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雷鳴のラストピース  作者: 雨車狸
第二章 『爆炎のプリンセス』
65/92

第二章31 『第五湾岸埠頭』

 海風が冷たく肌を刺す。

 東京湾沿い、地図からも消えかけた埠頭は、まるで時間に取り残されたような場所だった。


 打ち捨てられたコンテナが無造作に積み上がり、崩れかけたフェンスには錆が浮いている。

 舗装も割れ、雑草がアスファルトを突き破っていた。かつて人の往来があったことすら、もはや信じられない。


「……ここが、第五湾岸埠頭」


 翔太郎が低く呟く。

 目の前には、街灯に照らされた無機質な空間が広がっていた。


 灯りはある。

 だが、どこかおかしい。

 不自然に間隔の広いオレンジの街灯が、闇にぼんやりとにじむだけで、照らされているのに視界は悪かった。


 周囲には人気がない。静寂が支配していた。

 風が鉄骨を鳴らし、遠くでカモメが鳴いている。


 その音すら、不気味だった。


「……第五湾岸埠頭は、もうだいぶ使われていない。名目上の管理者はいるけど、誰かが出入りしてる気配も無かった。事実上の無法地帯ってワケよ」


 ソルシェリアがぽつりと呟く。

 その声には、珍しく緊張が滲んでいた。


「そして、この先の巨大倉庫。蒼炎の痕跡はそこに続いてる。アタシの異能力でも確かめた。間違いない」


 そう言って指差した先には、闇に沈んだ巨大な影。

 まるで巨大な棺のように、無言でそこに佇んでいた。


 倉庫は三階建てほどの高さがあり、金属製の壁面は所々錆び、風で軋む扉がわずかに開いていた。

 その隙間からは、ほのかに鉄とオイルの混ざった臭いが漂ってくる。


「ここ、本当に誰もいないんですか……?」


 玲奈が思わず声を潜める。

 彼女の手は、翔太郎の服の端を小さく掴んでいた。


「分からない。ただ……能力者っぽい気配は、する」


 翔太郎は警戒を強めながら、そっと右手を添える。


「お嬢様。くれぐれも無理はなさらぬように」


 後ろからフレデリカの静かな声が届く。

 その声音は落ち着いていたが、視線は鋭く倉庫の入り口を見据えていた。


「うん。それでも、進む。ここまで来て、立ち止まる意味なんてない」


 アリシアが静かに言った。

 感情のない声音。

 だが、その言葉の奥には、確かな意志が宿っていた。


 そして──五人は、静かに倉庫へと足を踏み入れた。


 その瞬間、空気が変わる。

 まるで空間そのものが歪んだように、ぴたりと空気が凍りついた。


 辺りは暗く、照明は一切なかった。

 だが、倉庫内にはうっすらと“誰かの視線”が漂っている気がした。


 まるで、足音ひとつ立てるたびに、誰かがこちらを見ているような──そんな、底の知れない緊張感。


「……本当に、ここにカレンが?」


 玲奈が囁く。


「──いる。カレンかは確定してないけど、間違いなくこの使われてない倉庫に誰かいるよ」


 翔太郎の声は確信に満ちていた。

 倉庫の奥、鉄骨の階段の先にうっすらと光がある。




 ♢




 重い沈黙を切り裂くように、倉庫の奥から乾いた足音が響いた。

 金属の床を踏み鳴らす音。

 そのリズムは、どこか踊るように軽やかで──異様に耳障りだった。


「やぁ。こうして会うのは五日ぶりかな、実験動物の諸君」


 暗闇の中から、最初に現れたのは、白衣のようなコートを翻す男だった。

 その場にいた全員が、その顔を見た瞬間──息を呑んだ。


「──ゼクス!」


 灰色のオールバック。

 片目だけにレンズのついた奇妙な眼鏡。

 口の端を歪めて笑うその男──ゼクス・ヴァイゼンは、まるで見世物小屋の道化のようだった。


「やっぱり、ここはお前の拠点だったのか」


「どうやって我々の居場所を突き止めたのかは知らないが、実を言えば、こちらからそろそろ“会いに行こう”と思っていたところでね。タイミングとしては申し分ない。あれからの経過が気になっていたんだよ。いやぁ、みんな元気そうで何よりだ。今回は……前回よりも、もっと良いデータが取れそうだ」


「……まだデータがどうとか、そんなこと言ってんのかよ。今度は逃げられると思うなよ」


 翔太郎の声音は低く、害意を孕んでいた。

 全身に眩い雷が包まれる。

 しかし、ゼクスはそんな敵意を面白がるように笑った。


「ほう。相変わらず威勢がいいじゃないか、雷使いの少年。だがな──理性より怒りを優先するようじゃ、被験体としての価値はたかが知れている。その点、キミは検体番号12番を見習うべきだよ。冷静で、沈着で、実に優秀だった」


「……っ!」


 そう言って、ゼクスの爬虫類のようなギョロついた目が隣にいるアリシアを見た。

 覚悟を決めていた筈のアリシアも、いざゼクス当人を前にすると、怯えは隠しきれていなかった。


 乗り越えようと思っていても、かつての恐怖が、記憶の底から這い出してくる。


「アリシアは、お前の玩具なんかじゃない」


 翔太郎が一歩踏み出す。

 だがゼクスは、まるでそれすら観察対象であるかのように目を細めた。


「さっき、キミはワタシに“逃げられると思うなよ”と言ったね。だが……キミたちは、本気でワタシが追い詰められてるとでも思っているのかい?」


「お前の異能はともかく、カレンの異能の種は割れてる。放火現場に残っていた蒼炎の痕跡を辿れば、行き着く先はここしかなかった。学園の警備にも連絡済みだ。今回は──詰んでるのはお前の方だろ」


「なるほど、なるほど……あっはっはっは! 本当にキミたちは、学生らしくて微笑ましいねぇ。零凰学園の“警備”など、まだそんなものに希望を託していたとは」


「たとえ警備が役に立たなくても、俺たちはお前を──ここで止める」


「ふむ……勇ましいのは良いことだ。でも、13番に放火を指示した時点で、いずれ足がつくことぐらい分かっていたよ」


「──やっぱり、あの放火はアンタがやらせたの」


 ゼクスの言葉に、アリシアから怒気の包まれた非難が飛ぶ。

 彼女から話しかけられたことが嬉しかったのか、ゼクスは上機嫌に自身のオールバックを撫でた。


「さすがは爆炎のプリンセス。その聡明さは相変わらずだ。きっと、ニュースで事件を見て、犯人が13番だと察し、火災現場を下見し、キミにしか気付けない痕跡を辿ってここまで来た……そんなところだろう?」


 全てを読まれていた。


 こちらが追い詰めたと思っていたのに、ゼクスの態度は終始余裕だった。

 まるで、自分たちこそが罠にはまっていると言わんばかりの──悪辣な笑み。


「それにしても、少し驚いたよ。キミと12番、二人だけで来ると思っていたのに……氷嶺玲奈くん、それにその他部外者まで連れて来るとは。随分と慎重になったものだね?」


 ゼクスの視線が、玲奈・フレデリカ・ソルシェリアの三人に向く。

 その視線は敵意というより、観察者の冷淡さに近かった。


「及び腰になって、数で固めに来たというわけかい?」


「勘違いしないでください。翔太郎とアリシアさんについて来たのは、私たちの意志です。誰かの命令ではありませんし、彼らが臆病だからでもありません」


 玲奈が毅然と告げる。

 瞳はまっすぐ、ゼクスを見据えていた。


「ふむ。そうかそうか。それなら──まさしく“怪我の功名”だな」


「……怪我の功名?」


「本来の計画ではね、雷使いの少年と12番をこの埠頭に誘い出し、その隙に氷嶺玲奈くんの身柄を“確保”する予定だったのさ」


「──っ!」


 翔太郎の顔が一瞬、強ばる。


 本来、彼は玲奈たちをこの場所には連れて来るつもりはなかった。

 危険だからと、オールバーナー邸に残っていてほしいと願ったのは、あくまで彼女たちの安全を思ってのことだった。


 けれど、結果的に──玲奈たちが同行したことによって、その目論見は潰された。

 つまり……偶然ではなく、ほんのわずかな選択の差が、玲奈を守る結果に繋がっていたのだ。


「ふふ、想定外も、時には予想以上のデータをくれる。ワタシとしては、むしろ歓迎すべきかな──全員、揃ってくれて、ありがとう」


 ゼクス・ヴァイゼンはにやりと笑った。

 その顔は──これから何かを始めようとする者の顔だった。


 彼は笑いながら肩をすくめる。

 その瞬間に翔太郎が、走り出した。


「──雷閃っ!」


 雷鳴のように叫び、閃光を纏った翔太郎が地面を蹴った。

 標的はゼクス──アリシアの過去を踏みにじり、今もなお悪びれずに実験と称する男。


「待って!」


 その背に、アリシアが叫びながら駆け寄る。

 翔太郎の怒りを止められるのは、自分しかいない。

 そんな焦りと信念だけが、彼女の足を突き動かしていた。


「お嬢様、飛び込んではいけません! 罠の可能性が──!」


 だが、その後をもう一人の少女が追っていた。

 長い髪をなびかせ、瞳に強い決意を宿したフレデリカ。

 彼女もまた、この場に漂う異様な気配に気付きながらも、二人を放ってはおけなかった。


 ──そして。


「いいねぇ。やはり、キミたちは面白いね」


 ゼクスが口の端を歪めて、笑った。


「さて、実験開始といこうか」


 パキン。

 それは明らかに、地面の下で何かが外れた音だった。


「これは────っ!」


 アリシアの叫びと同時。

 地面が、裂けた。


 雷鳴のような衝撃音とともに、翔太郎とアリシアの立っていた足元が大きく開く。

 それだけではない。

 フレデリカの進路も、玲奈とソルシェリアが立っていた場所も──まるでタイミングを合わせたかのように、地面が崩れ、深く、深く、口を開いた。


「しまっ──」


 咄嗟に玲奈が叫ぶが、身体はもう宙に浮いていた。

 冷たい地下の闇へと、彼女たちは為す術なく落ちていく。


「玲奈っ!」


 急加速を辞めて、咄嗟に背後の玲奈を見る。


 その場にいる全員の声が、交差する。

 叫びも、悲鳴も、地底へと消えていった。


 直後、カシャンと。

 金属製の落とし戸が閉じる音が、やけに静かに響いた。


「ふふっ、実に素晴らしい……! やはり、即興の観察は最高だ。データを取るには、混乱こそが一番。さぁ、見せてくれたまえよ。キミたちの異能の輝きを!」


 残されたのは、オレンジ色の街灯に照らされた埠頭と、月明かりの下で狂気的に笑うゼクス・ヴァイゼンの姿だけだった。




 ♢




「アリシア!」


「──ひゃっ!?」


 硬質な空間に、雷の火花が閃いた。


 落下の衝撃に包まれるその直前、翔太郎は反射的にアリシアの身体を抱き寄せ、雷閃を纏う。


 空気を裂き、電流が足元から走る。

 着地の寸前、雷が爆ぜて着地の衝撃を相殺した。


 湿った空気。

 ほとんど光のない地下。

 天井は高く、かすかに聞こえる水音が不気味に反響している。


「アリシア、大丈夫か!?」


 すぐさま彼女を離し、その身に異常がないか確認する翔太郎。

 だが、アリシアは息を整えながらも、彼をじっと見据えた。


「私なら平気」


「そうか……良かった」


 呻きながら身を起こした翔太郎は、まず周囲を見回した。

 アリシアがすぐ傍にいる。

 だが、それ以外の姿は見えない。


「玲奈……?」


 ──玲奈の姿が、ない。


「──玲奈!」


 翔太郎は立ち上がり、叫んだ。

 その声は虚しく、冷たいコンクリートの壁に吸い込まれていく。


 翔太郎は肩で息をしながら、荒々しく周囲を見渡す。


「どこだ、ここ……!」


 鉄と埃の臭いが鼻を刺す。

 コンクリート打ちっぱなしの地下空間。

 ほんのわずかな非常灯だけが、生ぬるい空気の中にかすかな光を灯していた。

 閉塞感、沈黙、そして不気味な静けさが支配している。


「玲奈……! フレデリカさん! ソルシェリア!」


 名前を叫ぶ。

 だが応える声はどこにもない。

 反響するのは、己の声だけ。


「俺のせいだ」


 翔太郎は壁を殴った。

 拳から鈍い音が響く。


「俺が先に飛び出したから……!」


 カレンに放火をやらせたと話すゼクスを見た瞬間、血が逆流した。

 何も考えずに走り出した。

 それが分断の引き金になった。

 自分の愚かさが、仲間を、玲奈を危険に晒している。


 翔太郎は自分の頭を乱暴にかきむしった。


「──落ち着いて」


 強い声が飛んだ。

 翔太郎の視線が跳ねる。

 アリシアが翔太郎の肩を揺らし、顔を紅潮させている。


「今さら、責任感じても仕方ない。確かに考え無しに突っ走ったのは貴方。でも、今ここで冷静さを失ったら──全員、取り返しのつかないことになる」


「……っ」


 翔太郎が言葉を詰まらせる。

 アリシアは一拍、彼の様子を見つめたあと、少しだけ語調を和らげた。


「私だって、みんなが心配。でも……感情に飲まれて動くのは、ゼクスの思う壺。一瞬だけど、全員が落とし穴に落とされるのを見た。フレデリカは一人だったけど、氷嶺玲奈にはソルシェリアが付いてる」


 その声には、確かに感情が宿っている。

 怒りでも苛立ちでもない。

 切実な焦りと願いが滲む。


「私は貴方を頼りにしてる。貴方が冷静でいてくれないと、今の私に、他の誰を頼ればいいの?」


 翔太郎は拳を握りしめ、数秒だけその場に立ち尽くした。

 そして、ようやく息を吐くように顔を上げる。


「……ああ、分かった。悪かった。騒いでる暇あったらみんなを探しに行かないとな」


「なら、まずはここから脱出しよう。上の状況を見極めるのはそれから」


 翔太郎は頷き、雷光を纏い直した。

 彼の目には、迷いはもうなかった。




 ♢




 床が崩れ落ちたのと同時に、玲奈は鋭く息を吸った。

 咄嗟に隣にいたソルシェリアの身体を抱き寄せ、その小さな体を守るように自分の胸元に収める。


「きゃっ……!? ちょっ、急に何!?」


「動かないでください。下、見えませんから」


 玲奈は落下の感覚を感じつつ、頭上に残響するゼクスの不快な声を無視して手を掲げた。


 指先から紡がれた冷気が空間に走る。

 天井から地下へと伸びる氷の滑走路が、瞬く間に形成されていく。


「良し、これなら……」


 玲奈はそのまま氷の滑り台に着地し、重心を巧みに調整しながら、ソルシェリアを胸に抱えて滑り降りる。

 冷気が顔を切るように吹きつける中、彼女の瞳には一切の迷いがなかった。


 滑り台の終端。

 氷の縁に合わせて身体をひねり着地。

 スッと音もなく足を地につけ、長い黒髪を掻き上げた。


「ふぅ……」


 滑り終えた玲奈は、慎重に氷の上でバランスを取ったまま、ソルシェリアをそっと降ろした。


「大丈夫でしたか?」


「あんた、結構凄いのね……」


 ソルシェリアがぽつりと呟く。

 その顔には驚きと、わずかながら安堵の色が浮かんでいた。


「氷の造形は、翔太郎の動きに合わせるためにたくさん訓練しましたから」


「造形もそうだけど、ビックリしたのは身体能力の方よ。あんた、本当に人間……?」


 玲奈は微かに笑みを浮かべたが、その目は冷静に周囲を見渡していた。


「氷の異能力で多少の補強はしていますが、これでも翔太郎の方が圧倒的に上ですよ。私は支える側ですから」


「支える側ね。……ふーん、なるほど」


 ソルシェリアはその言葉に妙に納得したように頷いたが、視線はすでに次の危機に備えるように、警戒の色を宿していた。


「静かですね。ここは地下でしょうか」


「うん。でも、普通の地下じゃない。空気が……重い。温度も湿度も不自然よ。何か、仕掛けがあるわ」


 玲奈は目を細め、冷気を散らしながら霧のような視界を切り開く。

 その手の動きはごく僅かで、まるで見えない何かを撫でるようだった。


 不意に彼女は肩越しに振り返る。


「とりあえず合流を目指しましょう。翔太郎たちが無事だといいんですが」


 その声音には、普段よりほんの一瞬だけ感情が滲んでいた。

 ソルシェリアはそれを聞き逃さなかった。

 視線をすっと玲奈に向け、皮肉っぽく笑う。


「アンタ、分かりやすいのね」


「……何がです?」


「その声。翔太郎の話になると、一段階くらいトーンが変わってんのよ。ふふ、へぇ……そんな顔するんだ」


 玲奈は一瞬だけ黙り込んだが、否定はしなかった。


「……やられたわね。翔太郎とアリシアが離れた瞬間に床ごと落下するなんて。ゼクスって奴は、だいぶ手の込んだ仕掛けを作ったのね」


「ええ。あの落とし穴も、灰の能力で恐らく隠蔽されていました。感触が……踏んだとき、まるで地面じゃなかった。灰の層で覆われて、衝撃を吸収していたように思います」


「そんな細工までできるの? 灰って、ただの粉みたいなもんじゃないの?」


「ゼクスの能力は操作に寄ったタイプでしょう。構成と圧力を自在に変えるなら、固めたり柔らかくしたりもできる。足元の感触が変だったのも、そのせいです。靴の裏、灰がびっしり付着してますよ」


「……最悪な能力ね。こっちの感覚を一切信用できなくなるなんて」


「加えて──空気まで濁ってる。もしかしたら、灰を空気中に紛れさせて、呼吸や視界にも影響を与えるつもりかもしれません」


「……ほんっと、性格が悪いわね。戦うっていうより、弄んでるみたい」


「ええ。ゼクスは恐らく、自分のフィールドに私たちを招き入れたんです。観察するために」


 ソルシェリアは鼻を鳴らした。


「最悪。戦うより気分が悪いわ。玲奈は平気なの?」


「……翔太郎が危険かもしれないのに、気分の話なんてしていられません」


「ふーん……」


 玲奈の答えに、ソルシェリアはほんのわずかに笑みを浮かべた。

 その目に宿るのは、皮肉でも呆れでもない。

 わずかな敬意と──共闘者としての信頼だった。


「いいわ。とっとと合流して、あのゼクスって奴、ぶん殴ろう」


「ぶん殴るのは、翔太郎の役目です。私はそのための道を作るだけ」


「……ホント、翔太郎を立てるところは徹底してんのね。あんた」


 そう呟くソルシェリアの口調は、どこか感心しているようだった。




 ♢




 玲奈とソルシェリアが無言のまま、足音を殺して進む。

 だが、先の曲がり角で足を止めた瞬間──。


「……来ます」


 玲奈が微かに眉を動かした。

 その直後──前方の通路の暗がりから、ぞろり、と不快な擦過音が響く。


 何かが、這うようにして近づいてくる。

 そして次の瞬間──壁の影から這い出てきた者たちを見た瞬間、玲奈は思わず息を呑んだ。


「──な、何ですか……これ……!」


 彼女の声が、かすかに震えた。

 ソレは、明らかに人間ではなかった。


 皮膚は腐り落ち、白骨が露出し、全身にねっとりとした灰が貼りついている。

 目は焦点を失い、涎を垂らしながら、ただ前に進んでくる。


「じょ、冗談じゃないわよ……! 何なのよこれ、完全にゾンビじゃないの……!」


 ソルシェリアが思わず玲奈の背中に隠れるようにして声を上げる。


 だが、逃げ場はない。

 ゾンビは一体だけではなかった。

 通路の奥、側面の壁、さらには天井までも──灰に覆われた死者たちが、ずるりずるりと現れてくる。


「嘘……どこから……!」


 玲奈は足を半歩引き、無意識のうちにソルシェリアの前に立つ。


「全部、灰……ゼクスの灰に操られてるんです……! 死体が……!」


「はぁ!? バカじゃないの!? いくら汎用性高いからって死体を操る異能力なんて聞いたことないわよ!」


 ソルシェリアが動揺を露わに叫ぶ。

 その恐怖の色は、玲奈の目にもはっきりと映っていた。


 だが──その手が、静かに宙を払った。


「っ……戦わなきゃ。ここでやられたら、翔太郎にも──会えない……!」


 氷の粒が空気中に舞った。

 玲奈の指先が微かに光を帯び、室内の温度が一気に下がる。

 張り詰めたような冷気が、彼女の足元から広がっていった。


「……ソルシェリア、下がっていてください」


「下がるスペースがないっての! ったくもう、マジでゾンビなんて聞いてないわよ……!」


 ソルシェリアが額を押さえて半ばヤケ気味に言い放つが、すぐに鏡を両手で構える。

 その表情には、恐怖と緊張、そして不本意ながらも戦闘に臨む決意が滲んでいた。


「来るわよッ、全方位──!」


 咆哮とともに、ゾンビの群れが一斉に雪崩れ込んできた。

 その刹那、玲奈の右足が静かに床を踏み鳴らす。


 バシュッ、と鋭い音が響いた。

 床下から突き上がった氷の棘が、最前列のゾンビたちの胸や頭を無造作に貫いた。


「あっ……」


 その瞬間、玲奈の表情が凍りついた。

 自分の手から放たれた殺意が、形を持って敵を穿った事実が、視覚として突き刺さる。


 振り払ったはずの手がぶるりと震える。

 氷に串刺しにされたゾンビの一体が、頭を半壊させながらも、かすかに動いた。


 まだ動くのか──それとも、死に損なっているのか。

 けれど。


(私……本当に今、人を──)


 死体であろうと、生前に意志があったものを殺したという感触が、胸の奥をじわじわと蝕んでいく。

 動揺が、手足の先から冷たく染み出してきた。


 ──その隙を狙ったかのように。


「っ……!」


 すぐ横から、焼け焦げたような臭気が迫る。

 半壊した顔面を持つゾンビが、怒りを滲ませるような呻きを漏らしながら跳びかかってきた。


 その掌には、赤々と燃える炎の異能力──。


「炎の異能力!?」


 ゾンビの掌から放たれた火球が、空間を灼くように赤く輝いた。

 その瞬間、玲奈の視界は鮮烈な光と熱に包まれた。


 ──まるで地獄の鬼火だ。


 焼け焦げた死者の歯茎。

 うめき声。

 逃げ場のない廊下。


 全身が硬直する。


(動けない──!)


 だが──。


「バカっ、ボーッとするなッ!」


 鋭い怒声が頭上から降ってきた。


 ソルシェリアだった。

 その手が玲奈のすぐ脇に突き立てられる。

 瞬間、展開された鏡面がギラリと鋭く光った。


 そして次の刹那──ゾンビの火球が鏡に吸い込まれるように滑り込み、反射するようにして火球を放ったゾンビの方向へと跳ね返された。


「っ……!」


 燃え上がった火がボウッと爆ぜ、ゾンビの身体ごと焼き崩して床に叩きつけた。


「アタシの鏡の能力は“反射”って言ったでしょ! 戦闘じゃカウンター専門なんだから、ちゃんと守りなさいよね……!」


 震える声でそう叫びながらも、ソルシェリアはふらつく足で前に出る。

 額には玉のような汗が浮かび、指先もかすかに震えていた。

 それでも、鏡はしっかりと構えられている。


 その背中に、玲奈は小さく頭を下げた。


「……ありがとうございます。おかげで助かりました」


 玲奈は小さく頭を下げた。

 だが、その声には微かな震えが残っていた。


 さっきの光景が、どうしても脳裏から離れない。

 凍りついたゾンビの骸。

 自分が生み出した氷で、頭を砕かれ、崩れ落ちた死体。


 ──人の形をしていた。

 それが、私の力で、無残に壊れた。


 吐き気がするほどの罪悪感。

 冷たい汗が背中を這い、指先がわずかに震えていた。


「ちょっと玲奈?」


 ソルシェリアの声が、すぐ傍で響いた。

 その声色には、かすかな戸惑いと焦り、そして苛立ちとは違う、別の感情が滲んでいた。


「アンタ、まさか今ので動揺してるの?」


 玲奈は返事をしなかった。

 視線の先には、さっき自分が凍らせて砕いたゾンビの残骸。

 灰と骨片の混じったそれは、もう人間だった面影さえ残っていない。


(──壊した。私が)


「今は戦闘中よ!」


 ソルシェリアの声が鋭くなる。


「そんなの一々見てたら、足止まるでしょ……! 止まられたら、次の火球でアンタごと吹っ飛ばされるんだから!」


 その言葉にも、玲奈は微かに顔を上げたきり、動かない。


「アンタさ、さっき言ったじゃない……ここでやられたら翔太郎に会えないって。あれ、本気なんでしょ!?」


 ──翔太郎。

 その名前を聞いた瞬間だった。


 玲奈の瞳に宿っていた靄が、ピシリと音を立てるようにひび割れた。


(翔太郎に、会えない……?)


 一拍。

 それはまるで、静かな地雷を踏み抜いたかのような、危うい沈黙。


 次の瞬間──


「……いや」


 玲奈が低く呟いた。


「いや。いや。いや」


 くり返すその声は、かすかに熱を帯びていた。


「そんなの……嫌です。絶対に、嫌……!」


 顔を伏せたまま、彼女の肩がかすかに震える。

 だがそれは、恐怖や後悔ではない。

 心の奥底から立ち上る決意の熱が、身体の芯から吹き上がっている証だった。


「私はこんなところで、終われない」


 顔を上げた玲奈の瞳が、雷のように光を帯びた。


 ──瞬間。

 その全身から、空気が変わる。


 さっきまでの迷いや恐怖を一瞬で断ち切るような、圧倒的な集中と殺意。

 氷のように冷たく、理性すら凍りつかせる視線。

 その奥に燃えていたのは──凍てついた、歪なほどの戦意だった。


「ここからはすべて、私が前に出ます」


 玲奈の声は低く、しかし凛として響いた。

 まるで命令のようなその宣言に、ソルシェリアが思わず数歩後ずさる。


「ちょっ、ちょっと……何その目、今の今まで泣きそうだったのに!」


 呆気に取られたように呟くソルシェリア。

 だが、玲奈はもう聞いていなかった。


 肩越しに見据えた先、迫り来るゾンビの群れ。

 そのどれもを、冷たく、鋭く、まるで邪魔者を見るような目で睨み据える。


(全部、片付けてみせます。……翔太郎に、追いつくために)


 ソルシェリアが思わず後ずさるほどに、玲奈の気配が変わっていた。

 それはまるで、数秒前まで怯えていた少女と、今そこに立つ戦う者がまるで別人であるかのように──。


 そこに、また一体のゾンビが玲奈へ向かって咆哮を上げ、血塗られた爪を振り上げる。


 玲奈は、ほんの僅かに目を細めた。


氷結領域コールド・ドミナンス


 呟いた瞬間──空気が凍った。


 音が、すうっと消える。

 目に見えぬ冷気が空間を満たし、ゾンビの動きが鈍る。

 視界が白く閉ざされ、彼らの灰色の皮膚には、ひび割れた氷の膜が張りつき始めた。


 玲奈が腕を横に払うと、地面から鋭利な氷の杭が連続して突き出し、次々とゾンビたちを串刺しにしていく。

 命ではなく、「動き」そのものを止める冷気。

 氷の領域は、まるで意志を持つように敵を一掃していく。


 ──数秒後。

 動くものは、一体たりとも残らなかった。


 冷気に包まれた通路は、まるで時間そのものが凍りついたかのような静寂に沈んでいた。


 先ほどまで獰猛に襲いかかっていたゾンビたちは、氷の彫刻のように動きを止め、霜の膜に包まれてその場に立ち尽くしていた。

 中には、頭部から貫かれた氷柱に刺さったまま、悍ましい形相で硬直しているものもいる。


「……っ」


 ソルシェリアが、小さく喉を鳴らす。

 それは恐怖ではなく、畏怖──目の前の少女が持つ力に対する、純粋な戦慄だった。


 あれほどの数がいたのに。

 それも、腐敗した死体とはいえ、異能力を使う個体まで混ざっていたというのに。


 ほんの数十秒。

 たった一人で、全てを制圧した。


「……凄い」


 小さな声が、鏡を抱えた唇から零れる。


 氷と灰がまだ漂う空気の中。

 玲奈はゆっくりと息を吐いた。

 白い霧のような吐息がふわりと舞い、静かに消えていく。


 その姿は、戦いを終えた英雄のようでもあり、恐るべき異能力の化身のようでもあった。


 ソルシェリアがその背中に目を奪われていると、玲奈がふとこちらを振り返った。


「……これでもう大丈夫です。敵は一掃出来ました」


 玲奈がそう告げたとき、あれほど通路を埋め尽くしていたゾンビの影は、ひとつ残らず姿を消していた。

 あたり一面に張り巡らされた氷の棘。天井から床まで凍りついた通路には、もう動くものはない。


 静かで、凛とした声音。

 震えは一切なかった。


 ただその奥に、確かにあった。

 誰かを守ると誓った者だけが持つ、炎のような意志。

 それが、玲奈という少女の纏う冷気の中心に、静かに燃えていた。


 ソルシェリアは言葉を失った。

 あれほど怯えていた少女が、今は凛然とした佇まいで敵を殲滅し、当たり前のように冷気を収めている。


(これが、零凰学園十傑の──第十席……)


 ゾンビたちは容赦なく凍りつき、砕け散った。

 それなのに、この少女の顔には感情の影一つ浮かばない。

 淡々と、玲奈は小さく視線を動かした。


「行きましょう。ここにいても、時間の無駄です」


 通路の奥を見据え、歩き出すその背中は、先程までとまるで別人のようだった。

 思わず、ソルシェリアはついていきながら口を開いた。


「……玲奈って、結構戦い慣れてるの?」


 玲奈は少しだけ間を置いてから、短く返す。


「A級能力者である兄と何度も模擬戦をやりました。実戦ではありませんが、それなりには」


 それだけ。

 それ以上は語るつもりがないという意思が、その口調にはっきりと滲んでいた。


 だがソルシェリアは、どうしても気になってしまった。

 玲奈が抱えているもの。

 戦場で急にあんなにも強くなれた理由。


「さっきまでとは、まるで別人じゃない。……アンタにとって、翔太郎って何なのよ」


 その問いに、玲奈は足を止めた。

 振り返らないまま、少しだけ顔を俯かせる。


「……今、そんなこと話す必要がありますか?」


 声は淡々としていた。

 けれど、そこに含まれる拒絶の温度は鋭く、ソルシェリアは一瞬だけ言葉を失う。


「でも──」


 それでも食い下がるソルシェリアに、玲奈はふうっと、小さくため息を吐いた。

 やがて静かに、だがどこか確信に満ちた声が返ってくる。


「……私の居場所ですよ。翔太郎は」


 その言葉には、理屈でも義務でもない何かが宿っていた。

 説明のつかない確信。

 世界の中に、たった一つしかないと信じて疑わない場所。


「世界に──たった一つだけの、私の居場所」


 ソルシェリアは、一瞬息を呑んだ。

 その目には、ほんのかすかに微笑のようなものが浮かんでいたのに──まるで、氷で削ったナイフのように、冷たくて鋭い何かが滲んでいた。


(アンタ、それ……)


 それがどういう意味を持つのか。

 この少女自身は、まだ気付いていないのかもしれない。

 けれど、第三者の目にはあまりにも明白だった。


 氷嶺玲奈という少女の中で、鳴神翔太郎という存在が占めるものは──常軌を逸するほどに、大きすぎた。


「……まあ、アタシがどう言ったところで関係ないか」


 ソルシェリアがぼそりと呟いた。

 それは、諦めとも、理解ともつかない声音だった。


「少なくとも、さっきまでよりはマシ。気を引き締めてくれるなら、それに越したことはないわ」


 どこか投げやりなようでいて、妙に現実的な判断。

 まるで、人形という立場から、感情を切り離したような言い方だった。

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