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雷鳴のラストピース  作者: 雨車狸
第二章 『爆炎のプリンセス』
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第二章20 『ヴァルプルギスの炉』

「初めまして。雷使いの少年」


 ゼクス・ヴァイゼンは、まるで悠然たる紳士のように丁寧な口調で挨拶した。


 一歩も動かぬまま、指先には先程まで人質だった美波の血が僅かに残っている。

 だがその手を拭おうとすらせず、まるで誰かの命を玩具にしたことすら興味の対象でしかないとでも言いたげな顔だった。


「ようこそ、実験場へ」


 ゼクス・ヴァイゼンは、あくまで歓迎する者の声色で言った。


「ワタシの研究にキミが参加してくれるとは、正直、嬉しい誤算だよ。雷属性の能力者──それも、これほどまでに高出力とは……いやはや、これは極めて貴重なサンプルだ。データ収集が楽しみで仕方ない」


 軽やかな口調。しかしその実、言葉の端々に、命の価値を理解しない異常さがにじみ出ていた。


 翔太郎は、応えなかった。

 ただ、鋭くゼクスを見据える。

 言葉など不要だと、全身で語っていた。


 怒りが滾っていた。

 だが翔太郎は、それを荒々しく爆発させるような男ではない。噛み殺すようにして、一点へと絞り込む。

 その感情の全てを──ゼクスを打ち砕くための雷に変換するために。


「……誰だか知らないけど、あんたは俺のこと知ってるみたいだな」


 低く、唸るような声が地を這う。


 雷が、翔太郎の足元からじわじわと立ち上る。

 空気が焦げ、髪が静電気に逆らって逆立つ。

 それは、空間そのものが彼の怒りに反応しているかのようだった。


「そう敵意を向けられると少し悲しいな。だが悪くない。キミのように、倫理や常識で突き動かされる被験者こそ、観察の価値がある」


 ゼクスは優雅に口元を歪め、どこか楽しげに続けた。


「命は──選別されるものだよ、雷の少年。強い命が生き残り、弱い命が淘汰される。それは自然の摂理だ。ワタシはそれを、人為的に再現しているだけだ」


 翔太郎は、その言葉に眉一つ動かさなかった。


 だが、その目には確かに宿っていた。

 殺意に近い、怒りの光が。


「感情で騒ぐキミたちのほうが、よほど非合理じゃないか? そうは思わないかい?」


「もういい」


 翔太郎の声が、鋭く場を切り裂く。

 それは雷よりも冷たく、どこまでも真っ直ぐな意思だった。


「よく分かんないけど、人の命を道具やサンプル扱いするお前の理屈なんか、聞いてるだけで吐き気がする」


 一歩、翔太郎が前に出る。

 足元の雷がバチンと閃き、地面に小さな亀裂を走らせる。


「誰かが今ここで止めなきゃ、次にお前の実験ってヤツに選ばれる命が誰になるかなんて分かったもんじゃない。──だったら俺が、終わらせてやる」


 その声に、躊躇いは一切なかった。

 そこにあったのは、誰かを守るために戦う者の決意。

 紫電が翔太郎の背中から噴き上がり、雷の羽根のように広がる。


「自己紹介がまだだったね」


 ゼクスがまるで講義の続きを語るかのように言う。


「ワタシはゼクス・ヴァイゼン。能力者を対象とした研究を主に行なっている者だ。現在は命の運用効率に関する実証実験に力を入れている」


 翔太郎は片眉すら動かさず言った。


「聞いてないし、どうせすぐ忘れる。わざわざ名乗らなくていいから」


「フフ、冷たいな。キミは名乗ってくれないのかい? ワタシはこうして、これ以上ないくらい友好的に接しているのに」


 翔太郎の頬がわずかに引きつる。

 だがそれは呆れでも、困惑でもない。


「……友好的に人の命を玩具にしてんのか? 悪いけど、あんたの友達になれる奴なんて、この世に一人もいねぇよ」


 次の瞬間、雷が炸裂した。


 バチン、と空気が破裂する音。

 翔太郎の周囲を一閃の光が駆け抜け、地を舐めるように閃光を走らせる。


「ならば、キミの命と精神がどう壊れていくのか、ぜひ観察させてもらおうか」


 ゼクスは微笑んだ。

 だがその瞳の奥には何もなかった。

 喜びも、興奮も、罪悪感もない。


 ただ、目の前の命を試料としか見ていない瞳。


「キミという存在が、どの程度の価値を持っているのか──大変、興味深いね」


 その瞬間。


 雷と狂気が、ついに真正面から衝突した。


 理性を失った科学と、信念で貫く雷の意志。

 どちらが本当の「人間」で、どちらが「怪物」なのか──答えは、既に明白だった。


 翔太郎が一歩踏み出す。

 その刹那、地を割って雷が咆哮を上げた。




 ♢




 一方で、アリシアは、水橋美波を抱えたまま、翔太郎の背に身を預けるようにしてわずかに後退した。

 だが、その視線は雷撃の向こう──白衣を纏い、紫電の前に立つゼクス・ヴァイゼンに吸い寄せられていた。


 その瞬間。

 彼女の全身に、見る者には分からないほど細かな震えが走った。


「嘘……」


 声が、かすれていた。


 その一言は、思考の外から漏れたものだったのだろう。

 アリシア自身、言葉にしたつもりはなかった。

 それでもその一言は、確かに隣にいた白椿心音の耳に届いていた。


「アリシア、どうかしたの……?」


 心音が振り返る。

 いつもの冷静なアリシアからは想像できない、目に見えるほどの動揺がそこにはあった。


 あの無感情なはずの瞳が、今は確かに怯えを映している。

 まるで、何か思い出したくないものを直視させられているかのように。


(震えてる……アリシアが? どうして……)


 心音は困惑を隠せなかった。


 しかし、アリシアは何も言わなかった。

 口を閉ざしたまま、水橋の身体を抱く腕に力を込め──ただ、ゼクスを見据え続けていた。


 けれど、その視線の奥底には確かに宿っていた。


 恐怖。

 それは、過去に一度完全に敗北し、支配された者だけが知る、心の底を凍らせる記憶。


 死んだはずの男。

 消えたはずの地獄。

 だが今、再びその悪夢が、この場所に姿を現していた。


 アリシア・オールバーナーは──ゼクス・ヴァイゼンという存在に、明確な恐怖を刻まれていた。


「──紫電!」


 裂けるような翔太郎の叫びが、広場の中心を貫いた。


 雷鳴が爆ぜ、空気そのものが振動する。

 翔太郎の体が、光の軌跡を残して宙に舞い上がる。

 その掌に宿る紫電は、雷属性能力者としての全てを込めた、一撃必殺の電撃弾だった。


 それは、彼が零凰学園で「学生相手には決して使わない」と決めている、実戦用の最大火力技。

 その真の威力を知る者は、ほとんどいない。


 ──だが、今は違う。

 組織の関係者かもしれないこの男は、明らかにそれを許される敵だった。


 放たれた紫電は、轟音と共に真っ直ぐにゼクスを撃ち抜く。

 凄まじい雷光が広場を一瞬白く染め、爆音が反響する。

 コンクリートの地面が抉れ、ゼクスの身体が爆風に吹き飛ばされて、数メートル後方に倒れ込む。


「……!」


 玲奈が、思わず息を呑んだ。

 こんな“紫電”──見たことがない。


 翔太郎がここまで明確な敵意を込めて、誰かを攻撃したのを初めて見た。

 彼の中にある正義の矜持と怒りが、あの一撃に凝縮されていた。


「凄い……」


 隣の心音も、目を見開いて呟いた。

 その瞳に浮かぶのは、畏怖と希望の入り混じった光。


 ──だが。


「……フフ。素晴らしい、実に素晴らしいよ」


 爆煙が晴れるより早く、地に伏せたはずのゼクスの声が響いた。


 次の瞬間、白衣の男はゆっくりと立ち上がった。

 服は焦げ、埃に塗れている。

 だが──その体には、致命的な損傷がまったくない。


「なっ……!?」


 翔太郎の目が大きく揺れた。


 ありえない。

 今の一撃は間違いなく本気の威力だった。

 能力に耐性のない者なら、身体が痙攣して昏倒し、下手をすれば心停止に至る。

 それほどの攻撃を──目の前の男は、まるで何事もなかったかのように受け流している。


 ゼクスは右手をゆるりと持ち上げる。

 その手のひらに、灰色の粒が漂うように浮かび上がる。


「凄まじい速度と威力だ。今のが“紫電”というキミの十八番かい?」


 男はまるで実験ノートに感想を記すかのように淡々と続けた。


「確かに直撃すれば、普通の能力者なら即時に戦闘不能──いや、再起不能レベルだろう。興味深いよ。ここまで明確な殺傷性能を持った雷は、なかなかお目にかかれない」


 ゼクスの体に漂う灰が、ふわりと宙に舞い──

 まるでダメージを修復するかのように、その身に吸い込まれていく。


「チッ……!」


 翔太郎が舌打ちをした。

 これまでの戦いで得てきた経験が告げていた。

 ──これは、まずい。


 今の紫電は、本気だ。

 敵が本当に人命に関わる存在だからこそ、翔太郎は初手から最大出力で仕掛けた。

 それでもなお、ゼクスは倒れない。


「もっとだ」


 ゼクスの目が、いやらしく光を宿す。


「もっとキミの異能を見せてくれたまえ。まだまだ観察が足りない。雷属性の可能性は、もっと多角的に検証する必要があるからね」


 その声に、玲奈の肩がわずかに震えた。


 ──希望を打ち砕く音がした。

 さっきまで確かに見えていた勝機が、目の前で踏み潰されたような錯覚。


 あれほどの雷が──翔太郎の全力が──届かない相手が、現れたのだ。


「まだ最初の一撃だ。勝負はこれからだろ」


「はははっ!まだまだワタシの実験に付き合ってくれるとは、キミはなんて慈悲深いんだ!」


 翔太郎の呟きに、答える者はいなかった。

 ただ、ゼクス・ヴァイゼンの不気味な微笑だけが、広場の空気を支配していた。


「──今度は、ワタシの番だ」


 ゼクスの身体がふわりと宙へと浮かぶ。

 まるで重力の法則すら彼の前では意味をなさないかのように。

 右手をゆっくりと掲げると、その指先が淡く光を帯び──空気が急速にざらつき始めた。


 次の瞬間、空が灰に染まった。


「っ、うわ……!?」


 思わず心音が目を覆い、背を丸める。

 玲奈もその場に沈み込みながら、反射的に異能の展開を始めていた。


 ゼクスの掌からあふれ出した無数の灰粒が、空中で幾重にも分裂しながら音を立てて拡散していく。

 まるで煙の中に針を仕込んだような細密さ。

 一粒一粒が異常な速度で飛翔し、熱と腐食性を帯びた灰の弾丸として広場全体を覆い始めていた。


 数千、いや──数万。


「な……っ!?」


 翔太郎の顔色が、見る間に蒼白になる。


 ゼクスの視線は、彼一人だけを追ってはいない。

 狙われているのは──翔太郎の背後にいる、仲間たち。


 玲奈、心音、そしてまだ気を失っている水橋。

 それに、震える手で杖を握りしめるアリシア。


「待て、ゼクス!」


 翔太郎が怒鳴ると同時に、身体が咄嗟に動いた。

 指先に雷を集中し、一気に三人の前へと飛び出す。


 そして、灰の弾幕が殺到する。


「雷閃!」


 全身から弾ける雷。

 広がる雷撃が前方の灰を切り裂いていく。


 だが──


「数が……多すぎる!」


 左右、斜め、真上──ありとあらゆる方向から、無数の灰が突き刺さるように飛来する。

 削っても、落としても、次の瞬間には十倍の灰が襲ってくる。


「威力はそこまでじゃないのに……!」


 雷の防壁を張り巡らせながら、翔太郎が後方を振り返る。


「玲奈! 心音! 防御に集中してくれ!!」


「分かっています!」


 玲奈が即座に応じ、空気中の水分を凝縮させる。

 瞬時に展開された氷の盾が水橋の体を包むように守り、冷気が辺りの温度を一気に下げる。


「負けない……負けたくない……!」


 心音も両手を地に触れ、周囲の石畳を突き破って巨大な植物の盾が隆起。

 水橋の頭上を覆うように枝葉が絡みつき、灰弾の衝突を受け止め始める。


 だがそれでも、数が足りない。


「クソッ……っ!!」


 翔太郎の肩に灰弾が直撃し、裂けた衣服の隙間から皮膚が焼かれ、煙が立ち昇る。

 痛みを押し殺して、なお雷撃の射線を逸らさずに翔太郎は立ち塞がる。


「誰にも、誰一人にも……手は出させねぇよ!」


 必死に雷で迎撃し続ける翔太郎の視界が、じわりと灰に覆われていく。


(迎撃が……追いつかない……!)


 このままでは、どこかで誰かが被弾する。


「屈んで! 鳴神翔太郎!」


 脳裏をかすめたその最悪の予感を、切り裂いたのは──凛とした少女の声だった。


「アリシア!?」


「早く!」


 迷う暇もなかった。

 翔太郎は反射的にしゃがみ込む。


「──炎の惑星(フラメンシュテルン)


 アリシアが静かに名を告げた瞬間、重低音のような轟音が翔太郎の頭上を貫いた。

 それは赤黒く輝く火球──空間を焼き切るような熱量を纏い、小さな閃光となって空を裂く。


 最初は野球ボールほどの大きさだった火球は、ゼクスへと迫るにつれ、太陽のように膨張し始めた。


 周囲の空気が高熱にうねり、熱波で景色が歪む。


「……ほう?」


 ゼクスの眼が細められる。その僅かな反応を置き去りにして衝突。

 瞬間、爆ぜた。


 空中で炸裂した炎の惑星が、広場全体を覆うほどの大爆発を引き起こす。


 上空一面が、真紅の爆炎で染まった。

 熱風が地上にまで押し寄せ、翔太郎の頬が焼けるように痛んだ。

 肌を撫でる風は、もはや風ではなく炎の鞭だった。


 焦げた灰と煤が混ざり合い、広場を覆い尽くす。

 光と熱と破壊の奔流に、誰もが目を見開いた。


「──っ、止まった……?」


 さっきまで止め処なく降り注いでいた灰の弾幕が、突如として動きを止める。

 空には、灼熱の余波がゆらゆらと残り、赤黒い残光が滲んでいた。


 翔太郎は、咄嗟に後ろを振り向く。

 そこに立っていたのは──アリシア。

 制服の裾をなびかせながら、瞳は冷静そのもの。

 あの爆炎の中心に向けて、ただ真っすぐに視線を向けていた。


(……なんて火力だ)


 翔太郎は、無意識に息を呑んだ。

 だが──戦いは、まだ終わっていない。


 火球がゼクスを吹き飛ばしたのは確かだ。

 だがあの男が、それだけで終わるはずがない。

 翔太郎は歯を食いしばり、もう一度立ち上がる。


 爆煙が徐々に晴れていく。

 だが、そこにあるはずの人影がない。


「ゼクスがいない……?」


 一瞬の沈黙。

 その静寂を打ち破ったのは──


「全く、酷いことするな」


『────っ!?』


 空気がざわめいた。

 広場の一角。

 積もった灰が、まるで意思を持つように舞い上がり、空中で螺旋を描いていく。

 灰粒が一点に集まり、次第に人の形を作っていく。


 靴から足に掛けて、白衣、腕、指、首、口元にメガネを修復する。


「炎と雷。まるで拷問だね。僕ですらモルモットを処分するときは電気ショックか焼却炉のどちらか一つにするのに、同時だなんて。全く……キミたちは、もう少し生き物に優しくしたまえよ」


 ゼクス・ヴァイゼン。

 先ほど、紫電と炎の惑星を真正面から受けたはずの男が──ほとんど無傷のまま姿を現した。


 白衣は焼け焦げもせず、表情にはわずかな苛立ちと興奮を混ぜた笑みだけ。

 まるで今の攻撃が観測実験のデータのひとつに過ぎないとでも言いたげに。


 翔太郎は、ただ言葉を失っていた。

 全力の紫電。

 アリシアの全霊を込めた火球『炎の惑星(フラメンシュテルン)』。

 それらを立て続けに受けながらも、まるで観察記録のひとつのように処理して立ち上がる──この男の異常性に。


 だが、その時だった。

 ゼクスがふと、アリシアに視線を移した。




「久しぶりだね、12番。随分と美しく、そして強くなったね」




 ただ、それだけの言葉。

 それだけで──アリシアの全身が、まるで糸が切れたかのように小刻みに震え始めた。


「っ──あ……あぁ……ッ……」


 先程まで凛としていた少女の面影はなかった。


 言葉を紡ぐことすらできず、アリシアは肩を抱えるようにして後ずさった。

 目は見開かれ、焦点が合っていない。

 唇が乾き、震え、息が上がっていく。


「アリシア!?」


 明らかに様子のおかしい彼女を見て、翔太郎が咄嗟に声を上げる。


「どうしたの、アリシア!」


 心音も駆け寄ろうとするが、アリシアの様子に足が止まる。


「っ──は……っ、はぁ、はぁっ……!」


 アリシアの呼吸が乱れていく。

 いや、それはもう呼吸と呼べるものではなかった。

 まるで空気そのものを拒絶するかのように、吸っては吐き、吐いては吸い──それが崩壊するように繰り返される。


「久しぶりに会ったというのに、そんな態度を取るなんて冷たいじゃないか。番号を呼ばれたら即座に返事をするように、何度も“あの施設”で教えただろう?」


 ──ゼクスの、その一言がトリガーだった。


 パキン、と。


 まるで硝子細工が砕け散るような音が、アリシアの頭の奥で鳴り響いた。

 それは、決して他人には聞こえない──彼女の心の奥底で何かが壊れた音だった。


「やめて」


 震える声で、彼女がかすれた声を漏らす。


「やめて……やめて……やめて、やめて、やめてッ……来ないで……来ないでぇぇっ!!」


 叫びが、弾けた。

 アリシアが頭を抱えてその場に崩れ落ちる。

 膝を抱え、丸くなり、まるで幼子のように恐怖に縋るその姿は、先ほどまで勇ましく炎を操っていた彼女とはまるで別人だった。


「イヤッ、イヤだ……やめて……来ないで来ないで……あの音、あの光……! 針、電流、熱……また燃える、また裂ける、また壊される……!!」


 歯をカチカチと鳴らしながら、涙が止めどなく頬を伝う。

 凍りついたように冷たい表情を崩さずにいたアリシアが、今、まるで壊れた人形のように泣き叫んでいた。


 それは泣いているというより、砕け落ちているという表現に近かった。


「ごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさい……っ、ごめんなさい……」


 壊れた人形のように、同じ言葉を繰り返す彼女。

 その目は焦点が合っておらず、世界から切り離されたように宙を彷徨っている。


「アリシア!」


 真っ先に駆け寄ったのは翔太郎だった。

 咄嗟に彼女を抱きしめると、その身体は氷のように冷たく、そしてびしょ濡れだった。


 彼女の細い肩は、まるで壊れそうなほど震えていた。

 必死に彼女を包もうとする翔太郎の腕の中で、アリシアは泣きながら、怯えた動物のように逃げようともがいた。


「ダメ、ダメなの……! あの人がいる、ゼクスが、ゼクスが──っ!!」


「アリシア、しっかりしろ!」


 翔太郎の声は届かない。

 アリシアの心は今、完全に恐怖で縛りつけられている。


「……これは」


 玲奈が、震えた声を漏らす。

 明らかに普通じゃないアリシアの態度に圧倒される他なかった。

 傍にいた心音も、親友の見たことない泣き叫んだ表情に目を見開いたまま動けずにいた。


「アリシアが……こんな……」


「何が……起きてるんですか?」


 二人の声が重なり、その場の空気が凍る。


 翔太郎はアリシアを守るように、ゆっくりとゼクスの正面へと立った。

 その目に宿ったのは、怒りを超えた憎悪だった。

 視線の先に立っていたゼクスは、どこか楽しげに口元を歪めていた。


「フフ……やはり、あれから七年と四ヶ月が経っているとはいえ、脳裏に刻み込まれたトラウマの克服には至らなかったか。情緒の不安定性、記憶の断片化、過呼吸反応──いやはや、やはり観察対象としては興味深いね」


 ゼクスの愉快そうな声が、静かに空気を切り裂くように響く。


「アリシアに何をしたんだよ!」


 翔太郎の怒声とともに、空気が一気に焦げ付く。

 雷光が彼の全身を覆い、地面がバチバチと軋んでひび割れていく。

 怒りそのものが、暴風のように場を支配していた。


 しかしゼクスは微塵も怯えず、むしろ芝居がかった調子で肩をすくめた。


「ワタシかい? そうだねぇ……強いて言えば、彼女の“育ての親”ってところかな?」


「は……?」


 翔太郎の目が、絶句したまま見開かれる。

 ゼクスはわざとらしく、口角をゆるめて語り出した。


「検体番号12番。本名は……そう、アリシアだったね。ワタシがかつてドイツで運営していた異能力者実験場──“ヴァルプルギスの炉”の被験者の一人さ」


「──っ!」


 その名前を聞いた瞬間、玲奈の瞳が大きく見開かれた。

 息を呑み、声にならない言葉が唇から漏れる。


「ヴァルプルギスの炉……」


 その言葉に反応するように、翔太郎の表情が引きつる。


「玲奈、知ってるのか?」


「大まかな事だけなら。詳細までは知りません」


 玲奈はふるふると小さく首を振りながら、たどたどしい口調で答えた。


「兄さんから、聞いたことがあります。昔ドイツにあったと」


 翔太郎がゼクスとアリシアを交互に見つめながら、玲奈の方を振り返る。


「“ヴァルプルギスの炉”は……当時、ヨーロッパ最悪の異能力研究施設と呼ばれていた場所です。捨て子、災害で孤児になった子供たち。拉致、誘拐、失踪──身元不明の子供たちを集めて……。彼らを実験体と称し、非人道的な人体実験を行っていたって──」


 玲奈の声は、いつになく重たく震えていた。

 凍也からの又聞きで、静かに語っているはずなのに、その言葉は鋭利な刃のように胸に突き刺さる。

 玲奈の態度から、その施設がどれほど悍ましいモノであるかを物語っている。


「人体実験だと……?」


 翔太郎が唸るように呟く。

 遠い異国の話だ。

 現実味などあるはずがない。


「肉体改造、脳への電流刺激、異能覚醒剤の過剰投与……。異能力を引き出すために、子供たちの命も精神もまるで物のように扱った。人間を、人間として見ない──この世の地獄です」


 口々に出る施設の実態の悍ましさに、翔太郎は思わず眉を顰める。

 けれど、玲奈のその表情と口調が、何よりも異常さと事実の重みを伝えていた。


「ですが、最終的にドイツ政府が突き止めて、施設は完全に解体されたはずです。研究員も、全員死亡したと兄さんは言ってました」


 その言葉が告げられた瞬間、場の空気が明らかに変わった。

 冷気のような静寂があたりを支配し、誰もが次の言葉を待つように、息を呑む。


「じゃあ、まさか……」


 心音の呟きは、震えていた。

 認めたくない。聞きたくない。

 だが、聞かねばならない。

 その狭間にあるような声だった。


「──そう。死んだはずの研究員ってのが、ワタシのことだよ」


 ゼクスが涼しげに肩をすくめ、芝居がかった口調で応える。

 その声音には、罪悪感の欠片もなかった。


「隠し通路を使って、炉の中枢データと一部の器材を回収しながら、命からがら逃げ出した。

 研究員の中で生き延びたのは、大人ではワタシ一人だけだったがね」


 彼が命からがらという言葉を口にするたびに、どこか歪んだ誇りすら滲んでいた。

 その事実だけで、彼が施設で起こした事態が、何一つ悔いも反省も抱いていないことが明白だった。


 ヨーロッパ最悪の異能力者実験施設──その唯一の生き残りが、今ここに立っている。

 いや、この場において“一人”という表現は正しくない。


「でも、生きていてくれて良かったよ、12番。せっかく七年以上かけて君を育て上げたんだ。もし、施設の崩落に巻き込まれていたらと唯一心残りだったんだ」


 そこでゼクスは、微笑すら浮かべて言った。


「ワタシにも、親心というものがあったんだねぇ」


 ──その瞬間だった。


「やだ……やだぁ……!」


 アリシアが、崩れ落ちた。


 彼女の口から発せられたのは、声とは呼べないほどに掠れた悲鳴だった。

 両手で頭を抱え、まるで記憶を、過去そのものを振り払おうとするように、自らの頭を何度も抱え込む。


「番号で呼ばないで……! 来ないで……! また、燃える……また、壊れる……、やだぁっ!」


 心が剥き出しになったまま、アリシアは蹲る。

 彼女は今、誰の目にも届かない記憶の檻の中に閉じ込められていた。

 この場所にはいない何かに怯えながら、泣き叫んでいた。


「アリシアっ……!」


 心音が反射的に駆け出した。

 地面に膝をつき、蹲るアリシアにそっと近づく。


「大丈夫、大丈夫だから! 私がついてる。一人じゃない」


 声を震わせながら、心音は手を差し伸べる。

 だが、その手にアリシアは反応しなかった。

 いや──拒絶すらした。


 その声は、過去に囚われた少女の、絶叫だった。


 心音の目に涙があふれる。

 どうして、アリシアがこんなにも怯えなければならないのか。


(ひどい……ひどすぎる……っ)


 怒りも悔しさも悲しみも全て溶けて、涙になった。

 それでも心音は、アリシアのすぐ傍に寄り添うことしかできなかった。


 ──アリシアの過去。

 それは、誰も想像すらできないような、灼熱と惨劇の記憶だった。


 そんな凄惨な過去を暴かれ、アリシアが地面に蹲って尚、ゼクス・ヴァイゼンの口から放たれたのは、情け容赦のない冷笑だった。


「ただ、そうやって泣き喚く癖は施設で矯正したはずなんだけどねぇ」


 口調は軽く、だがその内容は恐ろしく重たい。

 まるで、人の感情すら矯正できるとでも言わんばかりの口ぶりだった。


「7年と4ヶ月の時間が経てば……人間という生き物は、案外簡単に喜怒哀楽を取り戻すらしい。想定外ではあったけど、これはこれでいいサンプルデータになったよ」


 吐き気を催すような言葉だった。

 この男にとって、アリシアの苦しみも絶望も、観察結果に過ぎないのだ。


 翔太郎は奥歯を強く噛み締めていた。

 拳を握る力に呼応するように、肩のあたりからじわじわと雷の気配が立ち昇る。


(ゼクスはアリシアを育てたって言った)


 言葉の端々から伝わる歪んだ愛情。

 だがその正体は、ただの自己陶酔と支配欲だ。


「アリシアを自分の都合で実験体にしてたのか?」


「まあ、そうだね。ワタシの研究が無ければ、12番の異能力はこれ程までの成長を見せなかった。異能力が浸透しているこの社会において、あの研究は何よりも有意義なものだったんだよ」


 翔太郎の頬が引きつる。

 ふざけるなと言いたかった。

 しかし怒りが先行して、言葉にならなかった。


 ゼクスが語ったアリシアの過去。

 それは彼女を最も苦しめる存在でありながら、同時に育て親でもあるという狂気の構図だった。


 ──ヴァルプルギスの炉。

 名前だけでは何もわからない。


 翔太郎はその施設の詳細を知らなかった。

 けれど、玲奈ですらこの世の地獄だったと言った。

 そんな地獄で生きて来たアリシアが、今、目の前で崩れ落ちている。


 翔太郎の中で、何かが音を立てて切れた。


「どちらにしろ、お前は捕らえておく必要があるな。アリシアの件も……それに、俺自身、お前に聞きたいことがある」


 雷が、翔太郎の周囲でかすかに揺れた。

 怒りと正義感がないまぜになったその声は、静かで、しかし確かな決意を帯びていた。


「ふむ……そうか。だがワタシとしては、もう欲しいデータは全部揃ってしまったんだよね」


 ゼクスは飄々と肩を竦める。


「氷嶺玲奈くんの氷の異能力。そして、キミの雷の異能力。紫電も雷閃も間近で観測できた。うん、サンプル収集としては完璧だ」


 まるで買い物を済ませたかのような軽い口調で、彼はゆっくりと両腕を広げる。

 するとゼクスの両手首から、灰色の粒子が舞い上がった。


 それは煙のようでいて、砂のようでもあった。

 灰は渦を巻き、やがて空間に一つの輪郭を形作っていく。


「何……!?」


 翔太郎が身構えたその瞬間、灰の中から一人の人影が浮かび上がる。


 ──フードを深く被った、女の姿だった。


「フードの女!?」


 翔太郎の声が震える。

 そもそも、アリシアからフードの女の出現情報を聞いて、彼はここまでやって来た。

 すると、フードの女ではなく、このゼクスが玲奈たちを追い詰めている場面に遭遇した。


 流れでゼクスと対峙していたが、本来翔太郎が追いかけて居たのは彼女の方だ。

 では、なぜ彼女がゼクスの掌中にあるのか?


「12番。これを見るといい」


 ゼクスは唇の端を吊り上げ、不気味な笑みを浮かべながら、その手でフードの女の首根っこを無造作に掴み上げた。


 ぞわりと背筋を冷たいものが撫でる。

 その女は何も言わず、ただ項垂れている。

 まるで、操り人形のように──。


「えっ……?」


 アリシアの声が震えた。

 目に映るその光景を、拒絶するかのように。


 そしてゼクスは一切の躊躇いもなく、女の被っていた黒いフードを引き剥がした。


 その瞬間。


「──っ!」


 場の空気が、一気に凍りついた。


 見えた顔に、翔太郎も、玲奈も、心音も息を呑んだ。

 だが何よりも、アリシアの目が信じられないものを見たように大きく見開かれる。


「嘘」


 かすれた声が、唇から零れ落ちた。

 呼吸が浅くなり、胸が上下する。

 足元が崩れ落ちそうになるほどの衝撃に、アリシアの心はひび割れていく。


 ゼクスは、満足げにその反応を眺めながら、愉悦をにじませる口調で言った。


「驚いたかい、12番? ヴァルプルギスの炉は……まだ完全には終わっていないのさ」


 言葉の余韻が落ちる。

 沈黙が場を包み込む中──その女は、無言のままアリシアを見つめていた。


 まるで、アリシアだけを知っているかのように。


 次の瞬間、アリシアの瞳に涙が浮かんだ。

 震えが止まらない。

 その理由を、誰もが問いかけたくても……口にできなかった。


 あの女は一体、誰なのか。

 なぜ、アリシアはここまで動揺するのか。

 答えはまだ、誰の口からも語られていない。


 ──だが、確かなのは一つだけ。


 アリシアの過去は、まだ終わってなどいなかった。






第二章、ようやく折り返し地点に来ました。

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