第二章42 『翔太郎とアリシア』
翔太郎の意識は朦朧としていた。
地面に叩きつけられた身体は動かず、焦げた空気が喉を焼いている。
痛くて立ち上がれない。
もう一歩も──そう思った、その時だった。
不意に。
耳元で、誰かの声がした。
『ねぇ、鳴神翔太郎……お願いがあるの』
遠く。微かに。
でも、確かに聞こえたその声は──
『何度も玲奈ちゃんを傷付けようとした私に……こんなこと、言う資格なんて無いと思うけど……』
穏やかで、弱くて。
それでも必死に、何かを託そうとする声だった。
『あの子を……アリシアを、お願いね』
──カレン。
その名前が、翔太郎の脳裏に浮かぶ。
次の瞬間、朦朧とした視界の中に──崩れ落ち、泣きじゃくるアリシアの姿が映った。
何も守れなかった少女。
救えなかった命の中で、ただ一人残されたその背中。
──俺が、守らないと。
握る力すら残っていないはずの拳に、自然と力が籠った。
倒れたままの体で、翔太郎は歯を食いしばる。
「あぁ……!」
声にならない呻きが喉から漏れる。
それでも叫ぶように、身体の奥で繰り返していた。
──絶対に、アリシアを守る。
──もう二度と、あんな惨劇を起こさせない。
──誰一人……失いたくない。
燃える身体が、警告を告げる。
それでも──今だけは関係なかった。
声が消えても、想いは確かに翔太郎の中に届いていた。
その全てを託されたと理解した瞬間、翔太郎の視線は強く前を捉えた。
四季条輪廻。
この世界を嘲笑い、命を弄び続ける怪物。
「あんな奴に……」
震える身体を、翔太郎は無理やり立たせた。
力など残っていない。
だけど──心は折れていなかった。
「──二度と、奪わせない……!」
カレンの声は、もう聞こえない。
けれど、翔太郎の胸には、あの言葉が燃え続けていた。
──アリシアを、お願いね。
翔太郎の全身に、雷光が宿る。
燃え尽きる命を、今だけは刃に変えて。
♢
静寂を切り裂いたのは、やけに軽い、乾いた拍手の音だった。
「いやあ、凄かったよ、今の」
その声は、まるで映画でも見終えた後の観客のように、心のこもっていない賞賛を口にしていた。
「涙あり、感動あり、友情あり……おまけに『大好き』なんてセリフまであってさ。はっきり言って、フィクションなら文句なしの名シーンだったね?」
血の気が引く。
それを言ったのが、誰なのか──この場の誰もが知っていた。
拍手の主、四季条輪廻。
彼は高みからゆっくりと歩み寄りながら、悪びれた様子など微塵も見せなかった。
むしろ、心底楽しそうな顔をしていた。
「ビックリしたよ。ゾンビにもさ、感情とかあるんだ? いやぁ、さっきはちょっと馬鹿にしてたけど……ゼクスの研究って、案外良いとこまでは行ってたんだなぁ。うん、それはちょっと見直した」
アリシアは震えたまま、顔を上げない。
その膝の上にはもう、誰もいない。
残ったのは、灰と、砕けた記憶だけ。
それすら、四季条は靴で踏みそうな勢いで、平然とアリシアの目の前に立ち止まる。
「でもまあ、終わったことだしさ。ね?」
にこ、と。
まるでクラスの友達に話しかけるように、四季条は気軽に言い放った。
「てか元々死んでたんだし、そこまで引きずる必要ある? ゾンビが消えたぐらいで、いつまで泣いてんの? 死体が焼けて灰になっただけでしょ。よくある話じゃん」
その言葉の一つひとつが、ナイフのようだった。
「そもそも、そんな大事に思ってたんなら、最初から殺させなきゃ良かったのに」
アリシアの肩が震える。
彼女の呼吸が、不規則に、乱れていく。
「──あ、でも違うか」
不意に、輪廻の目が細くなる。
その声には、ぞっとするほどの悪意が滲んでいた。
「人を殺した罰とか言ってたもんね。カレン自身が。ふふ、あれ聞いてさ、ちょっとウケた。だってさ──ゼクスに操られてたって言い訳しても、結局は自分で焼いたんでしょ? 人間を。罪のない人を。何十人、何百人って──さあ?」
アリシアの目から、ぼたぼたと涙が落ちる。
それでも、四季条は止まらなかった。
むしろ、嬉しそうに続ける。
「でもさ、悲劇のヒロインってほんと便利だよね。罪を背負った友達、最期に救ってあげました、みたいな顔してさ──その実、満足してんでしょ? 自分は友達を救えたって。そうやって、都合のいい綺麗事で生きてくのって、楽で羨ましいよ」
四季条輪廻の足が、地面に残されたカレンの名残──灰を踏みつける。
「ねぇ、アリシア・オールバーナー。そんなに悲しいならさ──もう一度、別のお友達を作ればいいじゃん?」
軽やかに。あまりにも、軽やかに。
「今みたいなことが起きても、またそのお友達が泣いてくれるよ。悲劇ごっこが大好きなお友達が、さ」
ぱちん、と指を鳴らすような無邪気さで、四季条は笑った。
その瞬間だった。
空気が、変わった。
呻くような雷鳴が、辺りを震わせる。
四季条の軽薄な笑みが、一瞬だけ──止まった。
見ると、立っていた。
あれほどの猛撃を受けたはずの男が、なお立ち上がっていた。
「四季条……輪廻……」
鳴神翔太郎が──立ち上がって、こちらにフラフラと歩き始めていた。
「……マジ?」
興味深げに細められる瞳。
だが、それは同時に愉悦だった。
「いやいやマジで? あり得ないって。あのローフラムの炎をまともに浴びた奴が立ち上がるのって……当時のドイツでも、一人もいなかったんだけどな」
翔太郎は──立っていた。
だが、満身創痍だった。
焼け焦げた服。ふらつく足。
それでも、アリシアを庇うように、一歩も退かずに。
それを見た四季条輪廻は──にやけた。
「ま、いっか。ゼクスを消すついでだし。組織の情報知っちゃった君も、ここで処理しておかないとね」
指を鳴らす。
「君って鳴神家最後の生き残りだよね? 特に異能力も発達してなかったら、あの時見逃したけど……」
黄金の輝きが、掌に生まれる。
音もなく。燃えることすら演出のように。
「運良く生き残れたんなら、オレたちに関わらず一般人として暮らして行けば良かったのに。本当にバカだよね」
発せられた瞬間、爆ぜる黄金の炎が翔太郎を飲み込む。
──違う。
アリシアの思考が焼き切れた。
祖父が使っていた、あの炎。
あの日、アリシアの幼い手を握ってくれた祖父の能力。
温かくて、優しくて、誇りだったはずの力。
それが今、祖父を殺した仇の手で、自分のもう一人の友達を、仲間を──翔太郎を焼き殺そうとしている。
「だめ……」
呟きだった。
声にならなかった。
「だめ……だめ、だめ、だめ、だめだめだめだめだめだめ──」
何かが壊れる音が、自分の中で聞こえた。
喉が引き裂かれるほど叫んだ。
「だめえええええええええええええええっ!!!!!」
無力だった。
止められなかった。
足は動かず、異能力は起動すらできず、ただ目の前でそれを見ているしかなかった。
翔太郎へと向かっていく、黄金の死。
あれは、祖父が遺した誇りなんかじゃない。
今、あれは──悪意の塊だ。
誰かの命を奪うためだけに生まれた、悪意そのものだった。
目の前でもう、友達を失いたくないのに。
せっかく大切な人に出会えたのに。
また、失う。
「逃げて──翔太郎ぉぉぉぉっ!!」
泣き叫ぶ声は、黄金の熱に呑まれた。
黄金の奔流は、無慈悲にも翔太郎に直撃した。
爆ぜる光の中で、アリシアの絶叫は何度も何度も空に掻き消され続けた。
──まただ。
また、私は──何も守れない。
自分の手は、何のために存在しているのか。
涙も血も枯れ果てた喉から、それでもなお叫びは止まらなかった。
「う、そ……翔太郎……?」
アリシア・オールバーナーの心は、とっくに限界を越えていた。
頭が、拒絶していた。
だけど、否応なく焼き付く。
目の前で、また、失ったのだと。
──カレンだけじゃ足りなかったの?
──私は、何をしてるの?
──何で、何も守れないの?
喉の奥で引き裂かれるように溢れる嗚咽。
苦しくて、痛くて、壊れていく感覚が止まらない。
それなのに、笑っていた。
泣きながら、笑っていた。
「あは……あはは……」
何かが崩れた音が、自分の中で響いた。
泣きながら、自分で気付かないうちに笑っていた。
「あははははははははっ!あはははははは!!」
自分に問いかける声すら震えていた。
もう立っている理由すらわからない。
「そっか。私、また誰かを不幸にしたんだ……。カレンも、翔太郎も……。私のせいで……」
黒かった。
視界の端で、自分の手が見えた。
指先から、闇色の炎が蠢いている。
「もう、どうでもいい」
気付けば──全身から。
制御不能の黒炎が、本人の意思とは関係なく溢れ出していた。
「別に……もう……どうなっても……いい……」
ぽつりと呟いた声に応えるかのように。
黒炎はアリシア自身の身体を這い、地面を這い、何もかもを焼き始めていく。
──アリシアは、壊れた。
止まらない涙。止まらない嗚咽。
だけど、笑っていた。
泣きながら、自嘲するように。
「あぁ……もう……私なんか、生きてる意味……無いじゃない……」
黒炎は周囲の瓦礫を焼き尽くし、無差別に吹き荒れていた。
燃やすことだけが存在理由のように。
まるで、彼女の心そのものだった。
壊れた心が、制御できない炎になって暴走していた。
それでも、誰も止められなかった。
燃え尽きるのは──アリシア自身か、周囲の世界か。
その区別すら、もう彼女にはどうでもよかった。
「──は?」
黒炎が、爆ぜた。
四季条は思わず足を止めた。
目の前で暴走し始めたそれは──完全にゼクスのセカンドオリジンなど比べ物にならない。
「……マジで? 何その黒い炎」
思わず目を見開いた。
けれど、次の瞬間──
「って、うわ怖っ!? だから何だよ、その異能力!?」
四季条輪廻は、なぜか心底驚いたように後ずさった。
顔を引きつらせたその反応は、場違いに軽い。
状況の深刻さとはあまりにかけ離れていた。
「やば……ゼクスの研究って普通に成功してたんじゃん……」
黄金の炎の主は、心底面白そうに呟いた。
燃え盛る黒炎の奔流を前に、笑うしかないといった風情で。
「爆炎のプリンセス、だっけ? あははっ! いやいや、笑えねぇよ……普通にオレの炎と同じくらい燃えてんじゃん。ねえ、君そんなの使えたの? 聞いてないよ?」
炎。
黒と金の炎。
違うのは──その温度でも、質でもなく。
それを使っている者の心だった。
少女は泣いていた。
叫びながら、泣きながら、壊れながら──黒炎という地獄を解き放っていた。
けれど、それを前にしても四季条輪廻は──愉快そうだった。
「つーか……やっば。あんな火力で泣きながら暴走とか、こっわ……」
心底呆れたように、まるで他人事のように。
少女の命を嘲笑う彼の声は、あまりに軽かった。
「ねぇ? 君さぁ……泣いてる場合じゃなくない? 自分ごと全部燃えちゃうよ? わかってる? まぁ……それはそれで面白いけど」
まるで炎が遊び道具か何かであるかのように。
少女の壊れた心すら、茶化して消費するかのように。
黒炎が迫れば、ほんの軽い足運びでかわし。
目の前に迫る死ですら、彼にとってはただの“暇潰し”でしかなかった。
「うわ熱っ!? あっぶな……いや冗談抜きで触れたら死ぬやつでしょこれ。はっは! やっば。ゼクスの研究とか完全にゴミだと思ってたけど……普通に良いとこ行ってたんだな、アイツ……あはは! 美味しいところ見れないとか、マジ無駄死にじゃん!」
笑っていた。
死そのものに価値を見出せず。
命そのものに興味を持たない者だけが浮かべられる笑みだった。
「──なに? 目の前で鳴神翔太郎焼かれて、壊れちゃったの? 君」
少女を見下ろす声は、軽くて、残酷で。
それは、あらゆる人間の尊厳を踏み躙る音だった。
「さーてと。面白いもの見れたし、じゃあ今から──君を」
「殺してあげる」
低く、壊れた声だった。
生気のない瞳。虚ろな表情。
それでも確かに、アリシアの唇はそう告げていた。
「わーお。聞いちゃいないね」
四季条は笑った。
だがその瞳には、ごく僅かにだけ、本物の興味が灯り始めていた。
「ま、いっか。オレも黒炎使いとやり合うのなんて初めてだし、単純に──どっちの火力が上か白黒つけようよ。な?」
黄金と黒。
二つの異なる地獄が、世界の中心で唸りを上げた。
踏み出すと同時、業火と業火が正面から衝突した。
漆黒──アリシア・オールバーナーの絶望。
黄金──四季条輪廻の愉悦。
「よくも……」
震える声は、怒りではなかった。
限界を超えた少女の、壊れきった執念だった。
「よくも……翔太郎を……!」
叫びと同時、アリシアの黒炎がさらに膨れ上がる。
その火力はゼクスのセカンドオリジンすら凌駕していた。
制御不能の暴力。
泣き叫びながら放たれる、彼女自身すら焼き尽くしかねない死の炎。
対するは。
「はっは! いいねいいね! やっぱゼクスより君の方が才能あったじゃん! アイツ無駄死に確定だわ!」
四季条は笑いながら、炎の力を増幅させる。
黄金の炎。
世界の物理法則すら歪めかねない──本物の神の火。
地獄と地獄が、ぶつかり合った。
黒と金が絡み合い、空を焼き、地を焦がし、存在する全てを蒸発させる。
それはもう押し合いなどではない。
互いに相手を喰らい尽くそうとする殺し合いだった。
四季条は──笑っていた。
この地獄すら、遊びとしか見ていない。
軽薄な声音で、まるでゲーム実況者のように。
「さーて、どっちが勝つと思う? ブラックホールみたいな君の火力か、それともローフラムも扱ってたオレの黄金か。いや、結構マジで面白くなってきたんだけど!」
業火の渦の中。
アリシアは涙で顔を濡らしながら、その奥で完全な殺意だけを燃やしていた。
──この男だけは、殺さなきゃいけない。
ローフラムを。
カレンを。
そして、翔太郎を。
自分から何もかもを奪ったこの男だけは。
どんな代償を払ってでも──。
アリシアの黒炎が、限界を超えた。
既にそれは“異能力”ではなかった。
──命を焼く火。
自分自身すら焼き尽くし、四季条を殺すためだけに存在する純粋な死だった。
全身から、無意識に、制御不能の黒炎が噴き上がる。
もう何も考えられない。
まだこの場に残っているであろう、玲奈のことも、フレデリカのことも、ソルシェリアのことも。
目の前の怪物を殺す以外に、世界はなかった。
「──死ね、死ね、死ね、死ね、死ね、死ね……死んでよぉおおおおおおおおおお!!!!」
アリシアの絶叫と共に、炎が爆ぜた。
黒炎が、世界を呑んだ。
黒と黄金。
二つの終焉が、全てを焼き尽くすために衝突する。
──地鳴りが響いた。
ありえないはずの現象が起きていた。
地下空間全体が、溶け始めたのだ。
熱量が限界を超えた。
鋼鉄の柱も、岩盤の天井も、熱で液状化し始めている。
本来なら崩落して当然のはずの世界。
だが崩れるより先に──焼却されようとしていた。
「ッ……ははっ……ははははっ!」
笑っていたのは、四季条だった。
この地獄すら、彼には暇つぶしにしか見えていない。
「やば……地下空間溶けてるんだけど。バカじゃん、なにこの火力……! いや、押し負けたらマジで死ぬってこれ。ははっ……!」
そう言いながら、四季条は黄金の炎をさらに増幅させていた。
──本気だった。
遊びは終わった。
だが、それでも楽しそうに本気を出している。
黄金の炎が、黒炎を押し返し始めた。
「……なっ──」
アリシアの声が震えた。
押していたはずの炎が、押し返される。
殺せるはずだった怪物の炎が、自分の黒炎を飲み込もうとしている。
四季条は笑っていた。
「君さ。オレを殺せると思った? ……悪いけど、オレ、夜空の革命の正規メンバーだし。君のそういう才能、妬ましくて大嫌いだから。焼き潰すね?」
黄金の奔流が、黒炎を圧倒した。
アリシアの世界が、崩れた。
──勝てない。
──殺せない。
──殺意を全て解放した、全身全霊の一撃でも。
「ああ、あ、あ、あああ……ああああああッ──!!」
叫びも願いも全てを呑み込み、黒炎は打ち砕かれた。
逆流するように黄金の熱が襲いかかり、アリシアの全身を薙ぎ払う。
次の瞬間──アリシアは、吹き飛ばされていた。
意識すら保てず、空中で体が折れ曲がる。
黄金の熱はまだ残っていた。
地下空間は溶け落ちる寸前。
絶望しか残っていなかった。
四季条は、楽しそうに息をついた。
「どれだけ努力してもさ……君がオレに勝てることはないんだよ」
それは世界の真理のように。
何の感情もなく、告げられた。
「どうしてかって? ──それがこの世の真理だからさ」
♢
──勝てなかった。
私、本当に……勝てなかった。
全力だったのに。
あの時の炎は、命を賭けた最後の一撃だったのに。
殺意も、怒りも、絶望も、何もかも曝け出して……それでも、勝てなかった。
私は……この手で、誰も守れなかった。
何も見えない視界の中で、私は壁に叩きつけられた。
内臓が焼けて、呼吸すら苦しい。
それでも──涙だけは、勝手に零れていた。
痛みよりも、苦しみよりも、涙が先に溢れていた。
黄金の熱が近付いてくるのが分かった。
笑い声が聞こえる。
悪魔の声だ。
四季条輪廻。
この世で最も醜く、最も軽薄で、最も強い──悪魔。
「楽しかったよ、アリシア・オールバーナー。少なくとも、鳴神翔太郎よりかは楽しめたかな」
その声が、すぐ近くにあった。
何もかも奪った悪魔が、私の死を娯楽として楽しんでいる。
翔太郎……そう、翔太郎。
思い出した。忘れたくないあの人のこと。
鳴神翔太郎。
彼は……私を助けようとしてくれた。
何度も。何度も。
こちらが何度拒絶しても、何度睨みつけても、それでも彼は──お節介なくらいに、ずっと私の隣にいてくれた。
ここまでの一週間。
オールバーナー邸での日々は……悪くなかった。
いつも私は誰とも深く関わらず、淡々と過ごしていたのに。
ソルシェリアのうるさい声と、フレデリカの丁寧な言葉だけが繰り返される日々の中で、彼と玲奈がやってきて、私は今まで知らなかった世界に少しだけ触れることができた。
翔太郎は、明るくて。
馬鹿みたいに真っ直ぐで。
……なのに、私の闇を知っても離れなかった。
そこにいるだけで他人を不幸にするような私のことを、彼は……友達だって言ってくれた。
たった一言が、どれだけ救いだったか。
あの時、何も言えなかったけど──本当は、救われてたんだよ……翔太郎。
玲奈も……冷たい時もあるけど、笑うと可愛かったり、案外子供っぽいとこあったり、翔太郎譲りのしつこさとか熱さとかあったり、心音の次ぐらいには親しみが持てる女の子だった。
……あの二人が日常に加わった日々は、少しだけ……暖かくて尊かった。
だから。だから私は──
「翔太郎……」
気付けば、彼の名前を呟いていた。
名前だけが、声になった。
「ごめんなさい。私……勝てなかった」
せめて、せめて貴方の仇だけは取ってあげたかった。
それだけが、私にできる唯一のことだったのに。
その願いすら……私は果たせなかった。
私みたいな人間を、友達だなんて言ってくれたのに。
あんなにもまっすぐ私の手を掴んでくれたのに。
翔太郎……翔太郎……翔太郎……!
──ごめんなさい。
涙は止まらなかった。
焦げた壁に寄りかかって、私はただ、涙を零し続けた。壊れた身体で、燃え尽きた心で、それでも私は泣くことしかできなかった。
「何? 泣いてんの?」
真上から悪魔の声が聞こえてくる。
「別に泣くことないでしょ。オレ、あの世とか別に信じてないけどさ、もう君の大切な人、みーんな死んじゃったし、君も無理に生きてる必要とかないんじゃない?」
「……そうね」
本当に、その通り……。
私には、もう何も残ってない。
ローフラムお祖父ちゃんも──。
カレンも──。
そして、翔太郎も──。
……みんな、私の前からいなくなった。
誰一人、守れなかった。
何も返せなかった。
あんなに私を救ってくれた人たちに、私は何も出来なかった。
「……うーん、張り合いないなぁ。もう本当に壊れちゃったか。ダメだこりゃ」
私……何のために、生きてるんだろう。
誰かに助けて欲しい──なんて、もう思わない。
思えるはずがない。
助けを求めて、何になるっていうの?
私の叫びは、誰にも届かない。
だって、みんな死んじゃったから。
だったら……せめて。
一秒でも早く、私も向こうに行きたい。
もう苦しまなくていい場所へ。
私のせいで死んでいった人たちに……謝りたい。
手を伸ばした翔太郎に、「ごめんね」って言いたい。
カレンに……「もう一度、やり直そう」って言いたい。
それだけが、私の願い。
……それ以外、もう何もいらない。
みんな……私も今、そっちに逝くから。
「まぁ、最後だし派手にドカーンって決めてやるよ。じわじわ炎で炙り殺すのとかオレの趣味じゃないし。そっちの方が一瞬で楽でしょ?」
「……」
そんな事どうでもいいから、早く殺して。
私は心の中で、そう呟いていた。
泣きながら。震えながら。
なのに、どうしてか声にはならなかった。
声すら出せないほど、私は壊れていた。
「すぐに、君も鳴神翔太郎の元へ送ってあげるよ」
その言葉を聞いて、心から安堵した。
あぁ、ようやく──やっと終わるんだ。
目の前の悪魔の声も、もうどうでもよかった。
怖いとも思わない。
憎むことすら、できなかった。
私にはそんな力さえ、もう残っていないから。
私はただ壊れたおもちゃみたいに、焦げた壁に寄りかかったまま、涙だけを流し続けた。
声もなく、光もなく、たった独りの世界で。
お願い……もう、いいよね。
私、十分苦しんだよね。
誰かに助けてほしいなんて──そんな贅沢、もう望まない。
お願いだから……早く、楽にして。
この孤独から……早く……解放して──。
「あの世で鳴神翔太郎によろしく伝えといてね。君の抵抗は何一つとして無意味だったよって」
四季条輪廻の声は、刃物みたいに冷たかった。
炎が渦を巻き、焼き尽くす準備が整っていく。
私の命なんて、もうどうでもいい。
すべて失った今となっては、燃え尽きるだけの命。
誰ももう、誰も来てくれないんだから。
「──勝手に俺のこと、殺した気になってんじゃねえよ。クソ野郎」
音がした。
何かが砕ける音。
何が起きたのか、分からなかった。
ただ彼の声が聞こえた瞬間に目を開くと、目の前の悪魔が吹き飛んでいた。
あの絶対的な炎の支配者、四季条輪廻が──雷を超えた速度で顔面を思いきり蹴り飛ばされ、遠くの壁に叩きつけられていた。
呆然とする私の目に映ったのは──
「アリシア。お前、今諦めただろ?」
声が聞こえた。
聞き慣れた、どこまでもまっすぐな、あの声が。
その背中は、ボロボロだった。
全身焼かれて、それでも倒れなかった。
歯を食いしばり、限界の身体を無理やり動かして──私を守るために立った、彼が。
鳴神翔太郎だった。
涙が止まらなかった。心が追いつかなかった。
でも確かに、大切な誰かがそこにいた。
「翔……太郎……?」
崩れた声で、名前を呼んだ。
すると彼は、あの時と同じように振り返って、笑った。
「こんなところで勝手に諦めるなんて、絶対に許さない。どんな戦いになっても、アリシアだけは、あの屋敷に連れて帰るって決めてんだ」
「翔太郎……!」
あぁ、もうダメだ。
涙が止まらない。
壊れるように泣き崩れた。
助けなんて来ないと思っていた。
誰も──来ないと、思っていたのに。
彼は来てくれた。
世界が終わるその寸前で、絶望の底で、私の世界を救いに来てくれたのは──鳴神翔太郎だった。
♢
──なぜ、あの地獄で翔太郎は生き延びていたのか。
黄金の炎に呑まれる直前、確かに彼は死を覚悟していた。
凄まじい熱。押し寄せる終焉。
もう、自分はここまでだと──そう思った、その瞬間。
「ったく……! 面倒かけさせないでよね!」
何かが目の前に飛び込んできた。
小さな影。
反射的に名前を叫ぶ。
「ソルシェリア……!?」
困惑する翔太郎に、ソルシェリアは怒鳴った。
「何ボサッとしてんのよ! 頭下げなさい!」
その手が掲げられる。
音もなく宙に浮かぶ巨大な鏡面。
直後、轟音と共に、四季条輪廻の黄金の業火がそこに叩きつけられた。
しかし──
「……何よ、これ……!?」
炎は鏡面で反射されることはなかった。
跳ね返すどころか、純粋な破壊として圧し掛かってくる。
四季条輪廻の黄金の炎。
それは異能力という枠組みを超えた、純粋な終焉だった。
「今のアタシじゃ……受け止めるだけで限界……!」
ソルシェリアの額に滲む冷や汗。
それでも、彼女は鏡面を盾に変えて、真正面からそれを受け止めていた。
自分の身体などとうに蒸発しているはずの熱量を、反射板が無理矢理押し留めていた。
翔太郎は呆然と立ち尽くした。
どれだけ足掻いても届かない絶対が、そこにはあった。
「オレの紫電で──」
「バカ! それやったらアンタの雷ごと炎が跳ね返ってくるわよ!!」
叱り飛ばす声に、翔太郎は言葉を詰まらせた。
「聞いて、翔太郎。玲奈とフレデリカはとっくに別フロアに逃がしてある。鏡を使って先にワープさせた!」
「悪い、助かった!」
「でも、今のアタシには防ぐだけしか出来ない……。この場から脱出するわよ!」
「脱出って、アリシアはどうすんだ!?」
「人のこと心配してる場合!? 一番やばいのはアタシたちなの!」
翔太郎は目を見開いて立ち尽くすしかできなかった。
それほどまでに、黄金の炎は絶対だった。
「アリシアを心配する気持ちはわかる。でも今はアンタが死んだら全部終わりでしょ! いい?アタシの合図で、足元にワープの鏡面を作る。展開したら一気に飛び込んで!」
怒鳴りながらも、ソルシェリアの声は震えていた。
本気だった。
この人形は本気で翔太郎を逃がそうとしていた。
「行くわよ!」
ソルシェリアは翔太郎に跳びついた。
反射板を跳ね上げ、足元に鏡面を展開する。
「鏡の世界!」
鏡面が広がると同時に、翔太郎を力いっぱい突き飛ばした。
「跳び込んで! 翔太郎!」
「──っ!」
アリシアの姿が、頭に浮かぶ。
迷いと決別。
噛み締めた歯の隙間から、唸るように叫んだ。
「くそっ……!」
翔太郎は迷いを断ち切るように、鏡面へと飛び込んだ。
世界が、裏返る。
燃え盛る地獄の熱は一瞬で消え失せた。
鼓膜を破るような轟音が、今は音もない静寂へと変わる。
目の前には色のない鏡面の世界。
灰色の空間に、ただ自分の姿だけが映り込んでいた。
この世界に入るのは二度目だ。
玲奈がカレンと一対一で戦っている際も、翔太郎はアリシアと共に鏡の世界を経由して、あの場にワープしたのだ。
──命が繋がった。
「はぁっ……はぁっ……。死ぬかと思った……」
荒く息をつく翔太郎の足元に、ソルシェリアが崩れ落ちるように座り込む。
小さな身体が震えていた。
先程まで輝いていた反射板は、今や霧のように溶けかけている。
「悪い。助かった、ソルシェリア」
「そうよ、アタシはアンタの命の恩人なんだからね。もっと崇めなさいよ! 跪いて、土下座して、感謝しなさい!」
「いやそこまではしない……けど、マジでありがとう」
「命の恩人の言葉をスルーすんなっ!」
ガーッと怒鳴るソルシェリアの声が、妙に安心感をくれた。
「玲奈とフレデリカさんは?」
「だからさっき言ったでしょ? 二人はもう倉庫の別フロアよ。アタシが鏡で先に飛ばしておいた。あの二人も炎に吹き飛ばされて、結構ダメージ深いみたいだし」
「そっか。二人は無事なんだな」
翔太郎はそこで、ほんの一瞬だけ安堵の吐息を漏らした。
これで玲奈たちは救えた。
少なくとも、あの地獄からは。
「まあ、アンタが死んでたら全部無意味だったけどね? 感謝してよ。アタシが来なかったら、確実に炭だったわよ」
乾いた声で言いながら、ソルシェリアは肩で息を続けている。
けれどその背中は、翔太郎には途方もなく、大きく見えた。
だが──次の瞬間。
「……アリシアは?」
現実が胸を締め付けた。
玲奈も、フレデリカも、そして自分自身も無事だった。
それでも。
翔太郎の頭に浮かぶのは──あの少女のことだった。
「アリシアは……」
ソルシェリアの声が、わずかに曇る。
「本当は……私も、あの子も一緒に助けたかった。でも、無理だったの。あの状況じゃ。アンタだけでも逃がすしかなかった」
「……っ」
翔太郎の胸が締め付けられる。
ソルシェリアの判断は正しかった。
もしもあの時、ソルシェリアがアリシアを救いに走っていれば──きっと今頃、翔太郎は炎の中で灰になっていただろう。
それは理解している。
けれど──
「あいつ、今一人で……四季条と……」
あの光景が脳裏に蘇る。
壊れかけたアリシア。
絶望して、泣きながら、それでも戦っていた少女。
そんな彼女を、あの化け物と二人きりで置き去りにしてきた。
「アリシア……!」
翔太郎の拳が震える。
ソルシェリアは、黙ってそれを見ていた。
茶化すことも、怒鳴ることもなかった。
そして──呟くように言った。
「……アンタ、助けに行くんでしょ」
ソルシェリアの声は、どこか寂しげだった。
だけどそれは、諦めではない。
彼女は最初からわかっていたのだ。
翔太郎がここで終わる人間じゃないことを。
翔太郎は迷いなく頷いた。
「──ああ。当たり前だ」
ソルシェリアは、その答えを聞いても何も言わなかった。ただ、ほんの一瞬、翔太郎に気づかれないほどの小さな微笑みを浮かべた。
そして次の瞬間には、屋敷の番人としての冷静な声に戻っていた。
「聞きなさい。アンタのためにもう一度あそこへ戻してあげる。でも……これが、リミットギリギリ」
「リミット?」
ソルシェリアは指を三本、翔太郎の前に立てて見せた。
「鏡の世界を使って、ワープできる回数よ。経由を含めて、あと──3回」
「3回……」
「そう。鏡の世界ってのは、空間そのものを“裏返して”強制的に転送する異能力。連続使用すればアタシの核そのものが削られる。下手すればアタシ自身が崩壊する。だから──3回。これ以上は絶対に無理」
翔太郎は緊張した顔で、その数字を見つめた。
「まず、アンタをアリシアのいる場所へ戻す。これで1回目」
ソルシェリアは指を一本折った。
「……」
「次。アンタがアリシアを見つけて──二人でこの世界へ戻ってくる。ここで2回目」
さらに指が折られる。
「最後に、この鏡の世界を経由して、玲奈たちの居る別フロアへ脱出。これで3回目。もう、余裕なんて無いってこと」
「ギリギリの綱渡りってわけか……」
「そういうこと」
翔太郎は無言で拳を握りしめた。
ソルシェリアの説明は簡潔だったが、その裏にある意味は痛いほど伝わった。
たった3回のチャンス。
その全てが、失敗すれば即死に繋がる。
「もう一つ。ワープの際に同時に転送できるのは、アタシ自身を含めて3人。つまり──アンタとアリシア、ギリギリ二人だけ」
「玲奈たちは……?」
「もうすでに先に別フロアに送ってあるでしょ? 今転送できるのは、アンタとアリシアだけ」
翔太郎は深く頷いた。
最初から覚悟は決まっていた。
アリシアさえ救えればいい。
「……わかった。任せてくれ」
「──なら、行きなさい」
ソルシェリアは、鏡面を展開しながら呟いた。
「アンタのそのバカみたいな執念で、今度こそあの子を連れ戻してあげなさいよ」
人形でありながら、その声はどこまでも、人間よりも優しく聞こえた。