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雷鳴のラストピース  作者: 雨車狸
第二章 『爆炎のプリンセス』
69/92

第二章35 『検体番号13番・カレン』

 カレンが倒れ伏すその傍らで、玲奈は膝に手をつき、ゆっくりと立ち上がった。


 空気はまだ凍てついていた。

 さっきまで舞っていた氷の粒が、いまだ空間を漂い、世界を凍らせている。


 耳鳴りのような静寂が、全身を包む。

 ──何も聞こえない。

 ──誰も、何も、言ってくれない。


 玲奈の心もまた、氷と同じだった。

 固く、冷たく、感情のひとつひとつが、深く凍りついていた。


「玲奈!」


 けれど──その声が、世界を一変させた。


 次の瞬間。

 何が起きたのか分からないうちに、玲奈の身体は強く、ぎゅっと、誰かの腕に包まれていた。


「……ぁ」


 空気が、跳ねた。

 さっきまで感じていた氷の気配が、音を立てて消えていく。

 代わりに、溢れるようなぬくもりが、彼女の芯へと流れ込んできた。


「本当に……本当に、無事で良かった……!」


 耳元で響くその声は、息が詰まるほど近くて──震えていた。

 それがただの安堵ではないと、玲奈にはすぐに分かった。


「翔……太郎……?」


 かすれる声で名を呼ぶと、彼は言葉の代わりに、さらに力を込めて彼女を抱き締めてくる。


 息が詰まりそうなほどに、深く、強く。

 それはまるで、自分の全部を相手に預けるような抱擁だった。


 彼は見ていた。

 カレンが倒れ、玲奈が勝利者として立っていた光景を。

 けれど彼は、あの一瞬手を伸ばせば、アリシアの親友の命を奪っていたかもしれないことまでは知らない。


 それでも彼は、問いただすことも、責めることもせず──ただ、無事を願って、全ての感情をぶつけるように彼女を抱き締めている。


(どうして。どうして、こんな……)


 冷たく張り詰めていた心が、少しずつ、音を立てて崩れていく。


 ドクン、と一度。

 ドクン、と、二度。


 心臓が暴れている。

 苦しい。痛い。けれど──嫌じゃなかった。


(わたし……こんな風に、誰かに抱きしめられる資格なんて、ないのに)


 玲奈はそう思った。

 カレンを殺しかけた。

 あのままソルシェリアが来なければ、本当に殺していた。


 罪は消えない。

 後悔だって──薄まるはずがない。


 それなのに、この少年は何もも知らないままに……こんなにも温かくて、愚かなくらい真っ直ぐで。


「翔太郎……さっき……私……」


 何かを伝えようとする玲奈の唇を、翔太郎が焦ったように遮る。


「もういい。何も言わなくていい」


 彼の腕が、さらに強く玲奈を抱き締める。


「俺が全部悪かったんだ。ゼクスに分断されたのも……玲奈が一人でカレンと戦うようなことになったのも、全部、全部……俺の責任だ」


(──違う。違います。あなたは何も悪くない)


 けれど、喉が詰まって、声が出なかった。

 彼はまだ言葉を続けていた。必死だった。


「それでも、こうして玲奈が無事で、本当に……本当に、良かった……!」


 その言葉の破壊力は、玲奈の想像を遥かに超えていた。


 凍った心に、優しさという名の刃が突き刺さる。

 痛くて、あまりにも温かい。

 刺されたくせに、癒されていくという矛盾。


 その感覚が、玲奈を壊していった。


「……っ……しょう……たろう……」


 喉の奥から、嗚咽に似た声が漏れた。

 堰を切ったように、熱いものが視界を滲ませる。


 ダメだと分かっていても、止まらなかった。

 涙が次から次へと溢れてきて、彼の胸元を濡らしていく。


 翔太郎が、驚いたように玲奈の顔を覗き込んだ。


「玲奈」


 次の瞬間、彼はそのまま、さらにぎゅっと彼女を抱きしめた。

 先ほどよりも、もっと強く、もっと深く。

 玲奈の身体を壊してしまいそうなほどに。


「ごめん。ごめんな。本当に怖い思いさせた」


(違う。違うんです、翔太郎)


 本当はそんなに、怖くなんかなかった。

 ──でも。


 その声が、温もりが、優しすぎて。

 胸が痛くて、どうしようもなくて。

 言葉にしようとした瞬間、心が崩れて、違う言葉が溢れてきた。


「……怖かった、です」


 浅ましくて、情けない。

 でも──それを言えば、もっと抱き締めてくれるって分かっていた。

 だから言った。怖かったと。震えたと。

 それが嘘だとは言わないけれど、全部じゃなかった。


 本当に欲しかったのは──この人の腕。

 この温度。この時間。

 この瞬間、彼が自分だけを見てくれている、それだけだった。


「翔太郎と離されて……ゾンビみたいなのに襲われて……訳も分からないまま、カレンと戦って……すごく、怖かった……」


 震える声で告げるたびに、翔太郎の腕が強くなる。

 ああ、やっぱり。優しいなって思って。

 でもその優しさが嬉しくて、苦しくて、どこかで泣きたくなった。


「翔太郎……」


 ここ最近、翔太郎の視線はアリシアの方ばかりだった。同時に、カレンのことも気にかけていた。


 事情が事情なだけに、それが当然なのも分かってる。

 でも、どうしても──心のどこかで寂しかった。


(……駄目。このままじゃ、どんどん変になる)


 その翔太郎が、今だけは、自分だけを見てる。

 他の誰にも目を向けず、ただ自分だけを抱き締めてくれている。


「……よく頑張ったな。でも、もう大丈夫だ」


 翔太郎の声が、頭の上から落ちてくるように降ってきた。


「カレンにはアリシアが付いてるし……玲奈には、俺が付いてるから」


 ──それはただの言葉。

 ただの慰めだって、分かってる。

 だけど、玲奈の中では違った。


『玲奈には、俺が付いてる』


 その一言が、魔法みたいに心に刺さって抜けなくなった。まるで所有を肯定されたような錯覚に、胸の奥が甘く締めつけられる。


(今だけでいいから……)


 今だけでいいから、ずっとこの腕の中にいたいと思った。もうすぐ終わってしまうと分かっている夢のような時間を、玲奈は指先で必死に握りしめていた。




 ♦︎




 カレン。

 それが検体番号13番の前の私の名前。


 私は、幼い時に家族を失っている。

 犯人不明の放火事件に巻き込まれ、家族は皆焼き殺された。

 唯一生き残った私はゼクスに拾われて、ヴァルプルギスの炉に入れられ、異能力開発の実験体にされた。


 その実験で、覚醒したアリシアはゼクスの最高傑作となり、私はその礎となったのだ。


 ──私は、あの時、確かにアリシアに燃やされて死んだ。


 焼けただれていく肌の感触。

 肺を満たしていく黒煙。

 全身が熱に包まれ、視界が赤黒く染まる中──骨が軋み、意識はぷつりと途切れた。


 炎に焼かれ、私は、私でなくなった。

 痛みも、苦しみも、そして希望も、全てが燃え尽きていった。


 ──そのはず、だった。


 目覚めた時、私は青い液体の中に浮かんでいた。

 培養液の中、素肌のまま管に繋がれ、無様に、生かされていた。


 ガラスの向こうから、私を見下ろしていたのは──あの男。

 ゼクス・ヴァイゼン。

 灰色の髪に片眼鏡に白衣をまとい、無機質な瞳をした観察者。

 彼のその目には、感情というものが一切なかった。


「おはよう、検体番号13番。二度目の人生の気分は如何かな?」


 その一言が、私の再生を告げる鐘の音だった。


 私はゼクスによって生かされ、彼の研究材料として“改造”されていった。

 施設の崩壊後、ゼクスは強大な異能犯罪組織の下部構成員となり、彼らからの命を受けて様々な事件を引き起こしていた。

 私はその中で、ゼクスが持つ駒の一つだった。


 ただ──私がゼクスに従っていたのは、意志ではなかった。


 彼の言葉には、何か抗えない力が宿っていた。

 命令されると、心が強張り、身体が従ってしまう。

 逆らうという選択肢そのものが、脳内から消える。

 私はゼクスの言葉一つで動く、ただの操り人形となった。


 その過程で、私は新たな力を手に入れた。


 燃えるような黒炎ではない──冷たく、けれど激しく燃え上がる《蒼炎》。


 皮膚の下を這うように広がっていく異能の熱は、私の肉体と精神をじわじわと蝕んでいった。

 気づけば私は、人間であった頃の感覚を忘れかけていた。

 ただ生きて、命令に従い殺す。

 その繰り返しが日常になっていた。


 任務は多岐にわたった。

 暗殺、潜入、破壊、諜報──どれも血と死にまみれた日々。

 だがその中にしか、生きている実感を持てなかった。

 というより、それ以外の生き方を私はもう知らなかった。


 私は、ゼクスの操り人形だった。


 どこまでも冷たく、どこまでも正確なあの声。命じられるたび、意志は削られ、心は鈍くなる。

 彼の命令には、何かがおかしかった。

 異能なのか、洗脳技術なのか、それとももっと得体の知れない“なにか”か──

 考えることをやめた私は、ただ命じられるままに動いた。


 そんなある日、ゼクスを通して新たな指令が下された。


 零凰学園十傑・第十席、《氷嶺玲奈》の監視。


 特定の対象に接触し、日常を観察し、変化を記録する。

 任務としてはありふれていた。

 けれどその名を聞いた瞬間、私の中にひとつの違和感が走った。


「氷嶺玲奈……」


 提供された資料に目を通して、すぐに理由が分かった。

 十傑の顔ぶれを確認する中、見知った名前が目に飛び込んできたのだ。


 ──アリシア・オールバーナー。


 一瞬、心臓が跳ね上がる音がした。

 鼓動の意味が自分でも分からず、私は思わず声に出していた。


「……生きてたんだ、アリシア」


 けれど、それは再会を喜ぶような感情ではなかった。

 私の中に渦巻いたのは、怒り、怯え、そして……罪悪感のようなものだった。


 私は、彼女に会いたくなかった。


 あの日、アリシアの炎で私は──確かに焼かれて、死んだ。

 それなのに今、生きている。

 こんな歪んだ姿で。

 彼女に今の私を見せるなんて、冗談じゃない。


 あの真っ直ぐな目で、何を言われるか分からない。

 真っ直ぐな声で今の私を責められたら。

 私の中の何かが、多分壊れてしまう。


 本当はわかっていた。怖いのだ。

 アリシアに再会するのが。


 ──きっと、私は言ってしまう。


「私を焼いたあなたが、今は何食わぬ顔して女子高生って何の冗談かしら?」


 そんな呪いのような一言を、きっと口にしてしまう自分が嫌だった。


 だから私は、アリシアと再会することを避けるように、氷嶺玲奈の資料へと意識を向けた。

 ……けれど、そこでも私は、奇妙な感情に引き込まれていく。


 冷たい表情。整いすぎた姿勢。

 どこか感情を感じさせない視線。

 まるで、自分を守るために完璧なお人形を演じているような──


「……私に、似てるのね」


 氷嶺玲奈──それが、彼女の名前だった。


 任務として彼女を監視するよう命じられ、初めて彼女の資料に目を通した時、胸の奥がざわついた。

 冷たい表情、どこか張り詰めた目つき、完璧すぎる立ち居振る舞い。


 それは──まるでかつての私自身を鏡で見ているようだった。


 調査を進めるうちに、彼女が氷嶺家の長兄・凍也に縁談を押し付けられていることを知った。ただの政略。

 家の名のために、感情を殺して男の隣に立つことを強要されている少女。


 ……他人事とは、思えなかった。


 私もそうだった。

 ゼクスに拾われ、命を繋がれ、異能を植え付けられて。

 気がつけば生きる理由すら、自分で選べなくなっていた。


 自分の意志なんて、とうの昔に壊れていた。

 誰かの言葉で、誰かの目的で、ただ動かされるだけの存在。

 言葉ひとつで殺し、言葉ひとつで消える。そんな日々の繰り返し。


 だからだろうか──玲奈という少女から、目が離せなかった。


 任務だと、自分に何度も言い聞かせた。

 でも、気がつけば彼女の資料を何度も読み返していた。

 その度に心がざわついて、苦しくなる。


 似ている。

 似ているからこそ、惹かれていく。


 ──私と同じ、世界に選ばれなかった人間。


 氷嶺玲奈は、初めて出会った“同類”だった。

 どこか壊れていて、なのに壊れきれずに生きている。

 心が死にきっていないからこそ、苦しんでいる。


 それが分かってしまったから──私は、彼女に会いたいと思ってしまった。


 組織の指示でも、ゼクスの命令でもない。

 あの時だけは、ただ私の意志で、彼女に接触した。


 ──強引だったかもしれない。


 けれど、それでもあのときの私は、彼女の目を確かめたかった。


「氷嶺玲奈ちゃん、ですね?」


 氷のように冷たい眼差しが、こちらを射抜いた。


「……あなたは?」


「私は、そうですね……強いて言えば、氷嶺家の関係者の一人です」


「あなたのような人は知りません」


「ごめんなさい、言葉足らずでした。正確に言えば、私は氷嶺家の縁談を知る人間の一人です。どうやら、大変な立場にあるみたいですね、玲奈ちゃん?」


 その一言で、彼女の表情が一瞬だけ揺らいだ。


「……なぜ、あなたがそれを」


「お兄さんの凍也くんが、あなたを誰と結婚させようとしているのか、気になりませんか?」


 彼女は何も言わなかった。

 でも、その無言の中に、ほんの少しだけ怯えと迷いが滲んでいた。


「少しついて来てください。ここでは何ですから、人のいない公園にでも移動しましょう」


 それが、私と氷嶺玲奈の最初の邂逅だった。


 その時、私は組織から支給された黒いフードを被り、再び彼女の前に姿を現した。

 監視だけではなく、異能の確認。

 彼女が持つとされる氷の異能力がどの程度のものか、直接試さねばならなかった。


 だから私は、彼女の背後に回り、不意を突いて襲いかかろうとした。

 一瞬で終わるはずだった。

 彼女の反応を引き出し、その能力を計測するだけの“実験”──それだけのはずだった。


 だが、その時だった。


「紫電」


 風を裂いて飛び込んできた稲妻が、私の腕を弾いた。

 強い衝撃。

 体が横に逸れて、反射的に数歩下がる。

 そして──目の前に立ち塞がった彼の顔を、私は見た。


「……!」


 鳴神翔太郎。

 その名と顔は、すぐに一致した。

 私にとっては初対面のはずの彼を、私はすぐに理解した。


 ──ああ、知ってる。この顔。


 組織から渡された資料。

 鳴神村災害で、唯一生き残った少年。

 あの異能災害の中心にいたとされる存在。

 事件の影にあった名前のひとつ。


 組織が関わっていた惨劇。

 人知れず数百人が命を落とした計画的な事件。

 ゼクスはその詳細も私に話していた。


 空色の髪に、橙色の瞳の少年。

 彼の情報には、こう記されていた。


 《異能適性、著しく低い。雷の異能力に該当するが、出力は静電気程度。組織のメインプランの該当対象にすら値せず、放置された唯一の生存者》


 ──つまり、組織から見れば殺す価値もない失敗作。

 才能がないなら、価値もない。

 利用価値がないなら、存在する意味もない。


 だからこそ、生き残った。

 せっかく命を拾ったのに──この少年は、なぜまた異能力の世界へと足を踏み入れたのか。


(バカね。ひっそり生きていればよかったのに)


 私はそう思った。

 何も知らずに、何も見ずに、平穏に生きていれば、また誰かに焼かれるようなこともなかったはずなのに。




「──やっぱり生きてたんだ。お兄さん」




 彼は、確かに生きていた。

 死ぬべきだった世界から、一人だけ抜け出して──今、この場所でまた新たな因果を背負おうとしている。


(本当に馬鹿な人)


 だけど、それでも。

 今、この瞬間だけは──彼が羨ましいと思ってしまった。

 誰かを守れるほどの理由を、まだ心に宿しているその姿が。


 彼らの前から姿を消した後、零凰学園の警備が厳しくなり、氷嶺凍也が玲奈を家に軟禁していたことで、私とゼクスは一時的に彼らの監視を停止していた。


 だけど、私が少し目を離した隙に、同類だったはずの氷嶺玲奈は鳴神翔太郎に救われて、変わってしまった。


 鳴神翔太郎は彼女を守り、居場所を与えた。

 私にはなかったものを、彼は彼女に惜しみなく与えた。


(どうして……?)


 私には、なかった。

 あんな風に名を呼んでくれる人も、手を伸ばしてくれる人もいなかった。

 どうして、彼女だけが救われるのか。

 どうして、私は誰にも救ってもらえなかったのか。


(私には、誰もいなかったのに)


 かつて兄の言いなりとなって、存在の意味すら他者に委ねてきた少女──氷嶺玲奈。

 その玲奈が今や、鳴神翔太郎という少年に守られ、変わってしまった。


『それに本番当日は頼りにしてるんだからな、相棒」


『ええ、任せてください。あなたも私の足は引っ張らないでくださいね。翔太郎』


 あれほど冷たく、感情のない目をしていた彼女が。

 あんなにも優しい顔で、あんなにも自然に、隣にいる彼を見つめていた。


 彼女は私と同じはずだった。

 同類だと思っていた。

 なのに、彼女は変わってしまった。

 救われてしまった。


 ──私だけが、置いていかれた。


 醜い嫉妬だった。

 分かっていた。

 分かっていたけれど、それでも止められなかった。

 彼女の前に姿を現そうとしたその時、ゼクスが私に命じた。


「やめたまえ、13番。キミは先走る癖がある」


 いつもの無感情な声。

 私の後ろに立っていたのは、ゼクス・ヴァイゼンだった。


「キミの感情は研究にとって有用だが、勝手な行動は許可した覚えはない。とはいえ──いい機会だ。キミに相応しい任務を与えよう」


 彼は、そう言って口元を吊り上げた。


「そろそろ、キミとワタシの存在証明を、世間に知らしめる時だと思わないか?」


 ゼクスが提案したのは、放火。

 ただの放火ではない。

 無関係な施設を標的にし、できるだけ多くの犠牲者を出すよう計画された公開実験だった。


 私は命令に従った。

 ガソリンの臭い。燃え広がる業火。

 逃げ惑う人々の悲鳴。

 テレビのニュースが焼け焦げた施設と黒焦げの死体を映し出す。


 ──また、異能力を持つ放火魔が現れたと報じられた。


 それで良かった。

 もう誰も、自分の名前なんて知らなくていい。

 ただ、誰かが自分の影に怯えてくれれば、それでよかった。


(存在してるって思えるから)


 認められたくて、壊していた。

 気付いてほしくて、遠ざけていた。

 それは誰よりも滑稽で、卑しい衝動だった。


 ──きっと私は、あの子に気づいてほしかったのだ。

 私のことなんて忘れて、綺麗な空の下で生きているあの子に。


 アリシア。

 どうか、お願いだから──見て。


 私はまだ、ここにいる。

 燃え尽きてなんかいない。

 名前すら剥ぎ取られたこの身でも、まだ生きているから。


 今日も、私は命を燃やしている。

 誰かに──たった一人に、見つけてもらいたくて。


 だから、消えたくなかった。

 壊れたままでいい。

 狂ったままでいい。

 ただ、あの子の目にだけは止まって欲しかった。


 闇の中で、名前すら持たない13番の少女は、今日も、この世界に確かに存在していた。




 ♦︎




「──カレン!!」


 その名を叫ぶ声が、夜の闇を引き裂いた。


 倒れていた少女の身体が、ぴくりと震える。

 風が吹いた。

 冷たく、どこか懐かしい風だった。

 声は、遠くから来たようでいて、すぐそばにいた。

 過去と今、その全てを貫いて届いた──確かに知っている声。


(……だれ……?)


 ぼんやりとした意識の中で、カレンはゆっくりとまぶたを開ける。

 滲んだ視界の先、泥に膝をつき、震える肩で泣き崩れている少女がいた。

 金髪のポニーテールに、焦点の合わない紅い瞳、頬を伝う涙の跡。


 ──アリシアだった。


 かつて、自分と同じ檻の中にいた親友。

 感情を切り捨て、静かに世界を見下ろしていたはずの彼女が、今は。


「カレン。やっと……やっと、また会えたのに」


 かすれた声で、それでも懸命に名前を呼び続ける。

 泥まみれの膝で、手を伸ばしながら──まるで祈るように。


「何してるの、こんなとこで……どうして、一番最初に私に会いに来てくれなかったの」


 涙に濡れた瞳が、カレンを真っ直ぐに見ていた。


「あの時、私はあなたに償いきれない事をした。どんなに後悔してももう遅いって思ってたのに。でも今、目の前にいてくれるなら、私の話を聞いて」


 泣き続けるアリシアの声が、胸に染み込んでくる。

 痛かった。

 温かくて、優しくて、それが何よりも痛かった。


(アリシア……)


 あの頃、アリシアはいつも無表情だった。

 泣きたくても泣けなくて、傷付いても声に出せなくて。

 ただ黙って、毎日を生き延びていた。

 それが生きるということだと思っていた。


「ずっと、謝らなくちゃいけないって思ってた。出来れば、こんな形で会いたくなかった。でも、あなたと話したい事がいっぱいあるの。カレン、お願い……」


 あまりに必死で、あまりにまっすぐで。

 そんな彼女の姿が、カレンの胸に突き刺さった。


 あんなに、泣くんだ。

 あんなに、崩れるんだ。


(あんなに、私の名前を──今もまだ、呼んでくれるんだ)


 検体番号13番なんかじゃない。

 それだけで、息ができなくなった。


 痛みも、苦しみも、涙も全部、胸の奥にしまってきたのに。

 どうして今になって、こんなに泣きたくなるのか。


(──ずるいよ、アリシア)


 私は、そんな風に泣けなかった。

 泣いちゃいけない場所に、ずっといたから。

 だけど今、名前を呼ばれて、やっと──少しだけ心がほどけていった。


「……アリ、シア……?」


 掠れた声が、唇から漏れた。


 その瞬間。

 アリシアは叫びを止めて、カレンを見た。


「カレン……! 生きてた……っ、生きて……!」


 そして、涙のまま、崩れるように私を抱きしめた。


 カレンは、ただそれに身を任せた。

 まだ痛かった。苦しかった。怖かった。

 でも──温かった。


 こんな夜が来るなんて。

 世界のどこかに、こんな光が残ってるなんて。

 本当はもう二度と、思えないはずだったのに。


 カレンの身体を抱きしめたまま、アリシアはしばらく言葉を発せず、ただ静かに嗚咽を漏らしていた。


 地下はまだ暗いままだったけれど、まるで世界が二人をそっと包んでいるように、あたりは奇妙な静けさに満ちていた。

 何もかもが遠ざかっていくようなその沈黙の中で、アリシアの涙だけが確かな現実として、そこにあった。


 やがて、アリシアは震える声で、ぽつりと呟いた。


「……ごめんなさい、カレン」


 その言葉に、カレンのまぶたがわずかに揺れる。


「私はあの時、異能力を暴走させて、あなたを焼いてしまった。分かってる。どれだけ言葉を尽くしたって、きっと償えることなんかじゃない。だけど、それでも……謝りたかった。ずっと言えなかった。怖くて……逃げてた」


 それはずっと、彼女の胸に巣くっていた罪だった。

 あの夜、施設が崩れ落ちたあの日、カレンを──自らの手で、焼いたという記憶。


 言い訳なんてできない。

 正当化なんていらない。

 だからただ、真っ直ぐにカレンに、過去に向き合うように彼女は言葉を続けた。


「あなたが助けを求めてたこと、本当は分かってた。なのに……私は、自分の力が怖くて、あなたに触れられなかった。力を制御できなかった私が、あなたを──」


 声が震え、涙がまた頬を伝った。


「……ごめんなさい。本当に……ごめんなさい」


 掠れる声が震えていた。

 それでもアリシアは、逃げなかった。

 泣きながら、それでも彼女は正面からカレンの目を見つめていた。


 アリシアが、自分のことでこんなにも泣いている。

 あの頃、あんなに無表情で、他人を遠ざけていた彼女が──自分の名前を呼び、涙を流し、言葉を尽くして謝っている。


「──それは違うよ、アリシア」


 その言葉は、驚くほど穏やかだった。


「本当は分かってたの。あの事故はあなたのせいじゃない。ゼクスや他の研究者たちが、あなたを暴走させて私を燃やすことで、絶望したあなたから黒炎を引き出そうとした実験だって」


 言葉を紡ぎながら、自分の中の傷に、そっと触れていくようだった。


「でも、それでも……私、あの時、助けて欲しかった。アリシアに、どうにかして欲しかった。あの部屋の中で──私は、ただ静かに燃えていった」


 その声は静かだった。

 怒りでも、恨みでもなく、ただ残された痛みを語るように。


「でもね、今は分かる気がする。あなたは、あの時まだ子供だった。自分の力すらどうにもできないのに、どうして誰かを救えたって思えたのか……って」


 小さな笑みが、その唇に浮かんだ。

 けれど、それは決して軽いものではなく、深く沈んだ想いの上に成り立ったものだった。


「それに……罪の重さなら、私の方がずっと重いのよ。あれから私は──何度も何度も人を焼いた。知らない名前も、覚えてる顔も。全部、自分の手で焼き払ってきた。そうしないと、自分の存在を保てなかったぐらいに」


 自分でも、なぜこんな風に言えるのかは分からなかった。

 でも、アリシアの涙が、自分の心に何かを灯してくれたような気がした。


「だから謝らないで。アリシアのせいじゃない。それを分かっていながら、私が……怪物に堕ちただけの話」


 自嘲するように笑った唇に、アリシアがそっと手を添えた。

 その手は、火傷もなく、冷たくもなかった。

 ただ温かかった。


「だったら──私も背負うよ」


 そのとき、アリシアがそっと顔を上げた。

 涙に濡れた瞳が、真っ直ぐにカレンを見つめていた。


「カレンが焼いてしまったものも、その罪も、痛みも……全部、私が一緒に背負うよ」


「……アリシア?」


「カレンが焼いた痛みも、カレンが受けた傷も全部私も一緒に受ける。カレンが歩いてきた地獄を、私もこれから一緒に歩く。もう絶対一人きりになんてしない」


 カレンの胸に、何かが差し込んだ。

 冷たい鉄のように凝り固まっていた心が、ひとつ、音を立てて崩れていく。


「ずっと、私が傍にいる。今度は、私が──カレンを守るから」


「どうして、そんな風に……。私の罪を背負ってしまったら、アリシアの未来は──」


「だからだよ」


 涙を流すアリシアは、それでも微笑んだ。


「施設にいた時、誰よりも先に私に手を伸ばしてくれたのはカレンだった。無表情で何も感じていないって、周りに思われてた私に、声をかけてくれた。名前を呼んでくれた。……今でも覚えてる。“アリシアは、ここにいる”って、あの一言だけで、私は生きていていいって思えた」


 あの頃の記憶が、二人の間に静かに流れていった。

 破壊と喪失だけだったあの施設で、ほんの一瞬だけ灯った光のような日々。


「だから、今度は私がカレンの傍にいる。カレンがかつて私にそうしてくれたように、今度は私がカレンを助ける番。何度でも言うよ。私は、何があってもあなたの味方」


 カレンの目から、涙が溢れ落ちる。


「私……ずっと怖かった。生きてることも、誰かと会うことも……また、傷つけることも……!」


「……うん」


「私は誰かと関わることが、ずっと……怖かった。また同じことを繰り返すって、思ってた。だからずっと、閉じこもって……カレンって名前すら捨てて……」


「でも私は、カレンの名前を呼び続ける。絶対に忘れない。何があっても、私はあなたを信じる。あなたが望む限り、私は隣にいるよ。地獄でも、孤独でも、一緒に歩く」


 その声はまっすぐで、強くて、優しかった。

 かつて誰よりも無垢だった少女が、誰かのために心を燃やしていた。


「私もね、一人で色々何とかしなきゃって思ってる時に、二人で戦おうってある人が言ってくれたの。だから、私もカレンと二人で歩くよ」


 カレンは小さく震える腕を伸ばし、アリシアの背にそっと回した。

 涙が、止まらなかった。


「……ありがとう、アリシア。こんな私を、名前で呼んでくれて……傍にいるって、言ってくれて……」


 その言葉は、彼女が長い闇の果てにやっと見つけた、救いだった。


 そしてその瞬間──二人の間に、確かに新しい物語が芽生え始めた。


 壊れた過去に、終止符を。

 一つの命が、やっと誰かに存在を認められた夜だった。

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