第二章16 『ガールズトーク』
職員室の隣にある応接室。
窓のブラインドは半分ほど閉じられ、どこか閉塞感のある空気が漂っていた。
応接用の長テーブルとソファがあるだけの簡素な空間。その中で、氷嶺玲奈と白椿心音は二人並んで立っていた。
「話って、何でしょうか? 岩井先生」
先に口を開いたのは心音だった。
いつもの朗らかさをほんの少し抑えつつも、どこか余裕を崩さない声色だ。
「まあ、立ち話もなんだし。良かったら、そこに座ってくれ」
岩井は無精髭をゆっくりと撫でながら、相変わらず気だるそうな調子でそう言った。
だが視線だけは、二人の様子を静かに見定めていた。
玲奈と心音は視線を交わし、小さく頷いてからソファに腰を下ろす。
岩井は向かい側の椅子に深く腰を沈め、重たげに足を組んだ。
「突然呼び出して悪かったな。少し、お前たちの組んでるペアのことで、気になることがあってな」
「気になる……?」
玲奈が反射的に聞き返すと、岩井は目を細めて、今度はあからさまにじっと見てきた。
「鳴神翔太郎とアリシア・オールバーナー。二人に、最近何か変わった様子はないか?」
岩井の何気ないようで核心を突く問いかけに、室内の空気がぴんと張り詰めた。
一瞬だけ視線を交わした玲奈と心音は、それぞれ無言のまま数秒間を置いてから、ゆっくりと反応を返す。
「……どうして、そんなことを聞くんですか?」
玲奈の声は落ち着いていたが、その目にはわずかに警戒の色が滲んでいた。
感情を表に出すことはない彼女が、明確に疑っているというサインを発したのは、珍しいことだった。
「あの二人に何かあるんですか?」
心音もまた、笑みを作ることなく真っ直ぐに岩井を見つめた。その姿からも、はっきりとした違和感の察知が伝わる。
「いや、そういう訳じゃない。ただ、俺の耳にちょっとした噂が入ってきてな。教師として無視できる話じゃなかったんでね」
「……翔太郎やアリシアさんが、何か問題を起こしたとでも?」
「いや、そう断定はしていない。だが確認しておきたかった。それだけだよ」
気だるげな声色の裏側に、妙な含みがあった。
玲奈は内心で、疑問が次々と浮かび上がってくるのを抑えられなかった。
(──なぜ、今?)
帰りのホームルームが終わって、既に一時間以上が経っている。そんな時間に校内放送を使ってまで呼び出す必要があったのか。
そもそも、どうして自分たちがまだ学園に残っていることを岩井が知っていたのか。
廊下ですれ違ったわけでもなく、目撃情報があったわけでもない。
「岩井先生。私たちを呼び出した理由って、二人の様子を聞き出したいからなんですか?」
玲奈の問いには、かすかに疑いと探りの色が混じっていた。
「ああ。……まあ、俺の勘違いならそれで済む話だしな。悪く思うな」
岩井は曖昧な表情を浮かべながら椅子の背に体を預けたが、玲奈も心音もその言葉を鵜呑みにしなかった。
むしろ、その言い回しこそが、何かを隠している証拠のようにすら思えた。
玲奈は視線を落としながらも、静かに思案する。
「……白椿さん、どう思いますか?」
「……うーん、なんか変な言い回しだよね」
──もしかして、あの事件を調べていることが、学園側に勘付かれ始めてる?
(翔太郎の行動は確かに目立ちやすいけど、でも岩井先生がそこまで気にすること……?)
玲奈はふと、翔太郎のことを思い浮かべた。
どこか危なっかしいのに、なぜか放っておけないあの少年。
彼の周囲に、また何か良からぬ気配が漂い始めているのではないか──そんな胸騒ぎが、静かに彼女の中に芽生え始めていた。
岩井はしばらく黙って二人の様子を観察した後、何かを決めたように視線を玲奈へと向けた。
表情からは相変わらず倦怠感しか読み取れなかったが、次の言葉にはそれなりの重みがあった。
「氷嶺。お前に少し、個人的な質問をさせてもらう」
玲奈は瞬き一つせず、静かに頷いた。
「鳴神翔太郎のことだ。鳴神は一応、推薦生だろ? お前たちもよく知ってる通り、学園では忌避されている存在だ」
言葉を選んだようでいて、どこか突き放すような言い回しだった。
「昨年の事件があったにも関わらず廃止されなかった推薦枠。我々、教職員たちの間でも学園側の判断には何度も議論している。生徒からの信頼も──お世辞にも厚いとは言えない」
岩井はそう前置きした上で、核心に迫る。
「鳴神は全く非はないが、それでもお前が組む理由が分からない。前回のパートナー試験、お前は単独で参加できる立場だった。去年の氷嶺の行動を見る限り、今年も誰とも協力せずに試験に臨むモノだと思ったが、あえて鳴神を選ぶ理由なんて、どこにもなかっただろう?」
玲奈はその問いに対して、すぐには答えなかった。
だが、困惑の色も見せず、反論の構えも見せず、ほんの数秒の沈黙の後──はっきりと答えた。
「……彼には、返しきれない恩があるからです」
それだけだった。
理由の中身に触れることも、詳細を説明することもせず、ただその一言を淡々と告げて、玲奈はそれきり口を閉ざした。
「……えっ?」
隣に座っていた心音が、ぱちりと瞬きをして玲奈を見やった。
いつも通りの無邪気な笑みはすでに消えている。
「それ、初めて聞いたんだけど……鳴神くんに、恩?」
「はい。ですが、詳しいことは言えません。私個人の問題なので」
「個人のって……そんなに重大なことなの?」
「ええ。少なくとも、今ここで話すようなことではありません」
完全に初耳だったのだろう。
驚きと、どこか言葉にできない複雑な色がその目に浮かんでいた。
玲奈の声は静かで淡々としていた。
けれどその語尾には確かな線が引かれていた。
それ以上、踏み込ませないという意思の線だ。
一方で岩井はというと、無精髭を撫でながらやや体を乗り出した。
しばらく無言のまま玲奈を見ていたが、重たく口を開く。
「お前は……鳴神が推薦生であることが、この学園で何を意味するかは、当然分かっているんだよな?」
「勿論です」
「なら話は早い。鳴神自身に非は全く無いが、海道の事件もあって推薦生は学園の中でも目をつけられやすい立場にある。わざわざ鳴神と組む理由が、ただの恩だと?」
その声音は穏やかではあったが、問いの鋭さは隠していなかった。
探るように、逸らさず玲奈を見据える岩井の視線。
「はい。それ以上でも、それ以下でもありません」
「その恩ってのは、具体的に何の話なんだ?」
「そこまで話すつもりはありません」
玲奈の答えは、ぴしゃりと戸を閉ざすような一言だった。声色は静かで柔らかいが、その奥にある拒絶の意志は揺るがない。
「もう一度言いますが、私の個人的な問題です。相手が担任教師と言えど、そこまで話すつもりはありません」
それは、玲奈にとってただの過去ではい。
誰かに語るべき類のものではなく、誰にでも共有されるものでもない。
翔太郎に救われたあの瞬間──あの記憶、あの思い出だけは、紛れもなく玲奈だけのものであるから。
岩井は鼻を鳴らし、無精髭を撫でながら気怠そうに椅子の背にもたれかかる。
「まぁいいさ。無理に聞き出すつもりはない。ただ、お前たちが何かに巻き込まれてないか、少し気になっただけだ」
「それって……あの二人に何かあったんですか?」
心音が不安そうに尋ねる。
「いや……まだ確かなことは言えない。だからこうして、少し話を聞いてるだけだ」
「でも、どうして今なんですか? 帰りのホームルームが終わってから、既に1時間も経ってますよね? 私たちが校内に残ってるって、どうして分かったんですか?」
玲奈の問いに、岩井は目を細めた。
「それは単純に、職員室の近くにいた生徒が、さっきお前たちの姿を図書室で見たと噂していた。なら今日中に話を済ませた方がいいと思ってな」
それで聞きたかったことが、翔太郎とアリシアという二人の推薦生に何か変わったことが無かったかという話題という訳だ。
だが────
「岩井先生の質問の意図がよく分かりません。翔太郎とアリシアさんが、何か問題でも起こしたんですか?」
玲奈は静かに、しかし目を逸らさずに岩井を見返した。
「いや、問題を起こしたわけじゃない。俺も学園側に要請されて聞き取りをしてるだけだからな。少し、学園上層部はあの二人の動きが気になっているらしい」
「学園上層部が? それは何故────」
「さぁ? それは俺にも分からん。だからまずは本人たちではなく、それぞれのパートナーであるお前たち二人から話を聞こうと考えただけだ」
「ふーん……なんか腑に落ちないなぁ。そもそもなんで学園側が、鳴神くんとアリシアの動きなんか気にするんだろ」
心音が少し皮肉めいた笑みを浮かべたが、岩井は気にした様子もなく、肩をすくめた。
「まあ、深刻に受け取るな。お前たちに何かを疑ってるわけじゃない。ただ、念のためにな」
岩井はしばらく沈黙していたが、やがて諦めたように椅子の背に身を預けた。
視線を天井に移し、煙草でも吸いたそうな顔で、ひとつ息を吐く。
「まあ大体、話は分かった。少なくとも、お前たちの口ぶりや態度から察するに、鳴神にもアリシアにも目立った変化はなさそうだな」
岩井が腕を組んだまま、椅子をギシリと鳴らして言う。
「少なくとも、私の知る限りでは」
玲奈が簡潔に答えると、心音も頷いた。
「アリシアも、特に変わった様子はありませんでしたよ。相変わらず、友達は出来ないみたいだけど」
岩井は口元を少しだけ、椅子の背から体を起こす。
「話は以上だ。もう戻っていいぞ。せっかくの放課後に、時間をとらせて悪かったな」
玲奈と心音は軽く一礼し、並んで応接室を後にした。
♢
静かな廊下。
放課後の学校特有の、人気の少ない音のない空気。
職員室の引き戸を開けて一歩踏み出した瞬間──
「……え?」
心音が思わず足を止め、隣の玲奈も眉を動かす。
職員室前の廊下。
そこに立っていたのは、数ヶ月前に休学届けを出し、今は入院して影山龍樹以外の誰とも会わなくなったはずの少女がいた。
「……水橋さん?」
制服姿のまま、まるで時がふと緩んだかのように、静かに立ち尽くしていた水橋美波が、無言でこちらを見つめていた。
群青色の長い髪が、少し巻きながら腰元に届く。
表情はふわりと柔らかくて、以前と変わらぬぽわぽわとした雰囲気を纏っている。
「えっ、美波ちゃんが……? 嘘、どうして……!?」
玲奈の隣で、心音が素っ頓狂な声を上げた。
彼女にとっては去年の事件以来、実に数ヶ月ぶりの再会。思わず足を止め、息を呑んでいた。
「わぁ、心音だぁ!」
水橋が、ぱっと笑顔を咲かせて手を軽く振る。
「ほんと久しぶりだねぇ! なんか心音が、去年よりもっと可愛くなってる! 相変わらずスタイルも良いし!」
「え、え? あ、うん……。美波ちゃんこそ、随分元気そうで──」
心音は目をぱちくりとさせながらも、ほっとしたように頬を緩める。
戸惑いと喜びが入り混じったような表情だった。
ただ、美波はすぐに玲奈へと視線を戻し、ゆっくりと歩み寄る。
返事を返した心音ではなく──玲奈の前で、ぴたりと立ち止まった。
「先週ぶりだね、氷嶺さん。ちょっとだけ、話せるかな?」
声色はあくまで柔らかく、どこか遠慮がちでもあった。
玲奈の目がわずかに揺れ、すぐに静かに頷く。
「……え、ええ。少しなら、構いません」
心音がぽかんとしたまま二人を見ている。
「先週、美波ちゃんに会ってたの? 氷嶺さん」
「はい。実は翔太郎と一緒にお見舞いに行ってました」
玲奈が短く答えると、水橋が間に割って入った。
「ふふっ、ねぇ? まさか、あの氷嶺さんがお見舞い来てくれるとは思わなかったよぉ。サプライズゲスト過ぎて、すんごい嬉しかったんだから!」
「そうでしょうか? ……まぁ、確かにほとんど接点は無かったもんですから、少し驚かせてしまったかもしれませんね」
「龍樹以外で来てくれた人、久しぶりだったから凄い嬉しかったよ。……本当に、ありがとうね」
玲奈は何も言わず、ほんの一瞬だけ目を伏せた。
それを見た心音が、少しだけ空気を和ませようとするように話す。
「ていうか、そもそもどうして今日は学園に? 美波ちゃんって、まだ休学中なんじゃ……?」
「あ、うん。今日ちょっとだけ外出許可が出たから。体調もだいぶ戻ってきてて、ね」
「そうだったんだ……本当に良かったよ。久しぶりに、美波ちゃんの元気そうな顔を見れて安心した」
「ふふっ、ありがとね心音。……私も本当に会えてよかったよぉ」
心音が少し照れたように笑い、水橋も目を細めて微笑む。
その一方で、玲奈の表情はどこか少しだけ読み取りづらかった。
ただ、それでも──彼女なりに、水橋の言葉を受け止めていた。
そしてその空気のまま、水橋はふと視線を玲奈に向けたまま、少しだけ真面目な声で言った。
「今日はね、氷嶺さんに用があって来たんだ」
「私にですか?」
「先週、お見舞いに来てくれたでしょぉ? 事件のことで言い忘れてたことがあったから、それを伝えたいな〜って思ってさ」
「事件のこと?」
その言葉に、心音がぴくりと眉を動かした。
彼女は、玲奈と翔太郎が先週に水橋の病室を訪れていたこと自体、今初めて知ったのだ。
「ねぇ、ちょっと待って。事件って、あの“聖夜の魂喰い”のこと?」
「うん、それそれ。氷嶺さんと鳴神くんが、去年の事件について聞きたいことがあったらしくてさ、お見舞いに来てくれたの」
水橋はこともなげに言ったが、心音の顔には驚きと、ほんの少しだけ寂しさが浮かんでいた。
「へぇ……二人ってそんなに事件のこと調べてたんだ」
「ごめんなさい、白椿さん。特に他の人に話すような内容では無かったので、その……」
玲奈が少しだけ伏し目がちに言いかけたその時、水橋が明るい声で遮った。
「なんていうか〜、この前少し話しそびれた事があったからさ、久しぶり学校に寄るついでに、氷嶺さんに会えたらなぁって思って」
「でしたら、今から翔太郎を呼んできても良いですか? 一番事件のことについて知りたがっているのは、他でもなく翔太郎ですから」
玲奈がそう言うと、水橋は少し考え込むような仕草をした。
「うーん……鳴神くんかぁ」
水橋がふと考え込むように首を傾げる。
「どうかしたんですか?」
玲奈の問いかけに、水橋はゆっくりと視線を上げた。
「いやぁ、ほら。先週、龍樹がマジで怒ってたじゃない? 鳴神くんのこと、結構本気で嫌ってるっぽいし……私が鳴神くんと話してるってバレたら、アイツまた何かしでかすかも~って思って」
「影山くんですか……」
玲奈の声に、微かに緊張の色が混じる。
確かに、その可能性はある。
あの影山龍樹が、水橋に対してどこか過剰なまでの保護欲を抱いていることは、玲奈も薄々感じていた。
──そもそも、今こうして水橋が病室を抜け出していること自体、影山に伝えているのだろうか。
そんな疑念を胸に抱えつつも、水橋はどこ吹く風といった様子で話を続けた。
「だからさ~、あとで氷嶺さんが、鳴神くんに伝えてくれないかな? 伝言ってほどの話でもないけど、ん~……まぁ、大したことじゃないし~」
「分かりました。翔太郎に伝言すれば良いんですね?」
玲奈が素直に頷くと、水橋はにこりと微笑んだ。
「そうそう。氷嶺さんなら上手く伝言出来そうだし、鳴神くんとも仲良さそうだしね?」
その会話を聞いていた心音が、少し眉をひそめながら割って入る。
「え、ちょっと待って。氷嶺さんだけ行くの?」
「えーっと……うん。そうしようかなって思ってたんだけど……」
水橋が口元に指を当てながら、曖昧に笑う。
「久しぶりに心音に会えて嬉しいんだけど、多分、今から話すことって、心音にはあんまりピンとこないかもな~って思って……」
「えぇー!? それってちょっと冷たくない? せっかく久しぶりに会えたたのに、私にだけ内緒話ってこと?」
心音は口を尖らせ、肩をすくめながら抗議するように水橋を見る。
「も~! 久々に会った友達にそれはないでしょ? なんかショックなんだけど」
「そっかぁ……うん、ごめんね? ……でも、そう言われると……」
水橋は一度だけ玲奈と心音の顔を交互に見てから、にっこりと微笑んだ。
「じゃあ、三人で話そっか。龍樹も、鳴神くんも男衆抜きで……この三人で、ガールズトークしよ?」
「ガールズトークって……事件の話なんですよね?」
玲奈が静かに尋ねると、水橋は楽しげに肩を揺らした。
「ん~、まぁ、そこまで堅い話って訳じゃないよ。私としても、氷嶺さんにちょっと聞きたいことがあってさ。先週、お見舞いに来てくれたじゃない? 鳴神くんと一緒に」
「ええ、それは確かに。ですが、話を聞きたがってるのは翔太郎の方で、私から特別に話すようなことは──」
「ふふ、何の話を期待してるかは、私にも分かんないけどね~。でも、なんとなく気になるんだよ、氷嶺さんの顔」
「顔ですか?」
玲奈は微かに困惑したように眉を下げたが、水橋は何の含みもなさそうに頷いた。
「普段は真面目そうで堅苦しい感じだけど、鳴神くんといる時だけちょっと柔らかくなるの、気付いちゃったからさ~」
「そうですか?」
玲奈は特に反応する事なく、よく分かってないように首を傾げると、横にいた心音も目を輝かせる。
「やっぱり美波ちゃんもそう思うよね? 先週会っただけなのに、鋭過ぎるよ……!」
「白椿さんも何言ってるんですか」
「えへへ、伊達に入院生活してなかったからね~。人の観察ばっかりしてたの。……でさ、ここじゃなんだから、ちょっと場所移そうよ」
水橋はくるりと振り返って、廊下の先を指差した。
「学園から少し離れた裏手に、まだ小さな広場があるでしょ? あそこでのんびり、三人で話そ」
「分かりました。では、そこへ」
「私も行くよー! なんか話についていけるかは分かんないけど、この3人で一緒に話すのなんて初めてだし!」
「ふふ、じゃあ決まりだね。……行こっか。二人とも」
そして、静かな放課後の廊下に、三人分の足音が静かに重なる。
思いがけない再会は、誰も気づかないうちに、もう始まっていた。
ただの世間話か。
それとも、あの日の続きを知るための時間か。
少女たちの視線の先には、ほんの少しだけ柔らかい光が射していた。
♢
零凰学園から徒歩五分ほどの場所にある小さな広場。
草木に囲まれた石畳のベンチがぽつんと並ぶだけの場所だが、ここからなら学園全体を見渡すことができる。放課後のざわめきも今は遠く、空には茜色が静かに広がっていた。
「久しぶりに来たけど、やっぱりここって風が気持ち良いねぇ〜」
ベンチに腰を下ろした水橋が、空を見上げながらぽつりと呟く。
「ええ。五月とはいえ、夕方になるとだいぶ涼しくなりますね」
玲奈は整った姿勢でベンチに腰かけ、膝の上で両手を揃えながら静かに言った。夕風が頬を撫でるたび、髪がふわりと揺れる。
「穴場スポットなら、デッドガード売ってる自販機の前も結構オススメだよ。あそこ、地味に人通り少ないし。私、ここも結構好きだけどね」
少し遅れてやってきた心音が、玲奈の隣に軽く体を預けるようにして座る。くつろいだ口調とは裏腹に、目は周囲をきちんと見ていた。
「それで、水橋さん。事件について何か思い出したことがあるんですか?」
玲奈が静かに問いかけた。
無駄な前置きもなく、真っ直ぐにに核心へと踏み込む姿勢は以前と変わらない。
「うん。前に氷嶺さんが鳴神くんと一緒にお見舞いに来てくれたとき、言おうか迷っててさぁ〜。……ちょっと言いづらい話だったし、信じてもらえるかも分からなかったからねぇ」
水橋は柔らかく笑いながら、視線を空へと向けた。
どこか遠い記憶を探るようなその目には、僅かに憂いも滲んでいた。
「私、例の事件のとき──覚えてる限りでは、犯人って一人だけじゃなかったと思うんだよね」
「──どういう意味ですか、それは?」
玲奈の瞳が微かに揺れる。
予想外の発言だった。
「え、どういうこと? 聖夜の魂喰いの犯人って……あの海道杏子だけじゃなかったの?」
心音も思わず顔をしかめて聞き返す。
「うん、確かに表向きはそうなってるけど……私、あの夜、誰かと話してる声を聞いた気がするんだよね。すごく低くて、女の人の声じゃなかった」
「会話ですか?」
玲奈が眉をひそめる。
「う〜ん、はっきり覚えてるわけじゃないんだけど、クリスマスツリーがどうのとか……なんかそんな言葉が聞こえた気がするんだぁ。前も言った通り、記憶は凄い曖昧だから、これも合ってるかはわからないんだけど」
「クリスマスツリー……」
玲奈は繰り返すようにその言葉を呟いた。
記憶の中を探るように、指先でスカートの裾をそっとつまむ。
「それ、誰かに話したことあるの? 先生とか、影山くんとか」
「ううん。龍樹には、言ってもきっと夢でも見たんだろって返されそうでさぁ〜。なんか龍樹は龍樹で、私にあの事件のことに触れさせたくなさそうだったし」
水橋は肩をすくめるように笑った。
どこか軽い口調とは裏腹に、言葉には確かに恐れが滲んでいるようにも見えた。
「でもでもぉ、氷嶺さんならちゃんと聞いてくれるかなって思ってねぇ。先週、鳴神くんと一緒に来てくれたときも、すごく真っ直ぐに話を聞いてくれてたから」
「私も翔太郎も、特に意識はしていませんでしたが……そんな風に思っていただけて、光栄です」
玲奈は膝の上で揃えた両手をわずかに握りながら、静かに頭を下げた。
謙虚で誠実なその態度は、確かに好感を持たれるだろう。
けれどその心の奥では、先ほどのクリスマスツリーという単語が妙に引っかかっていた。
報告書によると、水橋が倒れていた廊下でクリスマスツリーが立っていた記録など、なかったはずだ──それが、ただの記憶違いなのか。
それとも。
「ま、言いたかったのはそれだけなんだよねぇ。ホントこの程度の内容なら、メールでも良かったんだけど」
と、水橋がぽやぽやとした声で肩をすくめる。
「そもそも私、鳴神くんも氷嶺さんも連絡先知らないし。だから呼び出しちゃってゴメンね?」
「あ、それ私もだ。氷嶺さんの連絡先、聞いたことなかったかも」
心音が目をぱちくりとさせて言うと、玲奈が少し驚いたようにまばたきをした。
「確かにそうでしたね」
玲奈は一瞬戸惑ったように目を伏せるも、すぐに小さく頷いた。
「じゃあ今、交換しとく? 今後また何かあったとき連絡できるし」
「そうですね。でしたら……」
少し間を置いてから、玲奈はスマートフォンを取り出す。どこかおずおずとした動作だったが、拒む様子はなかった。むしろ、自分でもその自然な流れに少し驚いていた。
(零凰学園に来てから、翔太郎以外とこうして連絡先を交換するのって……初めてかも)
誰かと繋がることが、これまでずっと怖かった。
深入りされるのも、踏み込むのも。
でも今は──拒否していない。
「じゃ、まずは私ね。ほら、これで……っと」
心音が楽しげに端末を近づけると、玲奈も慎重にそれに合わせる。
機械の処理音と共に、画面に表示されたハートスタンプ付きの確認メッセージに、心音が思わず吹き出した。
「氷嶺さんコレ、初期設定?」
「えっ。あ、はい。変え方がよく分からなくて」
玲奈は少しバツが悪そうに答えながらも、どこか照れたように視線を逸らす。
「可愛いじゃん、そのままで。じゃあ次、私ともしよ〜?」
「ええ、水橋さんも……」
今度は水橋とスマホをかざし合い、連絡先が表示される。画面上にはふわふわの猫アイコン。
「ふふ〜ん、これ私のお気に入りなんだぁ。……あ、そういえば氷嶺さんって、他に誰の連絡先入ってるの?」
ぽやっとした口調のまま水橋が問いかけると、玲奈は一瞬ぴたりと動きを止めた。
目を伏せ、スマホをそっと見つめながら、躊躇いがちに口を開く。
「えっと、その……」
ほんの少し、指先がスマホを握り直す。
胸の奥にしまっていた何かを、静かに吐き出すように。
「家族の連絡先と翔太郎のくらいで……」
「えっ」
心音が最初に声を上げた。
ぱちぱちと瞬きを繰り返し、それから勢いよく前のめりになる。
「やっぱり鳴神くんとだけは交換してたんだ?」
「まぁ……そういうことになりますね」
玲奈は少しだけ視線を泳がせながらも、なんとか肯定の言葉を絞り出した。
「な、何かおかしいですか?」
「いや? おかしいっていうか、可愛いっていうか〜? 美波ちゃんもそう思うでしょ?」
「もしかしてさ、氷嶺さん……鳴神くんのこと、特別って思ってたりぃ?」
「────っ!」
水橋の核心をついた一言に、思わず胸が跳ねた。
玲奈の返事を待たずに、彼女の様子を見ているだけで十分だったらしい。
確かに特別と言われれば──特別だ。
氷嶺家との縁を切った今、玲奈にとってこの世界で唯一無二の“味方”は翔太郎だけだ。
だが、水橋と心音がそういったニュアンスで口にした訳ではないことも理解していた。
だからこそ、玲奈は少しだけ唇を引き結び、慎重に言葉を選んだ。
「確かに翔太郎としか連絡先は交換していませんが、それだけで何かを決めつけるのは早計です」
「でもさ〜、家族としか交換してなかったのに、鳴神くんにだけ特別に教えたんだよねぇ〜?」
「いや、それは状況的に仕方なく……」
玲奈は小さく咳払いをし、視線を逸らす。
──あの時は、翔太郎が朝早くから氷嶺家まで迎えに来てくれていて、そのまま車に乗せられた流れで交換したのが真相である。
逃げ場のない車内。下心が一切無い真っ直ぐな視線。
フードの女に狙われていたこともあって、ごく自然な流れで交換せざるを得なかった。
「ふふっ、なんか言い訳がすっごく不自然〜。状況的に仕方なくって、まるで鳴神くんの方からしつこくお願いしたみたいじゃん」
心音がニヤニヤしながら茶々を入れると、玲奈はほんのりと頬を染めたまま、しぶしぶと認めるように呟いた。
「……確かに、連絡先を交換して欲しいと言ってきたのは翔太郎の方からでした」
「やっぱり〜! うわ〜、鳴神くん、意外と押し強いタイプだったんだぁ?」
「押しというより……はい。強引だったかもしれません」
玲奈の声はどこか呆れ混じりながらも、わずかに柔らかく緩んでいた。
そう──あの時の彼のまっすぐな言葉が、今も心のどこかに残っている。
あんな冷たい態度の自分に、彼は友達だと言ってくれたのだ。
そんな風に言ってもらえたことが案外嬉しくて、その後の車内では彼の顔を直視することを思わず躊躇ったほどだ。
──夕陽が傾く広場で、少女たちの笑い声がゆっくりと広がっていく。
いつのまにか、事件の話は遠く彼方へと押しやられ、ごく自然なガールズトークの時間が始まっていた。