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雷鳴のラストピース  作者: 雨車狸
第二章 『爆炎のプリンセス』
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第二章19 『研究者』

「すまない、自己紹介がまだだったね。ワタシの名前は──ゼクス・ヴァイゼン。呼びにくければゼクスだけでも構わないよ」


「ゼクス……ヴァイゼン……?」


 玲奈が反芻するように名を繰り返す。

 だがそれ以上の情報は、彼女の記憶にも学園の記録にもない。

 本当に初対面の相手だ。


「分類上は、キミたちと同じ能力者になるのかな? でも、そんな定義はどうでもいい。ワタシが興味あるのはただ一つ──能力者という人類の変異が、どの領域まで辿り着けるのか。それだけだ」


 声色にはどこか芝居がかった抑揚があった。


 しかし、それは演技ではない。

 むしろ逆だ。


 自分を理性と論理の人間に見せかけているが、皮膚のすぐ下には常識の限界をとっくに超えた純粋な狂気が蠢いている。


「さて、観察対象──氷嶺玲奈くん。それと植物使いの彼女。ここからは少し、実験の続きをさせてもらうよ。キミたちがどんな選択を取るか、非常に楽しみだ」


 片目のレンズが鈍く光を反射する。

 その瞬間、ゼクスの背後に黒く歪んだ何かが蠢き始める。

 形の定まらない知性の怪物のような異様な存在感──明確な殺意を含まぬまま、それはただ淡々と、生命を試験管の中に押し込もうとする圧を帯びていた。


「心音、下がってください」


 玲奈の静かな声が、張り詰めた空気の中に落ちる。


「え……でも、玲奈──」


「この男は、そこの蒼炎使いの女とは明らかに格が違う。翔太郎が来るまで、何とか持ち堪えて見せます。だから逃げてください」


 彼女の指先が震えることはなかった。

 けれど内心では、数分前の戦闘の比ではないほどの緊張が背骨を伝っていた。


 ゼクス・ヴァイゼン。

 その名がただの名札ではないことを、玲奈の本能はすでに理解していた。


 ──ここから先は、実験室の中だ。

 そう宣言するかのような、無機質な狂気が静かに広場を侵食し始めていた。


「すまないね。ワタシは直接的な戦闘はあまり得意じゃないんだ」


 ゼクスはそう前置きしながら、口元に笑みを浮かべた。


「だから古典的だけど、こういう手を使わせてもらうよ──実験効率ってやつを考慮してね」


 その瞬間だった。

 ゼクスの右腕から、灰がじわじわと滲み出し始める。


 それは霧でも毒ガスでもない。

 形を持たぬまま蠢く悪意だった。

 見た目以上に、不快な気配が漂っている。


 玲奈と心音は即座に異能力の発動を察知し、反射的に警戒態勢を取る。


 ──が、次に起こった出来事は、彼女たちの予測を大きく裏切った。


「なっ……!?」


「美波ちゃんッ!?」


 煙の中から引きずり出されたのは──気を失い、ぐったりとした水橋美波の姿だった。

 その体には明確な外傷こそなかったが、何かを削がれたような、薄氷のような儚さがあった。


 ゼクスはその水橋を足元に転がすように置くと、実に愉快そうな笑顔を浮かべて言い放った。


「──さあ、殺し合いたまえ」


 その言葉は、あまりにもあっけらかんとしていた。

 まるで昼下がりの世間話のように。

 まるでゲームを始めようとする子供のように。


「……は?」


 玲奈の目が驚愕に見開かれる。

 心音も、言葉を呑み込み、唇を強く噛み締めた。


「キミたち二人のどちらかが、相手を殺して生き残ること。その条件を満たした者と──ワタシはフェアに戦ってあげよう。ああ、それともう一つ……この人質の少女も解放すると約束しよう」


 あくまでフェアに、約束する。

 ──その口調は理性的ですらあった。

 だが、その実態は常軌を逸した悪意と支配欲の塊だ。


 ゼクスの片目のレンズが、玲奈と心音を順に見やる。

 まるでどちらが先に理性を壊すかを観察しているかのように──いや、解剖しているかのように。


「……最低」


 心音が低く呟いた。

 それはゼクスの本質を的確に言い当てる言葉だった。


 だがゼクスは、むしろそれを称賛として受け取ったかのように、肩を竦める。


「倫理なんて感情の飾りだよ。反応を引き出すために必要な刺激なら、なんだって使う──それが研究というモノさ」


 笑っていた。

 この異常な状況で、この狂気の渦中で、ゼクスは満面の笑みを浮かべていた。


 彼にとって命はデータ。痛みは数値。

 そして感情は──ただの刺激反応。


 玲奈は、無意識に拳を握り締めていた。

 冷たい怒りが、静かにその胸に満ちていく。


「何の目的か知らないけど、わざわざ話しかけてきたんだったら、ちゃんと正々堂々と戦いなさいよ! おじさんが女子高生人質に取って恥ずかしくない訳!?」


 心音の叫びは鋭く、真正面からゼクスにぶつけられた。

 それは怒りでもあり、恐怖でもあり──何より、誰かを想う人間らしさの証でもあった。


 だがゼクスは、それをまるで異国の言語でも聞いたかのように、目を細めて心音をじっと見つめた。


「戦い、ね。ふむ……」


 しばらくの沈黙のあと、まるで不可解な現象を分析するかのように、ぽつりと口を開く。


「キミは少し大きな勘違いをしているよ。これは戦いじゃない。ワタシにとっては──実験だ」


「じっ……けん?」


 心音が戸惑いを含んだ声で反芻する。

 その声に、ゼクスは嬉しそうに頷いてみせた。


「ああ、そうだ。人間の選択と関係性に対する、非常に有意義な実験だよ。先程の会話を見たところ、キミたち二人はそれなりに良好な関係を築いているように見えた。……ならば仮説として、人質を盾に殺し合いを強要した場合、キミたち二人はどう動くか? ワタシはそれが知りたいんだよ」


 その語り口はまるで授業の一幕。

 教壇に立つ教授のような声音だったが、口にしている内容はあまりにも残酷だった。


「……本気、なんですか?」


 玲奈がかすれた声で訊く。

 その声には信じたくないという本音が滲んでいた。


 ゼクスは一瞬だけ間を空けると、やがてごく自然に微笑んだ。

 そして水橋美波の喉元に、左手の指先をすっと添える。


「もちろん、本気だよ。命を懸けてもらわないと、正確なデータは取れないからね?」


 ぞくり、とした感覚が心音と玲奈を貫く。

 その笑顔に悪意も善意もない。

 ただ、好奇心だけがある。


「──辞めて!」


 玲奈が声を張り上げる。

 心の底からの叫びだった。


 けれどその懇願さえ、ゼクスの耳には興味深い反応にしか映らなかった。


「ははっ……!いいね、いいね、感情が出てきた。やっぱりこの段階の観察が一番面白い!」


 口調が次第に高揚を帯びてくる。

 理知的だった声音が、どこか歓喜に染まり始めていた。


「さあ、どうする? 友人同士で殺し合ってくれたまえよ! どちらが優れていて、どちらが生きるに値するのか……ワタシに教えてくれないか?」


 ゼクスの片目のレンズが鈍く光る。

 もはや彼の目に、心音も玲奈も人間として映っていない。

 ただのサンプル、ただのモルモットとして接している。


「あるいは──この少女を見殺しにして、二人がかりでワタシと戦うかい? それもまた、非常に有意義なサンプルになりそうだ。人間性よりも合理性を選択するケースとしてね!」


 ゼクス・ヴァイゼンの声は、まるで研究結果を語る科学者のそれだった。


 命の選別を、冷静に。

 客観的に。無感情に。

 それでいて、心の奥底では確かに愉しんでいた。


 人質をただの変数として扱い、友人の命さえも観察項目に変えてしまう。

 命を、心を、倫理を──すべてを冗談のように踏みにじるその姿に、もはや言葉もなかった。


「さぁ、選ぶのはキミたちだ。誰の命を切り捨てるか──それを決める権利は、キミたち自身にあるのだから!」


 片目のレンズが、じっと二人を射抜く。

 そこには一切の迷いも、罪悪感もない。

 あるのはただ──冷たい好奇心だけ。


 玲奈は唇を噛んだ。

 手のひらが汗でじっとりと湿る。

 拳を握る力が抜けそうになるのを、必死に堪える。

 体は震えていた。恐怖で。怒りで。


「……っ」


 この男は本物だ。

 今まで戦ってきたどんな相手よりも、理屈が通じない。

 目の前の命すら命と見ていない──それが分かる。


「ど、どうするの……玲奈……」


 隣から漏れた心音のかすれた声。

 彼女の手も震えていた。

 いつも明るく、戦場でも冷静だった白椿心音の声が、か細く頼りなくなっている。


 でも、それも当然だった。


 目の前のゼクスは、理性も慈悲も無い悪魔だった。

 言葉では勝てない。交渉も効かない。

 なのに、戦えば水橋が死ぬ。


 逃げたい。正直、今すぐにでも。

 こんな相手、太刀打ちできるはずがない。


 ──けれど。


「水橋さんを置いていける訳ないでしょう」


 玲奈が絞り出したその声に、心音がはっと顔を上げた。


「確かに怖いです……でも、それ以上に……悔しい。こんな相手に……人の命を弄ばれて、黙っていられるわけない……」


 涙を浮かべながら、それでも玲奈の目は真っ直ぐだった。


 だって、こんな時。

 いつだって翔太郎は逃げずに立ち向かうと思うから。


「玲奈……」


 心音も、歯を食いしばる。

 本当は叫びたい。

 怖い、無理、助けてって。

 でも、そんなことを言ってしまえば、水橋は──あの少女は、本当に死んでしまう。


「ううん、そうだよね。置いていける訳ない! 友達置いて逃げるなんて、十傑の名折れだもんね……!」


 二人の目が交錯する。


 それでも答えは出ない。

 どうする? どちらかが犠牲になるのか?

 どんな選択肢も正解とは思えない。

 その膠着を、ゼクスの愉悦に満ちた声が裂いた。


「いいねぇ……いい顔だよ、キミたち。痛みも、恐怖も、絶望も。立ち向かおうとする勇気や正義感も。全部、そのままレポートにできそうだ──ははっ、さぁ、さぁ、どうする? 早くしないと、彼女の心臓にワタシの指が触れてしまいそうだよ?」


 無機質な声色に、狂気の笑み。

 水橋美波の命が、ゼクス・ヴァイゼンという悪意そのものの指先で、今にも摘み取られようとしていた。


 正義も、信念も、力も、すべてが試されている。

 玲奈と心音の視界が、ぐにゃりと歪む。

 ──限界だった。

 怖い。悔しい。助けたい。

 でも、どうすればいいのか分からない。


「どうする!? さぁ、誰の命を選択する!?」


 ゼクスが楽しげに叫んだその瞬間──






「お前の────命だァァ!!!」






 空気が爆ぜる。

 轟音とともに、紫電の奔流が闇を裂いた。


 次の瞬間──ゼクスと水橋美波の間に、黄金の閃光が飛び込んだ。


「何────」


 ゼクスが反応するよりも早く、その右腕にまとわりついていた煙が吹き飛び、異能力の媒介が断ち切られる。

 直後、気を失っていた水橋の身体が宙に浮かされた。


 だが──それを抱えた人物は、すぐさま指示を飛ばす。


「アリシア!」


「分かってる」


 無駄のない動作。

 翔太郎の腕の中から飛び出した金髪の髪の少女が、背中に炎の翼を展開し、ひと息に滑空。


 軽やかな旋回で、水橋美波をふわりと受け止め、そのままゼクスに背を向ける形で着地する。


「大丈夫。気を失ってるだけ」


 アリシアは静かに、だが揺るがぬ鋼の意志をその声に乗せて断言する。


 その背には赤い炎の翼。

 守るべき者に背を向け、危険へ背中を晒すという決意を、その姿が雄弁に語っていた。


 翔太郎は、そんな彼女に一瞬だけ視線を送ると──すぐに正面の白衣の男へと目を戻した。


 橙色の瞳に宿るのは、はっきりとした怒り。

 全身に纏う雷のオーラが、彼の感情と連動するかのようにうねり、周囲の空気をピリピリと震わせる。


 鳴神翔太郎。

 彼の存在そのものが、まるで絶望を断ち切るために走ってきた雷鳴のようだった。


「翔……太郎……?」


 玲奈の唇から、掠れるように名前がこぼれた。


 思わず目を疑った。

 あまりにも、現実味がなかった。

 ついさっきまで、自分と心音は命の選択を迫られていた。

 水橋美波の喉元にゼクスの指先が触れようとしていて、死が、現実としてそこにあった。


 けれど──そこへ翔太郎は、まるでその全てを当たり前のように打ち砕くために現れた。


 いや、そうじゃない。

 彼はいつだって、こうだった。


 縁談や休学を強要されて困っている時。

 氷嶺家以外の居場所が無くて苦しんでいる時。

 進む勇気が無くて立ちすくんだ時。

 兄の凍也を前に、どうしていいか分からない時。


 彼は、どこからともなく現れて──まるで自分の中の闇を、最初から全部見透かしていたかのように手を差し伸べてくれた。


 その姿が、何より眩しくて。

 その背中が、どんな能力者よりも大きくて。

 だから──信じられた。信じたかった。

 たとえ世界の全てに見放されたとしても、彼だけはきっと、自分を見捨てない。


 そして──その信頼は裏切られなかった。


「玲奈、心音。大丈夫か?」


 雷を纏い、ゼクスを睨み据えているその背中から、ふと落ちてきた声は──先ほどまでの怒気と同一人物とは思えないほど、驚くほど優しかった。


 玲奈は一瞬、息を呑んだ。


 優しい。

 あの翔太郎の声だった。

 ずっとそばにいてくれた、どこまでも友を大切にしてくれる、あの翔太郎。


 表情は見えなかった。

 けれど──声だけで分かる。

 自分たちの恐怖を、震えを、そして罪悪感さえも察して、その全てを包み込もうとしてくれる声だった。


 敵への怒りや憎しみより先に、仲間の無事を確かめる。

 そんな彼の在り方が、ただただ眩しかった。


 そしてようやく──


「……はい。私も心音も、怪我はありません」


 玲奈の喉から、か細い肯定の声が漏れた。


 涙がこぼれそうになった。

 心がほぐれていくのが分かった。

 人質という地獄から、選択を迫られる悪夢から、ようやく解放されたという実感が、彼の声でようやく戻ってきた。


 やはり翔太郎が来てくれると、世界が変わる。

 玲奈は、そう確信していた。

 彼はいつだって、誰かの希望になるために現れる。


 そして今、この場に現れた翔太郎は──間違いなく、この場にいる全員にとってのヒーローだった。

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