第二章32 『実験場』
氷の床を慎重に歩きながら、二人は無言のまま地下通路の奥へと進んでいく。
──そして、その先にあったのは、本当に地下施設なのかと見間違うほどの大きな広間。
「っ……」
視界が開けた瞬間、思わず玲奈が息を呑んだ。
そこには、薄暗い照明の中でずらりと並ぶ水槽の列。
細長いガラスの筒が、左右の壁沿いに等間隔で設置されていた。
中は、ぬめりのある緑色の液体で満たされている。
光が届ききらないその底に──何かが沈んでいた。
玲奈は目を凝らした。
その一体目の水槽に、顔を寄せるようにして中を覗き込む。
──人だった。
人の形をしている。
だがその皮膚は煤けたように灰色に染まり、指の先から崩れかけていた。
目を閉じ、まるで眠っているかのように動かない。
いや、既にソレは、二度と目覚めないものなのだと──直感が告げていた。
「これ……全部、人……?」
ソルシェリアが思わず呟く。
水槽の中には、ほとんど同じような姿をした死体が一人ずつ沈められていた。
男女の区別もつかないほどに劣化し、骨のように痩せ細り、灰をまぶしたように乾いている。
玲奈の腕に、ひやりと冷たい汗が滲んだ。
先ほどまでの冷静さとは裏腹に、背筋に粟立つような不快な感覚が、今にも肌を突き破りそうになっていた。
(……何、これ……)
この地下通路の奥に、なぜこんなものが?
誰が、何のために──これほどまでの数を、わざわざ液体に沈め、並べている?
気づけば、水槽は十数列。
どこまで続いているのか、奥の闇は底を見せない。
玲奈とソルシェリアは、思わずその場で足を止めた。
まるで何かを見てはいけないものを覗き込んでしまったような、得体の知れない悪寒が、二人の間を静かに通り抜けていった。
「まさか、さっきのゾンビみたいな奴らって……」
沈黙を破ったのは、ソルシェリアだった。
その声には、信じたくないという戸惑いと、得体の知れない不快感がにじんでいる。
玲奈は、無言のまま水槽のひとつに手を添える。
ぬるりと曇ったガラス越しに、崩れかけた顔がこちらを向いていた。
その唇は半開きになり、かすかに何かを叫んでいるようにも見えた。
「……似てます。先程倒したモノと、骨格や体格がほとんど一致していますね」
玲奈の声も、低く落ちていた。
戦闘時の冷静さとは違う、冷や汗混じりの現実を直視する声だった。
「じゃあまさか、本当にこれ……生きた人間を、ゾンビに……?」
ソルシェリアが一歩後ずさる。
どこか冗談めかしていた口調が、今は完全に消えていた。
玲奈は無言でうなずいた。
「──この場所。どうやら、ただの埠頭じゃなかったみたいですね」
「まぁ……そもそも海に浮かぶ埠頭の倉庫に巨大な地下施設がある時点で意味分かんないし、訳アリな場所ってのは察してたけど」
ふと、玲奈の視線が水槽の奥にある部屋へと向いた。
金属の扉が半開きになっており、そこからちらりと見えるのは、試験台。
束ねられた無数のチューブ、凍結された血液パック、そして──大量の、ナンバリングされたカルテの山。
「何か実験設備のでしょうか?」
「うん。多分だけど、ここは……」
ソルシェリアは一度言葉を切って、口を引き結ぶ。
「ゼクス・ヴァイゼンの“新たな工房”ね。ヴァルプルギスの炉と同じ……人体実験のための」
「っ……!」
玲奈の目が大きく見開かれる。
吐き捨てるようなソルシェリアの断定に、彼女は思わず水槽の一つから目を逸らした。
玲奈は静かに、一枚のラベルに指を添える。
薄汚れたガラスの向こうには、変色した死体と共に、滲んだような手書きの文字があった。
──【No.212 / 推定年齢 16歳 / 女性 / 肉体損傷率 38% / 傷跡:顔面右側火傷】
「じゃあ、これって──」
「うん。ゼクスがここで、死体を作り出していた。もしくは、生きた人間をここに閉じ込め、意図的に変質させていた」
ソルシェリアの声が落ちるより早く、玲奈は口元を手で押さえた。
先程まで冷徹にゾンビを凍らせたその顔に、明確な恐怖が浮かんでいる。
「あの男……聞いてた話以上に、本当に狂ってるわね。アリシアが前にいた研究施設だけじゃ物足りなかったってワケ?」
玲奈もまた、水槽から目を逸らし、深く息を吐く。
だが、その時だった。
ふと、玲奈の視線が別の水槽へと滑り、ぴたりと動きを止めた。
──見覚えがあった。
ぼろぼろに焼け焦げたスカート、半分崩れた学生鞄の残骸、右手首のミサンガ。
玲奈は目を見開き、ひとつ、記憶を呼び起こす。
「ニュースで見ました。数週間前、住宅街で起きた火災事件……身元不明の少女の遺体として報道されていた特徴に一致しています」
「は?」
ソルシェリアが眉をひそめて覗き込む。
「まさか────!」
玲奈は小走りに他の水槽を確認し始めた。
一つ、また一つと──死体の特徴を見ていくごとに、言いようのない戦慄が背筋を這う。
火傷痕、溶けたメガネ、制服の断片──。
どれもテレビで報道された、放火事件の犠牲者たちと一致していた。
「全部、一致しています……! ここにいる人たち全員、都内の連続放火殺人事件で死んだとされていた人たちです」
声がかすれる。
「じゃあ、やはりあの放火現場は──」
「ゼクスがカレンにやらせたのね」
ソルシェリアが吐き捨てるように言った。
「奴が放火して、ゼクスは死体の灰を回収。最初から全部──この実験施設に移す為」
玲奈は、背筋を凍らせながら、水槽の奥にいる焼け焦げた少女に目を向ける。
「どういう技術かは分かりません。けれど、死体を……変質させて戦力に変えていたとしたら──」
「さっきのゾンビたちは、コイツらの成れの果てってことね……」
ソルシェリアが呟いた声は、怒りとも怯えともつかぬ震えを帯びていた。
青ざめた顔色のまま、彼女はなおも目を逸らさず、水槽の一体を睨み続ける。
その眼差しは──明確な敵意に変わりつつあった。
玲奈もまた、目の前の水槽に静かに頭を下げた。
掌を胸元に当て、ひとつ、深く息を吐く。
「……せめて、安らかに眠っていてほしいですね。これ以上、誰かに冒涜される前に──」
その祈りにも似た呟きには、怒りや悲しみ、あるいはただの責任感──あらゆる感情が入り混じり、何一つ明確ではなかった。
それでも、玲奈は言葉にする必要があった。
目の前に、命を弄ばれた人たちがいる限りは。
──しかし。
その静寂は、唐突に砕かれた。
「安らかも何も──とっくに死んでるわよ、彼ら」
耳元で囁かれたような甘い声に、玲奈とソルシェリアの背筋が同時に凍りついた。
生理的な嫌悪すら伴う、その声音。
「っ──誰!?」
振り向く間もなく、低く響くヒールの音が通路に鳴り響いた。
地下施設の闇から、ゆらりと姿を現す少女。
短く切り揃えられた金髪に、黒に近い深い青の瞳。
笑みを浮かべながら、まるで舞台に立つ役者のように。
「──カレン」
その名を呼ぶ玲奈の声には、怨嗟と怒気が滲んでいた。
「あら、玲奈ちゃん。私の名前、覚えてくれてたの? ……それとも、アリシアから教えてもらったのかしら?」
カレンは水槽のひとつにそっと手を添え、まるでそこに眠る死体が大切な宝物ででもあるかのように撫でた。
「死体もね、こうして保存しておけば、ちゃんと使い道があるの。死んだからって、もう意味がないなんて──誰が決めたのかしら」
「あんた……っ!」
ソルシェリアが低く唸り、反射的に構える。
玲奈もまた、手のひらに氷の粒を集めながら、目を細めた。
「カレン。この人たちは……あなたが焼いた犠牲者で、間違いないんですね?」
「そう思ってもらって構わないわ。だって事実よ。ニュースを見たから、私の痕跡を追ってここまで来たんでしょう?」
水槽の緑の液体に浮かぶ灰まみれの死体たちを背に、カレンは淡々と──しかしどこか誇らしげに微笑む。
「それに、この人たち……今じゃゼクスの可愛い素材。死んだ人間にだって、役割は残されてる。利用できるものは利用する。それって、異能力を研究する上では酷く合理的でしょ?」
ぞっとするような言葉だった。
玲奈は奥歯を強く噛み締め、目を逸らさずにカレンを睨みつける。
「あなた……本気で、そんなことを……」
「本気じゃなきゃ、こんなこと続けてないわ。あの日から、ずっとね」
玲奈の手元の氷が、軋む音を立てる。
そして──感情が臨界点を超えた。
「おかしいじゃないですか……! アリシアさんから聞きました。あなたも、ゼクスの実験に巻き込まれた被害者だったはずです。それなのに……どうして今も、あんな男に従ってるんですか!?」
怒声に近い声が地下の通路に響く。
玲奈の言葉には、どうしようもない感情が滲んでいた。
許せない。理解したくもない。
──でも、どこかで理解してしまいそうな気がして。
その全てが、怒りとして噴き上がっていた。
カレンは、そんな玲奈を見つめ、小さく笑った。
「……従ってる? 誰がそんなこと言ったの?」
まるで退屈な誤解でも解くように、カレンは言葉を続けた。
「私はゼクスの思想なんかに、これっぽっちも興味ない。ゼクスが何を目的に動いていようと、どうでもいいの。私はただ──あの男が用意する舞台を借りてるだけ」
そしてその瞳に、淡く鋭い光が宿る。
狂気ではなかった。
もっと深く、もっと冷たい何か。
それは執念──呪いにも似た、歪んだ情念だった。
「私こそが、真の“爆炎のプリンセス”なのよ」
玲奈の呼吸が、ほんの僅かに止まった。
「あの日、アリシアにすべてを奪われた私が、唯一この世界で証明できること。それは、私こそが成功例だったということ。焼け焦げて、崩れて、それでも──私がアリシアよりも上だったって、証明しなきゃいけないの」
その瞬間、玲奈の中で、怒りと困惑と恐怖がないまぜになった。
「……言っている意味が、まるで分かりません。そんなの、ただの妄執です」
「ええ、そうよ。妄執、執着、依存。全部分かってるわ。でもね、玲奈ちゃん」
カレンの声が静かになる。まるで囁くように、深い影を帯びて。
「人って、そこまでしないと立っていられないことがあるのよ。私には、アリシアを超える以外の生き方がない。過去も、彼女も、全部焼き払って、私の方が正しかったって……それを証明して、やっと“私”に、検体番号13番じゃないカレンになれるの」
玲奈は言葉を失い、視線を落とす。
理解できない。
彼女の言っていることは、何ひとつ分からない。
──だけど、それでも、心から思った。
「……私は、あなたを絶対に許しません」
玲奈は顔を上げ、その瞳は凍てつくように冷たかった。
「アリシアさんや翔太郎が、あなたと向き合おうとするなら、それは構いません。でも私は違う。あなたがどれだけの人の犠牲を積み重ねてきたか……それを思えば、どんな理由があっても、あなたの行為は許されない。大罪です」
一歩、玲奈は前へと踏み出す。
「ゼクスの命令じゃなく、自分の意思でやってきたのなら尚更です。私は、決してあなたを許さない」
静まり返る地下の空間。
その中で、カレンの唇が、ゆっくりと釣り上がった。
「そう。……それも仕方のないことよね」
カレンが、無言で右手を持ち上げる。
そして──指を、ぱちんと鳴らした。
その瞬間、地下の静寂が破られる。
ぶくぶくぶくと、不気味な気泡が次々と水槽の中で沸き立ち、培養液の色が一斉に濁った。
青白い照明に照らされた無数の水槽。
その中に沈んでいたはずの人影が、ゆっくりと瞳を開く。
鈍く光る、虚ろな目。
「──っ!」
ただの死体だったはずのそれらが、次々と水槽の蓋を突き破り──地下通路に這い出してくる。
「さっきのゾンビと、同じ……!」
ソルシェリアが目を見開いた直後、腐敗した肉の塊が呻きながら群れとなって押し寄せてきた。
だが、玲奈は一歩も退かない。
その視線は冷たく、揺るがなかった。
「どの道、私は最初からこうするつもりでした」
彼女もまた、静かに指を鳴らす。
直後、ゾンビたちの足元から──氷の蔓が音もなく伸びていく。
まるで意思を持ったかのように、瞬く間にゾンビたちの四肢を絡め取り、締め上げ、凍りつかせた。
「──この人たちの命を、これ以上冒涜するような真似は許しません」
玲奈の声が低く通ったのと同時に、冷気が奔った。
圧倒的な温度差が空間を支配し、凍結の波が一気にゾンビたちを包み込んでゆく。
呻き声が、次第に氷の中に閉じ込められて消えていく。
数秒後には、そこにいたはずのゾンビの群れが、ただの氷像へと変わっていた。
「凄い、一瞬で……!」
ソルシェリアが絶句する。
思わず後ずさるほどの光景だった。
目の前の少女が、何の躊躇もなく死者の軍勢を封じ込めたことが──信じられなかった。
そして、玲奈は静かに一歩、前へと進み出る。
「ここからは一対一でやりましょう」
その声は、カレンに向けられたものだった。
圧倒的な静けさが、再び地下通路を支配する。
玲奈はそのままソルシェリアに視線を向ける。
ほんのわずかに目元が緩み、彼女にだけ向けられた穏やかな声音で言った。
「……ソルシェリア。ここから先は私だけに任せてください。あなたは後ろで控えていてもいいし、もし可能なら、別のルートを探して翔太郎たちとの合流を目指してください」
だが、ソルシェリアは黙ったまま玲奈を見つめる。
数秒の沈黙のあと、吐き捨てるように言った。
「何言ってんのよ。翔太郎がいない以上、アンタに何かあったらまずいのよ。アンタが無茶して死んだら、私が一人でアイツに怒鳴られなきゃいけないじゃない」
小さく鼻を鳴らして、ソルシェリアは氷像の間をすり抜けながら言い放つ。
「……だから、私はここで待ってる。すぐ援護に入れる位置でね。何があっても、勝手に死なないでよ」
玲奈は、一瞬だけ目を見開いた。
けれど──すぐに柔らかな笑みを浮かべ、静かに、力強く頷いた。
冷たい空気がまだ残る地下通路。
薄氷の残響が足元を伝い、凍りついた死者たちが静かに沈黙している。
──その先、闇の奥で、カレンが変わらぬ笑みを湛えたまま立っていた。
両手のひらに、蒼き炎。
狂気と執念を宿した、それは見る者の本能に危険を訴えかける熱だった。
「玲奈ちゃんと会うのは、これで三回目ね」
「……ええ。今度こそ、決着をつけに来ました」
玲奈は静かに答える。
その眼差しに、恐れも迷いもなかった。
そして──左手を、すっと前へ。
指先が空を切った瞬間、空間に淡い光の粒子が舞い始める。
玲奈の背後に展開される冷気。
冷気が唸りを上げ、床を凍らせ、天井に霜が浮かび上がる。
「氷獣創成」
その言葉と同時に、氷の渦が地鳴りのような轟音を伴って巻き起こった。
吹雪の中心から、咆哮。
現れたのは──玲奈の背後に君臨する、圧倒的な存在感を放つ氷の龍。
全長は十メートルを優に超え、その身体には鋭利な氷結の鱗がびっしりと並ぶ。
蒼白のオーラを纏い、まるで生きているかのように目を光らせたその姿は、まさに氷の神獣。
圧倒的造形力。
パートナー試験で一時的に見せた三体同時造形とは比べ物にならない、単体特化の真骨頂。
玲奈の覚悟と技術が結晶となって現れた、氷の化身だった。
「……やっぱり素晴らしい才能に恵まれてるのね。妬ましい」
カレンが低く呟く。
だが、彼女もまた一歩も引かない。
次の瞬間、両腕を広げ、激しく空気を焼き尽くすほどの蒼炎を噴出させる。
炎が唸りを上げる。
冷気と拮抗する、純粋な破壊の熱量。
火力という概念そのものを塗り替える、凄まじい圧。
氷結と蒼炎。
凍てつく静寂と、灼けつく狂気。
──そして、玲奈の視線が鋭く前を捉える。
「行きなさい! 氷龍!」
その一言で、氷の龍が咆哮を上げた。
蒼い軌跡を残しながら、通路を貫くように──凄まじい速度で、敵陣へと飛翔した。
決戦の幕が、いま切って落とされる。