表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
雷鳴のラストピース  作者: 雨車狸
第二章 『爆炎のプリンセス』
57/59

第二章23 『オールバーナー邸へ』

 警報を聞きつけ、学園警備と当直の教師たちが現場に駆けつけたことで、事態はひとまずの収束を迎えた。


 ゼクスとカレン──正体不明の二名の侵入者はすでに姿を消していたが、彼らの残した痕跡と異常現象の数々が、ここで確かに事件が起きたことを物語っていた。


 現場にいた鳴神翔太郎、氷嶺玲奈、アリシア・オールバーナー、白椿心音、そして水橋美波の五人は、それぞれの怪我と精神的ショックを考慮され、保健室の個室で隔離されることとなった。


 教師陣は簡単な事情聴取を行い、目撃証言や異能力の使用状況、外部からの侵入経路などについて慎重に記録を取り始める。


 誰もがまだ混乱の中にあったが、それでも淡々と、最低限の対応は進められていった。

 重苦しい空気の中、アリシアは意識を取り戻さぬまま深く眠り続け、心音はその傍を片時も離れようとしない。


 水橋は微かに目を開けていたが、言葉はなく、ただ虚ろなまなざしで天井を見つめていた。


 そして玲奈は、翔太郎のすぐそばを離れず、誰にも触れさせまいとするように、その袖をそっと掴んでいた。


「もう、夜の八時か……」


 ぽつりと落ちた翔太郎の声は、いつになく疲れていた。その表情も、どこか遠くを見るようで。

 あの戦いで最も激しく立ち回りながら、最も深く傷を負わなかったのは、皮肉にも彼自身だった。


 ……だからこそ、学園側からの聴取は一際厳しく、長く続いたのだろう。

 ようやく戻ってきた頃には、既に日は落ちていた。


「まだ外では、警備の人や先生方があの二人を追ってるみたいです。……もしかすると、今日は帰れないかもしれませんね」


 玲奈の声も、どこか沈んでいた。

 どれだけ言葉を尽くしても、今は安らぎの気配がどこにもなかった。


「かもな……」


 短く返されたその声に、わずかに空白が混じる。

 それだけで、玲奈は思わず息を呑んだ。

 こんな憔悴したような翔太郎は珍しい。


 冷静で、どんな状況でも自分を見失わないはずの彼が、まるで疲弊しきっているように見えた。

 それだけで、胸の奥がざわつく。




『──やっぱり生きてたんだ、お兄さん』


 ──ずっと引っかかっていた事がある。

 4月にカレンが翔太郎に向けて口にした言葉。


『そのフードの女は、どうして俺が“あの災害”で生き残ったことを知ってるんだよ!』




 あの災害。

 その言葉の重さも、含みも、すべてが謎のまま心に引っかかった。


 翔太郎は──何らかの災害の生き残りなのだろうか。

 そしてその事実を、何故かカレンも知っていた。


 ──自分だけ、何も知らない。


 一緒に暮らしているのに。

 彼の隣にいて、言葉を交わして、食卓を囲んで、同じ空気を吸っているのに。

 彼の過去は、いつも霞がかかったまま遠くにある。


 もちろん、それを責めるつもりはない。

 言いたくないことがあるのは、わかっている。

 無理に聞き出したいわけでもない。


 ……でも、それでも。


 知らないことがこんなにも苦しいなんて。

 彼のことを、分かっていたつもりだったのに。

 今、こうして、沈んだ目をした翔太郎の横顔を見ていると──どうしようもなく胸が痛んだ。


「……無理、しないでくださいね」


 ぽつりと、それだけを伝えた。

 聞きたいことも、言いたいことも、山ほどあったけれど。それだけは、今の自分にも伝えられると思ったから。


 翔太郎は少しだけ目を細めた。

 そして、ほんのわずかに──笑ったように見えた。


「玲奈こそ、疲れてるだろ。無理すんなよ」


 何でもない言葉だった。

 でも、その何でもなさが涙が出るほど優しくて。

 玲奈は黙って頷く。

 それだけで、今はもう十分だった。


 次の瞬間、ドアが乱暴に開いた。


「っ!?」


 翔太郎は思わず身構えた。

 その音だけで、空気は一瞬にして張り詰める。


 現れたのは、制服を着崩した乱れたワインレッドの髪の男。

 荒い息遣いと共に、額に滲む汗を拭きながら、保健室に勢いよく入り込んできた。


「……美波っ!」


 声にならない声。

 それでも、その叫びは切実で、悲鳴にも似ていた。


 影山龍樹。

 保健室へ怒鳴り込むように駆け込んできた彼の瞳は、恐怖と焦燥、そして後悔でぐちゃぐちゃに歪んでいる。


「影山?」


 翔太郎の声が思わず漏れたが、影山の耳には届かなかった。彼は真っ直ぐ、水橋の寝かされているベッドへと駆け寄る。


「おい美波、大丈夫か……!」


 影山の叫びに、水橋美波はぼんやりと目を開けた。

 虚ろな視線は揺れながらも、確かに影山の顔を追っている。


「龍樹……?」


 かすれた声が漏れた。

 身体は動かせなくても、そこにいること、声を聞いていることは伝わった。

 その声は弱々しく、遠くかすかな灯火のように震えていた。


 影山はそんな彼女を見つめ、言葉にならない思いを胸に抱く。その狭間に立ち尽くす彼女が、わずかに返事を繰り返す。


「馬鹿野郎が! 病院から勝手に抜け出したと思ったら、なんでこんな事になってんだよ!」


 影山の声は震えていたが、怒鳴るように捲し立てた。

 その言葉にはただの叱責以上のものが詰まっていた。

 心配と、自分が守れなかったかもしれないという自責が激しく混ざり合っている。


「何度も言っただろ、俺が良いって言うまで休学してろって! 元々身体だって強くねぇのに、無理して学園なんか来やがって……!」


 鋭い口調の奥に、溢れ出る不安と安堵が隠しきれずに滲んでいた。

 そんな影山の言葉に、水橋は目を細め、ぽつりと零す。


「ごめんなさい……」


 影山は一瞬、目を閉じて深く息を吐いた。

 そして、そっと彼女の手を包み込むように取った。


「チッ……岩井から話は全部聞いてここまで飛んできたんだ。お前を一人にしとけるかよ。さっさと病院に戻るぞ」


 その声は震えていたが、決して揺らがない覚悟が込められていた。

 必死に彼女の反応を確かめる目は、どこか優しさと頼もしさを宿している。


「でも、私は……」


 水橋が弱々しく口を開くより先に、鋭く遮った。


「でもじゃねぇんだよ。復学してねえのに零凰学園に来るなんて、正気の沙汰じゃねえ。風雲台は警備も厳重で学園島なんかよりずっと安全だ。分かってんのか?」


 影山の言葉は荒々しく刺さる。

 だがその裏には、過保護と呼んでもいいほどの強い想いが込められている。

 まるで、何かあったら全部自分の責任だと言わんばかりに、必死に言葉を吐き出していた。


「だから今は黙ってついて来い。もう事情聴取が終わったことも知ってる。下にタクシー呼んでるから、早く行くぞ」


 影山の声は強引だったが、その奥に焦りと不器用な優しさが滲んでいた。


「待って、龍樹!」


 水橋の声がか細く、必死に影山を引き止めた。


「……なんだよ」


 声がかすれる。

 怒りの熱が、少しだけ冷めていた。


「私ね、危なかったところを、みんなに助けてもらったの」


 水橋の目が、保健室の面々へと向けられる。

 その言葉には、震えながらも感謝と後悔が混じっていた。


 その言葉に、影山は一瞬だけ動きを止め、やっと保健室の中を見渡した。

 翔太郎、玲奈、心音──それぞれが複雑そうな表情で彼を見つめている。

 アリシアは静かにベッドに横たわり、まるでその場の緊張を余所に眠っているかのようだ。


「……」


 沈黙が、その空間を重く支配した。

 気まずい雰囲気が漂う。


 ただでさえ、影山はこのメンバー全員と仲が悪いと言っても過言ではない。

 その面々が、水橋の身柄を不審者から守ったというのは、ここに来るまでの間に担任の岩井や警備の人間から聞かされている。


 いつもなら無視もできる存在たちだが、今は違う。


 彼の視線は、無意識の内に翔太郎に吸い寄せられる。

 かつて最も敵視していた推薦生。

 その目は鋭く刺さり、彼の存在がまるで針のように感じられた。


「……その、今回ばかりは言い訳の余地がない」


 翔太郎はゆっくりと立ち上がった。

 言葉を慎重に選びながら、静かに紡ぐ。


「水橋さんを危険に晒したのは俺だ。お前に何発か殴られても、当然だと思ってる……その、本当に悪かった」


 翔太郎がそう言った瞬間、保健室の空気が凍りついた。誰もが息を呑んだ。

 その言葉には言い訳も逃げも、何もなかった。

 ただ真っ直ぐな、痛みを抱えた謝罪だけがあった。


 影山は何も言わず、ただ睨むように翔太郎を見据えていた。

 その視線には怒りと戸惑い、そして言葉にしがたい苛立ちが混ざっていた。


「翔太郎のせいじゃ────」


「玲奈」


 玲奈の声が割って入ろうとしたその瞬間、心音が静かに彼女の名を呼んだ。

 その声音には、何かを止めるような、促すような微妙な力が込められていた。


「……分かってます」


 玲奈は唇を噛み、言葉を引っ込める。

 言いたいことは山ほどあった。

 それでも今、翔太郎が真正面から謝っていることの重さを誰よりも彼女は理解していた。


 心音の表情もまた複雑だった。

 彼女は、感情を押し殺すように静かに目を伏せる。

 誰かを庇えば、別の誰かが傷つく。

 そんな不条理の只中に、全員が立たされていた。


 ベッドに腰掛けていた水橋は、ゆっくりと顔を上げる。彼女の唇が、かすかに震えていた。


「違うよ、鳴神くんのせいなんかじゃない。私が勝手に学園まで来たの。みんなのせいじゃない。危なかったのは……私のせいだよ」


 その小さな声は、誰よりも自分を責めていた。

 翔太郎が水橋に何か言おうとした時だった。


「──自惚れてんじゃねぇよ、推薦生」


 影山の低い声が、鋭く空気を切り裂いた。


「……え?」


 翔太郎が顔を上げた。


「今回は、勝手に病室抜け出した美波に全面的に非がある。それに──その場にいなかった俺も、同罪だ」


 その一言が、保健室の空気を揺らした。

 驚きと困惑、そして理解しきれない感情が、一斉に湧き上がる。


「だから、勝手に責任感じてんじゃねぇ。最初から……お前に何とも思ってねえよ」


 その声は、投げやりでも憎しみでもなかった。

 ただ、怒りを無理に抑え込んだ不器用な青年の言葉だった。


「影山……」


 翔太郎は唇を噛んだ。

 その言葉の意味を、彼はすぐには飲み込めなかった。


 影山はそれ以上何も言わず、背を向ける。

 そのまま保健室を出ようとしたが、水橋が慌てて彼の背を追う。


「じゃあ、みんなありがとう。私、先に病院戻るから。アリシアちゃんにも……よろしく」


「うん。美波ちゃんも、お大事にね」


 心音は穏やかな笑みで手を振った。

 けれどその瞳には、わずかに翳りが宿っていた。


 玲奈は何も言えず、ただ水橋の背中を見送った。

 喉の奥に何かが引っかかって、声が出なかった。


 翔太郎はその場に立ち尽くし、拳を握る。

 自分の未熟さが、また誰かに負担をかけた。

 その重さだけが胸に残っていた。


 保健室の扉をくぐろうとした影山は、ふと立ち止まった。背を向けたまま、わずかに顔を横に向ける。




「──美波のバカが、世話になったな」




 それだけを残して、影山は歩き出した。


 その一言が、本当に影山龍樹という人間が言ったのかと思うぐらいに、どこまでも不器用で優しかった。

 そしてそれが、いっそ切ないほどに、彼という人間をよく表していた。




 ♢




 影山と水橋が風雲台へと向かってから、すでに三十分が経過していた。

 保健室には穏やかながらも、どこか重たい沈黙が漂っている。


「……まだ捜索は終わりそうにないですか」


 玲奈が椅子に座りながら、静かに口を開いた。

 その声には、疲労とわずかな焦燥が滲んでいる。


「まぁ……異能の痕跡を辿ろうにも、ゼクスはその辺消すのが上手そうだしな」


 翔太郎が机に肘をついたまま、気だるげに答えた。

 彼の顔にも、どこか諦めにも似た苦い色が浮かんでいる。


「あの灰を操る異能力……。出てきた時も、どこから来たのか全く分からなかったし、最初からフードの女を逃すことを前提に動いてる感じがしたよね」


 心音が腕を組みながら呟いた。

 彼女の目もまた、わずかに赤く、思考を巡らせすぎた頭をそっと冷やすような静けさがあった。


 保健室の窓の外では、薄雲が夜の月をゆっくりと覆っていく。時間の感覚さえ曖昧になるような、妙に長い夜だった。


「……ん」


 そんな中——小さな、かすかな声が聞こえた。


 翔太郎が顔を上げる。

 心音と玲奈も同時に、ベッドに目をやった。


「アリシア?」


 心音が思わず名を呼んだ。

 ベッドに横たわる少女のまぶたが、ゆっくりと動き、震えるようにして開かれていく。


「ここ……は……」


 アリシアの声は掠れていた。

 乾いた唇が言葉を紡ぐたびに、痛みと混乱が滲む。


「零凰学園の保健室だよ、アリシア。気を失ってたけど、もう大丈夫だからね」


 心音が柔らかい声で言いながら、そっとアリシアの枕元に歩み寄る。


「ゼクスとカレンは……どこに……」


 アリシアの目が揺れる。

 記憶がまだ混濁しているのか、うなされるように唇が震えた。


「ゼクスたちには逃げられた。今は警備や教員が二人の行方を追っている」


「……あの場にいた人たち、誰も欠けてない?」


「水橋はさっき影山が迎えに来て一緒に帰ったけどな。とりあえず、全員無事だ。アリシアがみんなを守ったんだよ」


 翔太郎が言葉を絞り出すように告げると、アリシアの目にかすかに安堵が浮かんだ。

 けれど、その瞳の奥にはまだ深い影が残っている。


「そっか。よかった……」


 呟くような声は、まるで自分に言い聞かせるようだった。

 痛みにも似た安堵の吐息と共に、アリシアは再びそっとまぶたを閉じた。

 だが、今度は気絶ではなく、意識を保ったまま、ほんの少し身体を沈めるような動きだった。


「アリシア、もう無理しないで。目を覚ましてくれて……ありがとう」


 玲奈が優しく言葉をかける。

 アリシアの目尻がほんの少しだけ、濡れて見えた。


 保健室には再び静けさが戻る。

 だがそれは、さっきまでの気まずさとは違う、何かが少しだけ前に進んだ後の静寂だった。


「アリシアも起きたことだし、もう学園に残る理由も無いな。……とりあえず、これ何時まで待機してればいいんだ?」


 沈黙の中、翔太郎がぽつりと呟いた。

 保健室の壁掛け時計はすでに夜九時近くになりそうな時刻を指している。

 それでも誰も、もう帰ろうとは言い出せないでいた。


「こういう場合って、捜索隊の終了を待ってから帰るのかな?」


 心音が椅子に座りながら、手元でスマホの画面をちらりと確認する。

 だが、特に新着の連絡はなかった。


「……もし、また戻ってきたらどうするんですか? ゼクスが、まだ学園島にいるなら」


 玲奈の声には、不安というよりも警戒が込められていた。

 異能で襲ってくる敵が、味方を一瞬で無力化できる存在だったからこそ、警戒の手を緩めることができない。


「いや……多分だけど、ゼクスはもうこの島にいないかもしれない。ここまで捜索に時間が掛かる理由も、ゼクスが見つからないからなのかもな」


 翔太郎が腕を組んだまま、わずかに眉をひそめながら言った。


「でしたら、とりあえず先生方を待ちませんか? 見つからないなら、それはそれで報告に来ると思いますし」


 玲奈の提案に、心音がうなずいた。


「アリシアの容態もあるし、まだしばらくはここにいた方がいいかも。……ね、アリシア?」


 声をかけられたアリシアは、ベッドの上でまどろむように目を開けたまま、かすかに頷いた。

 表情は変わらず淡白だが、その視線は以前よりも少し柔らかくなっていた。


「別に、心配はいらない。意識があるだけで、あとはもう平気だから」


「無理してる顔にしか見えませんよ、それ」


 玲奈が小さくため息をつきながら、軽く口を尖らせた。その一言に、翔太郎と心音も自然と微笑む。


「まぁ、それでも……アリシアがこうしてちゃんと話せるようになっただけ、良かったな」


「うん。本当にみんな無事で何よりだよ」


 翔太郎のそんな言葉に、心音が柔らかな声に同意した時だった。


「おい、全員揃ってるか?」


 不意に、ドアの向こうから聞き慣れた気怠そうな声が聞こえてきた。


 次の瞬間、担任の岩井が保健室に顔を覗かせる。

 着崩れたスーツに、疲労の色濃い表情。

 それでも、その目はしっかりと状況を見据えていた。


 相変わらず気だるげな表情を浮かべるが、スーツの襟元がやや乱れており、彼もまた相当奔走していたことがうかがえた。


「ようやく連絡がまとまった。……ひとまず、今日はここまでで捜索を切り上げる。不審者は結局、学園島内では発見されなかった」


「やっぱり、ゼクスは逃げたんだな……」


 翔太郎が立ち上がりながら低く呟く。


「ああ。灰の異能の痕跡が海沿いの外周で見つかった。そこから先は、海風と干渉して痕跡も追えない状態だ。痕跡の隠蔽としてはこれ以上ないぐらいの好条件だ。鳴神の証言がなかったら、この推定も出せなかった」


「……そうですか」


 翔太郎は目を伏せながらも、微かに肩の力を抜いた。


「今日は帰りたければ帰ってもいいし、不安なら学園に残っても構わない。学園に残る場合、診療班が交代で保健室を見張るよう手配した。家に帰る際は、道中の厳重警備も手配済みだ」


「ありがとうございます」


 玲奈が真っ直ぐに礼を述べると、岩井は頭を掻いてため息を吐いた。


「……ま、こっちは今夜はもう何も起きないと判断した。そういう判断を下すのが、俺たち教職員の仕事だからな」


 岩井がそう言って、少しだけ場の空気が緩んだ。

 その言葉に、心音が小さく息を吐いてから頷く。


「そうしたら、私は寮に戻ろうかな。アリシアのことも心配だけど、保健室に警備がつくなら安心できるし……やっぱり、一度ちゃんと眠っておきたいしね」


「そりゃそうだ。心音、今日は結構異能力使ってたよな。アリシアと水橋の治癒もしてたみたいだし」


 翔太郎が苦笑まじりに言うと、心音は困ったように笑った。


「うん、体力はあるつもりだったけど、今日は流石に消耗した……鳴神くんこそ、大丈夫? 結構無茶してたじゃん」


「でも、別に倒れるほどじゃないよ。心音が倒れる方がよっぽど心配だって」


「ふふ、ありがと。優しいじゃん」


 そんな軽口を交わしていたところで、玲奈がそっと言葉を挟んだ。


「私たちも、そろそろ帰ります。学園島の外ですし、もう遅い時間ですから」


 それを聞いて、翔太郎がふと玲奈の方を向く。


「岩井先生が用意してくれた護衛でもいいけど……良かったら、俺が氷嶺家まで送ろうか?」


 玲奈はわずかに瞬きをしたあと、微かに目を伏せて小さく頷いた。


 ——翔太郎以外の全員は、玲奈が今も氷嶺家に住んでいると当然のように思っている。

 そのため、もし護衛がつけば自動的に彼女は氷嶺家へと送られてしまうだろう。


 けれど実際は、玲奈は家を飛び出し、翔太郎の家に転がり込む形で現在は同居している。

 そのことは、まだ誰にも明かされていない。


 だからこそ、翔太郎はあえて氷嶺家まで送るという体を装って申し出たのだ。

 誰の目にも自然に映るように。

 そして玲奈も、それをすぐに察したのだろう。


「ええ、ありがとうございます。そうしたら帰りの護衛は、学園側じゃなくて翔太郎にお願いします」


 玲奈はそう答えると、さらに続ける。


「ですが、先に心音を寮まで送りましょう。私は後回しでも大丈夫ですから」


「うんうん、玲奈だったらきっとそう言うと思ったよ」


 心音はどこか楽しげに笑いながらうなずく。

 その表情はただの同意というより、何かを察してニヤニヤしているようにも見えた。


 ——玲奈が翔太郎と一緒に帰りたがっている。

 心音は、そう勝手に思い込んでいる節がある。


「私は一人でも大丈夫だよ。ちゃんと寮までの警備ルートもあるって聞いたし、すぐ帰るだけだからさ」


 軽く手を振ってそう言う心音に、翔太郎は少し眉をひそめる。


「本当に大丈夫か? 俺たちが送った方が──」


「だーいじょうぶ!」


 心音は先回りするように、ぴしゃりと翔太郎の言葉を遮った。


「ていうか、私よりも送るべき人がいるでしょ? 玲奈のことは、ちゃんと家まで送り届けるんだぞ〜? 男の子〜」


 茶化すように肩をすくめて、ニヤリと笑う心音。

 玲奈が一瞬、恥ずかしそうに視線を逸らしたのを見て、満足げにうなずいた。


「もちろん、玲奈を家まで無事に送るけど……でも、心音もあんまり無理すんなよ。何かあったらすぐ連絡してくれ」


 翔太郎が念を押すように声をかけると、心音はくるりと振り返って笑った。


「はーい。まあ安心してよ。今日はちゃんと警備の人たちと帰るからさ。途中でゼクスと鉢合わせなんて、絶対にゴメンだもん」


 そう言ってぺろりと舌を出し、翔太郎の不安を軽く吹き飛ばすように肩をすくめる。


「アリシアも、また明日ね? あんまり無理しないように」


「……うん」


 これまで静かに様子を見守っていたアリシアが、小さく頷いて手を振った。

 その仕草にはどこか、ぎこちないながらも感謝の気持ちがにじんでいる。


「ふふ、やっとちょっと元気そうになったね。……じゃ、バイバイ」


 明るく手を振ると、心音は軽快な足取りで保健室の扉へと向かった。

 何度も後ろを振り返ることなく、背筋を伸ばして真っ直ぐ歩いていく。


 扉が閉まる音が静かに響き、保健室の空間に再び沈黙が落ちる。

 その静寂の中で、翔太郎と玲奈はふと顔を見合わせた。


 どちらからともなく、目が合う。

 言葉は交わさなくとも、互いに同じ気持ちを抱えていることが伝わってきた。


 心音が保健室を出てしばらく、室内にはかすかな空調の音と、誰も口を開かない静寂が漂っていた。

 翔太郎が少し頭を掻きながら立ち上がり、椅子の背に掛けていた制服の上着を手に取る。


「さて、俺たちもそろそろ帰るか。護衛の迎えが来る前に、正門の方で合流しないとな」


 翔太郎が肩を回しながら立ち上がると、玲奈もそれに続いて制服の襟を整えた。


「はい。アリシアさんの様子も落ち着いていますし……そろそろ行きましょう」


 その視線は、ベッドの上で静かに目を閉じるアリシアに向けられている。

 その姿にどこか安堵の色が浮かんでいた。

 翔太郎もベッドの傍に寄り、静かに声をかける。


「アリシアはどうするんだ? 学園に残るって言うなら、このまま帰るけど……家まで戻るなら、俺が送っていくよ?」


 一瞬、アリシアの睫毛が揺れたが、やがて静かに首を横に振った。


「……私は大丈夫。これだけ帰りが遅かったら、多分、家の人が迎えに来る」


「家の人?」


 翔太郎が首を傾げた、その瞬間だった。


 ──コン、コン。

 保健室の扉が、控えめに二度ノックされる。


 全員がぴたりと動きを止め、視線が一斉にドアの方へ向く。


「失礼いたします」


 澄んだ女性の声が響いた。

 ゆっくりと扉が開き、その姿が現れる。


「えっ……誰?」


 玲奈が思わずそう漏らしたのも無理はなかった。

 入ってきたのは、まるで舞台から抜け出たような気品をまとう女性だった。


 漆黒の長袖のメイド服は細部まで丁寧に仕立てられ、金の刺繍が縁を飾っている。

 桃色の髪をきっちりと結い上げ、マリンブルーの瞳が一瞬の曇りもなく室内を見渡した。


 その瞳が、ベッドのアリシアを捉えた瞬間──彼女は迷いなく一歩踏み出し、静かに深々と礼をする。


「……お嬢様、ようやくお迎えにあがりました。お加減はいかがでしょうか?」


 その声音は驚くほど静かで、だが一切の揺らぎがなかった。まるで、彼女がここに現れることが当然であるかのように。


 アリシアがゆっくりと目を開き、その姿を見据える。


「……フレデリカ」


 呼ばれた名に、メイドは微かに頷き、すっと身を起こす。


「ソルシェリアよりご連絡を受け、すぐに学園へ。状況はおおよそ把握しております。倒れられたと聞いて、居ても立ってもいられず……」


 そこで彼女はベッドの近くにいる翔太郎たちに近付き、手元の小さな懐中端末を確認すると、再び整った所作で一礼する。


「……アリシアお嬢様の御学友の方々ですね?」


「あ、はい。そうですけど……」


 翔太郎が少し戸惑いながらも頷くと、フレデリカは姿勢を崩さぬまま、静かに名乗った。


「申し遅れました。(わたくし)、フレデリカ・ノルディエンと申します。アリシア・オールバーナー様に仕える専属の従者にございます。以後、お見知りおきくださいますよう」


 フレデリカ・ノルディエン。


 その口調には一片の隙もない。

 だが、完全無欠のそれでありながら、不思議と威圧感を感じさせない佇まいがあった。


 玲奈がそっと翔太郎に近づき、囁く。


「なんだか、すごい人が来ましたね。アリシアさんって、もしかして……名家のお嬢様なんでしょうか?」


「いや、ほら……氷嶺家の爺やさんだって似たようなもんだったろ。玲奈だって、元はお嬢様じゃん」


 翔太郎が苦笑しながら肩をすくめるが、その目にはほんのわずかに緊張が走っていた。

 フレデリカの放つ空気は、それだけで場を整えるほどの威厳を持っていた。


 やがて、フレデリカがアリシアの方へと再び向き直り、わずかに視線を下げて問う。


「お嬢様。一つ提案がございます。学園での出来事について、私も大まかな報告は岩井教論から受けておりますが……詳細については、やはり当事者からお話をうかがうべきかと」


「……話って、何のこと?」


「お嬢様が一番分かっておられるのでは? あの男が生きていたんでしょう?」


「──っ」


 口にせずとも翔太郎にも伝わった。

 ゼクス・ヴァイゼンというアリシアの過去のトラウマの元凶でもあり、現在進行形でカレンと共に玲奈を狙う敵の能力者。


「それって、もしかしてゼクスのことか?」


 思わず翔太郎が口を挟む。

 隣にいる玲奈が息を呑んだが、フレデリカは落ち着いた様子で頷いた。


「ええ。あなた方のことも聞いています。鳴神翔太郎様、氷嶺玲奈様。あの研究者を相手によく無傷で生還出来たものです」


「待って。ゼクスの件はわざわざこの人たちに詳しいことを話す必要はない。これは私だけの問題なんだから」


 フレデリカの話を遮るようにアリシアが言い放つ。

 口を挟んだ翔太郎を思いっきり睨みつけたまま。

 まるで踏み込んでくるなと言わんばかりの態度だった。


「ですが彼らは実際にゼクス・ヴァイゼンと交戦しています。情報整理の為にも、一度オールバーナー邸にお招きしてはいかがでしょうか? 落ち着いた環境で、お話を整理なさる機会を設けるべきかと」


「え、アリシアの家にか?」


 思わぬフレデリカの提案だった。

 しかし、その言葉を聞いた瞬間にアリシアは明らかに表情を曇らせた。


「……やめて。絶対に嫌」


 あからさまな拒絶に、玲奈が少し目を見開いた。


「……アリシアさん?」


 玲奈の呼びかけに、アリシアはかすかに目を伏せたまま、淡々とした声で答えた。


「人を呼ぶような場所じゃないの。特に、あの屋敷は」


 普段と変わらない冷静な声音。

 けれど、その奥には明確な拒絶の色が滲んでいた。


 翔太郎は無意識にアリシアの横顔を見つめる。

 その言葉の裏に、何か深い事情があると、直感で感じたからだ。


 だが、フレデリカはまったく動じることなく、すっと一礼する。


「かしこまりました。お嬢様のご意思は最優先されるべきです。ただ……ご体調のこともございますし、周囲の方々と情報を共有されることが、お嬢様ご自身の助けになるかと存じます。もちろん、無理にとは申しませんが」


 彼女の口調はあくまで丁寧で、強制の色はない。

 だが、そこには確かな理があった。


「ちょっと今の話、待ってくれないか?」


 その時、翔太郎が割り込むように口を開いた。

 フレデリカの理路整然とした提案と、アリシアの重い空気に包まれた場の中で、彼の言葉はあまりにも率直で、ある意味で空気を読まないものだった。


 そんな彼の発言は、アリシアの顔を引き攣らせるのに十分だった。


「翔太郎?」


 玲奈が少し戸惑いながらも彼の顔を伺う。

 だが、翔太郎は一歩も引かずに続けた。


「前々から思ってたけど、俺もアリシアには聞きたいことがたくさんあるんだ。ゼクス・ヴァイゼン、それにカレンっていうフードの女の件含めてな」


 その名前が出た瞬間、アリシアの表情が僅かに動いた。


「それは、あなたには関係ない話でしょ」


「関係なくないだろ」


 珍しく、翔太郎が語気を強めた。


「こっちは玲奈が二回も狙われてるんだぞ。それに、アリシアだって一緒に戦ってる。仲間なら、伝えるべき情報くらい、ちゃんと話すべきじゃないのか?」


 アリシアは目を細めて、冷たく言い放った。


「私は、あなた達と仲良くなった覚えも、仲間になった覚えもない」


「────っ!」


 はっきりとしたアリシアの拒絶に、思わず翔太郎の額に青筋が浮かんだ。

 この期に及んで、まだそんな物言いをするアリシアに思わず怒ってしまいそうだったが、なんとか深呼吸して落ち着かせる。


「しょ、翔太郎……」


 後ろにいる玲奈も心配そうな顔で翔太郎の様子を伺っていた。

 翔太郎は目を閉じ、言葉を選びながら口を開く。


「……いや、この際、仲間じゃないって言うならそれでもいい。別に俺は、無理にアリシアと仲良くなろうとか思ってない。ただな」


 彼は真っすぐにアリシアを見つめる。


「玲奈が狙われたのは、曲げようのない事実なんだよ。そこだけはちゃんと話すべきだろ? 誰が味方で、誰が敵か。俺たちが見落としてる情報があるなら、それを補い合うのは必要なことだ」


 アリシアは沈黙する。

 その表情には、どこか痛みと、迷いがあった。


「……」


「アリシアが、ゼクスやカレンとどんな関係にあるのかは知らない。でもな……あいつらのこと、無視できるほど平和な状況じゃないだろ?」


 翔太郎は強くもなく、弱くもなく、ただまっすぐな目で語りかける。


「知ってることがあるなら、教えてくれないか?」


 そう言って翔太郎はアリシアに懇願した。

 仲間として伝えるべきという一方的な押し付けではなく、あくまで二人の話を知りたいという純粋な願いだ。


 沈黙を保っていたフレデリカが、そっと口を開く。


「……場所については、必ずしもオールバーナー邸である必要はございません。中立の施設や、より安心できる環境をご用意することも可能です。お嬢様のお気持ちを最優先に、最も適切な形をとらせていただきます」


 静かで、柔らかな妥協案。

 アリシアはほんの僅かに目を伏せて、小さく息を吐いた。


「……考える。少しだけ……時間をちょうだい」


「もちろんでございます」


 フレデリカは深く頭を下げる。

 その姿は絵画のように整い、そして一分の揺らぎもなかった。


 そして、彼女はふと顔を上げ、翔太郎をじっと見つめる。


「……ん?」


 翔太郎は不思議そうに眉をひそめる。


 フレデリカの視線は、ただ真っすぐに翔太郎を射抜いていた。

 けれどその目には、敵意も、好奇心もなく──ただ、どこか懐かしさのような、遠い過去を思い出すような色が浮かんでいた。


「……何か?」


「いえ、失礼しました。少々……面影がありまして」


「面影?」


「お気になさらず。今は、お嬢様のご決断を待つといたしましょう」


 フレデリカはそれ以上語らず、静かにアリシアの傍へと戻っていく。


 翔太郎はその後ろ姿を見つめながら、胸の奥で言い知れぬ違和感を覚えていた。

 まるで、自分の知らないところで何かが繋がっているような、そんな奇妙な予感を。

評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ