第二章21 『爆炎のプリンセス①』
私は、生まれながらにして持たざる者だった。
──無能力者。
その事実が、すべての始まりだった。
この世界では、人口のおよそ一割が異能力者として生まれる。
火や水を生み、電気や風すらも操る力を持つ者たち。
その存在は、戦争と支配の形を変えた。
かつて国境を越えて銃や兵器を撃ち合っていた時代は過ぎ、今では異能力者という個が、小国一つを凌ぐ武力と価値を持つ。
私が生まれたのは、ドイツ西部の灰色の工業都市だった。
戦後復興から百年が経ち、国は経済こそ安定していたが、その裏では力を持たぬ者への差別と排除が、静かに確実に進んでいた。
特に治安の悪かった地域で生まれ、異能力を持たない者は、社会の最底辺で生きるしかない。
そして──私は、その底辺の更に下にいた。
母は、売春婦だった。
言い換えれば、それしか選べなかっただけの話。
あの街で女に生まれ、無能力者として育ったなら、大して特別なことじゃない。
制服を脱ぐ頃には、すでに決まっていた将来。
どうせ誰にも選ばれないなら、自分の身体を金にするしかない──母がそう考えるようになるのに、時間はかからなかったと思う。
私は、そんな彼女の誤算として生まれた。
父親が誰なのか、母は知らなかった。
いや、きっと覚えていないのだろう。
男たちは金を払うだけの存在で、母にとっては皆“同じ顔”だったのかもしれない。
だから、私は“顔のない男”と“名前のない愛情”から生まれた。
母の腕の中は決して温かくなかった。
私はまだ言葉も喋れない赤子だったけれど、それでも分かった。
抱かれているはずなのに、そこには距離があった。
眼差しはどこか遠くを見ていて、私はまるで抱かれているという感覚だけを与えられている人形だった。
母の目の中に、私はいなかった。
代わりにあったのは、重荷という言葉だった。
それでも、母は私を殺さなかった。
生きさせた。
多分、それが最後の責任感だったのだと思う。
けれど──その責任感は、ある日唐突に終わった。
私は売られた。
♢
その日。
私はいつものように、小さな薄暗い部屋の隅で眠っていた。
毛布の代わりに、古びたコートをかけられていて、ベビーベッドなんてものはなかった。
木箱に新聞紙を敷いたものが、私の寝床だった。
外では雨が降っていた。
ドイツの冬は長く冷たい。
湿った空気が床下から這い上がり、空気を腐らせていた。
母が、誰かと話す声がした。
「確かお医者さんか何かだって話でしたよね。薬品の研究? あんな子供が欲しいって、変わってるんですね」
扉の向こうでいつもより長く、そして低い。
ひどく乾いた声。
それは、母が金の話をしている時の声だった。
「ふうん。へぇ……そんな金額、本当に出せるんですか?」
笑っているようで、笑っていない声。
私はまだ言葉を知らなかったけれど、その温度のないやりとりが、いつものそれと違うことだけは分かった。
──何かが、売られる。
そう思った。
母はよく大切なものを生きるために売った。
祖母の形見の指輪も、妹が残した人形も、近所の誰かに借りたコートも。
売れるものなら何でも売る女だった。
だから、この日も同じことだと思っていた。
けれど、いつもとは少し違った。
今回売られるのは──私だったのだから。
扉が開いた。
そこに立っていた男の顔を、私は今でもはっきり覚えている。
ゼクス・ヴァイゼン。
銀色の眼鏡。左のレンズだけに奇妙な光が差し、右目は暗いフレームに隠れていた。
無表情。無臭。生きているはずなのに、生き物の匂いがまるでしなかった。
人間というよりも、冷たい機械のような存在だった。
彼の視線が、私に向いた。
何も感じていないはずなのに──私は、本能的に怖かった。
まるで、見られた瞬間に自分という存在が何かに加工される気がした。
人間のままではいられないと思わせるような、そういう種類の視線だった。
「一応、見てみます?」
母が笑った。
口角だけが吊り上がった、形だけの笑い。
その声はひどく無理やりで、耳障りだった。
「ほら、女の子ですし。もし大きくなって綺麗に育ったら……あんたみたいに枯れてそうな男でも、多少は興奮するでしょ?」
明らかに狙って言っていた。
あえてその路線で取引を有利にしようとする、下卑た冗談。
だが──ゼクスは微動だにしなかった。
まるで、人間の感情というものを「標本」としてしか理解していないような沈黙だった。
「興味はありません。性別も外見も知能も不要です。必要なのは、研究対象としての健康状態だけです」
言い放たれた言葉は空気を冷やした。
「手足が揃っている。呼吸に異常なし。脳波に乱れもない。ただし、栄養失調が進行しており、内臓機能に軽度のリスクが見られます。ですがそれも含めて想定の範囲内です。十分、使える素材です」
素材と、そう言った。
まるで工業製品の部品でも扱うかのように、ゼクスは“私”を評価した。
母は軽く肩をすくめ、何の反省も恥じらいもなく、続けた。
「名前、聞きます? 一応、付けてはいるんですよ、こう見えても」
ゼクスは、ほんの少しだけ首を傾けた。
「記録の都合上、必要です。出生届は?」
「は? そんなの出してる訳ないじゃん。あんたが勝手に書き換えてくれればいいじゃない。どうせ誰も気にしないわよ」
その口調は、言葉の端々までふてぶてしかった。
生きてきた世界のどこにも責任なんて存在しなかった女の、当然の態度だった。
「そうですか」
ゼクスは静かに言った。
「名前は──アリシア。別に深い意味なんてないわよ」
「ほう? 名付けた経緯も特に無いと?」
「ああ……昔、ゴミ捨て場で拾った辞書があってね。何となくパラパラって開いたら“アリシア”って単語が目に入ってさ。本当にそれだけ」
「なるほど。ちなみに意味は?」
「意味? 知る訳ないじゃん。あたし、英語なんか詳しく読めないし」
彼女は笑っていた。
まるで、ペットにでも名前をつけたときのエピソードを語るように、無邪気に。
ゼクスは、それ以上は何も聞かず、小さく頷いただけだった。
その後、彼は黒い革のブリーフケースを開き、封筒を取り出す。新品の紙幣が束になって、何の躊躇いもなく差し出された。
母の目の色が明確に変わった。
口角が自然と釣り上がる。
瞳孔が開き、金の重みを手の中で確かめるように何度も指を滑らせる。
「え、これ……こんなに? 本当にいいの……?」
声が震えていた。
興奮で、喉が粘ついていた。
「研究資金の一部です」
ゼクスの声は、変わらない。
冷気のように乾いている。
「身元不明の幼児の調達には、手間とリスクが伴います。あなたのような存在は──ある意味で貴重ですから」
「そっか……そっかぁ……あはは、やった……助かる、ほんっとに助かる……!」
彼女は封筒を抱きしめるようにして笑った。
まるで、人生で初めて愛を受け取ったような顔で──その金を見ていた。
私はその腕の中にいた。
けれど、そこに母親の温もりはなかった。
彼女は、その金の価値で、私のすべてを換算した。
それが、この世で最初に売られた記憶だった。
私は泣かなかった。
泣いても、誰も気にしないことを知っていた。
いや、正確には泣くことがどんな意味を持つのか、もう最初から与えられていなかったのかもしれない。
ゼクスの腕に抱かれたとき、私は静かに、確かに思った。
──ああ、これで“家族”は終わったんだ。
私は、望まれずに生まれ、売られて、名前だけを残して連れて行かれた。
目的地も、理由も知らないまま。
ただ一つだけ確かなのは、それが全ての始まりだった事だ。
♢
初めて目を覚ましたとき、私が見たのは真っ白な天井だった。
乾いた蛍光灯の光が、目の奥をじりじりと焼いた。
すぐ傍で、誰かが泣き叫んでいた。
女の子の声。男の子の声。喉が潰れるほどの絶叫。
けれど、それが何なのか、私はまだ理解できなかった。
何も知らず、何も分からず、私はただ泣いた。
怖くて、痛くて、寒くて、怖くて──とにかく怖かった。
その時、誰かが私の腕を掴んだ。
氷のように冷たい指。
覗き込んだ顔には、感情が欠けていた。
無表情のまま、その人は私の身体を弄った。
小さな腕に注射。胸に張りつくパッド。
頭皮に貼り付けられる電極。
何の説明もなく、何の言葉もなく、ただ機械的に。
熱い。痛い。怖い。
けれど、やめてと言い出すことはできなかった。
泣いても叫んでも、誰の耳にも届かないと、どこかで知っていた。
その日から、私の地獄が始まった。
名前なんて、なかった。
代わりに与えられたのは、銀色のタグと検体番号12番という識別番号。
私は、もう「人間」ではなかった。
同じような子たちが、たくさんいた。
狭い檻の中。声を失った目。血だらけの包帯。
総勢およそ二百名。全員が“無能力者”。
どこから来たのかも分からない。
捨てられた子。売られた子。さらわれた子。
誰もがここにいる理由を語れず、誰もがここにいない理由も持っていなかった。
ヴァルプルギスの炉と呼ばれたその施設は、そういう子供たちの終着点だった。
無能力者を、無理やり“能力者”へと進化させるための──人体実験場。
それがこの場所の正体だった。
白衣を着た人たちは、私たちを番号で呼んだ。
食事の代わりに、薬を飲まされた。
眠りの代わりに、電気を流された。
優しさの代わりに、数字と数式を突きつけられた。
「神に選ばれなかった者は、神に届くために、自らを焼かなければならない」
それが、ゼクス・ヴァイゼンの口癖だった。
彼は、神ではなかった。ただの研究者。
けれど、あの施設では神であろうとしていた。
薬物投与。脳への電気刺激。恐怖による精神制御。
飢餓と痛覚の限界実験。異能素因の移植。
死んだ子が出れば、記録だけ残して焼却炉へ。
生き残った子は、次の実験へ回された。
失敗作と呼ばれる子たちは、地下の冷たい鉄の箱に詰められた。
泣いても、誰も来なかった。
話しても、誰にも返されなかった。
叫ぶ声すら、やがて枯れた。
泣き声が聞こえなくなったのは、きっと──皆が諦めるという感情を覚えたからだと思う。
お風呂なんてなかった。シャワーは3日に1回。
髪も、爪も、自分で切らなければ伸び放題だった。
食事はペースト状の液体。味なんてしなかった。
でも、吐いたら怒鳴られた。
泣いたら、感情制御の薬を増やされた。
運ばれていった子の中には、二度と戻ってこない子もいた。戻ってきても、目の焦点が合わなくなっている子もいた。
誰かの手を握っていた子が、次の朝には冷たくなっている日もあった。
それでも、誰もおかしいとは言わなかった。
皆が、それが日常だと思っていた。
そして──私もまた、その日常に慣れてしまった。
誰も信じない。誰も愛さない。誰にも期待しない。
ただ、生き残る。
それだけが、あの場所での唯一の真理だった。
♢
最初に声をかけてきたのは、向こうだった。
「ねえ、アリシア。今日、テレビでお外の映像やってたよ。海って、知ってる?」
その日も、自由時間はたったの一時間だけだった。
誰もが壁際にうずくまって眠り、余った食事を少しでも確保しようと目を光らせていた。
私はいつも通り、隅のモニターをぼんやりと眺めていた。
音の出ないバラエティ番組。わざとらしい笑い声。意味のない文字。意味のない色彩。
そんなとき、隣に座ったのが検体番号13番──カレンだった。
髪はぼさぼさで、白衣に包帯を巻いていた。
それでも、彼女はよく喋った。よく笑った。
この場所に来て以来、初めて子供らしい声を聞いた。
「海っていうのはね、大きな水しかない場所。ずっとずっと向こうまで水しかなくて、しょっぱくて、青くて、波があって……あとね、魚が泳いでるんだって」
「……見たこと、あるの?」
「ないよ。でも、テレビで見たの。あと、雑誌もこっそり読んだ。ホントはダメだけど。先生たち、あんま見てないときあるし」
私は返事をしなかった。
でも、カレンは気にせず、次の日も話しかけてきた。
「ねえ、アリシア。知ってる? 空って、毎日違う顔してるんだって。青いときもあれば、赤いときもある。雲も動くし、夜は星が見えるって」
「星……?」
「そう! キラキラしてて、空の上にある光。死んだ人はそこに行くって、おとぎ話では言うらしいよ」
「……バカみたい」
そう返したはずなのに、カレンは笑った。
「うん、バカでしょ。でもね、そういうのって、なんかいいなって思うんだよね」
それから、私たちは毎日のように話すようになった。
昼は訓練、夜は実験。
感情を抑える薬が増やされ、身体はどんどん変化していった。
でも、カレンの声だけは、ちゃんと心に届いた。
「ねえ、アリシアって外に出たら何したい?」
「……知らない。そんなこと、考えたことない」
「私はね、喫茶店に行きたい! ほら、テレビで見たんだよ。パフェっていうやつが出るお店!」
「パフェ……甘いやつ?」
「そうそう! いちごとか、チョコとか、アイスとか! あ、後ね、制服っていうのも着たい。リボンがついてて、すごくかわいいんだよ」
そんなの、私には関係ないと思っていた。
でも、カレンの口から語られるそれは、まるで本当に存在する未来のように聞こえた。
「……私、きっと制服なんて似合わない」
「大丈夫、私もだよ。でもね、似合わなくても着ていいんだって。テレビで誰かが言ってた」
「誰?」
「知らない! でも、いいこと言うでしょ?」
私は、いつの間にか笑っていた。
彼女の存在だけが、私を人間にしてくれた。
薬でぼやけた意識の中でも、私はカレンの声を探していた。
誰も信じないと決めていたこの場所で、彼女の手だけは……ちゃんと、温かかった。
ある日、彼女が唐突に言った。
「ねえ、アリシア。私ね、外に出たら、一緒に行こうよ。逃げるんじゃなくて“出る”の。堂々と、名前を呼ばれてさ。学校の卒業式みたいに」
「……そんなこと、できるわけない」
「分かってるよ。でもね──想像くらい、してもいいでしょ?」
そう言って笑ったカレンの顔は、いつもと変わらなかった。
けれどその瞳の奥には、確かにあった。
静かに燃え続ける、真っ赤な火のような決意が。
私は気づいていた。
彼女が、ただ夢を語っているだけじゃないことを。
カレンは知っていた。ここがどういう場所か。
希望が口にした瞬間に壊されるということも。
それでも尚、生き延びて、笑って、周囲を騙して、従順な子供を演じていた。
異能力を手に入れるその日まで。
その力で、この炉を焼き尽くすその日まで。
その時が来たら、全部壊してやるって。
私たちの魂ごと焼かれた日々を、すべて灰にすると決めていたのだ。
カレンは、耐えているのではなかった。
戦っていた。
生きながら、ずっと戦っていたのだ。
その姿だけは、今でも鮮明に覚えている。
あのとき私は確かに、希望という感情に触れた。
それは夢なんかじゃなかった。
カレンが生きている限り、いつか現実になると信じていた。
──だからこそ。
この後に起こることを、私はまだ知らなかった。
彼女のその笑顔が、二度と戻らないものになることも。
パフェを食べたい。制服を着たい。
そんな普通の少女が抱くようなささやかな夢が、最悪の形で踏みにじられることも。
私はまだ、知らなかったのだ。
♢
研究を繰り返す内、私とカレンは異能力を手に入れた。
……と言っても、指先からマッチぐらいの火が出る程度。
無能力者に、ほんの少し毛が生えただけの失敗作。
それでも、生きていた。
それだけが、当時の私たちにとっての意味だった。
200人いた子どもたちは、20人にまで減っていた。
あとは自分の順番が回ってこないことを祈るだけ。
そんな日々の中で、突然の出来事だった。
焼け焦げた匂いが鼻を刺し、空気が耳鳴りのように震えた。
金属が溶ける音、皮膚が爛れる音、誰かの悲鳴。
……それが自分のものだと気づくまで、少し時間がかかった。
胸に埋め込まれた管から、ぬるりとした液体が注がれた。
すぐに激痛が全身を駆け巡る。
焼かれる。骨の芯から、燃やされていく感覚。
「──あ、あああああああッ!!」
脳が焼ける。意識が千切れる。
喉が裂けても、叫ぶしかなかった。
止まらない熱。止まらない痛み。
止まらない──崩壊。
そして次の瞬間、私の身体中から炎が溢れ出した。
それはもう、炎なんかじゃなかった。
紅蓮の嵐。暴走する灼熱。
周囲の壁が溶け、床が焦げ付き、天井が崩れる音が響く。
遠くで誰かが叫んでる。逃げていく足音。
ガラスの向こうで、白衣の男たちが、ワイン片手にモニターを見て笑ってた。
「初めて成功したぞ! 見ろ、これが我々の求めていた“爆炎のプリンセス”だ……!」
「やっと出た!何年待ったと思ってる!?クク……いやぁ、美しい……! あの火力、まさに芸術品だ!」
まるで、これは私じゃないみたいだった。
彼らは“爆炎のプリンセス”と呼んだ。
私の名前じゃない。
私自身なんて、そこにはなかった。
「検体番号12番が一番最初に完全覚醒か。普段の成績もそうだが、無能力者ながら異能力因子の適合率が極端に高い。やはり素材が違うからか?」
「180人死んだって?どうでもいい。研究が進んだなら安いもんだ」
そう言って、研究者たちは笑った。
口の端を歪めて、ワインを揺らしながら。
そして──次の瞬間だった。
「アリ、シア……?」
その声に振り向いた瞬間、私の視界が凍った。
カレンが、そこにいた。
実験室の隅。ほんの数メートルの距離。
避けられるわけがなかった。
「やだ……っ、やだやだやだっ……!助けて……アリシアぁぁっっ!!」
彼女の身体が、炎に包まれた。
私が出した炎。
私が制御できなかった、私の──力。
「違う!!違う!!カレン、逃げてっ!!やめてぇぇええッ!!お願いだから、やめてぇッ!!!」
でも止まらない。止まるわけがない。
私は、ただ炎の中に立ち尽くしていた。
灼熱の中で、友達の絶叫だけが、はっきりと聞こえていた。
「アリシア……なんで……どうしてぇぇええええええええええええええええっっ!!!!!」
彼女の白い服が燃え、肌が裂け、髪が焼け、眼が潰れ──それでも、私を見ていた。
焼かれながら、私を見ていた。
焼け爛れた指が、私に伸びた。
私を──信じていたその手が、私を責めながら、助けを求めていた。
でも届くことなく、その手は、崩れた。
「あ……あああああああああああああああああああああああッッッ!!!!!!」
私は、叫んだ。
もう何も聞こえなくなるくらいに。
カレンが、崩れていくのを、ただ目の前で──見てることしかできなかった。
灰になったカレンの身体が、私の腕の中で砕けた。
炭のように軽くなって、風に舞って、消えていった。
「……やだ……やだ……カレン……返してよ……返せってばああああああああッッ!!!」
ガラスの向こうでは──ワインが注がれていた。
「いやぁ、いい焼け方だったな。あの子、出資者のオッサンたちから人気あったのに」
「確か失敗作になったら、出資した富豪の一人に売り飛ばす手筈だったろ。良かったのか?」
「ま、爆炎のプリンセスの研究の礎になったのなら結構だろ。仕方のない事故ってやつだ」
「録画しておけよ、これは傑作だ。いい教材になる」
「それにしても感情ってやつは……実に面白い。親友を焼き殺して、その罪悪感でまた火力が上がる……実に合理的だ」
笑っていた。喜んでいた。
私の大切な人が死んでいくのを“燃料”にして、彼らは次の研究の話をしていた。
私は膝をついた。
砕けた灰を、手で何度も何度もすくった。
だけど──すくっても、すくっても、カレンはそこにいなかった。
そこには、もう──なにもなかった。
「うそ……嘘……いやだ……カレン……」
この日、私の中で“人間としての心”は死んだ。
心も、感情も、未来も。
たったひとつ灯してくれた存在を、自分の手で焼き殺した罪とともに。
燃え尽きた実験室の隅で、私は膝をついて泣き叫んだ。
喉が裂けるまで、声が枯れるまで。
その声すら──あの人間たちにとっては、ただの余興だった。
♢
──カレン。
あの日、アリシアがこの手で燃やし尽くした、唯一の友達。
焼け焦げた皮膚も、砕けた骨も、全てをこの腕の中で灰に変えた。それは、決して夢や幻ではなく──紛れもない現実だった。
彼女が灰を抱いて泣き崩れたあの瞬間、アリシアという一人の人間は、終わったのだ。
誰かを信じることも、自分を許すこともできなくなった。この世界に“償い”など存在しない。
だって、カレンはもう──
「嘘」
アリシアの呟きが、空気を凍らせた。
広場の中心。
そしてゼクスは一切の躊躇いもなく、女の被っていた黒いフードを引き剥がした。
黒いフードを被った女の存在に、彼女は最初から違和感を覚えていた。
ただの勘ではない。
心の底に沈んでいたはずの何かが、爪を立てて内側から叫び続けていた。
「驚いたかい、12番? ヴァルプルギスの炉は……まだ完全には終わっていないのさ」
低く、どこまでも冷たい声。
聞くだけで吐き気を催すような抑揚。
それは、アリシアにとって決して忘れられない声だった。
ゼクス・ヴァイゼン。
命を数値で管理し、人を素材として扱った、かつての地獄の主。
彼女たちが地獄から抜け出すために殺すべきだった男。
翔太郎は、アリシアの隣で一歩前に出る。
フードの女に警戒を向けながら、小さく問いかけた。
「誰だ、あの女?」
その瞬間だった。
「キミなら、きっと気づいてくれると思ってたよ。爆炎のプリンセス」
ゼクス・ヴァイゼンの声が、静かに空気を切り裂いた。
視界が──歪んだ。
アリシアの足元から、何かが音を立てて崩れ落ちていく。
耳鳴り。呼吸困難。
心拍が乱れ、内臓を逆なでするような動悸。
けれど、すべての感覚が、目の前の顔へと吸い込まれていった。
金髪──短く、あの日よりも少し乱れている。
けれど、間違えるはずもない。
どこか寂しげな、でも、優しさを宿したあの瞳。
あの日、アリシアがこの手で──燃やしたはずの少女。
あの日、灰になったはずの、大切な、大切な存在。
「カ、レン……?」
声が震えた。喉の奥から掠れるように漏れた名前。
女は何も言わなかった。
ただ、静かにアリシアを見つめ返す。
その視線には、確かに知っているという温度があった。
アリシアの頭が、ぐらりと傾いた。
「嘘、だよね……? だって、だって……私は……あの時……」
体が動かない。足が重い。
膝が崩れ落ち、地面に手をついた。
視界が滲んで、鼓膜が悲鳴を上げる。
目の前にいるのは誰だ?
いや違う。誰でもない。
あれは“カレン”だ。絶対に。
なのに、どうして──
「……死んだんだよ……私が……殺した……なのに、なんで、いるの……? ねぇ……?」
錯乱と疑念と自己否定が、一度に押し寄せてくる。
頭の中で、焼け焦げた叫び声が再生され続ける。
手の中で崩れた少女の身体。灰になった肉体。
あの温もりを、自分は確かに燃やし尽くした筈だった。
「いや……いやいやいや、違う……これは何かの、嘘……罠……幻覚……っ!」
アリシアの肩が激しく震え、全身から冷や汗が噴き出していた。
その様子に、隣で見ていた翔太郎がついに声を上げた。
「アリシア!? おい、どうしたんだ!?」
翔太郎が駆け寄り、彼女の肩に手をかける。
アリシアはそれに反応できない。
翔太郎の声すら、遠く霞んでいく。
「しっかりしろ、なぁアリシア!」
彼の叫びが、世界の端で木霊する。
けれどアリシアの目は、目の前の少女から一瞬たりとも離れなかった。
ただ、黙ってこちらを見ている少女──カレン。
生きている。そこにいる。
でも、それが現実であるはずがなかった。
(違う。違う。違う。違う……)
崩れていく。
アリシアの中で、現実の軸が一つ、また一つと音を立てて外れていく。
──そして。
「さぁ、12番。ここからが実験の最終段階だ」
ゼクスの声が、再び空気を裂いた。
その顔には、狂気と確信が混じった陶酔の笑み。
「キミの炎が、いったい何を“燃やす”のか──見せてもらおうか」
その言葉は、導火線に火をつける火花のようだった。
アリシア・オールバーナー。
彼女の中に封じ込められていた過去が、今ここで無言のまま笑っている。
──そして今度は、彼女自身が壊れていく番だった。