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雷鳴のラストピース  作者: 雨車狸
第二章 『爆炎のプリンセス』
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第二章25 『爆炎のプリンセス②』

「全く、賑やか過ぎる……」


 応接室の話し声がキッチンまで聞こえてくる。


 初対面でありながら、ソルシェリアの相手をさせるという暴挙に出たが、翔太郎たちは存外に苦戦しているらしい。


 アリシアは呆れたように呟きながらも、用意していたティーカップにお湯を注いでいく。


 ゆっくりと広がる紅茶の香り。

 立ち上る蒸気。


「……っ」


 紅茶の香りが、微かに鼻先をくすぐる。


 けれど──ダメだった。

 やっぱり、戻ってくる。

 あの記憶が、喉の奥を焼くように。


 ふと立ち眩みのような感覚に襲われて、私はティーカップを持ったまま、その場で膝をついた。


「──カレン」


 どうしても、彼女の名前を思い出すたび、黒いフードの裏に隠されたあの冷え切った表情を見せつけられる度に、胸が締めつけられる。


(私は……私が、カレンを──)


 熱い。

 違う、記憶の中の熱だ。焼けるような痛み。

 それアリシアの手から放たれて、アリシアの中を突き破って、あの空間を覆いつくした。


 ごめんなさい、ごめんなさい。

 そう何度叫んでも、もう彼女は。


 お願い、誰か。

 あの瞬間を、もう二度と思い出させないでください。




 ♦︎




「うそ……嘘……いやだ……カレン……」


 何度言っても、時間は戻らない。

 掴もうとしたその腕は、もう二度と動かない。

 熱に焼かれた皮膚の匂いが鼻を刺すたび、喉の奥から悲鳴がこみ上げてくる。


 私は、自分の手で……私が、カレンを。


 崩れ落ちる。床の冷たさも感じなかった。

 気づけば私は、燃え尽きた実験室の灰の中で、膝をつき、涙とも熱ともつかない液体を顔に垂らしながら、叫び続けていた。


 喉が裂けて、声がかすれて、それでもやめられなかった。


 生きたまま、心が焼き切れるとはこういうことなのだと、あのとき初めて知った。


 でも──その声すら、彼らには届いていなかった。


「ゼクス様、如何でしょうか?」


「──素晴らしい」


 その声に、私はぎょっとして振り向いた。

 ガラスの向こう、耐炎処理された観察室。

 火災にすら無傷でいられる完璧な絶対耐熱室の中で、奴らは……年代物の高級ワインを乾杯していた。


「脳波も火力も、どちらも歴代最高値。とくに情動による出力変化は特筆に値するね。ふふ、ワタシの見立てにやはり狂いはなかったようだ」


 ガラス越しに、ゼクス・ヴァイゼンのあの顔が見える。

 灰色のオールバック。片目だけのレンズ。


 彼はひたすら、面白おかしく笑っていた。

 人を一人殺した私の力に、拍手すら送りそうな勢いで。


「これはもう、“爆炎のプリンセス”という呼称に恥じない逸材ですね。三年分の投資は、十分すぎるリターンになりました」


「ああ。これでついに、ワタシの理論も実証段階に進める……! 全人類能力者化計画に、ようやく踏み込んだのだ!」


 ふざけるな。

 私は、涙を拭った。


「……ッ!」


 怒りで、胸が焼ける。


 いや、違う。

 これはもう怒りなんかじゃない。


 それはもっと深くて、もっと黒い──焼け焦げた心臓の奥底で、何かが膨張していた。


 カレンを焼いたのは、私だ。

 でも、お前たちがその舞台を作った。

 お前たちが、私を人間から化け物にした。


 許さない。絶対に。絶対に。


「うあ……あ、あああああああああああああっっ!!!!!!」


 喉が裂けるほど叫んだ。

 裂けてしまえと思った。

 叫ぶことで、自分の中のこの異物が噴き出すなら──構わない。この際、この身がどうなっても。


 ただ、焼き殺してやる。お前たちを。

 両手を突き出すと、周囲の酸素を燃やし尽くした。


 骨の芯から熱がせり上がる。

 血管が、筋肉が、臓器がすべて火に変わっていくような感覚。


 赤い火が、手のひらから咆哮する。

 炎は唸りを上げ、ガラスの向こうを焼き尽くそうと突進する。


 ──届かない。


「素晴らしい……! 覚醒直後で、まだこれ程の火力が上がるのか!」


「ふはっ……! はっはっはっ! 見たまえよ、ゼクス君! 通常の火炎なら無傷だが、これほどの出力でも耐えられるとは!」


「当たり前だろう? この部屋は何十億も予算をかけて四年がかりで造った“無炎の玉座”だ。異能力とはいえ、炎耐性は世界でもトップクラスだよ。だが……これほどの火力なら、生身で受けた場合、ワタシでも生存確率は高くないだろうね。──よく燃えているよ、検体番号12番」


 ガラスの向こうで、赤ワインをくるくると揺らすゼクスの顔が、歪んで見える。


 笑ってる。

 楽しんでる。

 この私の、怒りも、悲しみも、全て──


「……私はお前たちのオモチャなんかじゃない!!」


 私の中で、何かが壊れた。

 理性が──焼けた。


 怒りでもなく、悲しみでもなく、本能だけが残った。


 全てを焼き尽くせ。

 この世界に、正しさなんて無いのなら。

 私の存在に、意味なんて無いのなら。

 それなら私は──焼くことでしか、生きられない。


 もっと、力を。もっと、熱を。

 もっと、炎を!!


 火は赤から橙へ。橙から紫へ。

 そしてついに──それは色を失った。


 黒。

 この世のすべてを呑み込むような、深淵の闇。

 ──黒炎。


「……美しい黒炎だ。12番」


 ゼクスの声が届く。


 だが、もう聞こえていなかった。

 視界は歪み、世界が脈打つ。

 鼓動と共に、黒炎が噴き上がる。

 その一瞬一瞬が、この身を焼き崩すほどの熱量だというのに──怖くなかった。


 怖さより、焼きたいという欲が勝っていた。


 この世の全てを。

 私にこの力を与えた全てを。

 焼き殺す。それが、私の存在理由。


「死ねぇぇぇええええええええええええええええッッッ!!!!!!」


 私は咆哮する。

 黒炎が、天井を割り、ガラスを叩き、世界を呑み込む。


 全てを焼き尽くすために生まれた──爆炎のプリンセス。

 その瞬間、全てが燃えはじめた。


 ──その時だった。


 私の憎悪が黒炎となって爆ぜる寸前。

 皮膚の下で火脈が脈打ち、今にも臓腑が焼き尽くされそうなその刹那。


「ゼ、ゼクス様っ! 侵入者が……っ!!」


 悲鳴にも似た声とともに、白衣の研究者が扉を蹴破って飛び込んできた。


「何だと? この大事な研究時に何の冗談を──」


 ゼクスの言葉が、途中で止まった。


 次の瞬間に、侵入者の報告に来た研究者の身体が大爆発を起こし、周囲にした者たち全てを焼き尽くした。


 爆発ではない。

 空間が焼き砕かれる音だった。


 侵入者を知らせに来たはずの研究者の背中──そこから何かが入ってきた。


 次の瞬間、その男の肉体が空中で破裂した。

 血も骨も飛び散る間もなく、ただ“炎”と化して、気体になった。


 そして──轟く黄金の爆炎。


 私の炎さえ届かなかった無炎の玉座が、一瞬で崩壊した。ガラスは液状に溶け、壁は光と熱の中で音もなく消滅していく。


 それは最早、炎ではない。


 天罰。

 世界そのものが熱によって断罪されているかのような、理不尽な力。


「なっ……! う、嘘だろ……!? これは……っ」


 あのゼクスが呻き、後ずさる。


「何十億もかけた耐熱壁が……! 対異能力者専用の軍用合金だ! 焼ける訳が……!」




「この程度でワシの炎をどうにかしようなんて、お前さんら、少し老人を舐め過ぎじゃないかのぅ?」




 部屋の入り口が爆炎で燃え盛る中、その男はコツコツと平然と地獄を歩いた。


「そうか……! そういうことか!」


 ゼクスは怯え切った表情と共に、どこか興奮したような声色でもあった。


「まさかアナタがこの施設に来てくれるとは……素晴らしい! この目で、アナタの炎を目撃できるなんて!」


「ほぅ? ワシを知っておるのか、若造」


「勿論だ! この研究も、当初はアナタと同等の異能力者を無能力者から作り上げることを目的としたものだ! どうだ!?あなたも見て行かれるか!?」


 ゼクス・ヴァイゼンは狂人である。

 明らかにこの施設を潰しに来た相手であるにもかかわらず、炎を全身に纏う老人に手を伸ばした。




「ドイツ最強の炎の異能力者──紅蓮の二つ名を持つ生きる伝説。ローフラム・オールバーナー!」




 紅蓮のマントを羽織った影。

 その姿は、まるで神話の炎の王。

 深紅の外套は風に靡かず、むしろ風そのものを従えている。


 ただ立っているだけなのに、空気が震えた。

 ──違う。空間そのものが怯えていた。


 その視線が、まっすぐゼクスを見ていた。

 焼き尽くす意思と救いの残酷さを、併せ持つ眼差し。


 この時、私は彼の名を知らなかった。


 ローフラム・オールバーナー。

 ドイツ政府が正式に送り込んだ、ヴァルプルギスの炉を葬るための最後の矛。

 当時のドイツ最強の炎の異能力者にして、かつて国家反逆者を一晩で灰に変えた生きる伝説。


 ──そしてその足元から、空間が赤く、円形に発火する。

 まるで大地そのものが、彼の登場に膝をついたかのように。


 これは……もはや、炎ではない。


 神話の終焉。

 私は息を呑むしかなかった。

 今この瞬間、炎の中にいたのは私ではない。

 ──炎の本質そのものが、この場に立っていた。


「……無能力者をワシに近付ける実験、か」


「見たまえ、ローフラム! あそこに立っている検体番号12番を!」


 ゼクスは血の滲んだ手で、ガラス越しの私を指差す。


「あの黒炎の出力は、かつてのアナタに匹敵する!──無能力者を使い潰して、アナタに届く異能を造り上げる。だが、異能を持たないモルモットにも、研究という努力を重ねればアナタに近付けることを証明してみせた!」


 私は何も言えなかった。

 ただ、狂喜乱舞するゼクスを見て立ち尽くすしかなかった。

 自分が造られた存在であると、この男の口から再確認させられながら。


「……」


 老人は私を一度だけ見た。

 その瞳には怒りも驚きもなかった。

 ただ、深い哀しみが一瞬だけ揺れて──そして、目を閉じた。


 だが、ゼクスは気づかない。


「素晴らしい研究だとは思わないか!? 今、異能力者の数は世界に一割しかいない。法治実権も数の多い無能力者が握っている。ならば、全ての無能力者を異能力者にすることで、異能力だけの世界を作れば良い!」


「……」


「これからは力のある異能力者が世界の覇権を握る。この研究は、その大いなる目的の礎となったのだ!」


「……」


「そこでどうだろうか? アナタの目的もおおよそ理解できている。ドイツ政府のクズどもに言われて、この施設を焼き払いに来たのだろう?」


 ゼクスは老人が政府の差し金だと理解していた。

 最近は資金調達もままならなくなっていき、手段を選んでられなくなっていたので、何処かで足が付いたのだろう。


「だが、高名なアナタならきっとワタシの研究に理解を示してくれると信じてる! ワタシと一緒に、世界を変えてみるつもりはないだろうか!」


「……」


 ──ああ。

 この男は、完全に狂っている。

 この期に及んで、炎の王に手を差し伸べている。


 明らかに敵意を持って来た者に対して。

 この世界で最も全てを焼き尽くす男に向かって。


 そして──


「……ふぁ〜〜ぁっ」


 ローフラム・オールバーナーは、一度だけ大きく欠伸をした。


「──すまんな、話が長過ぎる。半分ぐらい聞いとらんかったわ」


「……ッ!」


 ゼクスの笑みが、固まった。


「老い先短い老人には、もっと分かりやすく喋らんといかんじゃろ?」


 次の瞬間。


 音もなく、全てが灼かれた。

 まるで世界が一つ、燃えたようだった。

 黄金に輝く凶火が、ゼクスの全身を包み込んだ。

 研究室そのものが閃光と共に蒸発する。


 叫ぶ暇もない。

 肉も骨も、理想も妄想も、全てが燃えた。

 否。燃えたように見えた。


 そこにいたはずの研究者たちも、設備も、全てが瞬時に蒸発。

 目に見える限り、何も残らなかった。

 ゼクス・ヴァイゼンごと、この世から消し飛んだかのように。


「──若造が偉そうに無意味な講釈垂れるな。年寄りには敬語を使わんか」


 ローフラムが、淡々と言い放った。

 炎すら言葉を失ったような、静かな研究室の跡。

 私はただ、呆然と立ち尽くしていた。


 ──この人は、神ではない。

 でもきっと、神を焼き殺す側の存在なのだ。


 しかし老人ははまだ一言も語らず、静かに灰になった床を見つめていた。


 何も言わずとも、気付いていた。

 ゼクスが、逃げるだけでなく盗んだことも。

 だが、それでも。


「……どうせ、またどこかで燃やすことになるじゃろう」


 その声は冷たくて、優しさの欠片すらなく、ただ──全てを焼き尽くす者の声だった。




 ♦︎




 だが、その数十秒後。

 遠く離れた地下第九格納庫。

 そこに黒煙のように舞う灰が、ゆっくりと集まりはじめていた。


 無機質な空間の中、灰は粘つくように蠢き、腐肉が再生するかのごとく、一人の人間の形をとっていく。


「──がはっ、はっ、くそッ……ああ、熱い……く、ふ、ふふ、ふははっ……!!」


 喉を焼かれたような嗄れ声とともに、ゼクス・ヴァイゼンが蘇った。

 ローブは半ば炭化し、皮膚の一部は焼きただれ、右目には軽い失明すら疑われる火傷が走っている。


 ──だが、彼は生きていた。

 生き延びていた。


 ゼクスの異能力──《灰の魔奏者(アッシュコンダクター)》。


 焼かれる寸前、自らの肉体・衣服・内部の器官・骨までもを一斉に灰化させ、空間そのものに溶けるように拡散、逃走する。


 その性質は、攻撃にも守備にも不向き。

 だが、ただ逃げるという一点においてだけ、彼はまさに異能世界最凶であり、炎の神に愛された男すらも取り逃がす、亡霊そのものだった。


 ローフラム・オールバーナーの理すら焼き殺す黄金の炎。


 あれは、あらゆる存在を言葉ごと燃やし尽くす災厄の顕現だった。


 だが、それですらも。

 ゼクスは──生き延びていた。


 彼が死ななかったのではない。

 “死ぬより先に逃げた”のだ。

 燃えるという現象が、対象を焼くより一歩先に、ゼクスは既に“空間そのもの”へと灰化していた。


 だが、今回はただ生き延びただけではなかった。


 ローフラムの初撃。あの全てを消し飛ばした閃光の中で、砕け散った分厚い強化ガラスの破片──

 それが一枚、奇しくもアリシアの足元へと飛来していた。


 その床に広がる、“カレンの灰”。


 ゼクスは逃走と同時に、その割れ目から細く、誰にも気づかれぬ灰を這わせた。

 閃光、衝撃波、灼熱、破片、視界を塗り潰す混乱。


 ──そのすべてが、ゼクスにとっては“絶好の隙”だった。


「……フ、フフ……まさか、13番の成分が……この期に及んでまだ残っていようとは。これは……いやはや、僥倖だ」


 焦げた口元をゆがめて、ゼクスはポケットへと密閉カプセルを滑り込ませる。

 その中には、研究対象──かつての“少女”の、燃え残った灰が納められていた。


「焼かれるのも悪くなかったが、ワタシの実験は、まだ途中なのでね。……ローフラム・オールバーナー」


 焼け爛れた顔で笑うゼクス。

 その顔は苦悶ではなく、むしろ嬉々としている。


 彼は炎の恐怖にも、痛みにも、倫理にも、魂の呵責にさえも屈しない。

 その全てを“研究のため”に呑み込む狂気。


「ワタシの研究は、やがてこの世界に“救済”をもたらす。アナタたちが焼き捨てたものの中にこそ、人類の希望がある……フフ、フハハハッ!」


 ──悪辣に卑劣に、しぶとく。

 それでも、確かに生き残った。


 死を踏み越え、灰を這い寄らせ、再び姿を現した亡霊──ゼクス・ヴァイゼンは、なおこの世界で息をしていた。


 そして、その手には確かに、“少女の灰”が握られていた。




 ♦︎




 ヴァルプルギスの炉──あの地獄のような研究施設が崩壊した後、私は、ローフラムと名乗る老人に拾われた。


 焼け跡の奥で、灰に塗れて蹲っていた私を、彼はまるで何かを拾うように静かに抱き上げた。


 私は、完全に壊れていた。

 何も感じなかった。ただ、呼吸していた。

 心臓が動いていた。それだけ。


 七年以上、あの施設の白い天井だけを見上げて生きてきた私にとって、ようやく目に映ることになった空は──あまりに眩しすぎた。

 けれど、それに感動する心は、私にはもう残っていなかった。


 空の青さは私にとって、何の意味もなさなかった。

 ただの色彩。それ以上でも以下でもなかった。


 老人は私を、自分の本邸へと連れていき、そして──そのまま孫として養女にした。


 アリシア・オールバーナー。

 ──それが、私の新しい名前だった。


 もう私は、あの施設の検体番号12番ではない。

 過去を切り捨て、戸籍も名前も存在も、全て新たに与えられた。


 でも、心は──変わらなかった。


 カレンと共に、あの地獄を出る。

 それだけが、私の生きる目的だった。

 けれど私は……自分の手でそれを燃やし尽くしてしまった。


 ゼクスの手からカレンを奪い、救い、共に逃げる──そんな未来を、私自身が消し炭にした。


 運が良かった?

 生き延びた?

 ──そんなものに、何の意味があったの?


 私にはもう、生きる理由がない。


 何度も死のうと思った。

 お祖父ちゃんの屋敷にある薬品室に入り、静かに喉を裂こうとしたこともある。

 夜中に誰もいない場所で、何時間も外の冷気に晒されながら、ただ凍死を願ったこともある。


 でも、死ぬことすらできなかった。

 ──私には、死ぬ勇気すらなかった。


 それでもお祖父ちゃんは、私を生きさせた。


 食事を与え、部屋を与え、本を与え、知識を与え、時間を与えた。

 燃えかけた私の心に、少しずつ人間らしさを注ぎ込むように──静かに、根気強く、何年も。


 彼の弟子であるフレデリカとも出会った。

 彼女はよく話す子で、無理に私に関わろうとはしなかったけれど、時折、私が暗い部屋で一人座っていると、黙って隣に座ってくれることがあった。


 それが、妙に心に残った。


 そうして私は、徐々に生きていることに慣れ始めた。

 食べること、寝ること、本を読むこと、外を歩くこと──本当に少しずつ、少しずつ。


 だが、心の奥底に巣食うものだけは、どうしても消えてくれなかった。


 ──私は、不幸を振り撒く人間だ。


 そう思うようになっていた。

 私がいたから、カレンは死んだ。

 私がいたから、あの子たちは焼かれた。

 私がいたから、施設は崩壊した。


 私の存在そのものが、誰かを不幸にする。

 そう信じ込むしかなかった。


 だから、ローフラムが手を尽くして私を普通の少女として学園に通わせようとした時、私は、友達を作ることを拒んだ。


 誰とも深く関わらない。

 誰にも期待させない。

 誰にも近づかない。

 そして、誰にも──私に希望を持たせない。


 自分のような化け物が、他人の人生に触れてはいけない。

 心のどこかで、そう強く、強く思っていた。


 本当は、誰かに触れてほしかった。

 誰かに生きてていいんだと言ってほしかった。

 でも、それを望む資格など、私にはないと思っていた。


 ──アリシア・オールバーナー。


 それは、ただ生き延びてしまった少女の仮の名だった。空の青さにも、人の優しさにもまだ怯える、灰に囚われた少女の──もう一つの名前。




 ♢




 フレデリカの口から語られた、数々の凄惨な過去。


 それは聞いているこちらが辛くなるほどに、あまりにも哀しく、重たい記憶だった。


 アリシアは、幼い頃に母親に売られた。

 引き取られた先は、ゼクス・ヴァイゼンの管理する《ヴァルプルギスの炉》──違法に設立された、非道な実験施設。


 無能力者として生まれたアリシアは、異能の後天的植え付けという狂気の研究に組み込まれ、日々を実験体として過ごすことを強いられた。


「ゼクス・ヴァイゼン……あの男は、異能社会の“本質”を求め続けた狂人です。人間を人間と見なさず、ただ“可能性の器”として捉える。本気で、異能力者だけの理想郷を作ろうとしていた……冷たい化け物です」


「……化け物」


 翔太郎の唇がかすかに震えた。


「異能力の根源、適合率、後天的付与……要するに“神の真似事”ですね。無能力の子供に異能力を植え付けるなんて真似、倫理も命も顧みない……人の形をした禁忌です」


 フレデリカの口調は淡々としていた。

 けれど、だからこそ現実の残酷さが一層際立った。


「ゼクスは、成功率0.5パーセント以下の非道な手法を使って、何十人という子供を造り変えようとしました。結果は惨憺たるものでした。焼き死んだ子、精神を壊された子、臓器を抜かれた子……。まさに地獄でしたよ、あの施設は」


 翔太郎の顔が、かすかに強張る。


「お嬢様は……その中で数少ない成功例でした」


 その声は、まるで呪いの宣告のようだった。


「だからこそ、あの方は自分の存在を許せない。生き延びたことが罪のように感じている。……彼女は今でも、自分が生きているだけで誰かを焼いてしまうと思い込んでいるんです」


 翔太郎は言葉を失った。

 冷めた紅茶の香りが、どこか虚ろに部屋を漂っている。

 沈黙が、鉛のように重くのしかかった。


「カレンという子がいました。お嬢様にとって、たった一人の友人でした。彼女と共に施設を出る──それだけが、お嬢様の願いだった」


「でも、それは叶わなかったんですね」


「はい。カレンは……焼かれて死にました。お嬢様の炎によって」


 声に滲む感情は抑えられていたが、その分、言葉の輪郭は鋭く胸を刺した。


「彼女は、自分の存在が誰かを焼き尽くすと信じて疑わない。だから、今も自分の炎を“呪い”だと信じている。“生きていること自体が罪だ”と、そう思いながら生きているんです」


 その姿は、まさに生ける業火だった。

 焼け跡の中で、それでも生き続ける──少女の物語。


「だから、お嬢様は他人と距離を取ります。ローフラム様に学園にも通わせてもらえたのに、誰とも親しくなろうとしなかった。誰かと目を合わせることも、名前を呼び合うことも、自分には許されないと……。『私がいると、皆が不幸になる』って、よく呟いていました」


 そう言って、フレデリカは小さく笑った。

 けれどそれは、どうしようもなく寂しげで、壊れそうな笑みだった。


「お嬢様は、自分から人を遠ざけます。友達を作らない。誰かに好かれることにも、好意を向けることにも臆病なんです。──でも、心のどこかでは、きっと、助けてほしいと願っているんです」


 翔太郎は、拳を静かに握った。

 誰かの手を取ることすら恐れて、それでも生きようとしている──その姿が、胸に焼き付いて離れなかった。


「本当は、誰よりも人に寄り添いたいんですよ。誰かの傍にいたい。温もりに飢えているのに、それを求める術を知らない。……お嬢様は、ずっと、そんな孤独の中で生きてきたんです」


 フレデリカはふっと微笑んだ。

 けれど、それもまたどこか疲れたような、張り詰めたものだった。


「それでも──白椿心音さんと一緒にいる時のお嬢様は、少しだけ……ほんの少しだけ、“人間らしい”顔をしているように見えました」


「……心音が?」


 思わぬところで飛び出した心音の名前に、翔太郎はわずかに眉を上げた。


 アリシアは──友人を作らない。

 それは彼女自身が己に課した、孤独のルールだった。

 過去に人を焼いた罪を背負い、誰かを傷つけてしまうことを恐れて、人を愛してはいけないと信じ込んでしまった少女。


 その在り方は、他人に支配され人間関係を縛られていた玲奈とは真逆だった。

 誰にも近づかず、近づけさせない。

 その鋼のような自制こそが、アリシアという少女の鎧だった。


 ──だが、それでも。


「……まあ、心音ってコミュ力お化けだからな。強情なアリシアでも、折れるしかなかったのかもな」


「誰にでも分け隔てなく接しますもんね。彼女は」


 玲奈の口調には、わずかに感心と憧れが滲んでいた。


「ああ。推薦生で転校生の俺にだって、最初から普通に声をかけてくるし、玲奈ともすぐ仲良くなった」


 それはまさに、誰にも真似できない人との向き合い方だった。


 心音は、ただ優しいだけではない。

 相手がどんな過去を持っていようと、どれだけ壁を築いていようと──恐れず、気負わず、まっすぐに飛び込んでいく。


 それは時に無謀で、時に大胆で。

 けれど、誰よりも正しく人としての距離を知っているからこそ、誰もが彼女に心を開いてしまう。


 ──ソルシェリアとも面識があり、フレデリカですら一目置くほどに。

 あのアリシアですら、彼女の前では無言のまま、肩の力を抜いていた。


「知らない内に、うちの相棒と下の名前で呼び合う仲になってるくらいには……心音って、いい奴なんだよな」


「──っ……!」


 翔太郎のしたり顔に、玲奈の頬が一瞬で真っ赤に染まる。


 もちろん、翔太郎もすでに気づいていた。

 保健室に戻ってから、玲奈と心音が自然にお互いを下の名前で呼び合っていたことに。


 おそらく──あのカレンとの戦いを通じて、二人は深く理解し合ったのだろう。

 それは、命を懸けた極限の状況でしか得られない、魂の繋がりだった。


 翔太郎の声には、素直な敬意がにじんでいた。


「アリシアが“親友”って認めてる時点で……もう、心音の勝ちだよ。あんな過去を背負った子に、そこまで思わせるなんてさ」


 それは、誰にでもできることじゃない。

 人を焼いたという罪を背負い、誰とも関わらずに生きてきたアリシア。

 そんな彼女が、自ら“友達”と呼べる存在を持った──それだけで、心音という少女がどれほど特別な存在なのかが分かる。


 ──心音は、人と人との心の距離を、まるで当たり前のように縮めてしまう。


 それこそが、白椿心音という少女の、最大にして最強の才能なのかもしれなかった。


 だからこそ、アリシアも本当は、心のどこかで誰かとの繋がりを求めているのだろう。

 もし本当にすべてを拒絶していたなら、心音の存在すら拒んでいたはずだ。


 心音の人徳もあるだろう。

 けれど──それを受け入れたアリシア自身にも、まだ“誰かと繋がりたい”という意志が、確かに残っている。


 諦めきれずにいるのだ。

 焼き尽くしてしまった過去を抱えながらも、それでも心の奥底では、もう一度誰かと分かり合える未来を信じている。

 だからこそ、彼女は心音の差し伸べた手を振り払わなかった。


「……だから、もし鳴神様と氷嶺様が、お嬢様と“御学友”でいてくださるのなら。これからも、仲良くしていただけたら嬉しいです」


 静かにそう言って、フレデリカはふっと儚げな笑みを浮かべた。

 それはまるで、氷のように閉ざされたアリシアの心に、少しでも温もりが灯ることを願うような、切なくもあたたかな微笑みだった。

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