第二章30 『掴んだ手掛かり』
ゼクスの襲撃事件から数日が経った今も、学園島は依然として休校状態が続いていた。
当然の措置だった。
狙われたのは零凰学園の生徒──しかも、十傑と呼ばれる上位の女子生徒。
犯人が捕まらない限り、生徒たちの安全を保証することなど不可能だ。
だが、捜査は難航していた。
理由は明白だ。
ゼクス・ヴァイゼン──彼の操る「灰」の異能力は、あまりにも証拠隠滅に特化している。
現場に残るはずの痕跡すら消し去る異能の前に、警察も学園の警備部隊も決定的な手がかりを掴めずにいた。
その中で、翔太郎たちは別の角度から動き出すことを決めた。
──ゼクスの足取りを追えないのなら、彼と行動を共にしているカレンを追う。
彼女の異能力は「蒼炎」。
痕跡が視認しやすく、加えて最近、都内各地で立て続けに発生している放火事件との関連も疑われていた。
翔太郎、アリシア、玲奈、ソルシェリア、フレデリカの五人は、四日間にわたって都内を奔走することになる。
炎の痕跡を辿り、瓦礫の中から微かな異能の残滓を拾い集め、カレンの居場所や意図を探っていった。
調査は地道で、時に徒労にも思えた。
──そして、5月17日・土曜日の夜。
四日間にわたる放火事件の調査を終えた彼らは、いつものようにアリシアの屋敷──通称オールバーナー邸に集まっていた。
その日の会議は、いつになく空気が張り詰めていた。
それも当然だ。
ようやく調査に明確な進展が現れた。
♢
「……ここ四日間で調べた結果、やっぱり放火事件にはカレンが関わってた。複数の現場で、青い炎の痕跡が残されてた」
アリシアが静かに切り出す。
その目は端末の画面を見つめたまま、淡々と事実を積み重ねていく。
「そして、それらを時系列で並べ直して、痕跡の質と広がり方を解析した結果……特定の地点に痕跡が“戻っている”パターンが浮かび上がった」
「戻っているって、どういうことですか?」
玲奈が小さく首を傾げる。
「痕跡は拡散するものだけど、今回は例外。放火後に、異能の痕跡が集中して再び“同じ地点”に現れてる。普通じゃ起きない現象。つまり、それが“戻ってきた場所”──拠点だってこと」
アリシアは、手元のマップをみんなに見せながら言葉を続けた。
「ソルシェリアの“反射”と私の分析結果を重ねたところ、それが都内南部の海沿い──第五湾岸埠頭の一区画だと分かった」
「おおー、当てた!」
ソルシェリアが小さくガッツポーズを取る。
「異能の残滓を再構成して時間を巻き戻すのって、正直めっちゃ神経使うんだけど……アタシの鏡に映ってたのって、あの埠頭に何度も人が出入りしてた痕跡だったのよね」
「しかもその出入りのパターン、明らかに単独じゃなかった。複数人が、ある時間帯に集中して“短時間だけ”集まって、すぐに消えてる。異能の種類や構造、足跡の間隔と重なり方……それらの特徴を照らし合わせて、少なくとも一人はカレンである可能性が高い。カレンの炎には特有の“熱痕”があるから、判断は難しくなかった」
「じゃあ、そこが……」
「少なくとも、カレンが拠点にしていた場所であることは確か。今もそこにいるかは分からないけど、痕跡の濃さや頻度からして、つい最近まで使用されていた可能性が高い」
翔太郎が息を飲み、拳を握る。
「ようやく……ようやく、追いつけるかもしれないってことか」
アリシアは静かにうなずいた。
「ここまで来れたのは、ソルシェリアの反射があったから。私一人じゃ足跡を見つけるだけで終わってた」
「でしょー? もっと褒めてくれていいんだよ?」
「……助かった。素直に、そう思ってる」
「あっ、今の録音しとけばよかった!」
ふざけたような笑い声を上げながらも、ソルシェリアの目は真剣だった。
一人ひとりの力を合わせて、ようやく掴み取った情報。
──カレンの居場所。
そこから導かれる、ゼクスの輪郭。
いよいよ、次の一手が動き出そうとしていた。
♢
「ああ……場所は、うん。まあ、そんな感じで。……じゃあ、また」
会議が終わった後、翔太郎は屋敷の廊下に出て、一人で短く電話を終えた。
声を潜めていたのは、内容のせいだけではない。
妙に緊張していたからかもしれない。
通話を切ると、ホールへ続く扉の先から、軽い足音が聞こえてくる。
現れたのは、品のある黒のメイド服を纏った、一人の女性だった。
「フレデリカさん?」
「こんばんは、鳴神様」
フレデリカ・ノルディエン。
アリシアの忠実な従者にして、元・ローフラムの弟子の一人。
かつてアリシアが祖父を失った日から、長く彼女を支え続けてきた存在だ。
どこか淡く照らされた廊下の中、彼女は翔太郎の前で立ち止まり、静かに言った。
「少しだけ、お時間を頂いてもよろしいでしょうか?」
「えっ、あ、はい。どうしました?」
戸惑いながらも、翔太郎は自然と姿勢を正す。
思えば、こうして二人きりで言葉を交わすのは初めてだった。
いつもは玲奈やアリシアを挟んでの会話だったし、フレデリカ自身も一歩引いた位置で、学生たちのやり取りにはあまり立ち入らないようにしていた。
そんな彼女が、わざわざ自分に声をかけてきた──それだけで、少し不思議な感覚が胸をよぎる。
フレデリカは翔太郎の横に静かに立ち、廊下の窓越しに夜の庭を眺めた。
遠くの木々が風に揺れ、屋敷の灯りがガラスの向こうでゆらりと滲む。
「……お嬢様は、この一週間で大きく変わられました」
「え?」
翔太郎が反射的に問い返すと、フレデリカは少しだけ笑みを浮かべ、窓の外から視線を戻す。
「先ほどの会議をご覧になっていたでしょう? お嬢様が、皆の前で自ら情報を整理し、判断を下して先を導いた。……あれは、以前のお嬢様からは考えられなかったことです」
「確かに……先週までのアリシアだったら、何も言わずに一人で突っ走ってたかもしれないですね」
「ええ。ですが、それができたのは、貴方と氷嶺様がこの屋敷に来てくださったからですよ」
フレデリカの声は穏やかで、だがその芯には静かな感謝が込められていた。
「鳴神様が初めてこの屋敷に足を踏み入れたあの日……お手洗いから戻られた貴方と、お嬢様の顔を見たとき、私は直感しました。何かが変わったのだと」
「変わった……」
「ええ。お嬢様の目が、ほんの少し強くなっていたのです。それまで、どこか諦めきったような、何も信じていないような目をしていたのに。あの日を境に、ほんの少しずつですが、人の言葉に耳を傾けるようになった」
フレデリカは懐かしむように、微笑みながら語る。
「もちろん、全てはお嬢様ご自身の力です。けれど、変わるきっかけをくれたのは、紛れもなく貴方でした」
「いや、俺はそんな大したことは……」
翔太郎は、照れくさそうに頬をかきながら言った。
「ただ、アリシアが苦しんでるなら手伝いたいって思っただけですよ。なんだったら、偉そうなこと言ったことで、アリシアを無理矢理一押しさせちゃったのかなって思ってるぐらいです」
「その“一押し”がどれだけ難しく、どれだけお嬢様にとって貴重なものだったのか──本人には、分からないものです」
フレデリカの声音は、どこまでも優しい。
「私には、あの子がどれほど苦しみ、もがき、心を閉ざしてきたかが分かります。お嬢様は幼い頃から、誰にも心を開かずに生きることを自分自身に強要していました。……それが、自分だけが生き残ってしまった償いだと考えていたから」
「……」
「でも本当は誰よりも弱くて、誰よりも優しい子です。強く見せていたのは、きっと、誰かのために傷つきたくなかったから。──それを解いてくださったのは、貴方でした」
翔太郎は目を伏せ、少しだけ考えるように沈黙した。
「アリシアだって、自分で分かってたと思いますよ。逃げてるだけじゃ何も変わらないってこと。俺はただ、その時に一緒にいて、アリシアの言葉を聞いただけで……だから、やっぱり変われたのはアリシアの力です」
「そうですね。けれども私は、貴方に感謝しています」
そう言って、フレデリカは頭を深く下げた。
「お嬢様にとって“変わるきっかけ”は、何より尊いものです。今のアリシア様は、貴方と氷嶺様がいたからこそ存在している。だからこそ、こうして……私は、お礼を申し上げたかったのです」
頭を下げるフレデリカの姿に、翔太郎は慌てて言葉を返した。
「ちょ、ちょっと待ってください。頭なんて下げないでください。俺、本当に何も……!」
「その謙虚さが、皆の心を繋いでいるのだと、私は思います」
柔らかく、そしてどこか誇らしげに。
フレデリカはそう言って、そっと顔を上げた。
──今まで“支える側”だった彼女が、“支えてくれた相手”に贈った、ささやかな感謝の言葉だった。
「誰かのために動こうとするのは、簡単なことではありません。それは……昔も今も変わらず──」
「……昔?」
思わず、その言葉に翔太郎が反応する。
耳に引っかかった“昔”という一言。
フレデリカは一瞬だけ視線を遠くに向けたのち、穏やかに頷いた。
「ええ。……鳴神翔太郎様。鳴神家の四男にして、鳴神村災害の最後の生き残り。剣崎大吾に引き取られ、彼からの推薦で零凰学園に入学した。ですよね?」
「……え?」
名前と過去を並べられたその瞬間、翔太郎の呼吸が止まる。
ただの推測や調査ではあり得ない、正確すぎる言葉。
その目が、彼の奥深くに沈んでいた記憶を抉るように、静かに真実を示していた。
「な、なんでそれを……?」
困惑と驚きが混ざった声が漏れる。
彼の過去を詳しく話した相手は、ほんのわずかしかいない。
アリシアにも、玲奈にも、まだ語っていない部分すらある。
そんな記憶を、なぜフレデリカが知っているのか──その答えは、すぐに返ってきた。
「五年前。私は、日本でしばらく職を転々としていた時期がありました。その中で、剣崎様の孤児院『あじさい』に、短期間ですがヘルパーとして入っていたのです」
「……えっ?」
翔太郎がまばたきをする。
だが、確かにどこかで聞いたことのあるような記憶の片鱗が、彼の中で微かに疼いた。
「もちろん、当時の貴方は私のような通りすがりの1人のヘルパーを覚えていないでしょう。いつも、他の子供たちのことばかり見ていましたから」
「すみません……本当に、覚えてなくて」
「いえ、構いません。私もバイト感覚のようなものでしたし、覚えてもらおうなどとは思っておりませんでした」
フレデリカは笑う。
それは決して責めるものではなく、優しく懐かしむような笑みだった。
「私があの施設で見たのは──いつも、他の子供たちのことを気にかけていた貴方の姿でした。幼いながらも、自分が一番傷ついていたはずなのに、他の子の涙を拭って、眠れない子の隣に寄り添っていた」
翔太郎の喉が、音もなく鳴った。
「剣崎様はよく言っていました。『あいつは、もう充分傷だらけなのに、それでも誰かのために強くなろうとする』と。……当時の貴方はまだ、自分の異能力も満足に使えなかった。静電気を手のひらでバチッとさせては、嬉しそうに笑うような頃だったと記憶しています」
フレデリカの語る言葉が、まるで遠い昔の夢のように響く。
翔太郎自身の記憶には、もはや曖昧な風景。
けれど確かに、あの頃、彼はそうして毎日を生きていた。
「それでも、貴方は子供たちの間で自然とリーダーのように振る舞っていました。『翔太郎の言うことなら聞く』と、皆が口を揃えて言っていたんです」
「……あの頃のことは、あんまり覚えてません。でも……もし誰かの役に立ててたなら、よかったです」
静かに呟いた翔太郎の声に、フレデリカは微かに目を細める。
「ええ。貴方は、当時から変わっていません。苦しんでいる人を放っておけない。それは、誰に教えられた訳でもない、貴方自身の心の強さ」
フレデリカの声音は、感慨と敬意を内に秘めた穏やかなものだった。
「だからこそ、今──お嬢様の隣に立ってくださっていることを、私は本当に嬉しく思うのです」
その言葉には、慈しみと感謝が滲んでいた。
長くアリシアを支えてきた“姉”のような存在が、
かつて無垢な子どもたちの中心にいた“少年”に贈った、静かな賛辞だった。
翔太郎は、その言葉を真正面から受け止めるように、静かに頷いた。
夜の廊下に、しばし沈黙が流れる。
屋敷の外では木々が風に揺れ、窓硝子が淡くきらめいていた。
「ありがとうございます」
翔太郎はそっと口を開いた。
「今日、フレデリカさんと話せてよかったです。アリシアのことを、ちゃんと考えてくれてる人がそばにいたんだなって、それが分かって少し安心しました」
「いえ、私の方こそ。こうして直接お話できて、光栄でしたわ」
フレデリカは柔らかく微笑み、一歩だけ距離を取るように下がった。
そのまま静かに踵を返す……かと思いきや、廊下の途中でふと立ち止まり、背中越しにもうひとつだけ、言葉を残す。
「……そして今の貴方は、ちゃんと“強く”なりましたね」
「……え?」
「当時の貴方は、守りたいものがあっても、それを守る力が足りなくて……悔しそうな顔ばかりしていました」
フレデリカの声音はどこまでも穏やかで、しかしどこか懐かしさを含んでいた。
「でも今は違う。仲間を引っ張り、未来のために戦おうとしている。その背中に、私はもう“後悔”ではなく、“誇り”を見ます」
その言葉に、翔太郎は一瞬だけ言葉を失い──
そして、少し顔を赤らめながら、気恥ずかしそうに苦笑する。
「覚えてないのに褒められるのは、なんか照れますね」
「ふふ、構いません。私は覚えているので」
微笑みとともに、フレデリカは再び歩き出す。
その背はどこか軽やかで、安心したような静けさに包まれていた。
──記憶になくても。
確かに、あの場所にいた人がいる。
自分の歩みを、どこかで見守ってくれていた人がいる。
それを知れたことが、何よりも嬉しかった。
「……そっか。俺にも、ちゃんと原点って呼べる場所があったんだな」
夜風が、静かに彼の髪を揺らしていく。
その小さな風の音が、ほんの少しだけ温かく感じられた。
♢
──深夜。
既に日付は変わっており、今日は5月18日・日曜日。
太陽が昇りきる数時間前、静かな屋敷の一室に五人が集まっていた。
目指すは昨夜アリシアとソルシェリアが突き止めた都内湾岸の埠頭跡地。
カレンの痕跡が、最も色濃く残る“現場”だ。
翔太郎は一度だけ深く息を吸ってから、皆に視線を向ける。
「……みんな。今回は、俺とアリシアだけで行く」
唐突な一言に、その場の空気が一気に張り詰めた。
「はぁ?」
最初に声を上げたのは、ソルシェリアだった。
「何それ、ここまで来てアタシたちを置いていく気? ふざけてんの?」
彼女の顔には、驚きと呆れが半々といった表情が浮かんでいる。
翔太郎は口を引き結び、少しだけ視線を逸らしながら言葉を続けた。
「カレンの痕跡が複数回ある以上、あの埠頭はゼクスの本拠地かもしれない。罠が仕掛けられてる可能性が高い。敵もゼクスとカレンの2人だけじゃ無いかもしれないし、最悪、全滅する可能性だってある」
一拍、間を置いて。
「だから……みんなには来てほしくない。もし埠頭がゼクスの本拠地なら、危険すぎる」
それだけではなかった。
ゼクスとカレンの二人だけなら、翔太郎にはアリシアと二人で抑え込めるという自信があった。
だが──問題はその先にある。
もしゼクスが夜空の革命と繋がっていて、組織の正規メンバーが埠頭に待ち構えていたとしたら……その時は迷わずアリシアを連れて逃げるしかない。
正規メンバーは、政府からS級指定を受けた能力者たちだ。
ゼクスなど足元にも及ばない、異次元の強さを持つ存在ばかり。
そんな相手がいる可能性を考えるなら、翔太郎にとって、アリシア以外を連れて行く選択肢は最初からなかった。
「……私も、鳴神翔太郎と同じ考え。これ以上は誰も巻き込みたくない」
アリシアが静かに声を上げた。
翔太郎の隣に立ち、どこか沈んだ顔で俯きながら言葉を紡ぐ。
「今回は全て、私の責任。カレンをあんな風にしたのは私のせい。それにヴァルプルギスの炉のこともあったし、ゼクスを放置できない。だから……これ以上は──私たちで終わらせる」
その瞬間、凛とした声が部屋に響いた。
「いい加減にしてください」
言ったのは、氷嶺玲奈だった。
感情を抑えきれずに立ち上がり、強い視線で二人を見据える。
「……何度同じことを言えば気が済むんですか。私は翔太郎の隣で戦うって、もうとっくに決めてます」
その声音には、怒りと悔しさと、ほんのわずかな寂しさが滲んでいた。
「アリシアさん。あなたはこれ以上巻き込みたくないって言いました。なら聞きますけど──翔太郎は巻き込んでもいい人なんですか?」
「……っ!」
鋭い声が空気を切り裂いた。
アリシアがわずかに目を見開き、言葉を失う。
「あなたは今、翔太郎と一緒に死地に行こうとしてる。なのに私たちは、危ないから残れ?……随分と都合のいい話だと思いませんか」
玲奈の声には冷静さの裏に明確な怒りがあった。
言葉の棘はアリシアに向けられているだけではない。
翔太郎自身にも向けられていた。
「玲奈、頼むから落ち着け。これは──」
「落ち着いてなんていられるわけないでしょう!」
翔太郎の言葉を真っ向から遮る。
彼女は一歩、彼に近づき、怒りを押し殺すようにして続けた。
「私が翔太郎の事情を知りたいって言ったとき、あなたは少し待ってほしいって言いましたよね。だから待ったんです。知ろうとしたし、必死でついていこうとしてきたんです」
翔太郎は黙り込んだまま、顔をそらす。
「なのにどうして今になって、やっぱり来ないでくれなんて言うんですか! こんなの、裏切りじゃないですか!」
「違う。違うんだ、玲奈」
翔太郎は低く言い返す。
けれど、心のどこかで苛立ちが膨らんでいた。
玲奈の瞳は真っ直ぐに翔太郎を捉えていて──怒りの奥には、どうしようもなく強い想いがあった。
「俺が望んでこうしてるんだ。アリシアは、最初は一人で行こうとしてた。無理を通して、一緒に行くって言ったのは俺の方なんだ。だから──」
「だったら、私がついて行きたいっていうのも、私が望んでしてることです!」
玲奈の声は震えていた。
怒りに満ちて、けれどその奥にある感情はもっと複雑だった。
「……ダメって言ったら、ダメなんだよ!」
感情を押さえきれずに、翔太郎の声が荒れる。
「ゼクスがただのイカれた研究者なら、多分──連れて行ったかもしれない。でも、もしかしたら……ゼクスの背後には夜空の──」
「鳴神翔太郎!」
アリシアは即座に翔太郎の肩に手を伸ばし、強く掴んだ。
まるで、これ以上口にさせまいとするかのように。
「貴方が言ったんでしょ。氷嶺玲奈を巻き込みたくないって」
「でも……俺は──」
「言わないで」
今ここで夜空の革命の名前を出すことは、まだ早すぎる。
そして少年が巻き込みたくないと言った玲奈には、誰よりもそれを聞かせたくなかったのだ。
そんな二人を見ていた玲奈の唇が、わずかに震える。
ぽつりと、呟くような声が廊下の静けさに溶けた。
「……また、そうやって二人だけで事情を隠すんですね」
その言葉に、翔太郎もアリシアも同時に顔を上げた。
玲奈は、真っ直ぐに二人を見据えていた。
だがその目には怒りと寂しさ、そして深い嫉妬が滲んでいた。
その事には玲奈含めて、この場の誰にも気が付かない。
「私には、教えてくれないんですね。アリシアさんには言うのに」
声は震えていた。
だが、言葉ははっきりとしていた。
「翔太郎が何を抱えてるのか、何と戦おうとしてるのか。……全部、私だけが知らない」
痛いほど、胸が締めつけられる。
玲奈の中で、どうしようもない感情がぐちゃぐちゃに渦巻いていた。
こんな事態なのに、翔太郎の事情を知っているアリシアに嫉妬している自分が、情けなくて苦しかった。
翔太郎が危険に足を踏み入れようとしているのに、何もしてやれない自分が歯がゆかった。
けれど、それ以上に──
翔太郎が、もし本当にいなくなったら。
何も知らないまま置いていかれたら。
それだけは、耐えられなかった。
「私は子供じゃありません。危険を察して判断することくらいできます」
「玲奈……」
置いていかれることへの恐怖。
何も知らされず、守られるだけの存在にされることの屈辱。
そして、誰よりも近くにいたいと願っているのに、遠ざけられる痛み。
「そうやって、何も言わずに行こうとするあなたが、誰かのために戦おうとするあなたが、私は一番……怖いんです」
玲奈の声が震え、言葉が詰まりかけた。
「翔太郎がいなくなるなんて、想像したくないんです」
玲奈の言葉は、静かで、真っ直ぐだった。
その一言が、アリシアの胸にも深く突き刺さる。
少女の淡い声に宿る熱は、もはや誰にも否定できなかった。
アリシアは、わずかに視線を伏せた。
その瞬間、玲奈の心の底にある翔太郎への想いが、痛いほどに伝わってきた。
(……そう。貴女、そこまでこの人のことが──)
彼女もまた、誰よりも大切だった人──祖父・ローフラムを一人で逝かせた。
自分の目の届かない場所で、誰にも看取られず、最期を迎えたあの時の絶望と後悔。
だからこそ、玲奈の気持ちが他人事ではなかった。
──傍にいれば、救えたかもしれない。
──あの人がいなくなるなんて、想像したくない。
それは、アリシア自身がずっと胸に抱えてきた後悔と同じだった。
目を閉じ、静かに一つ息を吐く。
「自分の身は自分で守れるって、誓える?」
「おい、アリシア!」
翔太郎が思わず声を荒げた。
怒りと焦りが混ざった、抑えきれない声だった。
玲奈を巻き込みたくなかった。
彼女だけは、絶対に傷付いて欲しくなかった。
けれど、アリシアはその怒りを正面から受け止めながらも、一歩も引かない。
彼女の瞳はまっすぐ、玲奈を捉えたままだった。
「どうして、そんなことを──」
翔太郎が続きを言おうとした瞬間、玲奈がはっきりと答えた。
「はい。もちろんです」
玲奈の即答が空気を震わせた。
迷いはなかった。
恐怖も、怯えも、そこには一切なかった。
「もし死にそうになっても、文句は言わない?」
「言いません、私が決めたことですから。それに私は死ぬつもりはありません。翔太郎の隣で戦って、ちゃんと生きて帰りますから」
「どうして……そう言い切れるの」
問いかけは呆れにも似ていたが、それ以上に心配だった。
無謀な覚悟の裏にある、誰かを思う気持ちの強さが、あまりにも真っ直ぐで──痛かった。
「貴女だって、たくさん怖い目に遭ったんでしょう? カレンに襲われて、ゼクスに水橋美波を人質に取られて、心音と殺し合いを強要されて、それでもまだ──」
「怖いですよ。でも、それ以上に怖いのは、翔太郎が傷ついて、取り返しのつかないことになることです」
その一言に、アリシアの呼吸が止まる。
「だったら……一緒に戦うしかないじゃないですか。私はもう、自分だけ守られる側にはいたくないんです」
その言葉に込められた想いが、あまりに真剣で。
だからこそ、アリシアは初めて目を逸らした。
「……ほんと、困った人。誰かさんそっくり」
呟きには苦笑が混じっていた。
呆れもあったけれど、それよりずっと深い、尊敬に近いものがあった。
玲奈の視線が、まっすぐ翔太郎へと戻る。
「私は、翔太郎に人生を救われました。誰とも関わらず、ただ兄に従うだけの人形だった私を、あなたは迷わず手を差し伸べてくれた。それがどれほどの救いだったか、あなたには分からないかもしれません」
声が震えていた。
けれど、言葉は一つも揺らがなかった。
「だから今度は、私が翔太郎を助けたい。誰かに言われたからじゃなくて、自分の意思で、あなたの隣に立ちたいんです」
玲奈の言葉は、ただの訴えではなかった。
それはただ守られる存在であるのではなく、対等に彼に並び立つ相棒としての宣言だった。
「……それを危ないからやめろって言うなら、あなたにとって私は相棒じゃなくて、ただ守るべき保護対象ってことなんですね」
凍えるような一言に、翔太郎は完全に言葉を失った。
彼の胸に刺さったのは、玲奈の怒りでも寂しさでもない。
それは、彼女の覚悟だった。
「ここであなたたちだけを行かせて、取り返しのつかない出来事が起きたら──私は一生、翔太郎を恨みます。永遠に引きずると思います」
息を呑むような静けさが落ちる。
「だから……私に選ばせてください。あなたと一緒に戦う道を」
玲奈の想いが、部屋のすべての空気を染めていた。
翔太郎は俯き、やがてゆっくりと目を閉じた。
言い返せる言葉なんてどこにもなかった。
そして、ぽつりと力なく言う。
「……分かった。もう、いいよ」
その声には、敗北の響きがあった。
けれど、それはただの諦めた訳じゃない。
玲奈の想いを、ちゃんと受け止めた男の覚悟でもあった。
翔太郎は顔を上げ、真っ直ぐに玲奈を見つめる。
「そこまで言うなら連れて行く。ただし──埠頭に着いたら、絶対に俺の隣から離れるな。それが条件だ」
「はい。最初からそのつもりですから」
玲奈は迷いなく頷いた。
その笑みには、さっきまでの涙とはまるで別の強さがあった。
もう、誰にも止められなかった。
そして──誰も、止めようとはしなかった。
「……盛り上がってるとこ悪いんだけどさー」
静かな空気をあっけらかんと割って入ったのは、ソルシェリアだった。
両手をひらひらと振りながら、口元にはいつもの調子で笑みを浮かべている。
「もちろん、アタシも行くからね?」
「ソルシェリア……。鳴神翔太郎も言ったと思うけど、埠頭はゼクスの本拠地かもしれないの。貴女の身体じゃ、いざって時に──」
「逃げきれないかも? それ、何回言われたと思ってんの」
肩をすくめてため息をついた後、彼女は人差し指をぴっと立てて誇らしげに言い放った。
「緊急脱出用の異能力ぐらい、ちゃんと備えてますー。それに、今回のカレンの追跡の大部分はアタシがやったって事、忘れてないよね? こういう時こそ、鏡の異能力が役立つって、昨日あんたが言ったんじゃん」
「それは確かに、言ったけど……」
「じゃあ決まりね。ソルシェリアちゃんは、しっかり役立つ人員なんで、同行権アリってことで!」
にかっと笑って胸を張るその姿に、張り詰めていた空気がわずかに緩む。
見た目も態度も軽く見えるが──彼女が頼りになるのは、皆がよく知っていた。
翔太郎も思わず小さく笑う。
「……まったく、お前ってやつは」
けれど、内心ではありがたさを感じていた。
この緊張感の中で、いつもと変わらない調子でいてくれる存在が、どれほど支えになるか──本人が一番分かっていないのが、またソルシェリアらしかった。
そして、最後に一歩前に出たのは、フレデリカだった。
「……鳴神様があの頃と変わらず、自分よりも他人を優先して守ろうとする優しい方だということは、私もよく理解しています」
その静かな言葉に、翔太郎が顔を上げる。
目が合った瞬間、フレデリカは穏やかな微笑を浮かべたまま、はっきりと想いを語った。
「けれど、貴方がそうして私たちを守ろうとするように──私たちにも、貴方を守りたい理由があります。お嬢様のため、そして、今となっては貴方のために」
その言葉に、アリシアが小さく息を呑む。
「……フレデリカ」
「お嬢様。私も本当は分かっているんです。貴女は誰も巻き込みたくないと、今回ゼクスと遭遇してから、ずっとそう思っていた。だから一人で背負おうとした。でも……もう、そうする必要はありません」
声に込められた想いは、優しさと願いと、ほんの少しの寂しさだった。
「お嬢様が一人になって傷付くような事態は、これ以上誰にも繰り返させたくありません。だから、共に行きましょう。私たち“皆で”」
それは、使用人としての忠誠ではなかった。
一人の人間として、アリシアの幸せを願う想いからの言葉だった。
翔太郎は何も言えなかった。
ただ、全員の瞳に宿った覚悟を見つめるしかなかった。
置いて行く理由も、守る理由も──それ以上に、共に戦う理由の方がずっと強くなっていた。
「……分かった。なら、皆で一緒に行こう。この一週間、色々やってきたしな」
「言われなくても、そのつもりでした」
そう呟いた翔太郎の声に、玲奈が少し口角を上げた。
「はーいはーい、ようやく話が進みそうだよ。翔太郎のバカが、やっと折れました〜」
「ご英断ですわ、鳴神様」
ソルシェリアが大げさに拍手をしながら笑い、フレデリカは静かに頭を下げる。
「行こう。鳴神翔太郎」
そして──アリシアもまた、静かに立ち上がる。
目的地は、東京湾沿いにある廃棄された埠頭。
カレンの痕跡が残り、ゼクスの影が濃く差す場所。
そして、もしかすれば──もっと深い闇が、待ち受けているかもしれない場所。
それでも彼らは進む。
──その先に、カレンとゼクスが待っているかもしれない。