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雷鳴のラストピース  作者: 雨車狸
第二章 『爆炎のプリンセス』
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第二章22 『再会』

「キミの炎が、いったい何を“燃やす”のか──見せてもらおうか」


 ゼクス・ヴァイゼンはそう言い放ち、唇を吊り上げて嗤った。


 まるで人間の感情など、最初から存在しないかのような声色で。

 目の前の少女が崩れていく様子すら、彼にとっては一つの実験結果でしかなかった。


 その瞬間だった。

 アリシアの体が爆ぜるように震えた。

 左手で頭を押さえ、喉から押し殺したようなうめきが漏れる。

 右手には、ゆっくりと炎が灯る。


 けれど──それは、いつもの紅蓮の炎ではなかった。


(違う。これは違う)


 カレンという名前が、脳裏を引き裂くように駆け抜ける。


 ──そんなはずがない。

 カレンは死んだのだ。

 燃えて、崩れて、自分の手の中で──。


「カレンは……カレンは、もう死んだ……! 生きてるはずがない!」


 言葉にした瞬間、喉が焼けつくように痛んだ。


 ゼクスは面白そうに片目を細め、あたかもそれを待っていたかのように、静かに言葉を紡ぐ。


「だったら……キミ自身の手で、それを否定すると良いじゃないか。目の前にある現実が偽物なら──焼き尽くしてみせればいい。それもまた、キミの選択だ」


 吐き気がするほどの無感情。

 一切の倫理も、良心も、同情すら欠落した科学者の声。


 人の心を抉り、それがどんな結末に至ろうと──彼にとってはただの研究結果なのだ。


「……だが、そうだな」


 ゼクスはひとつ肩をすくめ、わざとらしく思案するような素振りを見せた。


「想定していたよりも火力が弱い。キミほどのサンプルなら、もっと美しく壊れてもらわないと困るんだ。なら……こういうのはどうだろう?」


 そう言って彼は、隣に立つフードの女──カレンを、アリシアの正面へと突き出した。


 一瞬で、その場の空気が凍りついた。

 玲奈たちを襲った謎のフードの女。

 その正体はアリシアの知り合いと思われる少女。


 アリシアの瞳がぶれる。

 脳が現実を拒否して、視界が幾重にも歪んだ。

 フードを少しだけずらしたその女は、アリシアに向かってごく自然に口を開いた。


「久しぶりね。アリシア」


 その声は、記憶の中のカレンと寸分違わぬ響きを持っていた。


「────っ」


 言葉にならない音が、アリシアの喉から漏れる。


「身長はあまり伸びてないようだけど……随分と綺麗になったのね。シミ一つなくて健康そうな白い肌、艶のある金髪、それに……」


 彼女は、アリシアの右手に宿る炎を見つめる。


「信じられないほど強くなった、異能力」


 笑っていた。

 どこまでも自然に、懐かしさと憧憬を滲ませるように。


「──私とは、大違い」


 その言葉を境に、笑顔が音を立てて崩れた。

 目が細まり、頬がわずかに引き攣る。


「私の全部を奪って、焼いて、一人だけ生き残ったお姫様」


「……あぁ、っ」


「いいわね、アリシア」


「ち、が、違うっ……わ、私はっ……!」


「羨ましいわ、アリシア。あなたはちゃんと幸せそうで。ちゃんと愛されてて、ちゃんと強くて。私みたいに、捨てられたり、実験台にされたりしなくて」


 その瞬間、アリシアの中で何かが、確かに壊れた。


 否、壊れたのではない。

 破裂した。


「う、うあ、ああああ……ッ!!」


 両耳を塞ぎ、目を見開いたまま絶叫が響く。


 もう、言葉は意味を持たない。

 脳が現実を処理しきれない。

 目の前のカレンの存在を受け入れた瞬間、自分が壊れてしまうと本能が告げていた。


「ちがう……ちがう、ちがう、ちがう!!」


 右手が、真っ黒に染まっていく。


 通常の炎とは明らかに異質な、粘つくような暗黒の焔。

 それは怒りや悲しみを超えて、呪詛に近い。

 魂を焼き尽くす、負の灼熱が形を持ちはじめていた。


 ゼクスの目が、ぞくりと歓喜に震える。


「……クク。やっぱり、やっぱりそうだ! 君は素晴らしい! こんなにも壊れやすくて、こんなにも美しい。さあ、もっと見せてくれ! キミの炎を!」


 その声は、最早ただの観察者ではなかった。


 彼は本気でアリシアの異能に心酔している。

 彼女が壊れていくその過程こそが、ゼクス・ヴァイゼンにとって何よりの悦楽。


 アリシアの手から、黒い火柱が噴き上がる。


 彼女はもう、自分が誰で、なぜ叫んでいるのかすら分かっていない。

 ただ一つだけ。

 その炎が、苦しみや悲しみの全てを消し去ってくれるのだと──そう、信じ込んでいた。


「──そう。アリシア、やはりあなたはそうなのね」


 カレンの声に感情は無かった。

 愛情も、怒りも、哀しみすらも、そこにはもう残されていない。

 ただ静かに、絶対零度の冷たさを帯びた声音が続く。


「また──私を焼き殺すんだ」


 その一言が、すべての引き金だった。


 脳内で何かがちぎれる音がした。

 記憶という記憶が、バラバラに崩れていく。

 過去と現在、夢と現実、罪と赦し──その境界がぐずぐずに溶けて、脳の中をどす黒く染めていく。


 違う。

 違う。違う違う違う──そんなはずない。

 それでも、それが真実だというなら。


「カレンは死んだの……あの時、死んだんだ……!」


 声に出した瞬間、自分の声が自分のものではなかった。

 喉の奥から漏れたのは、獣のような嗚咽だった。

 意味なんてない。

 ただ苦しい。苦しい。苦しい。


 なぜ生きているの。なぜ私の前にいるの。

 なぜ、そんな顔で私を見るの。

 なぜ、あの時、私の手が──

 なぜ、私が。なぜ。なぜ。なぜ──


 思考はもうとっくに破綻していた。

 問いが問いを生み、それがまた苦しみの棘となって内側から心を引き裂いていく。


 ──頭が痛い。息ができない。胸が軋む。


 助けて、誰か。

 もう、これ以上、自分を責めたくないのに。

 でも、赦される資格なんてない。

 赦されたいとも思えない。

 だったら──全部壊してしまえばいい。


 自分のせいで壊れた世界を、今度は自分の手で終わらせればいい。


 その時だった。

 右手に、何かが宿る感覚があった。

 重たくねっとりとした底なしの熱。

 ドス黒く濁った血のような色をした炎。


(ああ、私はまた──これで誰かを燃やすんだ)


 ──怖い。でも、止まれない。

 ──止まりたい。でも、怖くて怖くて、止まることができない。

 ──誰か、お願い、わたしを、止めてよ。


 でも口は動かない。

 瞼は震えているのに、視界はすでに赤黒く染まっていて誰も見えない。

 名前を呼ぶ声も、遠くで響く雷鳴のようにしか聞こえない。


 怖い。どうしてこんなに苦しいの。

 何もしてないのに。いや、全部私のせいなんだ。

 だから私は、誰かに焼かれなきゃいけないのに。

 なのに、どうして──


「……ぁ、ああああアアアアアアアアッ!!!!!」


 黒炎が、意思を持ったように蠢き始める。

 そして、彼女自身の理性すら喰らおうとしていた。


 それはもはや攻撃ですらなかった。

 壊れきった少女が、最後に吐き出す、命の残響だった。


 そして彼女の中の、アリシア・オールバーナーという存在が──確かに崩れ始めていた。


 ──壊さなきゃ。全部。

 ──そうすれば、カレンも、ゼクスも、あの記憶も、なかったことにできる。


 心の奥底で、誰かの悲鳴が聞こえた。

 けれどそれすら、もう意味を持たなかった。

 アリシアの中で、痛みも理性も、自分さえも消えて行った。


 残っていたのは、ただ一つ。

 “全てを焼き尽くす”という衝動だけ。


 膨張する黒炎が、呼吸と共に世界を蝕んでいく。

 まるで自分の存在そのものが、罪でできているかのように。


 そして、それを見た男は──狂喜した。


「そうだ! その炎を放って、初めてキミは完成に至るッ!」


 ゼクス・ヴァイゼンの目には、もうアリシアという少女は映っていない。

 見ているのは成果だった。

 生まれ、刻まれ、苦しみ抜いてきた少女の、壊れていく魂さえ──彼にとっては、ただの栄光に過ぎない。


「素晴らしい……なんて、素晴らしいんだ12番! キミこそが、ワタシの最高傑作だ!」


 絶頂寸前の声だった。

 全身が粟立つような不気味さに、背後で見ていた玲奈と心音は、思わず後ずさった。

 何か言葉をかけようと、口を開く。

 けれど──何も出てこなかった。


 震えていた。

 少女が、少女でなくなっていく姿に。


 アリシアの顔は、もう人のものではなかった。

 涙も、叫びも、怒りも、すべてが崩れた表情。

 笑っているのか、泣いているのかもわからない。

 ただ──見開かれた目に、光がなかった。


 そして──放たれようとした、黒炎。


 まるでこの世界すべてを呑み込むほどの質量をもって、荒れ狂う負の炎が、辺り一面を灼き尽くそうとした──その瞬間だった。




「──もういいよ。アリシア」




 静かな声が、落ちてきた。


 翔太郎だった。


 彼だけが、最初から一度も目を逸らしていなかった。

 狂気に呑まれるアリシアの姿を、真正面から見据えながら、それでも迷わなかった。


 彼の手がすっと伸びた。


 その動きに、一切の力みも感情もない。

 だが──そこには、確かに優しさがあった。


 怒りでも、恐怖でも、拒絶でもない。

 アリシアを、暴走した友人を止めてやりたいという、ただそれだけの純粋な想いがあった。


 掌から伝う電気は、ごくごく微弱な紫電。

 殺すためじゃない。

 戦うためでもない。

 ただ、彼女の時間を止めてやるためのもの。


「紫電」


 触れた瞬間、アリシアの身体がびくりと震えた。


「あ、あっ……!」


 喉から漏れたのは声にならない息。

 次の瞬間、狂ったように荒れ狂っていた黒炎が、音もなく霧散していく。


 まるで──最初からそこに何もなかったかのように。


 世界が、静寂を取り戻す。


 アリシアの身体が、がくりと力を失った。

 倒れこむ少女を、翔太郎は何のためらいもなく、その腕で優しく受け止めた。

 抱きしめるのではなく、包み込むように。


「少しでいいから、休んでろ」


 彼は、それ以上何も言わない。


 ただその肩に額を預け、震える少女の体温を感じながら、静かに目を閉じていた。

 誰にも届かない悲鳴を──彼だけは、確かに受け止めたのだ。


 そして、ゼクスの歓喜も、玲奈と心音の絶句も──すべては、音のない沈黙に吸い込まれていった。


 壊れる寸前だった少女の世界は、一人の少年の手によって、いま確かに繋ぎとめられた。

 ──それが翔太郎にできる、最大限の優しさだった。


「心音、アリシアを頼む」


 震える手でアリシアの身体を支えながら、翔太郎は静かに言った。


「う、うん……! でも……」


 心音は声を詰まらせた。

 涙で濡れたアリシアの頬が、彼女の胸元に押しつけられている。

 それだけで、何があったのか痛いほどに伝わってきた。


 ──こんなになるまで、どんな目に遭ったの。

 親友の変わり果てた姿に、心音は絶句しながらも、震える腕で必死にアリシアを抱きとめた。


 翔太郎は一度だけアリシアに視線を落とし、次の瞬間には、敵を正面から見据えていた。


「──アリシアの代わりに戦うのは、俺だ」


 ゼクス・ヴァイゼン。

 アリシアの心と体を踏みにじった張本人。

 そして──玲奈たちを襲った、あのフードの女。


「お前たちの関係性はよく知らない。だけど、アリシアをお前たちと戦わせるのだけは、絶対にダメだって分かる」


 低く、冷たい声音だった。

 その言葉に込められた怒りは、まるで雷のように鋭く、確実に敵を射抜いていた。


 だが、ゼクスはまったく動じない。

 むしろ──あくびでもしそうなほど、興味を失った目で黒炎の残滓を見下ろしていた。


「……興醒めだな」


 霧のように立ち昇る黒炎を眺めながら、ゼクス・ヴァイゼンは肩をすくめた。

 まるでつまらない実験に時間を浪費した科学者のように、心底どうでも良さそうな表情で。


「せっかく“完成”の一歩手前まで来たというのに、最後の仕上げで観測妨害とは。どうやら、キミは本質的に実験というものを理解していないらしい」


 先ほどまでの狂喜乱舞は消えていた。

 そこにあるのは、ただの冷笑。

 人の感情も命も──すべては、彼にとって数字と現象にすぎない。


「キミも見てみたいとは思わなかったのかい? 爆炎のプリンセスの完成を。壊れて、砕けて、そして──何者かへと至る、その瞬間を」


 翔太郎は言葉を返さなかった。

 返せるはずがなかった。

 怒りと憤りが喉の奥で煮え立ち、息をすることすら痛かった。


「アリシアがどんな思いで異能力を使おうとしていたのか、俺には分からない。それでも涙を流しながら、それでも立ち向かったアリシアの何を、お前は見ていた?」


 翔太郎の視線は炎のように燃え上がっていた。それでも彼は、踏み出せなかった。


「言ってる意味が分からないな」


 ゼクスは興味を失ったようにひらひらと手を振り、隣に立つカレンの肩を軽く叩いた。

 それは命令でも合図でもなく、ただのスイッチ。


「行くよ、13番。氷嶺玲奈くんと雷使いの少年の現在の異能力データは十分収集できたし、幸運にも12番にも再会できた。これ以上ここに用はない」


 カレンは言葉を発さないまま立ち上がる。

 その動きには、一切の躊躇いも感情の揺れもなかった。

 まるで意思すら存在しない、プログラム通りに動くだけの人形のようだった。


 そして──もう二度と、アリシアの方へ振り返らなかった。

 ゼクスの視線が、気絶したまま涙の跡を残して眠るアリシアに向く。


「また会おう、12番。今度こそ完全に壊れるところまで見届けさせてくれたまえよ。君が“爆炎のプリンセス”として選ばれた理由を証明するために」


 その声には、まるで期待するような愉悦が滲んでいた。

 ──嬉しそうだった。

 人の破滅を、少女の崩壊を、あの男は心から楽しみにしている。


「さようなら、実験動物の諸君。今日の実験は最後の邪魔を除けば完璧だ。95点の採点を与えよう」


 ゼクスがカレンのフードを掴んだ瞬間、空気がねじれた。

 灰のような粒子が周囲を包み、重力すら歪めるような違和感が場を支配する。


 ──逃げられる。

 その確信と共に、翔太郎が一歩踏み出す。


「待て、ゼクス!」


 怒声が空気を裂いた。

 雷鳴が掌からほとばしり、翔太郎の瞳には狂おしいほどの怒りが宿る。

 灰の中に消えようとしている背中に声が鋭く飛ぶ。


「……なんだい、まだ何か?」


 ゼクスの声は振り返らずに返された。

 その声は飽きた玩具を放り出すかのように、ぞんざいだった。


「お前たちの目的は何なんだ! 何で玲奈を何度も狙う!? 何でアリシアを苦しめる!? それに──」


 翔太郎の声が、一瞬だけ震える。


「そのフードの女は、どうして俺が“あの災害”で生き残ったことを知ってるんだよ!」


 叫びは、痛みに似ていた。


 知られたくなかった。

 剣崎以外の人間には、知られるはずのなかったあの瞬間を、確かにカレンに知られていた。

 それがどれだけ異常なことか、翔太郎自身が誰より理解していた。




『──やっぱり生きてたんだ。お兄さん』




 あの言葉は──翔太郎の素性を知っている者の発言。

 例えば、夜空の革命の関係者でも無ければ、決して出てこない台詞だ。


 ゼクスは立ち止まり、淡々と言った。


「しばらく12番はキミに預けよう。時が来たら──氷嶺玲奈くんと共に、私の元へ届けたまえ。できれば、生きたままでね」


「ふざけんな! 答えになってないだろ!」


 言葉と同時に、雷が翔太郎の指先で閃いた。

 その一撃に迷いはない。

 無力を嘲笑うように去ろうとする男に対して、あまりに当然の抗いだった。


 だが──その腕を、誰かが強く掴んだ。


「翔太郎っ!」


 掴んだ手は小さく、しかし決して弱くなかった。


「玲奈、何を───っ」


 玲奈だった。

 その顔には、いつもの冷静さなどどこにもなかった。

 怒りと、焦りと、不安が混ざったような表情だった。


 いや、違う。

 翔太郎を、何処にも行かせたくない。

 ただ一つの想いだけが、そこにあった。

 その瞳は誰よりも強く、彼の存在だけを求めていた。


「お願いですから……今、深追いするのはやめてください……!」


 かすれた声が、張り詰めた空気を裂いた。

 痛みを、押し殺していた。

 震えていたのは声じゃない。心だった。


「アリシアさんも、水橋さんも……満身創痍なんです……。ここであなたまで無茶をしたら……」


 唇が震え、言葉が途切れた。

 そしてほんの一瞬だけ声が細くなる。


「もし、あなたがいなくなったら、私は……」


 もう、それ以上は言えなかったのだろう。

 それでも伝わった。十分すぎるほどに。

 翔太郎の胸の奥に、刃のように届いた。


 踏み出した足は止まった。

 怒りが、焦燥が、雷鳴のように翔太郎の内側で暴れていた。

 それでも、玲奈の手を振り払うことだけは……できなかった。


 守りたいものがあった。

 倒すべき敵よりも、今ここで護るべきものが、確かにあった。


 ゼクスとカレンの姿は、灰の帳に溶けていく。

 消えていくその背に、叫びたいことは山ほどあった。

 それでも、翔太郎の足はもう動かなかった。


 ──行けなかった。

 手を離さなかった玲奈を。

 今この瞬間、自分を必要としてくれる彼女を振り切って、敵を追うような真似が出来なかった。


 重い空気がその場を包む中、ただ一人、心音が声を上げた。


「鳴神くん……アリシアは眠ったよ。大丈夫。ちゃんと、息してる」


 その声は明るかった。

 いつものように、ほんの少し笑ってさえいた。

 でも、それは明らかに無理をした声だった。

 笑ってみせなければ、泣き出しそうな自分を必死に支えている声だった。


「水橋さんも、気を失ってるだけ。大丈夫、まだ生きてるから……」


 震えていた。

 だけど、目を逸らさずにいた。

 抱きしめるアリシアの髪を優しく撫でながら、泣き腫らした目で、それでも誰かのために言葉を紡いでいた。


 誰かの涙が、誰かの怒りが、誰かの声が。

 全てがこの場に、確かに残っていた。

 それでも、ゼクスたちのような者にとっては、そんな感情の欠片など、意味を持たない。


 命すらも、ただの数字。

 心さえも、ただの観測データ。

 人間の尊厳すら、彼にとっては実験対象に過ぎない。


 翔太郎は唇を噛みしめた。

 怒りを吐き出すこともできず、拳を握ったまま、ただそこに立っていた。


 何もできなかった。

 誰も救えなかったわけじゃない。

 けれど──全てを守り切れたわけじゃなかった。


 振り返れば、玲奈がまだ袖を掴んだまま立ち尽くしていた。


 ただ、そこにいてくれた。

 何も言わずとも、確かに彼を支えていた。


 ゼクスたちの残した実験の爪痕だけが、戦場に焼き付く。誰の傷も癒えぬまま、夕暮れは静かに終わりを迎えていた。

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