


「ま、いっか。オレも黒炎使いとやり合うのなんて初めてだし、単純に──どっちの火力が上か白黒つけようよ。な?」


 黄金と黒。


 二つの異なる地獄が、世界の中心で唸りを上げた。

 踏み出すと同時、業火と業火が正面から衝突した。


 漆黒──アリシア・オールバーナーの絶望。

 黄金──四季条輪廻の愉悦。


「よくも……」


 震える声は、怒りではなかった。

 限界を超えた少女の、壊れきった執念だった。


「よくも……翔太郎を……!」


 叫びと同時、アリシアの黒炎がさらに膨れ上がる。

 その火力はゼクスのセカンドオリジンすら凌駕していた。


 制御不能の暴力。

 泣き叫びながら放たれる、彼女自身すら焼き尽くしかねない死の炎。


 対するは。


「はっは! いいねいいね! やっぱゼクスより君の方が才能あったじゃん! アイツ無駄死に確定だわ!」


 四季条は笑いながら、炎の力を増幅させる。


 黄金の(ヘファイストス・)(フレア)

 世界の物理法則すら歪めかねない──本物の神の火。


 地獄と地獄が、ぶつかり合った。


 黒と金が絡み合い、空を焼き、地を焦がし、存在する全てを蒸発させる。

 それはもう押し合いなどではない。

 互いに相手を喰らい尽くそうとする殺し合いだった。


 四季条は──笑っていた。

 この地獄すら、遊びとしか見ていない。

 軽薄な声音で、まるでゲーム実況者のように。


「さーて、どっちが勝つと思う? ブラックホールみたいな君の火力か、それともローフラムも扱ってたオレの黄金か。いや、結構マジで面白くなってきたんだけど!」


 業火の渦の中。

 アリシアは涙で顔を濡らしながら、その奥で完全な殺意だけを燃やしていた。


 ──この男だけは、殺さなきゃいけない。


 ローフラムを。

 カレンを。

 そして、翔太郎を。

 自分から何もかもを奪ったこの男だけは。

 どんな代償を払ってでも──。


 アリシアの黒炎が、限界を超えた。

 既にそれは“異能力”ではなかった。

 ──命を焼く火。

 自分自身すら焼き尽くし、四季条を殺すためだけに存在する純粋な死だった。


 全身から、無意識に、制御不能の黒炎が噴き上がる。


 もう何も考えられない。

 まだこの場に残っているであろう、玲奈のことも、フレデリカのことも、ソルシェリアのことも。

 目の前の怪物を殺す以外に、世界はなかった。


「──死ね、死ね、死ね、死ね、死ね、死ね……死んでよぉおおおおおおおおおお!!!!」


 アリシアの絶叫と共に、炎が爆ぜた。

 黒炎が、世界を呑んだ。


 黒と黄金。

 二つの終焉が、全てを焼き尽くすために衝突する。


 ──地鳴りが響いた。


 ありえないはずの現象が起きていた。

 地下空間全体が、溶け始めたのだ。

 熱量が限界を超えた。

 鋼鉄の柱も、岩盤の天井も、熱で液状化し始めている。


 本来なら崩落して当然のはずの世界。

 だが崩れるより先に──焼却されようとしていた。


「ッ……ははっ……ははははっ!」


 笑っていたのは、四季条だった。

 この地獄すら、彼には暇つぶしにしか見えていない。


「やば……地下空間溶けてるんだけど。バカじゃん、なにこの火力……! いや、押し負けたらマジで死ぬってこれ。ははっ……!」


 そう言いながら、四季条は黄金の炎をさらに増幅させていた。


 ──本気だった。

 遊びは終わった。

 だが、それでも楽しそうに本気を出している。


 黄金の炎が、黒炎を押し返し始めた。


「……なっ──」


 アリシアの声が震えた。

 押していたはずの炎が、押し返される。

 殺せるはずだった怪物の炎が、自分の黒炎を飲み込もうとしている。


 四季条は笑っていた。


「君さ。オレを殺せると思った? ……悪いけど、オレ、夜空の革命の正規メンバーだし。君のそういう才能、妬ましくて大嫌いだから。焼き潰すね?」


 黄金の奔流が、黒炎を圧倒した。

 アリシアの世界が、崩れた。


 ──勝てない。

 ──殺せない。

 ──殺意を全て解放した、全身全霊の一撃でも。


「ああ、あ、あ、あああ……ああああああッ──!!」


 叫びも願いも全てを呑み込み、黒炎は打ち砕かれた。

 逆流するように黄金の熱が襲いかかり、アリシアの全身を薙ぎ払う。


 次の瞬間──アリシアは、吹き飛ばされていた。


 意識すら保てず、空中で体が折れ曲がる。


 黄金の熱はまだ残っていた。

 地下空間は溶け落ちる寸前。

 絶望しか残っていなかった。


 四季条は、楽しそうに息をついた。


「どれだけ努力してもさ……君がオレに勝てることはないんだよ」


 それは世界の真理のように。

 何の感情もなく、告げられた。


「どうしてかって? ──それがこの世の真理だからさ」




 ♢




 ──勝てなかった。

 私、本当に……勝てなかった。


 全力だったのに。

 あの時の炎は、命を賭けた最後の一撃だったのに。

 殺意も、怒りも、絶望も、何もかも曝け出して……それでも、勝てなかった。


 私は……この手で、誰も守れなかった。


 何も見えない視界の中で、私は壁に叩きつけられた。

 内臓が焼けて、呼吸すら苦しい。


 それでも──涙だけは、勝手に零れていた。

 痛みよりも、苦しみよりも、涙が先に溢れていた。


 黄金の熱が近付いてくるのが分かった。

 笑い声が聞こえる。

 悪魔の声だ。

 四季条輪廻。

 この世で最も醜く、最も軽薄で、最も強い──悪魔。


「楽しかったよ、アリシア・オールバーナー。少なくとも、鳴神翔太郎よりかは楽しめたかな」


 その声が、すぐ近くにあった。

 何もかも奪った悪魔が、私の死を娯楽として楽しんでいる。


 翔太郎……そう、翔太郎。

 思い出した。忘れたくないあの人のこと。


 鳴神翔太郎。

 彼は……私を助けようとしてくれた。


 何度も。何度も。

 こちらが何度拒絶しても、何度睨みつけても、それでも彼は──お節介なくらいに、ずっと私の隣にいてくれた。


 ここまでの一週間。

 オールバーナー邸での日々は……悪くなかった。

 いつも私は誰とも深く関わらず、淡々と過ごしていたのに。


 ソルシェリアのうるさい声と、フレデリカの丁寧な言葉だけが繰り返される日々の中で、彼と玲奈がやってきて、私は今まで知らなかった世界に少しだけ触れることができた。


 翔太郎は、明るくて。

 馬鹿みたいに真っ直ぐで。

 ……なのに、私の闇を知っても離れなかった。

 そこにいるだけで他人を不幸にするような私のことを、彼は……友達だって言ってくれた。


 たった一言が、どれだけ救いだったか。

 あの時、何も言えなかったけど──本当は、救われてたんだよ……翔太郎。


 玲奈も……冷たい時もあるけど、笑うと可愛かったり、案外子供っぽいとこあったり、翔太郎譲りのしつこさとか熱さとかあったり、心音の次ぐらいには親しみが持てる女の子だった。


 ……あの二人が日常に加わった日々は、少しだけ……暖かくて尊かった。


 だから。だから私は──


「翔太郎……」


 気付けば、彼の名前を呟いていた。

 名前だけが、声になった。


「ごめんなさい。私……勝てなかった」


 せめて、せめて貴方の仇だけは取ってあげたかった。

 それだけが、私にできる唯一のことだったのに。

 その願いすら……私は果たせなかった。


 私みたいな人間を、友達だなんて言ってくれたのに。

 あんなにもまっすぐ私の手を掴んでくれたのに。


 翔太郎……翔太郎……翔太郎……!


 ──ごめんなさい。


 涙は止まらなかった。

 焦げた壁に寄りかかって、私はただ、涙を零し続けた。壊れた身体で、燃え尽きた心で、それでも私は泣くことしかできなかった。


「何? 泣いてんの?」


 真上から悪魔の声が聞こえてくる。


「別に泣くことないでしょ。オレ、あの世とか別に信じてないけどさ、もう君の大切な人、みーんな死んじゃったし、君も無理に生きてる必要とかないんじゃない?」


「……そうね」


 本当に、その通り……。


 私には、もう何も残ってない。

 ローフラムお祖父ちゃんも──。

 カレンも──。

 そして、翔太郎も──。


 ……みんな、私の前からいなくなった。

 誰一人、守れなかった。


 何も返せなかった。

 あんなに私を救ってくれた人たちに、私は何も出来なかった。


「……うーん、張り合いないなぁ。もう本当に壊れちゃったか。ダメだこりゃ」


 私……何のために、生きてるんだろう。


 誰かに助けて欲しい──なんて、もう思わない。

 思えるはずがない。

 助けを求めて、何になるっていうの?

 私の叫びは、誰にも届かない。

 だって、みんな死んじゃったから。


 だったら……せめて。

 一秒でも早く、私も向こうに行きたい。

 もう苦しまなくていい場所へ。

 私のせいで死んでいった人たちに……謝りたい。

 手を伸ばした翔太郎に、「ごめんね」って言いたい。

 カレンに……「もう一度、やり直そう」って言いたい。


 それだけが、私の願い。

 ……それ以外、もう何もいらない。


 みんな……私も今、そっちに逝くから。


「まぁ、最後だし派手にドカーンって決めてやるよ。じわじわ炎で炙り殺すのとかオレの趣味じゃないし。そっちの方が一瞬で楽でしょ?」


「……」


 そんな事どうでもいいから、早く殺して。


 私は心の中で、そう呟いていた。

 泣きながら。震えながら。

 なのに、どうしてか声にはならなかった。

 声すら出せないほど、私は壊れていた。


「すぐに、君も鳴神翔太郎の元へ送ってあげるよ」


 その言葉を聞いて、心から安堵した。

 あぁ、ようやく──やっと終わるんだ。


 目の前の悪魔の声も、もうどうでもよかった。

 怖いとも思わない。

 憎むことすら、できなかった。

 私にはそんな力さえ、もう残っていないから。


 私はただ壊れたおもちゃみたいに、焦げた壁に寄りかかったまま、涙だけを流し続けた。


 声もなく、光もなく、たった独りの世界で。


 お願い……もう、いいよね。

 私、十分苦しんだよね。

 誰かに助けてほしいなんて──そんな贅沢、もう望まない。


 お願いだから……早く、楽にして。

 この孤独から……早く……解放して──。


「あの世で鳴神翔太郎によろしく伝えといてね。君の抵抗は何一つとして無意味だったよって」


 四季条輪廻の声は、刃物みたいに冷たかった。

 炎が渦を巻き、焼き尽くす準備が整っていく。


 私の命なんて、もうどうでもいい。

 すべて失った今となっては、燃え尽きるだけの命。


 誰ももう、誰も来てくれないんだから。






「──勝手に俺のこと、殺した気になってんじゃねえよ。クソ野郎」






 音がした。

 何かが砕ける音。


 何が起きたのか、分からなかった。


 ただ彼の声が聞こえた瞬間に目を開くと、目の前の悪魔が吹き飛んでいた。

 あの絶対的な炎の支配者、四季条輪廻が──雷を超えた速度で顔面を思いきり蹴り飛ばされ、遠くの壁に叩きつけられていた。


 呆然とする私の目に映ったのは──


「アリシア。お前、今諦めただろ?」


 声が聞こえた。

 聞き慣れた、どこまでもまっすぐな、あの声が。


 その背中は、ボロボロだった。

 全身焼かれて、それでも倒れなかった。

 歯を食いしばり、限界の身体を無理やり動かして──私を守るために立った、彼が。


 鳴神翔太郎だった。


 涙が止まらなかった。心が追いつかなかった。

 でも確かに、大切な誰かがそこにいた。


「翔……太郎……?」


 崩れた声で、名前を呼んだ。

 すると彼は、あの時と同じように振り返って、笑った。


「こんなところで勝手に諦めるなんて、絶対に許さない。どんな戦いになっても、アリシアだけは、あの屋敷に連れて帰るって決めてんだ」


「翔太郎……!」


 あぁ、もうダメだ。

 涙が止まらない。

 壊れるように泣き崩れた。


 助けなんて来ないと思っていた。

 誰も──来ないと、思っていたのに。


 彼は来てくれた。


 世界が終わるその寸前で、絶望の底で、私の世界を救いに来てくれたのは──鳴神翔太郎(ともだち)だった。




 ♢




 ──なぜ、あの地獄で翔太郎は生き延びていたのか。


 黄金の炎に呑まれる直前、確かに彼は死を覚悟していた。

 凄まじい熱。押し寄せる終焉。

 もう、自分はここまでだと──そう思った、その瞬間。


「ったく……! 面倒かけさせないでよね!」


 何かが目の前に飛び込んできた。

 小さな影。

 反射的に名前を叫ぶ。


「ソルシェリア……!?」


 困惑する翔太郎に、ソルシェリアは怒鳴った。


「何ボサッとしてんのよ! 頭下げなさい!」


 その手が掲げられる。

 音もなく宙に浮かぶ巨大な鏡面。

 直後、轟音と共に、四季条輪廻の黄金の業火がそこに叩きつけられた。


 しかし──


「……何よ、これ……!?」


 炎は鏡面で反射されることはなかった。

 跳ね返すどころか、純粋な破壊として圧し掛かってくる。

 四季条輪廻の黄金の(ヘファイストス・)(フレア)

 それは異能力という枠組みを超えた、純粋な終焉だった。


「今のアタシじゃ……受け止めるだけで限界……!」


 ソルシェリアの額に滲む冷や汗。

 それでも、彼女は鏡面を盾に変えて、真正面からそれを受け止めていた。

 自分の身体などとうに蒸発しているはずの熱量を、反射板が無理矢理押し留めていた。


 翔太郎は呆然と立ち尽くした。

 どれだけ足掻いても届かない絶対が、そこにはあった。


「オレの紫電で──」


「バカ! それやったらアンタの雷ごと炎が跳ね返ってくるわよ!!」


 叱り飛ばす声に、翔太郎は言葉を詰まらせた。


「聞いて、翔太郎。玲奈とフレデリカはとっくに別フロアに逃がしてある。鏡を使って先にワープさせた!」


「悪い、助かった!」


「でも、今のアタシには防ぐだけしか出来ない……。この場から脱出するわよ!」


「脱出って、アリシアはどうすんだ!?」


「人のこと心配してる場合!? 一番やばいのはアタシたちなの!」


 翔太郎は目を見開いて立ち尽くすしかできなかった。

 それほどまでに、黄金の炎は絶対だった。


「アリシアを心配する気持ちはわかる。でも今はアンタが死んだら全部終わりでしょ! いい?アタシの合図で、足元にワープの鏡面を作る。展開したら一気に飛び込んで!」


 怒鳴りながらも、ソルシェリアの声は震えていた。

 本気だった。

 この人形は本気で翔太郎を逃がそうとしていた。


「行くわよ!」


 ソルシェリアは翔太郎に跳びついた。

 反射板を跳ね上げ、足元に鏡面を展開する。


鏡の世界(ミラージュ・シフト)!」


 鏡面が広がると同時に、翔太郎を力いっぱい突き飛ばした。


「跳び込んで! 翔太郎!」


「──っ!」


 アリシアの姿が、頭に浮かぶ。

 迷いと決別。

 噛み締めた歯の隙間から、唸るように叫んだ。


「くそっ……!」


 翔太郎は迷いを断ち切るように、鏡面へと飛び込んだ。


 世界が、裏返る。


 燃え盛る地獄の熱は一瞬で消え失せた。

 鼓膜を破るような轟音が、今は音もない静寂へと変わる。

 目の前には色のない鏡面の世界。

 灰色の空間に、ただ自分の姿だけが映り込んでいた。


 この世界に入るのは二度目だ。

 玲奈がカレンと一対一で戦っている際も、翔太郎はアリシアと共に鏡の世界を経由して、あの場にワープしたのだ。


 ──命が繋がった。


「はぁっ……はぁっ……。死ぬかと思った……」


 荒く息をつく翔太郎の足元に、ソルシェリアが崩れ落ちるように座り込む。

 小さな身体が震えていた。

 先程まで輝いていた反射板は、今や霧のように溶けかけている。


「悪い。助かった、ソルシェリア」


「そうよ、アタシはアンタの命の恩人なんだからね。もっと崇めなさいよ! 跪いて、土下座して、感謝しなさい!」


「いやそこまではしない……けど、マジでありがとう」


「命の恩人の言葉をスルーすんなっ!」


 ガーッと怒鳴るソルシェリアの声が、妙に安心感をくれた。


「玲奈とフレデリカさんは?」


「だからさっき言ったでしょ? 二人はもう倉庫の別フロアよ。アタシが鏡で先に飛ばしておいた。あの二人も炎に吹き飛ばされて、結構ダメージ深いみたいだし」


「そっか。二人は無事なんだな」


 翔太郎はそこで、ほんの一瞬だけ安堵の吐息を漏らした。


 これで玲奈たちは救えた。

 少なくとも、あの地獄からは。


「まあ、アンタが死んでたら全部無意味だったけどね? 感謝してよ。アタシが来なかったら、確実に炭だったわよ」


 乾いた声で言いながら、ソルシェリアは肩で息を続けている。

 けれどその背中は、翔太郎には途方もなく、大きく見えた。


 だが──次の瞬間。


「……アリシアは?」


 現実が胸を締め付けた。

 玲奈も、フレデリカも、そして自分自身も無事だった。


 それでも。

 翔太郎の頭に浮かぶのは──あの少女のことだった。


「アリシアは……」


 ソルシェリアの声が、わずかに曇る。


「本当は……私も、あの子も一緒に助けたかった。でも、無理だったの。あの状況じゃ。アンタだけでも逃がすしかなかった」


「……っ」


 翔太郎の胸が締め付けられる。

 ソルシェリアの判断は正しかった。


 もしもあの時、ソルシェリアがアリシアを救いに走っていれば──きっと今頃、翔太郎は炎の中で灰になっていただろう。


 それは理解している。

 けれど──


「あいつ、今一人で……四季条と……」


 あの光景が脳裏に蘇る。


 壊れかけたアリシア。

 絶望して、泣きながら、それでも戦っていた少女。

 そんな彼女を、あの化け物と二人きりで置き去りにしてきた。


「アリシア……!」


 翔太郎の拳が震える。


 ソルシェリアは、黙ってそれを見ていた。

 茶化すことも、怒鳴ることもなかった。


 そして──呟くように言った。


「……アンタ、助けに行くんでしょ」


 ソルシェリアの声は、どこか寂しげだった。

 だけどそれは、諦めではない。

 彼女は最初からわかっていたのだ。

 翔太郎がここで終わる人間じゃないことを。


 翔太郎は迷いなく頷いた。


「──ああ。当たり前だ」


 ソルシェリアは、その答えを聞いても何も言わなかった。ただ、ほんの一瞬、翔太郎に気づかれないほどの小さな微笑みを浮かべた。


 そして次の瞬間には、屋敷の番人としての冷静な声に戻っていた。


「聞きなさい。アンタのためにもう一度あそこへ戻してあげる。でも……これが、リミットギリギリ」


「リミット?」


 ソルシェリアは指を三本、翔太郎の前に立てて見せた。


鏡の世界(ミラージュ・シフト)を使って、ワープできる回数よ。経由を含めて、あと──3回」


「3回……」


「そう。鏡の世界ってのは、空間そのものを“裏返して”強制的に転送する異能力。連続使用すればアタシの核そのものが削られる。下手すればアタシ自身が崩壊する。だから──3回。これ以上は絶対に無理」


 翔太郎は緊張した顔で、その数字を見つめた。


「まず、アンタをアリシアのいる場所へ戻す。これで1回目」


 ソルシェリアは指を一本折った。


「……」


「次。アンタがアリシアを見つけて──二人でこの世界へ戻ってくる。ここで2回目」


 さらに指が折られる。


「最後に、この鏡の世界を経由して、玲奈たちの居る別フロアへ脱出。これで3回目。もう、余裕なんて無いってこと」


「ギリギリの綱渡りってわけか……」


「そういうこと」


 翔太郎は無言で拳を握りしめた。

 ソルシェリアの説明は簡潔だったが、その裏にある意味は痛いほど伝わった。


 たった3回のチャンス。

 その全てが、失敗すれば即死に繋がる。


「もう一つ。ワープの際に同時に転送できるのは、アタシ自身を含めて3人。つまり──アンタとアリシア、ギリギリ二人だけ」


「玲奈たちは……?」


「もうすでに先に別フロアに送ってあるでしょ? 今転送できるのは、アンタとアリシアだけ」


 翔太郎は深く頷いた。

 最初から覚悟は決まっていた。

 アリシアさえ救えればいい。


「……わかった。任せてくれ」


「──なら、行きなさい」


 ソルシェリアは、鏡面を展開しながら呟いた。


「アンタのそのバカみたいな執念で、今度こそあの子を連れ戻してあげなさいよ」


 人形でありながら、その声はどこまでも、人間よりも優しく聞こえた。

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