第二章34 『氷嶺玲奈VSカレン(後編)』
白銀の戦場にようやく静寂が戻っていた。
蒼炎は収まり、氷結が舞う空の下──氷と炎の痕跡だけが、未だそこに残されていた。
玲奈は足早に瓦礫を越える。
視線の先にいたのは、ソルシェリアだった。
「……終わりました」
玲奈の声は、いつも通り冷静だったが、その奥に静かな決意の色が混じっていた。
「彼女を運んで、みんなと合流したいところですが……状況が状況です。周囲の警戒を優先すべきかと」
ソルシェリアは、小さく目を細めた。
「やるじゃないの。あのフードの女を一人で黙らせるなんて」
「当然です。彼女を止めることで、翔太郎がゼクスと戦う舞台を整えるのは、私の役目でしたから。アリシアさんよりも先に」
玲奈はそう言いながら、カレンの元に視線を向ける。
意識を失った彼女の横顔は、先ほどまでの憎悪を宿したそれではなく、どこか年相応の幼さを残していた。
「……ねぇ、玲奈」
ふと、ソルシェリアが声を落とす。
「アンタ、ちょっと前まで、こんな風に戦ったっけ?」
玲奈は黙ってソルシェリアを見る。
「いや、違うか。戦ってたには戦ってた。でも、今日の玲奈は……まるで誰かを守るために刃を振るってるみたいだった」
玲奈はわずかに目を見開く。
そして、静かに微笑む。
「……誰かを守る、ですか。強いて言うなら、昔の自分自身かもしれませんね」
その一言は、言葉以上のものを語っていた。
ソルシェリアは何も言わず、そっと視線を逸らす。
「というか、ちょっと前までって……ソルシェリアは私が戦う姿を見た事があったんですか?」
「んー? いや、何だろう。よく分かんないけど、玲奈ってもっとこうクールなイメージあったから、あれだけ激情飛ばしてるのが意外でさ」
二人の間に、静かに風が通り抜ける。
氷の破片が舞い、戦場の余熱を奪っていく。
「……とにかく、翔太郎たちに連絡しましょう。電話が繋がるか分かりませんが……カレンが破れたことはいずれゼクスにも伝わる筈です」
玲奈がそう言った、その直後だった。
カレンの身体から、突如として爆ぜるように黒炎が噴き上がる。
「っ!?」
轟音と共に、爆風が地面を揺らし、漆黒の光が辺り一帯を包み込む。
玲奈とソルシェリアは瞬時に距離を取り、反射的に防御を展開した。
「──まさか」
玲奈の周囲に、六枚の巨大な氷の盾が浮かび上がる。
花弁のように交差し、炸裂する黒炎を一切通さず、彼女の身体を完全に包み込んだ。
「全く面倒臭いわね!」
ソルシェリアの足元からは無数の鏡片が湧き出し、空間を多重層に反射する透明な結界が形成される。
炎の波はすべて別の空間へと跳ね返され、かすり傷ひとつ残さない。
「痛いわね、玲奈ちゃん」
二人の防御が解けた刹那、目の前に現れたのは、黒き炎を纏いながら、なお立ち上がろうとするカレンの姿だった。
全身から立ち上るその黒炎は、もはや彼女の本来の蒼炎とは異質のものだった。
まるで彼女という器を通じて、外部から力だけが注がれているかのような──そんな禍々しさを孕んでいる。
玲奈の表情が、一瞬だけ鋭く凍る。
「この炎、アリシアさんが暴走した時の、あの“黒炎”と全く同じです……!」
「マジで? じゃあこれは……!」
ソルシェリアが肩をすくめるが、顔からはすっかり余裕が消えていた。
「ったく、どこまで厄介なのよ!」
彼女の言葉が終わるより早く、蒼と黒が入り混じった炎が、カレンの身体から迸る。
気流が巻き上がり、大地が震える。空気が焼ける音が、耳を裂くように響いた。
だが、玲奈は氷の障壁を瞬時に展開し、ソルシェリアは手のひらの鏡を宙へと翳す。
氷と反射の結界が、黒炎を完全に遮断した。
だが、守り切れたのはそれまでだった。
「──言ったでしょう、玲奈ちゃん」
揺らめく炎の中で、カレンの瞳が不敵に笑う。
「私こそが、真の“爆炎のプリンセス”だって」
彼女の言葉に、空気が震えた。
狂気すら含んだ自信に満ちた声音。
その身体に宿っているのは、もはや先ほどまでの彼女ではない。
今この時、カレンは──“黒炎”を制御し、零凰学園・十傑クラスの能力者たちが立ち入る領域に、明確に足を踏み入れていた。
だが──その力は、あまりにも異質だった。
(身体が……!)
玲奈の目が、炎ではなく、カレンの肌に注がれる。
黒炎に包まれながらも彼女はなお笑っていた。だが、その身体には異常が起きていた。
炎の揺らめきの隙間から見えた皮膚は──ところどころが焼けただれ、蒼炎による既存の火傷の上に、新たな損傷が幾重にも重なっていた。
肩、腕、首筋、そして顔。
つい数分前まで整っていたはずの横顔すら、チリチリと焼け崩れていく。
その姿に、玲奈の瞳が見開かれる。
「……そうですか。やはり、黒炎にも使用者へのリスクがあるんですね」
「リスクって、何よそれ?」
ソルシェリアの声は鋭く震えた。
玲奈は僅かに息を呑みながらも、冷静に言い切る。
「恐らく──あの能力は、怒りや憎しみ、強い負の感情が一定以上に高まると発動するものです。代償として、発動するたびに……彼女自身の身体を、命を、確実に削っている」
「そんなの、狂ってるじゃない……!」
「ええ。狂気そのものです」
カレンの表情はなおも勝ち気に笑っていた。
だが、その笑顔の下で、彼女の頬が、腕が、胸元が、確実に焼けていく。
焼ける音がする。
それでも彼女は、歩を進める。
笑っている。
闘志を滾らせながら──まるで、壊れていく自分にすら気付いていないかのように。
(今すぐにでも止めなければ。……でも、もし私じゃ止めきれなかったら──)
最悪の事態を玲奈は想定する。
ただの仮定ではない。十分すぎる現実だ。
カレンの扱う黒炎がアリシアと同系統のモノであるならば、彼女は恐らく零凰学園・十傑クラスの力を得ている。玲奈一人では、打ち倒せない可能性がある。
その時に必要なのは──
「……ソルシェリア。今すぐ翔太郎を探して、ここに連れてきてください!」
「はあ!? ちょっと待ちなさいよ、あんた一人を置いて行けるわけ──」
「いいから行ってください!」
玲奈の声が爆ぜた。
その声音に、ソルシェリアは息を呑む。
普段、静かで淡々としている彼女から放たれる怒声に近い言葉。
それは、それだけ彼女が極限状態にいるという証だった。
「このままでは、本当に──彼女の身体が持ちません。黒炎は、命を喰らう力なんです。アリシアさんですら、制御できずに暴走しました」
玲奈の視線は、焦点をブレさせることなくカレンを見据えていた。
その炎の中で、少女はなおも笑い、歩き、崩れていく。
「この状況を打破できるのは、翔太郎の“紫電”だけです。あの雷で、強制的にカレンの意識を断ち切るしかない」
言いながら、玲奈の拳が震える。
(私じゃ……間に合わないかもしれない。だから、せめて──)
「ソルシェリア。お願いします!」
叫ぶような、その声に──ソルシェリアは、口を噤んだ。
その表情には、苛立ちと、焦りと、そして葛藤が入り混じっている。
「……ほんっっと仕方ないわね!」
毒づいたその一言とともに、彼女は手元の鏡を展開する。
「絶対すぐ戻るから。死なないでよ、玲奈!」
瞬間、ソルシェリアの身体は鏡面へと吸い込まれ、白い霧のように空間から消えていった。
残された玲奈は──吹き荒れる黒炎の前に、たった一人立ちはだかる。
焼け焦げる音、血と焦げた肉の臭い。
その中で、彼女の瞳だけは一点の曇りもなく、前を見据え続けていた。
♢
カレンの黒炎が、爆ぜた。
「っ──!」
玲奈の瞳が反射的に細まる。
咄嗟に展開した氷の障壁が、次の瞬間に爆音と共に一瞬で砕け散った。
「一撃で……!」
目の前が赤黒く染まる。
圧倒的な熱量。
皮膚が焼けるような灼熱が、空間そのものを歪めていた。
「あら、もっと硬い障壁だと思ってたのに、案外脆いのね」
カレンの声は低く、どこか壊れていた。
彼女の背から噴き出す黒炎は、まるで意思を持つ生き物のように、ドクドクと脈動している。
肉体は焼け崩れながら、それでも歩を進める彼女は、まるで──死にかけの不死鳥。
「熱いわね。自分の炎を熱いなんて思うのは初めてよ。でも、この熱があるから、初めて生きてるって実感できる……!」
カレンが踏み込んだ瞬間、大地が爆ぜた。
黒炎が弾け、地面が焼き抉られ、空気が一瞬で炭化する。
玲奈が反射的に身を翻すよりも速く、カレンの拳が氷の壁を突き破って襲いかかる。
防御は、間に合わない。
「──やあぁぁっ!!」
玲奈も即座に応じた。
氷の異能力を脚に集中させ、火花を撒き散らしながら高速で後退しつつ、右手を翻して反撃の氷刃を展開。
凍てつく氷の刃が、軌跡を描きながら迫るカレンを斬り裂こうとする。
だが──
「遅いわよ、玲奈ちゃん!」
カレンの咆哮と共に、黒炎が爆発した。
玲奈の氷刃が触れる前に、全てが──飲み込まれた。
黒い炎が爆ぜて咲き、玲奈の体が吹き飛ぶ。
「──熱っ……!」
炎が、皮膚を焼く。
衝撃で骨が軋む。
玲奈の身体は空中を翻りながら、地面に叩きつけられた。
ここで、玲奈のカレンに対する相性の良さが良い意味で出た。
自分と周囲を瞬時に氷結できる玲奈は、彼女の炎の攻撃を半減できる。他の能力者なら深手なダメージでも、瞬時に傷ごと冷やして一時的な応急処置となった。
「さっきまで私を圧倒していた玲奈ちゃんが、もうこんなにフラフラじゃない。ねぇ、悔しい? 私の黒炎、素晴らしいでしょう!?」
その言葉と共にカレンの背から、黒い翼のような炎が吹き上がる。
燃え盛る黒炎の翼が羽ばたいた瞬間、カレンは空を裂く速度で突進してきた。
轟音。
大地が抉れ、熱風が吹き荒れ、氷の障壁が破砕する。
玲奈の身体が、風圧だけで数十メートル後方に弾き飛ばされた。
転がる。血を吐く。
痛みで意識が飛びそうになるのを、歯を食いしばって堪える。
「はぁっ、はぁっ……っ……!」
玲奈の氷結が、かすかにゆらいだ。
──それでも、彼女は立ち上がる。
(彼女の黒炎は、使うたびに自分自身の命を削ってる。それなのに、あんな……)
もはや強いなどという表現では収まらない。
カレンは、力そのものに身を焼かれながらも、前へ進んでいた。
限界のはずの身体で、なお力を振るい続けている。
「私が、止めるしかないでしょう」
玲奈の声は震えていた。
けれど、それは怯えからではない。
明確な、強い意志の色を帯びていた。
「あなたを……カレンを捕まえることが、翔太郎の望みなんです。翔太郎があなたにこだわる理由は私には分からない。それでも……」
一歩、前へ。
「あなたは、私が倒します!」
冷気が揺れる。
氷結が玲奈の身体を包むようにして立ち昇る。
それは決意の異能力。揺らがぬ信念の色。
それがどれだけ困難でも。
どれだけ、代償が重くても──
(彼が、そうしたいと思ったから。なら、私は……)
玲奈の瞳が、燃え上がる。
──けれど、それでも尚。
今の彼女では、カレンに届かない。届ききらない。
その事実が、痛烈な現実として、彼女の胸を貫いていた。
そんな玲奈を見て──カレンが、鼻で笑った。
「また、鳴神翔太郎?」
「っ……」
「口を開けばすぐに翔太郎、翔太郎……。あはっ、何それ。ほんと、笑っちゃう」
一歩、踏み込むのと同時に黒炎が揺れる。
だがそれは先程までの殺気ではなかった。
ただ深い底なしの嫌悪。
「玲奈ちゃん。確かにあなたは変わったかもしれない。前よりずっと、人間らしくなった。感情も、意思も、異能力すらも強くなった……でもね」
カレンの目が、にたりと細められる。
「それと同時に──あなた、鳴神翔太郎に本格的に依存し始めてるわよ」
「何、を……」
一瞬、思考が止まる。
依存?
自分が──あの少年に?
「分かってないの? 自分自身のことなのに」
まるで哀れむように、カレンは笑う。
その笑みはどこか壊れていて、見ているだけで胸を締め付けられるような、そんな狂気が滲んでいた。
「玲奈ちゃん、本当は私と戦う理由なんて無いんだよね。だって最初はただ、私とゼクスに襲われただけの存在でしょ。今回の問題の中心でもあるアリシアとも特に深い関係じゃない。学園の事情も、私の過去も関係ない。放火事件の被害者たちと同じ、ただ巻き込まれたその他大勢の一人」
その言葉は、玲奈の胸を鋭く刺した。
分かってる。
本当は──全部、分かってる。
「それなのに、なぜここに立ってるの? なぜ命を懸けて私を止めようとするの? なぜ、そんな目で睨むの? その答えは簡単──全て、鳴神翔太郎のため」
「ちが……っ」
「違わないわ。彼がそう言ったから、彼が私を捕まえたいって言ったから。それだけ。それしかない」
違う──と言いたかった。
けれど、声が詰まる。
玲奈の視線が一瞬だけ揺らぎ、開きかけた口をカレンの声が上から塞いだ。
「自覚がないのが一番恐ろしいのよ、玲奈ちゃん」
カレンの声が、ひどく静かに、けれども冷たく突き刺さる。
「あなたはもう、彼がいないと何も決められない。彼がいるから前を向ける。彼がいるから強くなれる。……そして、彼がいるから、あなたは今ここに立ってる」
「それは……違います。確かに、翔太郎のおかげで変われた部分もあります。でも、それだけじゃないですっ……私は、私は……」
言葉に詰まる。
思考がまとまらない。
「ふぅん……」
カレンがつまらなさそうに鼻を鳴らすと、ゆらりと黒炎が揺れた。
冷笑と共に、玲奈の核心に迫る。
「だって今のあなた、彼の名前を出された瞬間──顔をしかめるどころか、私を睨み返してきたじゃない。怖いくらい、真っ直ぐに」
「それは……っ」
「まるで彼という存在に、縋り付いてるみたいだったわ。アリシアや他の誰でも無く、“自分が”彼の一番でいたいって。そんな風にすら見えたのよ、玲奈ちゃん」
──やめてください。
玲奈は唇を強く噛みしめた。
言い返そうとしても、喉が震えて言葉にならない。
違う。
私は、正義感で戦っている。
カレンを、連続放火魔を止める為に此処にいる。
それが正しいことなのだから。
……なのに。
カレンを止めれば、翔太郎に褒めてもらえる。
誰よりも、自分が役に立てたって思ってもらえる。
彼が望んだことを、自分が叶えたって──そう言える。
アリシアや、他の皆よりも。
(私が一番、あの人の隣に居て良いって……)
気付けば、心の中にはそんな言葉ばかりが渦巻いていた。
理由がすり替わっていた。
いつからか──いや、最初から?
違う、違う、違う──!
そう頭の中で否定しながらも、カレンの目がすべてを見透かしてくる。
「ほら、今誰のことを考えたの?」
玲奈の全身が凍りついた。
「あ、っ……」
カレンは嗤う。
それは見下すようなものではなく、どこかで本当に哀れむような、ひどく歪んだ慈しみ。
「そう……変わったと言っても、所詮は誰かに依存した上で変わっただけ。あなた自身の“芯”なんてまだ無いのよ。玲奈ちゃん」
静かに、黒炎がその輪郭を膨らませていく。
「だから私、決めたの。あなたを元の空っぽの人形に戻す方法──それは、あなたを変えた“原因”を消すこと」
ゾッとするほどに穏やかに、残酷な言葉が紡がれる。
「っ……まさか……!」
カレンの瞳が、狂気に濡れながらも、確かな決意を帯びる。
「うん。殺すわ、鳴神翔太郎を。ぐちゃぐちゃにして、あなたの目の前で。あなたがどれだけ叫んでも、嘆いても、焼き尽くすの。あなたの希望を、あなたの変化を、全部……この手で」
黒炎が炸裂する。
凄まじい熱風と殺気が、玲奈の身体を襲う。
まるで、全身を灼熱の杭で打ち抜かれるようだった。
息が詰まり、心臓が軋む。
けれど、それ以上に。
──心が、軋んだ。
(違う……違う……違う……!)
どれだけ否定しても、胸の奥で囁く声は止まなかった。
『彼がいなければ、あなたはここにいない』
その言葉が、真実のように響く。
そして、玲奈自身──否応なくそれを分かってしまっているという事実が、一番怖かった。
「そうしたらきっと、あなたも戻るわよ。私と同じ、空っぽの人形に。この世界のことなんてどうでもいいって思えるような、壊れた心に」
にたり、と。
まるで歪んだ愛を囁くように、カレンは微笑んだ。
「ようやく“同類”になれるね、玲奈ちゃん?」
玲奈の瞳が揺れた。
心が、震えた。
膝がわずかに沈む。
カレンの言葉の中に、確かに正しさがあった。
それが事実であることを、玲奈自身、気づいてしまっていた。
(──私は、変わった。でもそれは、私自身の行動の結果じゃない)
変えたのは、翔太郎。
彼とパートナーになって。
彼と暮らして、戦って、笑い合って。
その日々の中で、玲奈の異能力は変化した。
思考速度が上がった。展開の精度が増した。
構築に無駄がなくなり、技術が研ぎ澄まされた。
戦う理由に翔太郎が加わったとき。
彼を支えたいと、助けたいと思ったとき。
玲奈は、間違いなく強くなれた。
なら、彼がいなくなったら?
「──」
想像しただけで、喉が焼けるように痛んだ。
彼のいない世界。
自分が誰のためにもならず、ただ空虚に立ち尽くすだけの世界。
(私、また……人形に戻るの……?)
玲奈の目に僅かな迷いが灯る。
その瞬間を、カレンは逃さなかった。
黒炎が吼えた。
狂気と獰猛が重なるように、凶兆を立ち上げる。
──その時だった。
玲奈の全身から、空気の色が変わる。
ひんやりとした冷気が立ちのぼった。
熱を持つはずの黒炎すら、どこか温度を奪われるような錯覚を覚える。
だがそれは、激昂ではない。
叫びでも、激情でもない。
ただひとつの確信。
──この女は、殺してでも止めなければならない。
翔太郎を殺すと語った。
それは今の玲奈にとって、自分が変わり続けた1ヶ月に対する完全否定だった。
「……そうですか」
玲奈が、ゆっくりと口を開いた。
声はかすれていたが、どこまでも凪いでいた。
「ようやく、分かりました」
その目には、涙もなければ怒りの火もない。
ただ──底冷えするほどの静かな殺意だけが、そこにあった。
「あなたは害悪です。翔太郎にとっても、私にとっても、周りにとっても」
黒い怒気が、玲奈の足元から立ち上がる。
氷のように冷たい負の情念。
「殺すだなんて、簡単に言わないで下さい」
小さく首を傾げた玲奈の頬に、微かに氷結が浮かんだ。
「──私の大事な人に、手を出すと宣言したんです。自分がこれからどうなるかぐらい、分かりますよね?」
音もなく、空気が一変した。
冷たい殺意が、空間すら凍てつかせる。
玲奈はもう、迷っていなかった。
この瞬間──彼女は、戦う理由を取り戻した。
それは正義感でも、アリシアのためでもない。
たった一人、鳴神翔太郎のためだけに。
「いいわよ、玲奈ちゃん! あなたもようやく、その気になってくれたのねぇッ!」
カレンの瞳が爛々と光る。
狂気のような笑みとともに、全身から黒炎が噴き出した。
先ほどのブルーインフェルノとはもはや比較にすらならない。
それはまるで、噴火口から解き放たれた灼熱の獣。
瞬間的な火力でいえば、かつてパートナー試験で見せたアリシアの業火さえ凌駕する。
「私を止めたいだなんて偽善を言わずに、最初から鳴神翔太郎の為だけって言えば良かったのにさぁっ!!」
凄まじい咆哮と共に、黒炎が放たれる。
空が軋み、大地が焼け、空気が歪む。
だが──。
「……だったら、なんだって言うんですか?」
玲奈の声は、どこまでも静かだった。
熱を帯びた世界の中、ひとり冷たい吐息を零すように。
その瞬間。
カレンの両腕が、一瞬で凍りついた。
「ッ──が、あ、ああああああああああああッ!!!」
黒炎の暴風の只中で、カレンの絶叫が木霊する。
異能力の奔流を全力で解き放っていた彼女の腕は、内側から凍傷を起こし、皮膚が裂け、血管が凍り、砕けるように崩れていく。
「嘘……私の黒炎が、こんな一瞬で──」
「あなたの過去や事情なんて、本当は心の底からどうでも良いんです」
玲奈の周囲、凍てつく空気が一層濃くなる。
足元に広がる氷は青く澄み、美しく輝きながら、死を孕む冷気を帯びていた。
「私は翔太郎を守る為なら、あなた如きに負ける理由がありません」
その声に、迷いは一切なかった。
冷たさは氷のせいではない。
彼女の意志が、世界そのものを凍てつかせていた。
「あなたがどんな力を持っていようと──彼に手を出そうとしたその時点で、もう終わっているんですよ」
玲奈の瞳には、カレンすら映っていない。
見ているのは、ただ一人。
彼の笑顔、彼の声、彼の存在──。
その想いの力こそが、今の玲奈を限界の先へと押し上げる核だった。
氷結が走るたび、空気は静かに死んでいく。
それはまるで、世界が玲奈に跪いているかのような──冷たく、美しく、恐ろしく、圧倒的な絶対零度の力だった。
「舐めないでよね……!」
焼けただれた唇を歪め、カレンが血反吐を吐きながら吠える。
「まだ……まだ燃やせる! 私は、もっと──!」
凍結したはずの両腕が、ゆっくりと持ち上がる。
その手のひらから、黒く淀んだ火の塊が漏れ出した。
「まだ、終わってない……あたしが……あたしこそがッ……!!」
黒炎。
──いや、それはもはや、炎ですらなかった。
力の循環が崩れ、理すら捻じ曲がったその現象は、火でも光でもない。
壊れた異能が暴発する寸前の音を立てて脈動する。
「うあ、あ、あああああああああああっ──!」
叫びながら、カレンは力を込めた。
凍傷に裂けた筋肉が悲鳴を上げ、骨が軋む音すら聞こえた。
だが──それでも尚、カレンは止まらない。
「まだ、終わらない……! 終わらせない……! このまま負けるくらいなら──!」
だが、次の瞬間──黒炎は霧のようにふわりとほどけて、虚空に消えていった。
異能力の核心が、綻びとともに瓦解したのだ。
「──あ、れ……?」
実力以上の異能力を瞬間的に発動すると起こる現象。
それが、己の限界を超えて黒炎を無理やり発動しようとした代償である。
カレンの目から、光が抜けていく。
全身の力が抜けた。
指先から足元まで、ひとつずつ命が削ぎ落とされるように、崩れていく。
(わたし、なんで……)
膝が折れ、倒れ込む。
凍った地面に頬を打ちつけながらも、彼女の瞳だけは空虚に瞬いていた。
(なんで、あんなに……欲しかったんだっけ……)
力。復讐。執着。
全てを燃やして得たはずの黒炎は、いとも容易く、玲奈の冷気によって凍り付かされた。
この場にいる二人は知らない話だが、かつて雪村真が鳴神翔太郎と組み手を行った際、彼も実力以上の異能力を発揮しようとして、空中で吹雪を霧散させた事がある。
──まるで、あの日の雪村のように。
過剰な憎悪と執念を燃料にして、限界を越えて力を引き出し、自らの内側から崩れていく敗北者の姿。
「…………やだ、……負けた、くない……っ」
かすれた声を最後に、カレンの意識は途切れた。
地面に黒く焦げた衣が沈み、その上に──ひとひらの雪が、静かに降り積もる。
凍てついた大地に、カレンは崩れ落ちていた。
かすかに肩が揺れているのは、まだ生きている証か、それともただの残滓か。
玲奈は、何も言わずにその姿を見下ろしていた。
その瞳に浮かぶのは、憐れみでも、怒りでもない。
ただ、冷たい結論だけ──命の帳尻を合わせるという、機械的な処理の意志。
「全てを捨てて得た異能力と言っても、呆気ないものですね」
吐き捨てるような声だった。
だがその声は、どこかおかしかった。
「私、ちゃんと覚えてます。あなたが、私を元の空っぽな人形に戻すために、翔太郎を殺すって言ったこと」
あの瞬間、玲奈の感情が決壊した。
それだけで、彼女の中の“理性”という名の鎖は、あっさりと断ち切られた。
「アリシアさんの元親友でしたっけ」
ぞくりとするような笑みが、玲奈の口元に浮かぶ。
冷笑とも皮肉ともつかない声が、静かに大気を震わせる。
「再び動かれても困りますし、殺されそうになったから仕方なかったと言えば、翔太郎も許してくれますよね」
氷の刃が玲奈の手に形成される。
その輝きは、もはや美しさを通り越して、禍々しさすら纏っていた。
ゆっくりと振り上げられる右手。
刃先がカレンの喉元を狙う。
「ふざけた理由で翔太郎を殺すなどと口にしたことは、あの世で後悔してください」
──異常だった。
理性を保っていたはずの玲奈が、まるで別人のように思考を捨て去っている。
誰よりも冷静だった彼女が、今はただ一人、怒りと狂気を氷に変えて、静かにトドメを刺そうとしていた。
「私が、翔太郎を守るんです。彼が、いつも私を守ってくれるみたいに」
氷刃が、空気を裂く。
「おーいっ! 玲奈、無事ー!?」
場違いな、あまりに間の抜けた声が空から降ってきた。
玲奈の手がピクリと止まる。
氷刃は、その一瞬で蒸発するように霧と消えた。
空間の切れ目に、ふわりと浮かぶ鏡のようなゲートが開き、そこから──淡いローズゴールドの髪をふわふわと揺らしながら、赤い瞳の人形が姿を現す。
ソルシェリア。
その足元を蹴るようにして、少年と少女が飛び降りてくる。
──鳴神翔太郎。
そして、アリシア・オールバーナー。
「翔太郎……?」
玲奈は咄嗟に肩を引いた。
それは恐れや戸惑いではない。
見られてはいけない感情を、咄嗟に押し隠す羞恥にも似た反応。
「カレン!」
アリシアの悲鳴にも似た声が、凍てついた空気を割った。
彼女はすぐに駆け寄り、カレンの傍に膝をつく。
その表情には、かつての絆の名残がありありと浮かんでいた。
「玲奈! 大丈夫か!?」
翔太郎もまた、玲奈に向かって駆け寄る。
その声に、玲奈の刃が止まったことに誰もまだ気づいていない。
玲奈は視線を伏せたまま、ふっと小さく息をついた。
氷刃はもうない。
ただの右手だけが、冷たい空を切っていた。
(……命拾いしましたね)
その呟きは、声にはならなかった。
けれど確かに玲奈の心の奥で響いていた。
冷えきった地面を、玲奈はそっと背を向けて歩き出す。彼女の背後では、アリシアが必死にカレンを揺り起こし、翔太郎が安堵の入り混じった目で玲奈に駆け寄った。
空気の冷たさが、戦いの終わりとそれでも残る何かの始まりを、そっと告げていた。