第二章38 『鳴神翔太郎VSゼクス(中編)』
雷鳴の拳が──炸裂した。
「……ッ──が、あああああッ!!」
ゼクスの喉奥から、抑え切れない悲鳴が漏れた。
異形の顔面。
異形の義眼。
灰の粒子で構築された偽りの肉体──その全てをぶち抜く一撃だった。
拳が叩き込まれた瞬間、ゼクスの顔面は歪み、骨すら砕ける音が響いた。
義眼は砕け散り、顔の片側が派手に陥没する。
そしてそこから、灰ではない──赤い血飛沫が噴き出した。
「がっ……!」
ゼクスの身体が、雷撃の勢いに弾き飛ばされる。
音を置き去りにして、地下空間の壁へと叩き付けられた。
異能力に頼り切ったその身体は、咄嗟の回避行動など取れるはずもなかった。
今まで逃げて避けることしかしてこなかった男が、初めて喰らった真正面からの打撃だった。
壁に叩きつけられたゼクスは、呻き声とともに崩れ落ちた。
片頬から流れる血は止まらず、義眼を失った顔は無様に歪んでいる。
翔太郎はゼクスから目を逸らさない。
磁牢はまだ放していない。
ゼクスの灰は──まだ砂鉄に絡め取られたままだ。
「──言ったよな。雷だけが俺の武器じゃないって」
重い呼吸の中、翔太郎は言い放つ。
握った左拳の先から、燻る雷光がまだ閃いていた。
「出力も通常時に比べると、だいぶ落ちてるけど、今のお前には十分過ぎる一撃だったみたいだな」
そして一歩。
倒れたゼクスに向けて、翔太郎は歩み寄る。
その瞳にはもう、目の前の男を逃がす気など欠片もなかった。
ゼクスは呻き、血を滴らせたまま崩れ落ちていた──はずだった。
だが次の瞬間。
「……ふ……ふふ……ふふふふ……ははははは……!」
乾いた笑い声が漏れる。
それは苦痛からではない。
悦びの声だった。
「素晴らしい……!」
ゼクスはゆらりと身体を起こした。
顔の半分は潰れ、義眼は砕け、血に塗れた異形の顔。
だが、その表情は歓喜に染まっていた。
まるで実験の成功を喜ぶ科学者そのもの。
「素晴らしいよ、キミは……! 凡才である筈のキミが、ワタシの予想を超えてくるなんて!」
足元はふらつきながら、それでもゼクスは翔太郎を見据えたまま立ち上がる。
義眼を失った左目の奥で、まだ微かな光が灯っているように見えた。
「ワタシの灰に異物を混ぜ込んで封じるなんて……誰もそんな方法を思いつかなかった。いや、思いついても、実際に成功させる者など、いるはずがないと思っていた……」
息を荒くし、狂気の滲む笑顔で続ける。
「雷使いが、わざわざ慣れない砂鉄を……磁場操作で灰に混ぜて、ワタシの逃走経路を封じるなんて……!」
全身を震わせ、血を垂らしながら、ゼクスは心底嬉しそうに言った。
「素晴らしいよ、雷使いの少年……! 進化だ。キミは、この短時間で自らの能力を異質な方向へと進化させて見せた! その頭脳、発想力、適応速度、全てがワタシの予測を超えている!」
「敵にぶん殴られて喜ぶとか、変態かよ」
翔太郎は険しい声で吐き捨てた。
ゼクスは構わず、口元に血を滲ませながら笑い続ける。
「ワタシはね、停滞なんてものには興味がない。進化だけが価値なんだ。未知の技術、想定外の発想、既存の限界を打ち破る力……! キミは今、その全てを体現してくれた!」
「だったら……そのままぶん殴られ続けてくれないか? こっちもいい加減、フラストレーション溜まってんだよ」
翔太郎は、磁牢を維持したまま左拳に再び雷を灯す。
だが──ゼクスは、狂気の笑みのまま言い放つ。
「良いねぇ……実に良いよ、キミの成長は」
次の瞬間、ゼクスの身体が再び灰に崩れた。
だが今度は違う。
砂鉄に混ぜられ封じられたはずの灰が、まるで逃げ道を知っていたかのように、一方向へと一斉に流れ出す。
「──逃げた……!?」
次の瞬間、ゼクスのいた場所に黒い灰が撒き散らされた。
ゼクスが逃げるためにばら撒いた聖者の灰葬。
それは逃走経路の撹乱と同時に──死者の群れを生む起点でもあった。
「くそッ……!」
翔太郎の前方。
逃げ道だったはずの通路に、次々とゾンビたちが這い出してくる。
灰の粒子から生まれたそれらは、次々と姿を成し、呻き声とともに翔太郎の進路を塞ぐ。
「あの野郎、逃げるためにまたゾンビを撒きやがった……!」
灰から灰へと連鎖的に生まれる死者たち。
まるで増殖する病原体のように、地下通路を覆い尽くしていく。
──だが。
「磁牢から、そう簡単に逃げられると思うなよ!」
翔太郎は叫び、磁牢の出力をさらに強めた。
指先から奔る磁力が灰に絡みつく。
逃げようとするゼクスの粒子に、なおも砂鉄を強制的に付着させていく。
(まだ捕まえてる──まだゼクスも、俺から振り切れてない……!)
だが灰は超強引に変化を継続。
砂鉄に阻まれながらも、ゼクスは地下空間の奥へ、奥へと逃げようとしていた。
翔太郎はその磁場の感覚を手掛かりに、敵の逃走経路を正確に把握している。
(逃げ道は分かってる! このまま追える……!)
雷光を纏ったまま、ゾンビの群れを押し退け、翔太郎は追跡しようと──
「アリシア!」
不意に振り返る。
仲間たちの姿が心配だったからだ。
視線の先。
アリシアが──ゾンビの群れの中で奮戦していた。
「行って、翔太郎!」
両手に纏った業火を何度も放ち、彼女は迫るゾンビたちを焼き払い続けている。
炎でゾンビを蒸発させていくその姿は勇敢だった。
だが彼女の呼吸は荒く、表情には焦りが滲む。
その隣では玲奈が氷刃を振り、ソルシェリアが鏡を展開し、ゾンビたちの異能力を反射して応戦していた。
しかし数は減らない。
──翔太郎の心が揺らぐ。
(今、俺が行けばゼクスは追える……だけどアリシアたちが……)
その葛藤を断ち切れず、翔太郎は一歩踏み出せない。
(どうする……どうすれば……!)
「──鳴神様」
凛とした声が、地下に響いた。
次の瞬間──地面が爆発した。
ズン、と低い音を伴いながら床が突き破られ、土煙が舞う。
その土煙の中から現れたのは──
「フレデリカさん!」
戦闘用メイド服に身を包み、全身を土の粒子に汚したフレデリカだった。
手には、土から編み上げた槍を携えている。
そして何より──彼女は地面そのものから姿を現したのだ。
「状況は理解しています。このゾンビ掃討は私がお引き受けしましょう。貴方はゼクスを追ってください」
「フレデリカさん、どうやってここまで……」
「私の異能力は、地面や壁といった鉱物に同化し、自由に干渉・移動できるものです。地下空間で皆様を探している最中、大きな戦闘音が聞こえて辿り着けました」
フレデリカは一礼しつつ、冷たい瞳でゾンビの群れを見据える。
槍の刃先を持ち上げ、唇を僅かに吊り上げた。
「大地の槍。──それでは、失礼いたします」
彼女の異能力は、地面や壁への干渉。
“大地の槍”はその応用技だ。
地中の鉱物を自在に組み替え、地面から攻撃用の槍を生成する。
翔太郎が見惚れる間もなく、フレデリカは槍を振り抜いた。
「──あなた達もゼクスの実験の被害者であることは理解しています。しかし、既に死人であることに変わりはありません。鳴神様の邪魔はさせない」
大地から無数の槍が生え、次々とゾンビたちを串刺しにしていく。
それだけでなく、床や壁から生える土の手がゾンビたちの動きを封じ込めた。
「フレデリカ!」
アリシアが安堵し切った声で声をかけると、彼女は翔太郎の前に現れたゾンビを引き受けて淡々と告げる。
「お嬢様、ここはお引き受けします。貴女は貴女のお役目を」
「っ……!」
アリシアは言葉を詰まらせ──頷いた。
翔太郎はフレデリカに見据えられる。
「鳴神様。迷われる理由はございません」
その声は、命令ではない。
だが命令以上に──重かった。
「任せた。俺はゼクスを追ってくる」
翔太郎はようやく振り切った。
全身を雷と磁力で包み、ゼクスの灰が逃げる先へと駆け出す。
あのイカれた研究者を、今度こそ確実に仕留める為に。
♢
翔太郎は唸るような呼吸を整えつつ、灰の残滓を追って歩を進めた。
足音がコツンと反響する。
今までとは違う空気──重く、澱んだ空気に、思わず喉が詰まる。
やがて辿り着いたのは、信じがたい光景だった。
「なんだよ、これ」
都内の埠頭倉庫の地下。
その常識からは到底かけ離れた空間が、目の前に広がっていた。
まるで塔の内部をくり抜いたように、天井は遥か上空へと伸び、視界は青黒い闇に沈んでいた。
壁際に規則正しく並ぶのは、無数の人一人が入りそうなカプセル。
そのカプセルの中身は、翔太郎の胸を鈍く抉る。
焼け爛れた肉塊。
皮膚の色すら分からなくなった、炭化した人間たち。
ある者は全身が灰に侵食され、肉体と灰が混ざりあったような状態で──目も開かず、ただ“ そこにある。
まるで生物の概念そのものが壊れた、命の残骸。
(ゼクス……)
何人いるか、もう分からなかった。
カプセルの数だけ、命は終わらされていた。
「東京湾沿いの埠頭倉庫の地下に……こんなものを作ってたなんて……」
呆然と漏れたその声が、自分のものとは思えなかった。
全てが異様だった。
人体実験施設、あるいは屠殺場。
──だが、それすら生ぬるい。
ここは。
「死体工場……か」
呻くような声が漏れた。
自分でも、そう表現するしかなかった。
雷鳴は、止まっていた。
恐怖でも、絶望でもない。
ただ圧倒的な現実に、翔太郎は言葉を失っていた。
そのときだった。
「その表現は、些か心外だね」
不意に響く、場違いなほど明るい声。
青暗い闇の中、灰の残滓から人影が組み上がる。
ゼクスだった。
頬を裂いた血を拭おうともせず、その義眼だけが研ぎ澄まされた光を放っている。
「ようこそ、新たなるヴァルプルギスの炉へ」
ゼクスはまるで友人にでも秘密基地を見せびらかす少年のように、背後のカプセル群を振り返る。
並ぶ無数のカプセル──中身は死体とも呼べない何か。
だが彼は誇らしげだった。
「これはね……死んだ人間でも生きた人間でもない。言うなれば未完成だよ。灰と肉体を融合させようとした試作品たちだ。素晴らしいだろう?」
顔面から流れる血を拭いもせず、彼は本気でそう語った。
本気でそれを自分の研究成果と信じている。
翔太郎の胃の奥が冷たくなる。
「ワタシはね、ただ完全な異能力者を作りたかっただけなんだ。全てに適応する生物として……命を凌駕する存在を」
「……この人たちが、お前の言う“素材”だって言うのか」
翔太郎の声は呆れと怒りの入り混じったものだった。
だがゼクスは平然と──いや、嬉々として語った。
「彼らだけじゃないさ。例えば前回、ドイツで行なった爆炎のプリンセスを生み出す実験。あの過程で生まれた最高傑作、12番ことアリシア。そしてそれに次ぐ異能を持った13番ことカレン。彼女たちも──ワタシの研究の成功例だ」
瞬間、翔太郎の中で何かが凍りついた。
アリシアとカレン。
彼女たちのあの力の裏に、ゼクスの狂気があったのかと。
「なんで……こんなに酷い真似が出来るんだよ。お前のやってる事は、どう考えても許されない事だぞ」
それは純粋な疑問だった。
いくら能力者社会が歪んでいても、ここまで狂えるものか。
「許されるよ」
だが、ゼクスはあまりにも自然に即答した。
「……は?」
「何故ならワタシ達こそ、この世界を支配すべき異能力者だからだ。考えてもみたまえよ。無能力者は世界人口の九割を占める。だが──価値はない。異能を持たない彼らに、この世界の実権を握らせることこそ、間違いだ」
ゼクスの目は真剣だった。
そこに偽りも狂気もない。
彼にとって、それは紛れもない正義だった。
「ワタシとてね、同じ人間である異能力者を実験対象にするつもりはないさ。素材になるのは、能力もなく、価値もない無能力者で十分だ。虫ケラや実験動物に等しい彼らに、力を与えてあげるのだ。これほど崇高な行いが他にあるかい?」
「……そういう事だったのか」
翔太郎はようやく納得していた。
ゼクスの価値観。善悪の基準。
──奴にとって、自分と同じ人間はこの世界の一割を占める異能力者だけだった。
無能力者はそもそも人間ですらない。
ただの素材──生きている肉塊としか見ていない。
だからこそ、ここまで非道に手を染められる。
「元々何の価値もない無能力者たちに、ワタシの実験の被験体になるという名誉を与えてあげたのだ。彼らには心から感謝しているし、彼らもワタシに感謝しているはずさ」
死体工場の前で、心の底から誇らしげに言い切った。
「……そうかよ。言いたいことはそれだけか?」
雷よりも冷たい声が、翔太郎の喉から漏れた。
「ああ、ここまでワタシの目的を聞いてくれてありがとう」
次の瞬間──ゼクスの背後の出入口。
ガチャン、と重厚な音を立てて閉ざされる。
ロックがかかり、赤い警告ランプが灯った。
ゼクスは振り返りすらしない。
「そして、もう誰も来ないよ。ここはワタシとキミだけの密室だ」
「なるほどな。お前、最初からここに俺を誘き寄せるつもりだったのか」
「ああ。どれだけ説明しても、キミがワタシの研究に賛同しない事は分かっている。同じ異能力者なだけに失うのは残念だが、キミのような障害は排除しなければならない」
嬉しそうに笑ったゼクスの義眼だけが、どこまでも狂っていた。
そして、狂った科学者は告げる。
「今回のテーマは“灰”による異能力開発の新たな段階だ。死体から生まれるゾンビは、ただの失敗作じゃない。あれは過程さ。無能力者を異能力者に変えるためのね」
それは狂気の域を超えた執念だった。
そして翔太郎は、ようやく理解した。
この男こそが、異能力主義の権化。
歪んだ世界の象徴なのだと。
「初めて会った時から、お前の言ってることが何一つ分からなかった。けど……やっぱり、最後まで分からないままだったよ、ゼクス」
それは本音だった。
異能力至上主義。
無能力者を人と見なさない思想。
その全てが、翔太郎にとっては到底理解できるものではなかった。
だが──ゼクスは、失望したように首を振った。
「それは残念だよ。貧相な異能力から成り上がったキミなら……少しは理解してくれると思っていたんだけどね。無能力者を異能力者に進化させる──ワタシの実験の意義を」
その瞬間──翔太郎の全身から、音が消えた。
「……今、なんて言った?」
雷鳴すら、止まっていた。
ゼクスはその問いかけに、楽しげに笑う。
答えを繰り返すことに、何の抵抗もない様子だった。
「貧相な異能力、だよ。雷使いの少年」
身体の奥から、冷たいものが込み上げた。
「それともこう言った方が適切かな? 鳴神家の落ちこぼれにして、最後の生き残り──鳴神翔太郎くん?」
──知っている。
この男は、知っている。
鳴神家。
既に滅んだはずの家名。
自分が最後の生き残りであること。
落ちこぼれと呼ばれ、見捨てられかけた過去。
それら全てを知る者は──師である剣崎以外に、誰一人としていないはずだった。
あの災害は約6年前に発生した事件。
当時は話題になっていたが、時代の流れと共に様々な異能力事件が発生したことで、風化しつつある。
無論、その災害が夜空の革命によって引き起こされたことを知っているのはごく一部の人間。
「なんで、お前がそれを知ってるんだよ」
翔太郎の問いは、呆然とした声にすらなっていなかった。
鳴神家。
それは異能力者一族の中でも、特に雷撃の能力に特化した名門。
だが、あの鳴神村災害で滅びた。
故に、鳴神家の存在そのものを知っている者は、今や過去を知る者だけだ。
それも、あの災害を引き起こした側の人間でなければ知るはずがない。
「疑念は持っていても、確信までは至ってないようだから教えてあげよう。ここまで辿り着いてくれたキミへのご褒美だ」
ならば──この男は。
「鳴神村災害を引き起こした夜空の革命。ワタシは、あの組織の下部構成員の一人。ここまで言えば、後は理解してもらえたかな?」
ゼクスはそう言って笑った。
驚きでも、焦りでもない。ただ、嬉しそうに。
「お前が、夜空の革命のメンバー……?」
「下部構成員と言っただろう。ワタシ如きでは正規メンバーにすらなれないよ」
全てが繋がった。
アリシアたちを巻き込んだ異能力開発の実験。
灰によって生まれるゾンビ。
能力のない人間を無理やり異能力者へと作り替える実験。
──その起点は、夜空の革命にあった。
あの災害もまた、夜空の革命が関与していたとするなら……目の前のこの男は。
「お前が、鳴神家を……あの災害を……」
ゼクスは首を横に振った。
それだけは否定した。
「違うよ。あの災害はワタシが組織に入る前の話であり、ワタシ自身は鳴神村災害に関与していない。災害に関与したのは、それこそ正規メンバーの六人だ」
そのままゼクスは教鞭を振う者であるかのように、顔を伏せて震える翔太郎から視線を外して、コツコツと歩いた。
「ただ、組織が起こした事件の詳細は資料で読んでいたからね。ワタシと13番が、生き残りのキミを知っていたのは資料のおかげだ。最初に13番が先走って氷嶺玲奈くんに襲撃をかけた時はどうしようかと思ったが、結果的にこうしてキミと相対することが出来た。最も、キミが氷嶺玲奈くんや12番と親しい立場であった事までは想定外だったけどね」
振り返ったゼクスの義眼が、軽く笑っていた。
ゼクスは嬉々として続けた。
その声音には、敬意すら滲んでいる──だが、それは歪んでいた。
「ワタシは運が良い。本当にね。鳴神家の最後の生き残り。氷嶺家の歴代最強の素質を持つ少女。そして、ワタシの手から離れて“独自進化”した爆炎のプリンセス。──その三人が、同じ戦場に揃う日が来るなんて」
その声は歓喜。
だが──翔太郎にはそれが呪詛にしか聞こえなかった。
「……狂ってる」
自分たちを、人間ではなく“素材”と呼ぶこの男は、最初からそうだった。
ゼクスにとって他者の命は──ただの素材、そしてデータ。
ゼクスは続ける。
狂気の瞳のまま、真顔で。
「ワタシはキミに──心から敬意を表するよ、鳴神翔太郎くん。素材にもならない貧相な異能力から、よくここまで進化した」
翔太郎の中で何かが砕けた。
誇りも、過去も、努力さえ──ゼクスにとっては失敗作が伸びただけだった。
「組織が見逃した失敗作が、ここまで来た。それは紛れもなく、キミ自身の努力の成果だ。障害である事には変わりないが、本当にキミは観察しがいがある」
雷が煌めいた。
今度は消えない。
翔太郎は睨みつけたまま、一歩踏み出した。
「俺も、アリシアも、玲奈も──お前の実験動物なんかじゃない!」
ゼクスは微笑んだままだ。
口元にうっすらと血を滲ませながら、
淡々と──それでいて断言する。
「キミがどう思っていようと、ワタシはそうは思わない。キミたち三人は、組織にとってもワタシにとっても──優秀な観察対象なんだ」
次の瞬間だった。
ゼクスが、指を鳴らした。
──パキン、と乾いた音。
その音を合図に。
広間を取り囲む無数のカプセル──人ひとりが入るサイズのそれら全て。
一斉に、ガラスが砕け散った。
「──なっ」
翔太郎は叫ぶ間もなかった。
数え切れない死体が飛び出してくる。
焼け焦げ、爛れ、半ば骨と化した無数の死体。
だが──それらはすぐに違う何かへと変わる。
灰。
死体は灰になり、床を這い、空を覆い、壁を這い、そして全てがゼクスの元へと集まっていく。
その光景はもはや、研究者などではなかった。
──怪物。
灰は螺旋を描き、構築されていく。
腕。脚。尾。
生物とも無機物ともつかぬ、異形の輪郭。
巨大な灰の塊は獣のようであり、虫のようでもあり、
どこまでも不定形で──それでいて、確かな意思を宿している。
天井まで届く黒灰の巨体は、
鼓動のように脈動しながら、不気味にうねっていた。
まるで内臓そのものが空間の中で裏返ったような、禍々しい存在。
そして、その中心。
灰の核──そこにはゼクス自身が埋まり、ただ義眼だけが、燦然と輝いていた。
口元には、なお笑み。
「……素晴らしい。無能力者程度の灰でも、ワタシの異能力と融合すれば、ここまで美しい力になるのか」
その声音は酔っていた。
目の前にいるのが敵であることすら、忘れているかのような悦び。
ゼクスは、自らの生み出した異形の怪物を、
ただ一人の観客──翔太郎に向けて誇らしげに披露した。
「これが……ワタシの異能力・聖者の灰葬。他者の灰と異能力を侵食・融合し、自らに取り込む。いわば、異能力のリサイクルだ。無能力者ですら、ワタシにとっては素材たり得る。どうだい? ワタシの研究の極致は美しいだろう?」
もう、その姿は人ではなかった。
灰と死体から生まれた怪物の核に埋まり、生体でありながら死体であり、ゼクスという男の狂気の研究成果そのものが形を成した存在。
それでも──声だけは、人間のまま。
かつて科学者だった男の声は、どこまでも冷静で、どこまでも狂っていた。
「この姿で戦闘するのは初めてなんだ。嬉しいよ。光栄に思いたまえ、鳴神翔太郎くん。キミは、この最終形態のワタシが選んだ──最初の戦闘相手だからね」
翔太郎は、言葉を失っていた。
だがゼクスは止まらない。
その巨体を誇示するように、灰の尾を大きく振り回す。
「価値のなかった落ちこぼれであるキミが。努力だけでここまで力を得て、こうしてワタシの進化の最終段階にまで辿り着いてくれた!」
まるで感謝すらしているように。
ゼクスは──ただ満たされていた。
「……これだから、異能力は素晴らしい。どこまでも……ワタシを惹きつけてやまない!」
狂気の咆哮が、巨大な灰の怪物から響き渡った。
それはもはや異能力者ではない。
──人間という限界を越えた、
異能力という概念そのものに取り憑かれた、災厄だった。
「……はぁ」
灰の怪物を前にして、翔太郎はついにため息をついた。
怒りでも恐怖でもない。
ただ、呆れ果てたような、心底うんざりした吐息だった。
「長々と語られて……その末に見せられたのがこれかよ。こんなにグロい生き物、見せつけられて喜ぶ趣味は無いんだけどな」
拳に雷が灯る。
紫電でも雷閃でもない、極めて単純な雷光。
だが、その一撃が──彼の決意だった。
「これがお前の最終形態か。じゃあ、単純な話だな」
睨むように、真正面からその巨体を見据える。
揺るがぬ声で、静かに宣告した。
「これをぶっ倒せば。お前の研究も、野望も、全部無駄だったって証明できるわけだ」
ゼクスは笑った。
灰の巨体の奥で、義眼だけがぎらつき、声は静かに響く。
「……面白い。まだ、そんなことを言えるのかい。この姿になったワタシを前にして、なお煽る余裕があるとは」
笑みは嘲笑へと変わる。
だが、その中に確かに含まれていたのは──興奮だった。
「鳴神翔太郎。キミは本当に──最高の観察対象だよ」
ゼクスは嘲笑いながら、ふと思い出したかのように呟いた。
「思えば……キミの妹も、優秀な能力者だったよね」
翔太郎の表情が、ピクリと動く。
「九歳にして鳴神家の当主となった神童──鳴神陽奈。組織が始末する前に、是非ともワタシが研究したかったなぁ」
満足そうに微笑むゼクス。
それは翔太郎にとって、決して許してはならない一言だった。
「……」
翔太郎は、静かに目を閉じた。
怒りの色すら見せず、深く、深く息を吐く。
だがその瞳を開いた時──そこにはもう、何の感情もなかった。
「これは、もうダメだな」
雷光が、爆ぜた。
それは今までとは桁違いの音。
雷鳴ではない。殺意の音。
「組織以外の人間に、これを使う気は無かったんだけど」
言葉は淡々としていた。
その全身からは、無慈悲な雷が立ち昇る。
「お前はもう……立派なあのテロ組織の一員だよ。ゼクス・ヴァイゼン」
雷光が翔太郎の肉体に吸い込まれていく。
全ての雷を一点に集中させるかのように。
“殲滅”のためだけに作られた雷光。
「──セカンドオリジン、解放」
世界が──音を失った。
雷光は音を立てない。
否、あまりの密度に空気すら弾かれ、音が届かないだけだった。
翔太郎の全身から、純粋な雷だけが立ち昇っている。
だが、それは電気でも光でもない。
まるで──殺意そのものを雷に変換したかのような異物だった。
ゼクスが、不覚にも言葉を失う。
先程まであれほど自信に満ちていた義眼が、僅かに揺れた。
「──なんだ!?」
空間が焼け、床が融ける。
翔太郎は一歩も動かない。
ただ、雷が空間ごと支配していた。
「なんだ、この光は……!?」
初めてゼクスの声音に混じったのは──畏れだった。
狂気でも興奮でもない。
それは研究者としての本能的な危機感。
目の前の存在は未知ではなく、死の象徴。
翔太郎は、微動だにせず。
ただ、敵を見る目で──目の前の怪物を、殺すべき対象として見据えていた。
「──天破雷神」
──それはもはや、人の姿ではなかった。
空間が焦げつく。大気が軋む。
膨大な雷をその身に纏いながら、翔太郎は動かず、ただ立っているだけだった。
だが、それだけで空間が制圧されていた。
空色だった髪は──今や金色に輝き、逆立つ。
まるで雷光そのものに染まったかのように。
放たれる稲妻の煌めきは黄金の光芒となり、音を伴って全身を包む。
その姿は──まさに、雷神そのもの。
背後に現れたのは八つの太鼓。
純粋な雷で形成されたそれは、まるで神楽の祭壇。
八つの円が繋がり、円環を描いて翔太郎の背後に浮かぶ。
そして翔太郎の両手には、バチ──否、双剣。
雷光の刃を纏った二本の剣が、彼の指先で太鼓を叩くためだけの武器として煌めく。
剣とも杖ともつかない、雷撃を打ち鳴らす神具。
──天破雷神。
それは雷鳴の神が舞い降りたかのような光景だった。
見上げるゼクスは──その義眼すら、光に焼かれかけていた。
焦りを通り越した、原初の恐怖。
怪物と化した自身の灰の巨体ですら、この異形の“神”には勝てない──そう本能が訴えていた。
「これが、キミのセカンドオリジンか……!」
ゼクスは笑わなかった。
つい先程まで狂ったように歓喜していた科学者が、今はただ呆然と──立ち尽くしていた。
「そうだ」
声は冷たかった。
全てを断罪する者の声。
「これが俺の、俺だけのセカンドオリジン。この雷で、俺は──お前を撃ち抜く」
雷神は動く。
一歩、足を踏み出したその瞬間──ゼクスの灰の巨体が、逃げるように後退した。