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雷鳴のラストピース  作者: 雨車狸
第二章 『爆炎のプリンセス』
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第二章36 『信頼関係』

 アリシアの腕の中で静かに涙を流すカレンを、翔太郎は少し距離を取って見つめていた。

 敵と呼ぶにはあまりに無惨な少女の姿が、今はもう、ただのひとりの人間としてそこにいた。


 罪を背負い、痛みを抱え、壊れて、けれど──それでも生きている。


 その姿に、翔太郎の目はどこまでも静かだった。

 やがて彼は、ゆっくりと一歩前へ出た。


「カレンって言ったな」


 名前を呼ぶ声に、カレンの肩がわずかに揺れる。


「話したいことがある。いや……聞きたいことか」


 そう言って翔太郎が更に踏み出した、その時。


「待ってください。翔太郎」


 玲奈が、ぴたりと前に出た。

 翔太郎とカレンの間に立つようにして、彼女は氷のように冷ややかな瞳でカレンを見据えた。


「カレンは、つい先ほど翔太郎を殺すと明言していました。いかなる理由があれど、私はその発言を軽視できません」


 凛とした声に、翔太郎は眉をひそめることもせず、ただ穏やかに首を振った。


「いいんだ、玲奈」


「でも……!」


「大丈夫だよ。俺が話したいだけなんだ。何かされそうになったら……その時は、俺がどうにかするからさ」


 それでも護ろうとする玲奈に、少しだけ笑みを浮かべてそう告げる。

 その声が、確かに信頼で結ばれた相棒としてのソレだったから、玲奈はしばし沈黙の末、静かに身を引いた。


 翔太郎は、もう一度カレンの前まで歩み寄る。

 アリシアの手の中にいる彼女の姿を、真正面から見据えて──小さく息を吐いた。


「カレン、お前に聞きたいことがある」


 その声は優しさでも怒りでもなく、ただまっすぐな意志を含んでいた。

 問いただすのではない。ただ、知りたいと願っているだけの声音。


 けれど──翔太郎はすぐに言葉を継がず、曖昧に首をかしげて空を見上げた。


「……とは言っても、こんなとこじゃちょっと、な。玲奈たちもボロボロだし、ここに来る途中に変なゾンビみたいなのもいっぱい居たし」


 口調は軽いが、言葉の底には緊張が混じっていた。


「一回、フレデリカさんと合流しよう。まだゼクスの姿も見てないし、アイツを捕まえて、全部終わらせてからだ」


 彼の瞳が、カレンの目をまっすぐに捉える。


「その後で、ちゃんと話そう。お前のことも、アリシアのことも。全部、ちゃんと聞くから」


 翔太郎の眼差しは、どこまでも真っ直ぐだった。

 責めるでも、否定するでもなく、ただ知りたいと願う眼差し。

 その重みに、カレンの胸の奥が微かに熱を帯びる。


「──何が、聞きたいの……?」


 絞るように呟いた声は、かすれて震えていた。

 心の奥底に、ずっと閉じ込めていた問いかけ。

 それを口にした途端、カレンの表情がわずかに揺らいだ──その時。


 パン……パン……パン……

 そんな乾いた音が、闇に響いた。


「いやぁ、素晴らしい。実に、美しい再会劇だったよ」


 全員の視線が、反射的に音の方へと向かう。


 瓦礫と霧煙の向こう、崩れかけた建物の影から、拍手をしながら現れたのは一人の男。


 銀灰色のオールバック。

 片目だけに奇妙なレンズをかけ、白衣のようなローブを纏いながら、どこか滑稽なまでに楽しげな笑みを浮かべていた。


「やあやあ、みんな元気そうで何よりだ。ワタシとしても、先ほどの氷嶺玲奈くんと13番の情動の奔流はデータ的にも非常に興味深かったよ」


 その声音。

 その口調。

 誰もがすぐに、その男の名を脳裏に浮かべる。


 ──ゼクス・ヴァイゼン。


「やっぱりキミたちは思った通り、ワタシに最高の研究データを見せてくれた。友情、信頼、後悔、赦し……全部、見せてくれた。その情動の変化から起こる異能力の成長も。これだから能力者の研究はやめられない!」


 カレンが身を強ばらせる。

 アリシアも、すぐに彼女を庇うように立ち上がる。


 翔太郎は、じっとゼクスの姿を睨んでいた。

 あの異常な口調と、どこまでも他者を観察対象としてしか見ない眼差し。


「……ゼクス」


 その名を呟いたのは、玲奈だった。


 彼女の声には、怒気も焦りもなかった。

 ただ、凍てつくような冷徹さだけが滲んでいた。

 獲物を見据える刃のような瞳で、まっすぐに男を睨む。


 ゼクスは、そんな玲奈を見て──むしろ愉快そうに口角を吊り上げた。

 片手を大げさに広げながら、まるで舞台に立つ役者のように応える。


「分かってはいたが、やはりキミの異能力は素晴らしいよ、氷嶺玲奈くん」


 称賛の言葉に込められたのは、敬意ではない。

 あくまで観測者としての評価。

 まるで精密機械に見入る科学者の目。


「潜在能力の純粋な数値だけで言えば──この場にいる誰よりも、キミがトップだ。驚異的だよ。正直、解析が間に合っていない部分すらあるんだ。だからこそ……この眼で、もっと近くで観測したくてね」


 玲奈は答えない。

 ただ、その視線に込める嫌悪感をさらに研ぎ澄ます。


 その横で、翔太郎が一歩進み出る。

 睨みつけることもなく、ただ静かに言葉を返した。


「まさか、そっちからわざわざ出てくるとはな」


 唇の端をわずかに上げる。


「カレンが玲奈に負けた時点で、てっきり尻尾巻いて逃げると思ってたんだけど」


 ゼクスは、その皮肉に満ちた言葉すら、楽しげに受け止めた。

 その表情に恐れも焦りもない。

 ただ、興味と好奇心のみ。


「つれないことを言うなよ、雷使いの少年。ワタシの目的は、氷嶺玲奈くんと──検体番号12番、アリシアの研究だ」


 まるで名前ではなく、ラベルを呼ぶように。


「目的の素体が、こうして同時に目の前に揃っているんだ。これ以上の好機なんて、二度とない」


 足元の瓦礫を踏みしめながら、ゼクスは一歩、また一歩と近づいてくる。


「逃げる? はは、まさか。むしろキミたちに感謝してるよ。こうして最終観測の舞台を、完璧に整えてくれたんだからね」


 その声音には、歪な熱が込められていた。


 誰かの命を弄ぶことに、ためらいは一切ない。

 ただ観察し、記録し、破壊と再生を求めて邁進する異常者の声。


 倒れているカレンがわずかに身を強張らせる。

 彼女を支えていたアリシアが、ゼクスを睨み返した。


「ゼクス。貴方は、まだ……!」


 けれどゼクスは、彼女の言葉すら遮るように小さく指を立て、口元に当てて微笑む。


「シィ。静かに。いいかい、12番。ここからが──実験の本番なんだ」


 ゼクスは指先を唇に当て、ぞっとするほど穏やかな笑みを浮かべる。


「ワタシの研究成果を、その目で、魂で──永遠に焼きつけておくといい」


 刹那、周囲の空気がぴたりと静止した。

 圧倒的な気配の異変が、場の全てを塗り替える。


 そして──




「──セカンドオリジン、解放」




 その呟きは、まるで世界の構造に直接触れるかのようだった。

 まるで存在の座標が書き換えられるかのように、重力がねじれ、空気が震える。


 視界を覆ったのは、黒でも白でもない、灰色の靄。

 それは音も立てずに満ち、しかし確実に、執拗に、周囲の現実を侵食していく。


 ゼクスの身体が仰け反り、骨が軋むような鈍い音が響いた。

 背中が裂け、内側から灰が湧き出す。


 血の代わりに噴き出す灰。

 それは液体とも個体ともつかず、粘つき、蠢きながら空中へと這い出ていく。


 次の瞬間──ゼクスが変わった。


 彼の人間的な輪郭が、人間という器を崩した上で、灰を用いて再構築されていくように、徐々に崩れていく。

 だが、完全に壊れることはない。


 衣服だった白衣はすでに原型を留めていない。

 代わりに彼の体を覆うのは、風に揺れる灰色のマント。

 旅人を思わせるその布地は、ただの布ではなく、流動する灰が凝固したもののように不気味な光沢を放っていた。


 そのマントの下、ゼクスの体は灰のオーラに包まれ、肉体の輪郭すら曖昧に揺れていた。


 かろうじて彼の面影を保つ顔。

 だが、その片目に掛かっていたレンズの眼鏡はすでに消失し、代わりに灰で形成された異形の眼球が瞼を破って埋め込まれている。


 その目は、燃え残った炭火のように鈍く赤黒く輝き、見る者の心を無遠慮に抉るような視線を放っていた。


 髪は元々の灰色のオールバックのままだが、そこからすら微細な灰が絶え間なく立ち上り、身体全体が不気味な灰色の靄に包まれているように見える。


 両腕には浮遊するような灰骨の器官が形成され、通常であれば筋肉でつながるはずの関節の隙間を、灰の粒子が繋ぎとめていた。


 その姿は異形でありながら──それでもなお、どこか「ゼクス・ヴァイゼン」という存在の本質を濃縮したような姿だった。


「人間という器の崩壊と、再構築」


 言葉が空間に染み込むように響く。

 それは音ではない。

 灰そのものが声を宿し、空気に共鳴する。


 ゼクスは恍惚とした笑みを浮かべながら、まるで愛おしむように自らの異形を語った。


「これがワタシのセカンドオリジン。燃え尽きた命を灰から再構築する──《聖者の灰葬(ラザロ・アッシュ)》」


 その姿には恐怖も美しさもあった。

 人を捨て、理を超え、それでもなお理を求める者。


 言葉の意味は、誰にもわからなかった。

 だが、誰もが本能で理解した。


 目の前の存在はもう、ただの能力者ではない。

 この戦いが、ここから熾烈を極めることを──否応なく、感じ取っていた。


「セカンドオリジン……!」


 最初に声を漏らしたのは、翔太郎だった。


 唖然としたように前を見据え、額から滴る汗に気づきもせず、ただ言葉を失っていた。

 抑えきれないほどに、身体が戦いに備えようと無意識に反応していた。


「不気味な奴とは思ってたけど……まさか、そこまで至っていたとはな」


 その言葉に、隣の玲奈が目を見開く。


 一瞬で全身に冷気が走る。

 そして、過去の記憶が──兄の背中が、脳裏をよぎった。


「アレは、兄さんの絶対零度アブソリュート・ゼロと同じ……!」


 玲奈の呟きは、空気に溶け込むほど微かなものだった。


 けれど、その声は震えていた。

 それは感情によるものではない。

 本能が叫ぶ──「逃げろ」と。


 セカンドオリジン──異能力者が限界の壁を越え、異能の第二段階へ至る特殊な覚醒現象。

 異能社会の中でも、頂点に至る領域。

 それを体現した者は、数えるほどしかいない。


 S級能力者を除けば、セカンドオリジンに到達したA級能力者は、ごく一部に過ぎない。

 少なくとも翔太郎の知る限り、この領域に至ったのは──三人。


 妹であり、かつて鳴神家の当主だった鳴神陽奈。

 翔太郎の師にしてS級能力者でもある剣崎。

 そして、交戦経験もある玲奈の兄──氷嶺凍也。


 彼らは異能社会の頂に立ち、次元の違う戦場に生きる存在だ。

 ──ゼクス・ヴァイゼンも、彼らと同じ位置にあるというのか。


「分かってはいたけど、カレンとは比べものにもならないな」


 翔太郎は苦く呟いた。

 カレンの力すら、常人から見れば規格外。

 だがセカンドオリジンは、もはや異能力の枠を逸脱している。


「そんな……ゼクスがここまで」


 隣で立ち尽くしていたアリシアも、拳をわずかに震わせながら呟いた。


「あれがセカンドオリジン……。存在だけは知ってたけど、実際に目の前で発動を見るのは初めて。あんなに禍々しい能力だなんて……!」


 彼女もまた恐れていた。

 研究施設で、ゼクスが自身の異能の可能性を論じる声を耳にしていた。

 だが、それをこうして現実に見るというのは──悪夢に等しい体験だった。


 視界の端では、蠢く灰の触手が天を貪るように伸びる。

 宙を漂う粒子は、全ての希望を塗り潰すかのように世界を灰に染めていく。


 そんな中、ただ一人、まったく表情を崩さない男がいた。


 鳴神翔太郎。

 彼の瞳には、どこまでも透き通った光が宿っている。

 まるで、どれほどの敵を目の前にしても、自らの信じる道を疑うことのない者の眼差しだった。


「……まさか、入学して二ヶ月経たずに、もう一度セカンドオリジンを使える能力者とやり合うことになるとはな」


 凍也と激戦を繰り広げてから、まだそんなに期間は経ってないのに、こうも強大な能力者と連戦する羽目になるとは。


 乾いた独白のように呟きながら、翔太郎はゼクスを真正面から見据えた。


「貴方……怖くないの?」


「戦うこと自体は怖くない」


 アリシアの声が、少しだけ震えていた。

 横に立つ翔太郎の横顔は、あまりにも揺るぎなく、それがかえって現実感を遠ざける。


 ゼクスの姿に少しでも気圧されていた自分とのあまりの差に、アリシアは一瞬、言葉を失った。


「一番怖いのは、あんな奴に俺たちの内の誰かがやられるかもしれないって事だ」


「……っ」


 だがその頼もしさに、胸の奥に何かが灯る。

 思わず、意識を切り替えるように、口を開いた。


「だったら、鳴神翔太郎──私たち二人でなら、勝てるかもしれない。共闘すべきだと私は思う」


 だが、その提案は即座に退けられる。


「いや。ここからは、俺一人でゼクスと戦う」


 その言葉は鋼鉄のように重く、強く、その場にいた全員の息を止めさせた。


「なっ……!」


 アリシアが思わず声を上げる。


「待って、それは無謀すぎる……! いくらパートナー試験で1位を取った貴方でも、高校生がセカンドオリジンの能力者と一対一なんて……!」


 アリシアの声が震えていた。

 理性で止めようとしているのではなかった。

 心が、翔太郎を行かせまいとしていた。


 怖かったのだ。

 ゼクスの姿は、異常だった。

 あれはもう人間ではない。

 灰に喰われ、法則すらねじ曲げた存在。

 その狂気と異形を前にしても、翔太郎はまるで平然としている。


 その事が、かえって恐ろしかった。

 彼は本気で、命を懸けて戦うつもりだ。


「確かに正面からぶつかれば、無傷じゃ済まないかもな。……まあでも、その辺は何とかするよ」


 何でもないように言うその言葉が、どうしようもなく頼もしくて──だからこそ、許せなかった。


「駄目! 絶対に駄目!」


 声が張り詰めた。

 この数日間で、ようやく理解し合えたと感じられた仲間──自分の痛みに、真正面から向き合ってくれた人。

 一人で戦うなんて、冗談でも言わないでほしかった。


「私が一緒に戦った方が勝算は高い。それに、あの男は……私が、乗り越えなきゃいけない過去でもあるの……!」


 声の奥に滲んだのは怒りではなく、どうしようもない哀しみだった。

 一人では抱えきれない、後悔と罪の記憶。

 だからこそ、逃げたくない。


「でもな、アリシア」


 けれど、翔太郎は静かに断固として言った。


「アリシアには、ゼクスと戦うよりも大事な役目がある。俺が戦ってる間、玲奈とカレンのことを頼みたい」


「え……?」


「カレンの見張りが必要だし、玲奈も戦闘直後でまだ調子が完全には戻ってない。アリシアには、離れた場所でみんなを守って欲しい」


 一瞬、理解が追いつかなかった。

 けれど次の瞬間、翔太郎に名前を呼ばれた玲奈が、小さく声を上げる。


「わ、私も戦えます!」


 その言葉には、決意があった。

 彼女なりに、ここで翔太郎と並び立つことを選ぼうとした。


「無理すんなって、玲奈の状態は分かってる。だから、ちょっとの間、休憩してくれるだけで良いんだよ」


「嫌です! 一緒に戦わせてください。私だって翔太郎の力になりたい──!」


 叫ぶように言ったその直後だった。


 ふら、と足が揺らいだ。

 意識とは無関係に、身体がついてこない。

 さっきまでのカレンとの戦闘で消耗していた体力が、ついに限界を告げ始めていた。


「あ、れ……?」


 玲奈の唇から漏れた小さな声。

 その瞬間、翔太郎は迷いなく一歩前に出て、彼女の肩にそっと手を添えた。

 力を込めるわけでもなく、ただそこに触れているだけ。それなのに、彼の手はどうしようもなく重かった。


「気持ちは嬉しいよ。玲奈がそう言ってくれるのも、すごく心強い。でも──」


 その声は、あまりに穏やかで、あまりに真っ直ぐだった。


「ゼクスが凍也みたいにセカンドオリジンを使える以上、万全じゃない状態で前に出るのは危険すぎる。玲奈がこれ以上、頑張り過ぎる必要なんてないんだ」


 優しさの奥に、確固たる判断があった。

 拒絶でも否定でもない。

 ただ、彼なりの信頼と覚悟がそこにはあった。


「でも、私は……!」


 玲奈が、思わず言葉を詰まらせる。

 だがその時、翔太郎は柔らかく笑った。


「凍也の時のこと、思い出してみてよ。──あの時、俺がどうしたか」


「っ……!」


 その言葉が、胸に突き刺さる。

 玲奈の脳裏に、あの夜の記憶が蘇った。


 セカンドオリジンを発動させ、暴走する兄──氷嶺凍也。

 人間としての理性を失い、力に呑まれかけていた兄を前に、妹である自分は何もできなかった。


 ただ、翔太郎に死んで欲しくなくて、凍也に止めるように叫ぶことしかできなかった。


 その絶望を真正面から引き受け、打ち破ったのは──他でもなく、翔太郎自身だった。


 怖れずに凍也に近付いて容赦なく倒し、それでいて、兄妹の心を確かに救ってくれた。


 あの時の翔太郎の背中を、玲奈はずっと忘れられなかった。


「そう、でした……」


 あの時と同じだ。

 自分では到底届かない高みにいる人。

 戦いの中で、絶望に染まった空を突き破ってくれた、唯一の存在。


 それを、信じない理由がどこにあるだろう。


「今回も同じだよ。俺だけを見てくれればいいから──玲奈は、信じて待っててくれ」


 それは、命令ではなかった。

 願いでもなかった。

 ただ、圧倒的な信頼と覚悟の宣言だった。


 玲奈の中の何かが、静かに崩れ落ちる。


 ああ、もう。

 この人は──


「……っ。ずるいですよ、そういうの……」


 ようやく絞り出した言葉は、それだけだった。

 悔しいのか、嬉しいのか、自分でも分からなかった。


 ただ、泣きそうになる心をぐっと堪えながら、彼女はそれ以上何も言わなかった。

 翔太郎の背中が、またあの夜と同じように、凛然とそこにあったから。


 その横で、アリシアはなおも一歩も引かなかった。


 翔太郎の覚悟も信頼も、痛いほど伝わってくる。

 隣にいる玲奈の様子も目に入っていた。

 彼女は──何も言わずに、ただ翔太郎の背中を見つめている。


 驚くほど静かに。

 まるでそれが当然であるかのように、全てを委ねていた。


(……そんなに、信じきれるものなの?)


 心のどこかで、アリシアは戸惑っていた。

 玲奈のその眼差しに、ただ純粋な驚きを覚えていた。


 まるで、翔太郎なら絶対に大丈夫だと、何の根拠もなく確信しているようだった。


 だが──アリシアには、それができなかった。

 いや、したくなかった。


「私は、逃げたくない」


 その言葉は、自分でも驚くほど自然に、でも心の底からこぼれ落ちた。


「ずっと逃げてばかりだった。過去からも、カレンからも。……ただ、自分が傷つかないように、見ないフリしてそれでも生きてきたの。そうやって、大事なものを失わずにいた気になってただけだった……」


 けれど──


「でもね、鳴神翔太郎。貴方と話せて、こうしてまたカレンに会えて、ようやく、少しだけ前に進めた気がしたの。こんな私にだって、もう一度、ちゃんと向き合える過去があるって思えたの」


 目の前の少年が、何かを背負って一人で戦おうとするその背中が──あまりにも、眩しくて。


「貴方が全部背負って、もし、もしも──取り返しのつかないことになったら……私は、自分を一生、許せなくなる!」


 その声は確かに震えていた。

 けれど、それは恐怖ではない。


 ──それは、願い。

 心の底からの、痛切な叫びだった。


 翔太郎に、死んで欲しくなかった。

 彼にも生きて欲しい。


「あの時、私がどうしようもなく怯えて、自分の過去に押し潰されそうになってた時──」


 彼は、扉越しで傍にいてくれた。

 誰も踏み込んでこなかった心の中に、ずかずかと踏み込みながら、それでも優しさを手放さずにいてくれた。


「“一番傷付いてるのは、アリシアだろ”って──そう言ってくれたよね」


 その言葉が、どれほど救いだったか。

 どれほど、自分のすべてを肯定された気持ちになったか。


「あれから、私は変わり始めたの。一人で前に進むことを怖がってる私に、二人で戦おうって、貴方が言ってくれたから……」


 それはきっと、始まりだったのだ。

 誰とも関わってはいけないと思っていたこの世界で、ようやく背中を預けてもいいかもしれないと思わせてくれた、その人。


 受け入れて仕舞えば、気が付けばいつも隣に彼がいた。

 この調査の期間中だって、何があっても彼の傍を離れなかった。


 自分が一人でいたくなかったのと同時に──翔太郎にも、一人にさせたくなかった。

 それがただの義務感だなんて、もう思えない。


「もう二度と、目の前で誰かを失うのは嫌なの。だから一人で行かないでって言いたい。でも、それを言ったらきっと貴方は、私のことまで守ろうとする。きっと、そういう人だから……!」


 涙が溢れそうになる。

 でもアリシアは必死で堪えた。

 これ以上、翔太郎に負担をかけたくないから。


「私は、貴方に傷ついて欲しくない。貴方の無茶を、ただ見送るだけの仲間にはなりたくない」


 それは、紛れもない願いだった。

 どうしようもなく、強く切実な。


 もう──二度と、大切な誰かを失いたくなかった。

 自分の無力さが、誰かの死に繋がる未来だけは繰り返したくなかった。


 気付いた時にはもう、彼はアリシアにとって、ただのテロ被害者同士なんかじゃなかった。


 成り行きで行動を共にしていたはずが、いつの間にか、彼の言葉に、優しさに、背中に──心を救われていた。


「だったら……せめて、その覚悟を私にも背負わせて。全部一人で抱えるなんて、そんなのズルい! 私を置いて行かないで……」


 震える声の奥に滲むのは、恐れではなかった。

 彼のに置いていかれることの方が、よっぽど怖かった。


 いつしか、白椿心音と同じように、アリシアにとって翔太郎は、大切にしていきたい人になっていた。

 どうか、自分の傍にいてほしいと願ってしまう存在になっていた。


 それをまだ、はっきりと口にするには少し怖かった。


 だけど、それでも。

 この気持ちが届いてほしいと、心のどこかで祈っていた。


 その時だった。


()()()()……」


 隣で沈黙していた玲奈が、小さく呟いた。

 呼び捨てで、戸惑いと微かな感情を滲ませた声。


 アリシアはわずかに目を見開いた。

 あの玲奈が、自分の名前を呼び捨てるとは思っていなかった。

 まるで、ずっと遠くにいたはずの誰かと、今初めて同じ景色を見たような──そんな奇妙な感覚だった。


 そして──


「……ありがとな、アリシア」


 翔太郎の声が降りてくる。

 それはいつもの軽さとはまったく違う、どこか誠実で、真っ直ぐな響きだった。


「まさか、あのアリシアがそこまで言ってくれるなんて、正直……ちょっと嬉しい」


 そう言って、翔太郎はほんの少しだけ、目を細めて笑った。

 照れているようにも、どこか安心しているようにも見えた。


 アリシアは、言葉を失う。

 彼にとって自分の存在が、ここまで大きなものになっていたのだと──ようやく、今になって実感した。


「でもさ、俺は、別に死ぬつもりで行くわけじゃない。勝つつもりで戦ってくる。だから、信じて待っててくれない?」


 その声に、迷いはなかった。

 瞳はまっすぐで、微塵の揺らぎもない。

 誰にも強要せず、ただ目を見て静かに語るだけ。


 それが、かえって重かった。


(……止められない)


 アリシアは直感する。

 この人はもう、自分の中で答えを出している。


 だからこそ、余計に苦しい。


 待っててくれなんて、軽く言わないで。

 二人で戦おうって、そう言ってくれたのは貴方のほうだったじゃない──。


 そう言いかけて、言葉がつかえて止まる。

 その隣で、玲奈がアリシアの肩に触れて柔らかい笑みを浮かべる。


「アリシア、ここは翔太郎を信じて任せましょう。あんな奴に翔太郎が負けるはずありません」


 まるで、当然のように信じている。

 疑う余地などない、とでも言うように。


(……ほんと、何なのこの二人)


 アリシアは玲奈をちらりと見る。

 さっき自分が本心を曝け出したのに、玲奈は動じない。

 きっと彼女も、自分とは違うやり方で翔太郎に救われたのだろう。


 そんな二人の信頼関係が──ほんの少しだけ、羨ましかった。


「別に、俺はアリシアを信じてないわけじゃない」


 翔太郎はゆっくりと言葉を選ぶように続けた。


「むしろ信頼してる。お前だから頼みたいんだよ。だからこそ──カレンの監視と、玲奈のサポートはアリシアに任せたい。これは役割分担だ。……俺一人じゃ全部は守れないから」


 その声は真っ直ぐで、少し申し訳なさそうでもあった。

 けれど、その分だけ本音なのだと分かる。


 アリシアは、ぽかんと口を開けた。

 一瞬、言葉の意味を理解できなかった。


「……え、役割分担?」


 ようやく絞り出した声には、呆れと驚きと、ほんの少しの怒りが混じっていた。

 この期に及んで、そんな話を持ち出してくるとは思ってもいなかった。


「ちょっと、さっき深刻に言いすぎたか。ごめんごめん」


 翔太郎は頭をかきながら、ばつの悪そうな笑みを浮かべる。


「別にアリシアをゼクスと戦わせたくない訳じゃない。むしろ、カレンを信じきれない俺としては……アリシアに見張っててほしいんだよ。あいつを暴走させないために。玲奈のことだって、万が一があったら何とかできるのはお前くらいだし。だから言ったろ、役割分担だって」


「や、役割分担……」


 アリシアの声は、低くなっていた。

 必死の思いでぶつけた言葉が、そんな打ち合わせみたいな扱いをされたことに、胸の内で煮え立つようなものが生まれていた。


「……こっちは一応、命懸けで引き止めたのに、貴方はまるで遠足の準備みたいなテンションで話すのね」


「いや、さすがにそこまで軽い気持ちじゃ──」


 翔太郎は気まずそうに苦笑する。

 自分の提案が、まさかここまで重く受け取られていたとは気付かなかったらしい。


 ──その軽さが、時に人を救い、時に人を振り回す。


(……ほんと、人の気も知らずに能天気。そういうとこ苦手)


 そう思いながらも、アリシアはつい、彼の顔を真っ直ぐに見てしまう。

 この人は、誰かのために、何もかも背負ってしまえる人間なのだ。

 それを知っているから、怒るに怒れない。


 そんな彼女を思わず横目で見た玲奈は、ぽつりと呟く。


「アリシアの気持ちは、痛いほど分かります。私も──全く、同じですから」


 思いがけない声に、アリシアは驚いて玲奈を見た。

 彼女はただ、静かに微笑んでいた。


 その笑顔に、アリシアは勝手に──敗北感を覚える。

 迷いも、恐れも、未練もない。

 玲奈はきっと、もうとっくに翔太郎を信じると決めていたのだ。


 誰よりも深く傷付きながら、それでも彼を信じ続けてきた時間があるのだろう。

 その静かな眼差しが、それを何より雄弁に物語っていた。


(……叶わない訳だ)


 アリシアは、自嘲気味に心の中で呟いた。


 強さなんて、戦う力のことだけじゃない。

 自分にはまだ持てなかった「誰かを信じる覚悟」を、玲奈はずっと前から持っていた。


 けれど──それでも、アリシアはもう逃げたくなかった。


 傷付くことが怖くても。

 失うのが嫌でも。

 その痛みに目を背け続けていたら、何も変わらないと、もう知っている。


 だから、アリシアは顔を上げた。


「……分かった。カレンの監視は任せて。()()のことも、私が守る。ゼクスのことは……()()()の好きにすればいい」


 ぽつりとこぼれたその言葉に、自分でも小さく驚いた。


 心音以外の同級生を呼び捨てにするなんて、今まで考えたこともなかった。

 けれど、もうそう呼ぶしかなかった。

 この二人は、アリシアにとって──とっくに、仲間になっていたのだから。


 少しだけ戸惑いながら、それでも続ける。


「でも……帰ってこなかったら──絶対に、許さないから」


 その声は、震えていなかった。

 そこには、怒りも呆れも、そして何より強い祈りが込められていた。


 翔太郎は小さく目を丸くし、すぐに困ったように笑った。


「……なんかさ、今のアリシアにそう言われると、めちゃくちゃ重いな。いや、悪い意味じゃなくてさ」


 彼は肩をすくめて、冗談めかして言う。


「せっかく任せてくれたアリシアに怒られるのは嫌だし、さっさとゼクスを片付けてくるよ」


 その言い方があまりにもあっけらかしくて、アリシアは思わず深くため息を吐いた。


「……ほんと、貴方って、どうしようもないぐらい頑固」


「しぶとさには自信があるからな」


 笑って、翔太郎は背を向ける。


 ゆっくりと、確かに歩いていくその背中は──もう、誰にも止められなかった。


 アリシアは、その姿をじっと見送る。

 言葉はもう出なかった。

 ただ、胸の奥がじんと痛んだ。


 その隣では、玲奈もまた無言のまま翔太郎を見つめていた。

 けれどその横顔には、微かな心配と、揺るぎない信頼が浮かんでいた。


 ──アリシアは、ふと悟る。

 今までずっと、自分と関わった人間を不幸にしてしまうと考えて、自分から誰かと関わることが怖かった。

 でも今は──違う。


 翔太郎を信じたくて、信じることを選びたくて、こんなにも胸が熱くなる。


(……ほんと、嫌になる)


 悔しいくらいに、信じたくなってしまう。


 それでも、ようやく気づけた。

 翔太郎も、玲奈も──もう他人なんかじゃない。

 ようやく、心の奥底にあった氷が静かに溶けていく音がした。


 ──アリシアは、彼を信じる。


 あの背中が倒れないことを。

 あの人なら、どんな絶望の中でも、必ず帰ってくると。

 それを願ってしまう自分を、もう否定することはなかった。


 そしてその日──アリシアは初めて、心の底から誰かを信じるということを知ったのだった。

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