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雷鳴のラストピース  作者: 雨車狸
第二章 『爆炎のプリンセス』
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第二章17 『乱入者』

「……でさ。せっかく鳴神くんもいないし、ちょっと氷嶺さんに聞きたいことあるんだけど」


「何でしょうか?」


「氷嶺さんって、今彼氏とかいるの?」


「えっ」


 玲奈の肩がびくりと震えた。


「いきなり何の話ですか」


「いやいや、今そういう空気じゃん? なんか恋バナっぽい雰囲気だし、こういう勝負は最初に火をつけた人が勝ちなんだって」


「話の流れで何か勝負してましたか? 私たち」


 玲奈は顔をうっすら赤らめながらも、視線を逸らす。


「……いません。出来たこともありません」


「えっ、嘘っ!? 1年生の頃、結構色々な男子に言い寄られてたのに!?」


 心音はかなり意外そうな表情を浮かべている。

 普段から彼女が自分をどう思っているのか気になるところではあるが、とにかく玲奈にそんな存在など出来たことはなかった。


 というのも、当時の玲奈は縁談の話が来ていたことで全てを諦めており、特に誰かとそんな関係になりたいと思ったことなど無かったからだ。


「確かに心音の言う通り、氷嶺さんって入学当初は色々な男の子に声かけられてたよねぇ〜? まぁ、どれも全部冷たく返してたけど……。勿体無いなぁ。結構カッコいい男子も多くて、氷嶺さんモテモテ時代だったのに」


 水橋がからかうように笑いながら言うと、玲奈はうっすらと眉を寄せた。


「別に、そんな時代があったとは思っていません。確かに入学当初は話しかけられたりはしましたが……特に私の人間性に興味を持っていたわけではないと思います。名家の肩書きに釣られた結果でしょう」


「でもさ、それでも誰か一人くらいとは付き合ってるんじゃないかなーとか思ってたけどね。上級生の人とか、部活のキャプテンとか、噂あったじゃん」


「そんな噂なんて知りませんし、興味もありません。彼らは単に私が名家育ちだったからですよ。私が少し冷たく接していたら、分かりやすく近付いて来なくなりました」


 それゆえ、最初は翔太郎のことだって警戒していた。

 いつの間にか彼に絆されていて、今では相棒兼同居人という関係性ではあるが。


 玲奈の口調は淡々としていたが、どこかにほのかな疲れのようなものが滲んでいた。


「まぁ、大半の方は離れてくれて楽でしたけどね。雪村くんみたいに、粘って近付いてこられる方が厄介でしたから」


「そっかぁ……」


 心音がどこか納得したように頷いたあと、ふと視線を玲奈に向け直す。


「じゃあさ、誰かと付き合いたいとか思ったことは?」


 その一言に、玲奈はぴたりと動きを止めた。

 問いかけに反射するように、脳裏に浮かぶ“彼”の顔。


 不意に見せた気の抜けた笑顔。

 いつも優しくて、どこか安心する声。

 真っ直ぐに自分を見てくれる、あの眼差し。


 胸の奥が、微かに熱を帯びる。


(……違う。今は関係ない)


 玲奈は首をぶんぶんと小さく左右に振り、表情を引き締めた。


「特にはありません」


 その一言に、心音と水橋は同時に肩をすくめた。


「へぇ〜……だってさ。心音はどう思う?」


「うーん、私はてっきりもう付き合ってるのかと思ってたよ。ほら、鳴神くんと」


「──っ」


 聞かれるとは思って身構えていたのだが、本当にその名前が出てくると、玲奈の身体はほんの一瞬、ビクッと震えた。


「なぜ、翔太郎の話が出てくるんですか」


「いやいや、自分でもわかってるくせに〜? 連絡先交換してるのが鳴神くんだけってことはさ、やっぱり何か特別な関係なんじゃないかなーって思っちゃう訳よ?」


「白椿さん、いつも以上に生き生きしてますね……」


「ふふっ、だって今の氷嶺さん、完全に気になる人いますって顔してるもん。耳も今、すっごい真っ赤だし」


「違います。ただ、翔太郎には……色々と、助けてもらっているだけです。それに、一学期におけるパートナーでもありますし、自然と一緒に行動する機会が増えるのは当然で……」


 玲奈はできる限り冷静に答えようとした。

 けれど、語尾が少し震えていたことには自分自身でも気付いてはいなかった。


「ふ〜ん……でもそれって十分、仲良いってことだと思うなぁ〜」


 水橋は楽しげに言いながら、足を組みかえた。


「心音も思ってたでしょ? 氷嶺さんと鳴神くん、雰囲気がちょっと特別だって」


「うん。実は、ちょっとだけね。鳴神くんも、氷嶺さんのことだけは信頼してるって目をしてる気がするんだよね」


 その言葉に、玲奈は何も言えなかった。

 ただ黙って、膝の上に置いたスマホをそっと見つめる。本当に翔太郎は自分だけを信頼してくれているのだろうか。


 今まで、こんな風に誰かの好意を測られることも、自分の感情を追及されることもなかった。


 慣れていない。

 だけど──彼の話をすることが、不思議と嫌ではなかった。


「……私はただ、彼が信頼できる人だと思ってパートナーを組んだだけです。本当にそれだけなんです」


 自分でも、言いながら少し苦しくなる。

 もちろん、それだけではない。


 彼には返しきれない恩がある。

 自分らしく生きたいと、そう思えるようになったのは、あの家で全てを諦めていた自分の手を翔太郎が躊躇いもなく握って引いてくれたからだ。


 ──泣きながら縋った自分に、真っ直ぐ「どこにでも連れて行く」と言ってくれた、あの言葉があったから。


 ただ、それだけは。

 どうしても誰にも話したくなかった。

 その瞬間だけは、自分の中にだけしまっておきたい、かけがえのない記憶だった。


 ふと──風が吹いた。

 午後の陽射しが木々の隙間から差し込んで、玲奈の長い髪がふわりと宙を舞う。


 白椿心音は、言葉もなくその光景を見つめた。


 光に透けた真っ黒で艶のある長髪。

 伏せられた睫毛の陰。

 強がりながらも、誰よりも真っ直ぐなその横顔が、一瞬だけ儚いもののように見えた。


(……やっぱり、綺麗な女の子だな)


 ぽつりと、心の中で呟いた。

 今までそんな風に思ったことはなかったけれど、今目の前の彼女は確かに、心を揺さぶる何かを持っていた。


 もし、氷嶺玲奈が誰かを好きになったとしたら。

 そして、その想いを向けられた男がいたとしたら。


(……それって、どっちにとっても、凄く幸せなことなんじゃないかな)


 心音は、誰にも聞かれないように小さく微笑むと、何も言わずにそのまま玲奈の横顔を見守り続けた。


 風が過ぎて──少しの静寂が落ちたその瞬間だった。


 ふと、心音の視線に気づいて、玲奈が顔を上げた。

 じっと自分を見つめていた心音と、まっすぐに目が合う。


 一瞬だけ、玲奈の表情に戸惑いが浮かぶ。

 だがすぐに、それを打ち消すように口元に穏やかな微笑を浮かべて、ほんの少しだけ視線を和らげた。


「──じゃあ、次は白椿さんの番ですね?」


 玲奈は少し首を傾けながら、静かに言った。


 その声音にはからかいや押しつけがましさはなく、あくまで自然で、けれどどこか律儀な響きがあった。


「え? わ、私?」


 突然の指名に心音は思わず目を丸くする。


「私にはあれだけ根掘り葉掘り聞いておいて、自分は話さないなんて言うのは無しですよ?」


「……氷嶺さん、急にそういう反撃するタイプ?」


「いえ、単に順番的にそうかなと思っただけです。私の次は白椿さんか水橋さんかなと」


 玲奈はどこまでも真顔で言うが、その表情の奥には、ほんのわずかにくすぐったそうな余韻が混じっていた。


「うわ〜……そっちからそんなこと言われると思ってなかったぁ。うーん、やばいな、じゃあ私も腹をくくるか〜!」


 そう言いながら、心音はごく軽く咳払いをして、自分の番に向けて表情を整える。






「そのガールズトーク、私も混ざっていいかしら? 玲奈ちゃん」






 空気が裂けるような違和感。

 風が、止まった。


 声はどこからともなく響いた。

 まるで空間のどこかに穴が開き、そこから這い出るような、冷たく艶やかな声。


 三人の笑みが固まった。

 直後──影も音もなく、その女は現れていた。


「──なっ……!?」


 玲奈は息を呑み、思わず立ち上がる。

 いつの間に──本当に、いつからそこにいたというのか。


 誰も気づかなかった。

 気配すらなかったのに。

 だが確かに、目の前に立っていた。


 木立の影に沈む黒いフード。

 顔の大半を覆い隠すような深い被り。

 それでも、玲奈にだけは分かった。


 ──この女を、知っている。


 1ヶ月前。入学式の翌日。

 学園から少し離れた公園で、自分を狙ってきた存在。

 そして、翔太郎が間一髪で割り込んで、紫電の一撃を叩き込んだ、あの黒いフードの女。


 それが今、再び──目の前に立っていた。


「あなた……どうして、ここに……」


 言葉が震える。

 ただのガールズトークだったはずの時間が、まるで氷点下に沈んでいくような緊張に染まっていく。


 黒フードの女は一歩、すっと前に出た。

 音も、足跡も、まるで存在しないかのような静けさで。


「驚かせちゃったかしら? でも……ずっと探してたのよ、あなたのこと」


 その唇だけが、うっすらと笑みを浮かべていた。

 だが、その奥に潜むものは──明確な敵意。


 そして、それは玲奈だけが確信していた。

 この女は、また自分を狙いに来たのだと。


「氷嶺さん、この人と知り合い?」


「なんか見るからに不審者ですけどぉ、あなた誰なんですぅ?」


 心音と水橋の問いかけに、玲奈は何も答えられなかった。

 答えようとした唇が震える。

 視線は黒フードの女に釘付けで──否、目を逸らせなかった。


 その様子がただ事ではないと、二人もすぐに察する。


「……氷嶺さん?」


 心音の声に不穏な緊張が滲んだ、まさにその瞬間だった。


「部外者は──ちょっと、死んでてくれる?」


 吐き捨てるようなその声と同時に、黒フードの女の手が音もなく振るわれる。


 刹那、虚空から噴き出したのは凄まじい蒼炎。

 重力を無視するかのような速度で渦を巻きながら空間を裂き、獣のように三人を襲いかかる。


「っ──水橋さん!」


 反射的に玲奈は右隣にいた水橋を抱き寄せ、地面を蹴った。

 蒼炎が着弾する直前、紙一重でその場から跳び退る。


 その背後で爆音。

 破壊された木の枝と土煙が、熱を伴って舞い上がる。



 水橋を抱きしめていた玲奈は何も言わず歯を食いしばっていた。

 肩越しに感じる熱風とじわりと滲む焦げた匂い。

 それは、現実の殺意。


 同時に──


「させないっ!」


 心音が鋭く叫ぶや否や、地面が隆起する。

 彼女の前方、地面を砕くようにして立ち上がったのは太く硬質な幹のような木の盾。

 瞬時に生成されたそれが、迫る第二波の蒼炎を受け止める。


 蒼炎が幹を焼き裂くも、心音は一歩も退かない。

 口元を真一文字に引き締め、敵を真正面から睨み据える。


「いきなり何なの!? 誰だか知らないけど、他人に向けての害意のある能力使用は、法律で禁止されてるんだけど!?」


 心音の怒りがフードの女にぶつけられる。

 やはり優先して水橋を守り、心音に防御を任せて正解だった。


 心音は自分よりも席次が上の第七席。

 対して水橋は、今日たまたま病室から抜け出す事が出来た後遺症患者なのだ。


「ひ、氷嶺さん……ありがと」


 完全に怯え切った表情で弱々しい声で感謝を告げる水橋に、玲奈は優しく微笑み返す。


「ええ……水橋さん。怪我はありませんか?」


「うん、私は大丈夫だけど……」


 玲奈は水橋を後ろへ下がらせながら、足を前に出した。

 その瞳は既に、氷のような緊張と覚悟に満ちていた。


 黒フードの女は悠然とした仕草で片手を下ろしながら、ただ薄く笑う。


「へぇ……前はあんなに無防備だったのに、今はしっかり私のことを見据えてるのね。少しは楽しませてくれるかしら、玲奈ちゃん?」


 凍りついた静寂の中、再び空気が燃え始めた。

 蒼炎の熱が、戦いの幕開けを告げる。


 空気が爆ぜた。

 次の瞬間、蒼炎が地を裂き、爆音と共に襲いかかる。


「来るよ、氷嶺さんっ!」


「分かってます!」


 玲奈の叫びと共に、フードの女の両手から吹き出した青白い火柱が、一直線に三人を焼き尽くそうと殺到する。


 だが、その目前で地面が突如として盛り上がり、無数の蔦と幹が絡み合って分厚い植物の盾を形成した。


 炎がぶつかり、盾の表面を灼き裂く。

 蒼炎の熱で焼け焦げた木の香りが鼻を突く中、心音は一歩も引かず、盾の背後で水橋の身体を庇っていた。


「美波ちゃん、ここから動かないで。絶対に──私たちが守るから」


 心音の声には、普段とは違う硬質な意思が込められていた。


「ごめん、私のせいで……!」


「謝らないでください。奴の狙いは私です。むしろ巻き込んでしまって……すみませんでした」


 その言葉に込められたのは、玲奈なりの責任感。

 そしてその目には──はっきりと覚悟が宿っていた。


「ねぇ、氷嶺さん……あのフードの能力者って──」


「話は、奴を抑えた後にしましょう」


 玲奈はそう言いながら、水橋に背を向けたまま、隣に立つ心音に目だけを向けた。


「白椿さんには申し訳ありませんが、一緒に戦ってくれますか?」


「もちろん! その代わり、後で絶対詳しいこと話してよね!」


 心音は真剣な目で頷きながら、わざと少し明るい声で返す。

 その余裕の裏には、冷静な判断と、玲奈の変化に対する確かな理解があった。


「ありがとうございます。……この植物の盾はあとどれほど持ちますか?」


「この程度の火力なら、多分ずっと大丈夫。アリシアに比べたら全然だし、むしろやりやすいくらい」


「さすがですね」


 玲奈の口元がわずかに緩む。

 その表情に緊張が走る一瞬の静けさが差し込んだ。


「では、向こうの攻撃が止んだ瞬間に、私が右から飛び出します。その瞬間、白椿さんは──敵の足首の拘束を」


「了解。任せたからね!」


 それを聞いた心音はすぐさま背後の水橋に向き直ると、ポケットからスマホを取り出し、強く押し付けるように手渡した。


「美波ちゃん、すぐにアリシアか、学園の先生に電話して。今すぐ! このままじゃ、本当に危ないから」


「う、うん……!」


 水橋の手が震えていた。

 けれど、心音の静かな眼差しに、怯えは少しずつ薄れていった。


「大丈夫。零凰学園の十傑が二人もいるんだし、絶対私たちが勝つから。美波ちゃんに負担をかけて悪いけど、落ち着いて電話してね」


「……頑張る」


 水橋の弱々しくも握られた携帯を見て、心音はいつも通りに陽気に微笑んだ。


 そして再び、心音は玲奈の隣へと戻った。

 一方で、フードの女は距離を保ったまま、不敵に微笑んでいる。

 次の攻撃を、じっと見極めているのだ。


 玲奈は小さく深呼吸をしながら、氷の細剣を指先で生成する。

 薄く透き通るその刃に、彼女自身の迷いは映っていない。


「行きます」


「いつでも良いよ!」


 心音と目が合った瞬間、玲奈は風を切るように植物の盾を抜けた。

 周囲の冷気が一気に跳ね上がる。


 それに即座に反応したのはフードの女。

 口元に笑みを浮かべたまま、左手を滑らせるように振り上げた。


「いらっしゃい。玲奈ちゃん」


 次の瞬間、地を焼き尽くすほどの蒼炎がその掌から解き放たれる。

 灼熱の奔流が空気を唸らせ、水分を奪い尽くす勢いで玲奈を襲う。


「させないっ!」


 心音の声と同時に、フードの女の足元から鞭のように蔓が飛び出す。

 それは真横から女の手首を絡め取り、一気に空へと引き上げた。


「っ……!?」


 バランスが崩れた。

 照準が逸れる。

 蒼炎は玲奈の横を掠めて虚空を焼き、地面に巨大な焦土を刻んだ。


「良いタイミングです、白椿さん!」


 玲奈は間髪入れずに女の懐へと踏み込む。


「やぁっ!」


 氷の剣が疾風のごとく振るわれ──その鋭い突きに、女も咄嗟に右手を翳して応じる。

 掌から噴き出した蒼炎が、玲奈の剣先を迎え撃った。


 刹那、爆ぜるような衝突音が辺りを引き裂いた。

 蒼炎と氷結──相反する異能力が激突し、ぶつかりあった衝撃波が空間ごと歪ませる。


 氷の剣の鋭さが勝った。

 フードの女は、まともに受けた一撃の余波で体ごと吹き飛ばされ、地を擦りながら数メートル後方へと滑っていく。


「──意外ね。思ってたよりずっと強いじゃない。玲奈ちゃん」


 ゆっくりと体を起こしながらも、その声に怯みはなかった。

 むしろ口元には、妙に愉快そうな笑みが残っている。


 玲奈は一歩踏み出し、剣を構え直す。


「……ここ最近は、ずっと相方と訓練していたので」


「ふうん。前にお話しした時は、あんなに隙だらけだったのに。あれから随分と強くなったのね」


 フードの女は、軽く手首を回しながらこちらを見る。

 焼け焦げた布と、わずかに血をにじませた右腕──にも関わらず、まるで痛みなど感じていないかのような態度だった。


 高校生とはいえ、零凰学園の十傑が二人。

 その上、玲奈の異能力の造形速度と精度は、一度交えれば尋常でないと分かるはず。


 しかし──それでもフードの女は、微塵も余裕を崩していない。むしろ、玲奈の成長ぶりに本気で感心しているようにすら見えた。


「それとも……環境が変わったことに対する意識の問題かしら?」


 彼女は、笑って続けた。


「どうやら、嫌がってた縁談が無くなって──気持ち的にもスッキリしたってところ?」


「────っ」


 玲奈の動きが一瞬、止まる。

 その鋭さに、すぐに反応したのは心音だった。

 戦闘中にも関わらず、彼女の視線がわずかに玲奈の方へ向く。


「縁談って……?」


 小さな声だったが、確かにそう呟いた。

 玲奈は目を合わせない。

 心音の方を見ないまま、静かに答えた。


「話は後です。今は気を抜かないでください」


 それだけで、心音は何も聞き返さなかった。

 ──だが、玲奈の胸中では凍りつくような嫌悪感が渦巻いていた。


(この女は一体……)


 ただの襲撃者ではない。

 前に狙われた時もそうだった。

 明らかに、奴は玲奈の事情を何か知っている。

 翔太郎以外の部外者は、誰も知らない氷嶺家の内情。

 縁談が無くなったことまで、既に把握されている。


「あなたは一体、何者なんですか」


 玲奈の声は静かだったが、その奥には怒りと警戒が滲んでいた。


 しかし、フードの女は肩をすくめるだけだった。


「私? 別に私の正体なんて、今はどうでも良いでしょう?」


「……は?」


「重要なのは、私があなたを狙っているっていう事実。違うかしら?」


 笑っている。

 まるで、狙うという言葉に何の悪意もないように。

 玲奈は警戒心を強めたまま、氷剣をゆっくりと構え直す。


「確かに、あなたの目的も気になりますが……」


「──聞きたいことが山ほどある、って顔してるわね」


 女は、玲奈の心を読んだように言葉を重ねた。


「じゃあ、こうしましょうか。今から玲奈ちゃんだけ、私について来てくれる? そうすれば、私の正体も目的も──全部、あなたにだけ教えてあげても良いんだけど」


「話になりませんね」


 玲奈の声は冷たく、そして揺るぎなかった。


「いきなり襲いかかってきた相手について行くなんて……頭おかしいんですか?」


 その直後、フードの女の唇がひくりと吊り上がった。


 笑みが深まる。

 けれど、それは喜びや愉快ではない。

 感情の温度が一切感じられない、底の見えない黒い穴のような笑みだった。


「……いい表情ね。玲奈ちゃん」


 玲奈は剣先をわずかに上げ、体勢を崩さない。

 その背後で、心音も呼吸を整えながら構え直す。


 次の瞬間──女の声が、ひどく静かに、異様な色を帯びた。


「才能あふれる、自信に満ちた目をしてる。どこまでも綺麗で、真っ直ぐで……」


 声はささやきにも似ていたが、やけに耳に残る。

 薄暗い部屋で、突然耳元で囁かれたかのような、ひやりとした感覚が背筋を撫でた。


「私とは正反対で──とても妬ましいわ」


 瞬間、空気が変わった。


 心臓の奥に冷たい針が刺さるような、説明のできない悪寒。玲奈も心音も、無意識に一歩踏み込んだ足に力が入らなくなる。


 それは言葉では形容できない。

 ただ、その声音には──何かが乗っていた。


 心音が、思わず息を飲んだ。


(今のは、一体……?)


 言葉の意味以上に、声の奥に潜んだ感情の異様さ。

 妬み、嫉妬、怨念……そのどれとも違う、もっと原始的で歪んだ感情の塊が、言葉の奥底から溢れていた。


 玲奈もまた、わずかに表情を曇らせる。

 敵意や殺気よりもなお危険な、理解できない何かに触れてしまった恐怖──。


 それを発した本人は、まるで何事もなかったように微笑んでいた。


「──どうしたの? 黙っちゃって」


 声の調子は変わらない。


 だが、今やその一言一言が全て毒のように感じられる。玲奈は喉元に迫る寒気を抑え込むように、氷の剣を握り直した。


「……白椿さん、油断しないでください。この女、明らかに普通じゃありません」


 前方から背後へと、囁くように告げた玲奈の言葉に、心音も力強く頷いた。


 フードの女は、飄々と佇んだまま、二人の様子を楽しげに見ていた。その視線は、まるで玩具を前にした子どものようだった。


 遊び足りない、と言わんばかりに──。

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