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雷鳴のラストピース  作者: 雨車狸
第二章 『爆炎のプリンセス』
71/93

第二章37 『鳴神翔太郎VSゼクス(前編)』

「お話は終わりかな?」


 静寂を裂くように響いたゼクスの声は、芝居がかった響きを帯びていた。

 あまりに落ち着いたその口調に、まるで彼が観客であるかのような錯覚さえ覚える。

 灰の向こうから姿を現したその男は、戦場の中央で悠然と立ち尽くしていた。


 まるで、すべての結末を見通しているかのように。


 翔太郎は一歩踏み出し、目を細めた。


 ゼクスの片目のレンズはもはや失われ、代わりに顔面の一部に溶け込むように埋め込まれた灰色の義眼が、冷ややかな光を放っている。

 それは人間というより、もはや怪物だった。


「てっきり話の途中で襲いかかってくるかと思ったけど……終わるまでわざわざ待ってくれるなんて、案外気が利くじゃんか」


 わずかに口元を吊り上げ、挑発するような笑み。


「待たせて悪かったな。さっさと始めようぜ」


 ゼクスは肩をすくめて、まるで舞台の幕引きを惜しむ観客のような口ぶりで返した。


「構わないさ。キミたちの茶番──いや、ドラマを傍から見せてもらう時間は、非常に価値があったからね」


 声は静かだったが、その裏に潜む興味と分析の熱は隠しようもなかった。


「勘違いしないでくれたまえ。ワタシはいつでも仕掛けることはできた。だが……あえて待っていたのさ。キミが最初に向かって来てくれれば、ワタシとしても好都合だったしね」


 言葉の端に、冷笑が滲む。

 翔太郎はその真意を察したのか、目を細める。


「ワタシにとってキミは、既に不要な存在だ。能力の分析は済んでいる。観察価値も収束し、データとしては飽和。あとは排除するだけ──それだけの存在だ」


 その声色が、わずかに低くなる。


「ただ、依然として本実験において、キミが一番厄介な存在であることには変わりはない。本命の二人を“研究”する前に、処分しておこうと思ってね」


「玲奈とアリシアを狙う前に、一番厄介な俺を消すのが先ってワケか。随分と買われたもんだな」


 翔太郎の皮肉にも、ゼクスは表情を変えない。

 どころか、さらに言葉を重ねた。


「徒党を組まれるより、こうして単独で挑んで来てくれる方が、ワタシにとっても遥かに効率的に排除できる。キミは愚直で真っ直ぐで、しかも仲間思い……。今回の実験においては扱い辛いことこの上ないね」


「そりゃどうも。わざわざお前に合わせようとか思ってないけど、扱いやすい人間じゃなくて残念だったな」


「いや、特に気にしなくて良いさ。研究にイレギュラーは付きもの。逆に言ってしまえば、キミのような反抗的な個体は観察しがいがある」


 そして、ゼクスの視線が静かにアリシアへと移った。

 その目には敵意ではなく、知的好奇心の光が宿っていた。


「それに……どうしても見ておきたかったんだよ、爆炎のプリンセスの選択を」


 ゼクスの声が、どこか優しくすら聞こえた。

 それは、愛情ではなく──実験動物への興味深い結果への期待だった。


「自分の過去を、他人に押しつけて逃げるのか。それとも、過去と向き合い、自らの力で答えを出すのか。情動の選択が能力の変容に与える影響は──実に興味深い」


 ゼクスの言葉は、淡々としていた。だがその裏に潜むのは、まぎれもない悪意と、冷酷な知的探究心。


「ワタシにとって、キミは上質な観測対象なんだよ。検体番号12番、アリシア・オールバーナー」


 アリシアの眉がわずかに動いた。

 かつて自分が呼ばれていた番号が、あまりにも冷たい抑揚で呼ばれたことに、胸の奥にざらついた痛みが残る。


 けれど、ゼクスの視線はそんな動揺すらも楽しんでいた。

 目の前で壊れゆく少女の情動──それこそが研究者にとっての観察なのだ。


「だからこそ、ワタシは仕掛けなかった。もしこちらから攻撃を加えれば、情動の変化は外圧による誘導だ。そんな不純物に研究価値はない。ワタシが求めているのは、内発的変容なのだからね」


 口調は相変わらず丁寧で、穏やかですらあった。

 けれどその奥底にあるのは、人間の痛みを数式に還元するような、倫理の不在だった。


「にしても──」


 ゼクスがアリシアを見下ろすように言葉を重ねた。


「雷使いの少年と12番を同時に相手取る想定でいたが……結果的に来たのは雷使いの少年一人か。非常に残念だが、あの子も最後の最後で、人間らしい臆病さを見せてくれた。トラウマの象徴たるワタシと正面から戦うのが怖かったのかい?」


 アリシアの表情が歪む。

 それが、図星だったからだ。


「わ、私はっ……」


 ──本当に、翔太郎だけに任せてしまって良かったのか。

 ──また、自分の傷から目を背けたのではないか。


 ゼクスの言葉は、彼女の心の迷いに鋭く突き刺さる。

 その痛みが、胸の奥でゆっくりと燃え広がるのを感じた。


「……ふふっ。やっぱりキミは、実に分かりやすい」


 ゼクスの嗤いは、軽やかでありながら、底知れぬ悪意を含んでいた。


 だが──


「残念だけど、それは思い違いだぞ。ゼクス」


 静かに遮ったのは、翔太郎だった。

 その声音には怒気も苛立ちもない。

 ただ真っすぐに確信だけがこもっていた。


「アリシアは逃げてない。今はカレンと向き合ってる最中だ。自分の過去に、きちんとケリをつけようとしてる。誰かに押しつけたわけじゃない。自分の足で選んだ結果だ」


 ゼクスが肩をすくめ、わざとらしく目を細める。


「現に、ワタシの前に立っているのはキミだが?」


「アリシアはお前みたいに、自分は戦わずに──焼けただれた死体を操るだけの奴とは違う」


 ──その一言で、アリシアの胸が大きく震えた。


 自分が「戦っていない」と思いかけていた弱さに対して、真っ向から違うと断言してくれた少年の言葉。

 それは、炎の中でずっと彷徨い続けていた彼女に、ようやく届いた救いだった。


「アリシアは逃げてない。今も、自分の罪と向き合ってる。だから、その覚悟を踏みにじろうとするなら──俺が潰す。これは、俺自身の意志だ。誰かに命令されたわけじゃない」


 翔太郎の声は静かで、真っ直ぐだった。


「お前がやってる実験だか研究だか知らないけど……人の心を弄ぶだけのお前の思想なんて、全部──俺がぶっ壊してやるよ」


 その言葉は、アリシアの胸の奥に突き刺さったまま、熱く広がっていく。

 たった一人、正面から彼女の尊厳を守ろうとする少年の背中は、あまりにも頼もしすぎて──思わず息を呑んだ。


「なるほど。やはり……イレギュラーだな、キミは」


 ゼクスの口元が、ほんのわずかに崩れる。


 それは、計画外の刺激に対する喜びであり──研究対象への殺意でもあった。


「だが、それでも感謝はしているよ、雷使いの少年。おかげで12番にも、有意義な変化が生じた。あとは──その貴重な観察対象を残して、キミだけが“灰”になってくれれば完璧だ」


 翔太郎は肩をすくめ、鼻で笑う。


「……おいおい、随分な言い草だな。もう自分が勝った気がいるのか?」


「キミの異能力も確かに興味深い。だが、氷嶺玲奈くんや12番に比べれば凡庸だ。面白みに欠ける。どれだけ強くても、キミは凡才の限界を出ない。だからこそ──ワタシにとって、処分対象として最適なんだよ」


 二人の視線が、空気を焼くようにぶつかり合う。


 ──雷と灰。

 ──信念と観察。


 彼らを後ろで見守るアリシアは、ただ押し黙っていた。

 けれど、ただの傍観者ではなかった。


 彼女の胸には確かに、翔太郎の言葉が焼きついていた。あの背中は、誰よりも真っすぐで、温かくて、強かった。

 そして、自分の弱さすらも──守ろうとしてくれた。


(……逃げてないって、言ってくれた)


 ゼクスの言葉が、あまりにも悔しくて。

 でもそれ以上に、翔太郎の言葉があまりにも嬉しかった。


 翔太郎とゼクスの間に立つ彼女──アリシアの瞳に、静かな火が宿った。


 ──だが、次の瞬間。


「──聖者たちよ」


 ゼクスが静かに告げる。

 まるで祈りでも捧げるかのように、その声はどこまでも穏やかだった。


 次の瞬間、彼の両腕から灰が爆発するように撒き散らされた。


 その量は明らかに異常だった。

 風もないのに宙に舞い、地を這い、まるで意思を持った生き物のように蠢いていく。


 翔太郎は直感で危険を悟り、一歩後ずさる。


(動きが違う。この灰……ただの煙じゃない)


 だが遅かった。


 灰は地面を覆い、空間を満たし、視界そのものを塗り潰していく。

 灰色の嵐の中で、音もなく何かが形を取り始めた。


 目の前で次々と“生まれる”それは──人だった。


 最初に立ち上がったものを見た瞬間、翔太郎は思考を止めかけた。


 腐臭すら漂いそうな黒焦げの皮膚。

 全身に刻まれた無数の火傷痕。

 灰で固められたような不気味な眼窩。

 口からは呻き声すら発せず、自我の欠片もない、


 それは──死人。

 いや、死人の成れの果て。


「ここに来るまでに、あちこちにいたゾンビはお前が操ってたのか……!」


 無数の死体が次々と灰から生まれていく。

 足元に積もった灰から、新たな死体が立ち上がり続ける。


 ゾンビたちは呻き声すらあげない。

 命令すら待たない。

 それでも迷いなく、翔太郎たちへと向かってくる。


「──だから、カレンに……」


 そこでようやく翔太郎は繋がった。

 ゼクスがこれまで行ってきた全ての行為の意味に。


「カレンに放火をやらせてたのは……」


 目の前の死体たち。

 その全身に刻まれた火傷の跡。

 灰になったはずの彼らが、なぜ今ここにいるのか。


「お前が……被害者の灰を操るためだったのか!」


 ゼクスは満足げに、だがどこか退屈そうに肩を竦めた。


「正解。よく気付いたね」


 静かに、しかし確かな悪意と愉悦を孕んで告げる声。


「燃やすのはワタシの仕事ではない。燃やす役が別にいる方が、合理的だからね。焼かれ、灰と化した彼らはこうしてワタシの兵隊になる。自我も痛みも持たない、最高に純粋な素材だよ」


 ゾンビたちは何の命令も待たず、翔太郎へと迫ってくる。

 動きは緩慢だが、その数は──圧倒的だった。


「ワタシのことを、灰を操るだけの能力者なんて思ってたかい? これこそ、まさに死者蘇生……もはや神の領域だよ。燃え尽きた人間は灰となり──灰は、ワタシの手の中で再び歩く」


 機械のように、一糸乱れずゾンビたちは翔太郎たちを囲んでいく。

 その表情のない顔が、まるで道具そのものだと証明しているかのようだった。


「何が死者蘇生だよ。やってる事は被害者の遺体から、意思の持たない人形を作り出してるだけだろ」


 翔太郎の喉奥から絞り出された言葉は、怒りというよりも呆然だった。


 命を奪われ、今度は兵隊として使い捨てられる。

 この死者たちは──カレンが焼いた罪の犠牲者たち。


「人の命を、なんだと思ってやがる」


「人の命?」


 ゼクスは笑う。


「違うよ。彼らはもう生者ではない。ワタシの灰から生まれ変わった聖者たちだ。そして、ワタシにとっては──最高級の素材でもある」


 灰の中から、さらに数を増やしていくゾンビたち。

 地獄のような光景だった。


 翔太郎は歯を食いしばった。

 怒りに噛み殺された喉が、音もなく震えている。


「お前だけは、絶対に許さない……!」


 雷光が走る。

 翔太郎の全身に帯びた電流が、明確な敵意を帯びた。


 だが、その目の前でゼクスは、穏やかに微笑みながら一言呟く。


「さあ、処理を始めようか」


 そして、灰色の地獄が牙を剥いた。

 ゾンビたちは、無音のまま四方から迫ってくる。


 標的は翔太郎だけではない。

 アリシア。玲奈。ソルシェリア。

 そして倒れたままのカレン。

 全員が、今や包囲網の中に取り込まれつつあった。


「──アリシア!」


 翔太郎の叫びが、雷鳴のように響く。

 それは本能から漏れた声だった。


 灰と炎と死者たちの群れ──絶望的な光景の中、仲間たちが取り囲まれている現実。

 焦りが、声を突き破った。


 けれど──


「こっちは全部任せて!」


 振り返ったアリシアの声は、刃のように鋭かった。


 即答。

 迷いの影など微塵もない。

 かつての彼女なら、ここで俯いていたかもしれない。

 だが今、炎を纏った少女は揺らがない。


「玲奈は、私が絶対に守る。カレンも──必ず連れて帰る」


 炎の中に立つアリシアのその姿は、まるで戦場に咲く焔の女王。

 金髪が夜の中で煌き、紅の瞳には揺るがぬ決意の火が燃えていた。


 誰にも消せない。誰にも壊せない。

 その瞳が物語っていた。


「だから、翔太郎──前だけ見て。後ろは全部、私がなんとかするから」


 背を預けろと、そう言った。


「アリシア……」


 言葉が詰まる。

 翔太郎は一瞬だけ迷った。

 けれど次の瞬間には、力強く頷いていた。


「頼んだ」


 それは、信頼の証。言葉にすれば軽くなる。

 だから、ただ一言だけ。


「ソルシェリア! アリシアのサポート、頼む!」


 翔太郎の声が飛ぶ。

 死者の群れの中、あの小さな人形が凛と立ち上がっていた。


「言われなくても! アタシはアタシの判断で動くから、さっさとアンタもそいつ片付けなさいよ!」


 ソルシェリアの尖った声が、戦場に響く。

 いつもの皮肉。

 けれど、その裏にある確かな信頼は──誰よりも真っ直ぐだった。


 玲奈はそんな二人を見つめ、ふと息を吐いた。

 そして静かに、だがはっきりと告げる。


「翔太郎、私もアリシアたちと戦います。だから、貴方も迷わないで。前だけ見て、戦ってください」


 その声はどこまでも静かで、どこまでも優しかった。


 ああ、そうか。

 アリシアだけじゃない。玲奈も、ソルシェリアも、皆──背中は任せろと、そう言っている。


 翔太郎は、ようやく理解した。

 これが仲間だ。

 自分一人じゃない。

 誰もが、誰かのためにここにいる。


 雷鳴が迸る。

 身体の内側から湧き上がるように、雷が腕に、背に、足に、全身に帯びる。


 前方にいるゼクスは、相変わらず灰色の微笑を浮かべたままだ。


 だが、もう迷わない。

 背中は、仲間たちに預けた。


「分かった。頼りにしてる」


 ただ一言。

 それだけ告げ、翔太郎は雷と共にゼクスへ向かって歩き出した。

 その背に宿るものは、誰よりも重く、誰よりも強い──仲間たちの信頼そのものだった。




 ♢




「行くぞ。ゼクス・ヴァイゼン」


 雷鳴が裂けた。

 翔太郎は一歩──いや、閃光そのものになって地を蹴った。

 空気すら置き去りにして、次の瞬間には視界の先。

 速度は音より速く、風より鋭い。


 ゼクスはまだ詠唱の最中だった。

 灰が大地を覆い、死者たちの群れが牙を剥こうとしたその中心で、悠然と両腕を広げる。


「灰よ、全てを──」


 その言葉が終わる前に。


「──疾風迅雷!」


 翔太郎の声が、雷鳴そのものになって炸裂した。


「……ほう?」


 視界の端で光が弾ける。

 反射の速さでは誰にも劣らぬゼクスの理性が、それでも遅れて警鐘を鳴らした。


 一撃の間合いなど既に無意味。

 速度という概念ごと、ゼクスの認識を置き去りにする。


(──雷閃以上に速度が上がるのか)


 気付いた時には、翔太郎の拳が喉元へ届いていた。


 雷鳴の拳。

 それは掠っただけで致命となる必殺。


 だがその瞬間──ゼクスの肉体が崩れた。


「──灰散(アッシュ・シルト)


 呟く間すら惜しむように、彼の身体は一瞬で粒子へと還る。

 頭蓋、胸骨、四肢までも──全てがサラサラと音もなく、灰へと消えた。


 突風に吹き飛ばされる人形のように、ゼクスという存在そのものがこの場から消滅する。


 翔太郎の拳は、空を裂いた。


「全身を灰に……!?」


 雷光の中心で、翔太郎は衝撃と共に歯を食いしばる。

 触れさえすれば貫ける。

 そう確信していた一撃が──触れる寸前で、消えた。


 灰となり、存在を消し去られたのだ。


 回避ではない。

 消失。


 それが──ゼクスがあらゆる攻撃を無効化していた本当の理由。

 全身を灰に変え、攻撃という概念から離脱する能力。


 ゼクスは死なないのではない。

 存在そのものを霧散させ、そこにいないことで、生存している。


 灰の粒子となったゼクスは空間を漂い、次の瞬間──


「なるほど。キミの異能力の速度を見誤っていたよ。主な異能力は紫電と雷閃だけと聞いていたんだが、雷閃以上に速度の出る技を持っているとは」


 風と共に響く声。

 霧散していた灰が音もなく集束し、渦を巻き、空間で蠢く。


 徐々に、人型が──織物のように編み上がっていく。

 灰が重なり、肉体を形成し、義眼が最後に嵌まる。

 それは悪夢のごとく不気味で、完璧な再生。


 ゼクスは完全に元の姿へと戻っていた。

 そして初めて、その目にわずかな驚きと警戒を宿していた。


「危なかったよ。本当に危ないところだった」


 それでも笑う。

 自信と、支配者の余裕で。


「君の疾風迅雷は、ワタシの計算から逸脱している」


 しかし──それでも。


「ただ、それでも──どんなに強力な攻撃であろうと当てられなければ意味はない」


 ゆっくりとゼクスは腕を掲げる。

 灰の粒子を撒き散らしながら、傲然と。


「攻撃を受けるという行為そのものから排除される。それがワタシが捕まらない理由だ。気付けたのなら誉めてあげようか」


 翔太郎は無言だった。

 だが拳は構え直され、全身から雷鳴が奔る。


「それに恐らく、今のがキミの最高速度だろう? それを最初の一撃で回避された事実を分からないキミではあるまい」


 確かにゼクスの言う通りだ。

 今の状態の翔太郎が出せる最高速度である事に間違いない。


「なるほどな。灰に変化、もしくは同化することで自分の肉体を分散して、緊急回避に使ってるわけか」


 翔太郎は呟いた。

 だがその声音には絶望はない。

 むしろ獣のような闘志が宿っていた。

 雷光が、再び爆ぜる。


「だったら、消えるより速く殴るだけの話だろ」


 雷鳴が、爆音と共に地を割った。

 言葉よりも先に、翔太郎は動いていた。

 目にも映らぬほどの加速──自らの肉体を痛めつけながら、さらに速度を引き上げる。


 限界など考えない。

 考えれば遅れる。

 その速度は既に常人の認識すら拒絶していた。


「無駄だよ」


 ゼクスは薄く笑った。

 しかし、口元とは裏腹に、その身体は即座に防御行動へと入る。

 周囲に漂う灰が、自動防衛のように蠢く。


 翔太郎が雷光の槍となって迫った瞬間──


灰散(アッシュ・シルト)


 ゼクスは一切の躊躇なく、自らの肉体を完全に霧散させた。

 攻撃が当たる瞬間を見極め、自身の存在を灰粒子へと還元して空間へと拡散する。


 物理的な存在がない。

 だから、いかなる速度の拳も当たらない。


(速さだけじゃ捕まらない……!?)


 翔太郎の雷撃は、またしても空を切る。

 だが次の瞬間──ゼクスの反撃が始まった。


 拡散していた灰の一部が再構築され、形を成す。

 それは両脚だけだった。

 人型の足だけを瞬時に実体化させ、翔太郎の死角──背後へ。


「──ガードが甘いんじゃないかな?」


 その刹那、ゼクスの脚が蹴り込まれる。

 灰の異能力による威力と加速のブーストを得た一撃は、まるで蹴りというより質量を持つ衝撃波だった。


「ぐっ──!」


 翔太郎の身体が弾かれる。

 腹部に直撃した蹴撃は、骨までは砕けないものの、確実にダメージを刻んだ。


 痛みに顔を歪めながらも、翔太郎は転倒する事なく、雷を纏ったまま即座に転がり受け身を取り、そのまま滑るように体勢を立て直した。


「は……っ、随分軽口叩くわりに足技かよ。研究者のくせに、肉弾戦って笑えない冗談だ」


 だがその表情に、怯えも後退もない。

 ゼクスは霧散した上半身を徐々に再生させながら、皮肉げに笑った。


「だけど大した威力じゃないな。ちょっと不意を突かれたけど、能力の威力や規模なら凍也の方が遥かに上だ」


 肩をすくめるゼクス。

 だが、その目は冷酷だった。


「確かにキミの言う通り、単純な戦闘力ならワタシよりも彼の方が上だろうね。だが……現にキミはワタシに一撃も当てられていない。この意味が分かるかな?」


「──っ」


 直接戦闘力なら凍也に軍配が上がるが、厄介さで言えばゼクスの方が断トツだ。


 凍也は自動追尾型の氷の使い魔と、視界に入れた瞬間に発動する絶対零度の合わせ技を主に戦闘方法としていた。

 それゆえ、彼の攻撃を全て避け切ってしまえば、隙を突いて攻撃を加えることが可能だった。


 ゼクスは違う。

 奴は戦い合う相手を倒す必要など感じていない。

 灰に消え、攻撃を受けず、隙を見て脚だけで蹴り飛ばす。

 機械的で無駄のない、徹底した“逃げ癖”と合理性。


 翔太郎の拳が届く前に消え、死角から反撃する。

 目の前のゼクスは──凍也とは異なるタイプの強敵だった。


 だが、翔太郎は微かに笑った。


「相変わらず、逃げ癖だけは一人前だな。地下で戦うことを選んだのはお前の失態だぞ、ゼクス。お前の異能力は開けた場所でこそ、真価を発揮するタイプのものだ」


 雷光が更に強く迸った。

 音が──もう追いついていない。


「それはどうかな」


 ゼクスは初めて、口元の笑みを消した。

 その義眼が、淡く鋭く輝いた。


 ゼクスの蹴撃は、一度きりでは終わらなかった。


 翔太郎が受け身から立ち上がるよりも速く、灰が四方へ散り、次の脚部が構築される。


 今度は右──直後に左。

 死角を縫うように、人型の脚だけが次々と翔太郎の背後に実体化する。


「次は──そこだよ」


 ゼクスの声が、灰に紛れて響く。


 背後から放たれたもう一撃。

 腹部に深く抉るような質量を伴った蹴り。

 翔太郎は肩を揺らしながら再び転がり、雷閃で無理やりバランスを取り直した。


 だが、ゼクスは止まらない。

 灰は翔太郎の動きを完全に読み切ったかのように動き、彼の進路に次々と脚を構築しては、その蹴撃でコツコツとダメージを重ねていく。


 まるで傷を抉るように、弱った部位を的確に狙う外科医の手技のように──


「どうした? 雷使いの少年。キミの速度でワタシを捕まえることなど、不可能だよ」


 機械的な無機質さと、知性が入り混じった声。

 その声の主は戦場にいない。

 どこまでも散った灰の中──空間そのものが敵だった。


「ぐっ……!」


 雷鳴が、連続する蹴撃に掻き消される。

 翔太郎の反応速度でさえ、ゼクスの灰の前では対応しきれない。

 攻撃を仕掛ければ、その瞬間に霧散され、灰となって消える。


 死角から脚だけを実体化させ、最低限の質量と灰の加速で蹴り込む──それを、幾度も、幾度も繰り返す。


「確かにスマートなやり方ではないな。だが、主に近距離戦法を好むキミに対しては最も有効打となる。遠距離ではそもそもキミにも攻撃は当たらないし、中距離にしたって詰められれば意味はない」


 ゼクスは小さく笑った。

 だがその声音は、嘲笑ではなく淡々とした事実の確認だった。


「故に、死角からキミを削る事が最も有効打であるとワタシは考えた。灰に変えて、逃げて削り、最終的にキミが動けなくなればそれで十分。効率の話だよ、雷使いの少年」


 脚部だけの形態で生み出される蹴撃。

 それはゼクス自身が無駄に身体を実体化させないための、最適解。


 効率的な殺意。

 それこそが、ゼクスという存在だった。


 翔太郎は理解する。

 今、自分は戦っているのではない。

 狩られているのだと。


 ゼクスは単なる研究者ではない。

 戦場で獲物を確実に狩る為の、科学的な殺人者だった。


「……逃げ癖ってレベルじゃねーな。ここまで攻撃が当たらない能力者なんて、それこそ先生以来だぞ、マジで」


 蹴撃に息を詰まらせながら、翔太郎は乾いた声で呟いた。

 どんな攻撃もすり抜ける灰。

 そして、必要最低限の質量だけを構築して加えられる痛打。


「じわじわ削るのが、お前のやり口か」


 ゼクスの灰はまるで網。

 翔太郎が疾走すれば、その速度を計算した灰が先回りして脚を構築し、死角から蹴る。

 速度が武器のはずの自分が、逆に速さを読まれ、追い詰められている。


 ゼクスは楽しくて仕方がないとでも言いたげに言う。


「今さら気付いたかい? キミがどれだけ速かろうと──ワタシは当たらない。そして、逃げた先に脚だけ構築して叩く。何度でもね」


 事実──翔太郎の身体には、徐々にダメージが蓄積していた。

 骨までは砕かれずとも、肉体は悲鳴を上げはじめている。その事実を、ゼクスは楽しんでいる。


 殴り返せず、捕まえられず、一方的に打ち据えられる。肉は裂け、内臓は軋み、呼吸すら苦しい。


 それでも──


(必ずあるはずだ。ゼクスに攻撃を当てる方法が)


 翔太郎は思考を止めなかった。

 脳が焼けるほど酷使されても、前に出るために考えることだけは諦めなかった。


 灰は物理攻撃をすり抜ける。

 エネルギー系の雷撃すら、完全に無効化される。

 ゼクスは攻撃されると同時に、自分の身体そのものを灰へ変えて逃げている。

 つまり──灰になった瞬間、もう攻撃は届かない。


(じゃあ……灰になる前に叩くしかない。でも、それが出来ないから、今こうして殴られてる)


 拳でも雷でも届かない。

 ならばどうすれば?


 翔太郎は脳裏を掘り返す。

 ゼクスの戦い方。

 最初に倉庫に入った時に使われた落とし穴のカモフラージュ。

 灰は地面に溶け込み、空間に混じっていた。


(あの時、ゼクスは地面に灰を撒くことで、落とし穴が無いように俺たちの目を誤魔化してた。つまり──奴の“灰”は空間に混じれるほど細かい粒子ってことだ)


 粒子。

 バラバラの砂のようなもの。

 なら、その粒子に異物を混ぜれば……どうなる?


(異物が混ざれば、灰そのものを操れなくなるか……?)


 ピンと閃いた。

 答えは単純だった。


(そうか、俺の制御下にある“砂鉄”を灰に混ぜれば……!)


 砂鉄。


 細かい鉄の粒。

 それを雷で磁力を持たせれば、粒子と粒子の間に侵入させられる。


 異物が混ざれば、ゼクスの灰は完全な灰ではなくなる。制御が乱れ、少なくとも完全な分散は防げるかもしれない。

 それなら──奴は逃げ切れない。


(けど……問題は、砂鉄を扱うのは苦手なんだよな……)


 翔太郎の脳裏に、過去の訓練の記憶がよぎった。


 電磁操作は雷と相性がいい。

 だが、砂鉄は重い。

 粒子一つ一つを操るには集中力と技術がいる。

 雷のように勢いで叩き込む戦法とは、根本から異なる戦い方だった。


(実際、俺は砂鉄操作が苦手で、施設でも散々苦戦してたし、習得までは行かなかった)


 しかも問題はそれだけじゃない。

 砂鉄を操る時──翔太郎は雷の制御そのものが弱まる。


「紫電」は使えない。

「雷閃」の速度も、いつもの半分以下に落ちる。

 それだけ集中力を砂鉄操作に持っていかれる。


 砂鉄操作と雷撃は両立しない。

 砂鉄操作は、翔太郎にとって捨ててきた戦法だった。


(だけど、ゼクスに攻撃を当てる手段はこれしか思いつかない……!)


 苦手だろうが関係ない。

 速度が落ちようが、技を封じようが──最終的にゼクスを倒せなければ意味がない。


 翔太郎は拳を握りしめた。

 呼吸は荒く、意識も霞む。

 だが、その目だけは前を見据えていた。


(アリシアは俺を信じて任せてくれたんだ。だったら、苦手な戦法だろうが何だろうが、俺がゼクスを倒すしかない……!)


 ゼクスの灰は、確かに万能だ。

 けれど──粒子は粒子だ。

 ならば、空間そのものを砂鉄で染めればいい。

 奴が逃げ込む空間を檻に変えてやる。


(鉄筋コンクリート……なら、砂鉄はある。見えないだけで、この空間全体に)


 けれど、問題は明白だった。

 この地下倉庫に広がる鉄粉は、あまりにも微細。

 そのまま雷で引き寄せようとしても、砂鉄は重く、空気の中に浮かんでくることはない。

 まずは──地面から無理やり掘り起こす必要がある。


 翔太郎は拳を握り締めた。


(……とにかく、砂鉄を起こさないと始まらない)


 相手は“灰”。

 こちらは“砂鉄”。

 粒子と粒子のぶつかり合いに持ち込めば、ゼクスの回避手段を阻害できるかもしれない。


 ゼクスの蹴りには慣れてきた。

 あの脚だけ実体化して叩き込む反撃も、速度やタイミング、威力も分析でき始めている。


 翔太郎はわざとゼクスの死角に誘い込むこともせず、灰にされる間合いに踏み込みすぎないよう注意して、距離と位置を調節していた。


「そろそろ逃げ回るの、やめたらどうだ? ゼクス」


 雷光が集束する。

 身体全体に紫電を纏いながら、翔太郎は地を踏みしめた。


 ゼクスは鼻で笑う。


「また馬鹿みたいに雷の火力頼みかい? キミも学習しないねぇ──」


 だが、その言葉の最中に、翔太郎は疾った。


「──紫電!!」


 雷鳴とともに、翔太郎の全力の紫電がゼクス目がけて放たれる。

 ゼクスの義眼がわずかに動いた瞬間だった。


灰散アッシュ・シルト


 当然、ゼクスは躊躇なく灰化する。

 身体が粒子となって空間に溶ける。

 紫電は空を切り──


「また無駄撃ちだね、当たらなくて残念だ」


 そう嘲るゼクス。

 だが、翔太郎は既に次の動作へ移っていた。


 紫電の着弾地点は──ゼクスではない。


 地面。


(狙いはそこじゃねえよ──!)


 コンクリートに全力の雷撃が叩き込まれた瞬間──爆ぜるように、地面が抉れた。


 土煙。砂塵。

 破砕された微細な鉄粉が、雷の熱と衝撃で周囲に撒き散らされる。


 目に見えない粒子が、空気中に舞い上がる。


 翔太郎の狙いはゼクスではなく地面だった。

 ゼクスの灰が空中に広がる中、微細な鉄粉が混じり始める。

 彼の灰と鉄粉が、空間で混ざり合いはじめる。


 雷の速度が沈黙する。

 翔太郎はあえて全身の雷光を抑え、目を閉じた。


 ──感じろ。

 ──捕まえろ。

 ──灰に混ざる、その一粒を。


 地の底から唸りを上げるように、翔太郎の身体が震え始めた。

 指先からは電磁の力が渦巻く。

 その制御は、雷閃とは比較にならないほど重く、鈍い。


(これが、砂鉄操作。俺の苦手な……)


 それでも──やるしかない。


「お前に教えてやるよ」


 握りしめた歯の隙間から、絞り出すように言葉が漏れる。


「雷だけが──俺の武器じゃないってことをな」


 ゼクスは、相変わらず余裕の微笑を浮かべている。

 だが──まだ気付いていない。

 自分の灰の粒子の中に、異物が混入し始めていることに。


 翔太郎は両脚を踏み締めた。

 重力に抗うように、両手をゆっくりと掲げる。

 指先を開いたその手は、まるで猛獣が牙を剥くように指を上向きに反らし、肘は曲げたまま。

 ちょうど目線の高さ──視界の先で、両の手が檻を描く。


 雷鳴はない。

 それでも空間は震えた。


「磁牢──ッ!!」


 翔太郎が叫んだ直後、床面が轟音とともに炸裂した。

 地を這う鉄粉が、一斉に巻き上がる。


 空間に黒い煙のような砂鉄の渦が発生。

 砂鉄は磁力の指令を受け、灰と鉄の見えない檻を作り出しながら、ゼクスの灰粒子へ侵入していく。


 だがその発動は──重い。

 苦しげな息が漏れた。


「ぐ……おおおおおおおッ!!」


 翔太郎は全身から汗を噴き出し、必死に両手を上げたまま声を張り上げる。

 力を込めすぎた両腕は震え、肩が悲鳴を上げる。

 雷の速さとは正反対の、あまりに遅く、重い戦法。


 それでも、彼は両手を降ろさない。

 磁牢の檻を崩さない。


「逃がすもんかよ……! 今度こそ、絶対に!」


 翔太郎は、震える両腕をなお掲げたまま歯を食いしばった。

 磁力の檻は確かに、ゼクスの灰そのものへ侵入し、絡め取っている。

 その証拠に、ゼクスの灰化が──遅れていた。


(読み通り……!)


 ゼクスの灰化には大きな弱点がある。

 他者の異能力──特に“粒子”に干渉するタイプの能力が混入した場合、ゼクスは粒子の純度と制御を乱され、変化にタイムラグを生じる。


 今、まさに翔太郎が操作している砂鉄という異物が、ゼクスの灰を鈍らせているのだ。


 ゼクスの表情が初めて歪む。


「なっ、これは──何だ……この砂鉄……!? ワタシの灰の身体に混入しているだと……!?」


 自身の灰の流動が、明らかに鈍っていることに気付いた瞬間──翔太郎は駆けた。


 磁牢発動中──右手は、ゼクスを逃がさない為に、強制的に掲げたまま。


 集中力も既に限界に近い。

 だが止まらない。

 止まれば、ゼクスはまた逃げる。

 右手は檻を放しはしない。


 だから──


「左手で、ぶっ叩くだけだ……!」


 左手を握り締める。雷光が爆ぜた。

 磁牢展開中、雷閃は極端に威力が下がる。

 それでも──十分だ。


「ようやくお前をぶん殴れるんだ、ゼクス!」


 磁牢で拘束したゼクスへと向け、翔太郎は左腕を閃光に変えた。


 雷閃を纏った拳。

 それは速度ではなく、狙い撃ちの一撃。


 ゼクスは灰化が間に合わない。

 苦悶の表情のまま、顔面へと拳が迫るのをただ見つめるしかなかった。


 翔太郎は叫ぶ。


「──雷閃!」


 雷光の拳が──ゼクスの顔面を確かに撃ち抜いた。

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