序章5 『目覚め』
鳴神翔太郎にとって、寝起きの悪い目覚めはさほど珍しいものではなかった。
普段から兄弟たちから落ちこぼれ扱いを受け、両親からも見向きもされない。齢十年の一般的な感性を持つ少年ならば、そんな家庭に居心地の悪さを感じるのは当然だ。
ただ、いつもとはまるで別だ。
脳裏に焼き付いたのは自分では到底勝ち目のない絶対的な強者である兄弟たちが次々と蹂躙されていく様と、燃え盛る村と山道。そして目の前で心臓を抉り取られた最愛の妹が────。
「……ここは」
自分がいつも寝ている和室では無かった。
畳に敷いた布団ではなく、ベッドで寝かされているのに気が付くと周囲を見渡した。
「学校か?」
翔太郎が通っていた小学校は、村の中心部にある教室に近い場所にあった。村は人口が減少傾向にあり、学校も過疎地域に位置していたため、一学年に一クラスではなく、三学年を一クラスでまとめて授業を行っていた。
起きあがろうとしたら全身に痛みが走る。
昨晩、フードの女の一人から蹴り飛ばされた脇腹が特に痛んだ。
「夢、じゃないんだよな」
信じたくなかった。
あの光景が現実のものと理解するには、受け入れるには、あまりに酷な話だった。
「夢じゃないぞ、少年」
「っ」
「ようやくお目覚めか」
目覚めた翔太郎に声を掛け、ベッドの傍にある椅子に座っていたのは、一人の中年男性だった。
落ちこぼれであっても、普段から強者である兄弟たちを見ていた翔太郎は、この男もまた強者側の人間であることを一目で感じ取った。
「……あなたは?」
「俺は剣崎大吾。ここの孤児院の施設長だ」
孤児院。
その言葉を翔太郎が知らないわけではなかったが、自分はあの燃え盛る村の中で倒れたはずだった。
あの場で絶望しながら死を覚悟していたのに、目を覚ますと生きていて、しかもベッドに寝かされているという現実が、どういうことなのかは分からなかった。
「こんなことを目覚めた直後の君に聞くのは酷な話だとは思う。単刀直入に聞くが、君は三日前の鳴神村災害の生き残りで間違いないな?」
「災害、だって……?」
その男は今、三日前だと言った。
つまり、翔太郎は昨晩の出来事だと思っていたが、実際にはもう三日も経っている。
無意識のうちにその三日間、生死の境を彷徨っていたということになるのだろうか。
「ああ。突如として連絡が途絶えた鳴神家の様子を調べるため、国家から派遣された異能力者の報告で鳴神村の壊滅が確認された。俺は実働部隊として村に入ったが、君以外の生存者は見つからなかった」
「俺以外のみんなが……?」
「表向きには鳴神村の壊滅は山規模の火災と見られているが、実際には違う」
「そ、そうだ。俺は見たんだよ! 陽奈が、妹がフードの奴らに目の前で殺されて────」
「──夜空の革命だ」
「……え?」
「国際テロ組織『夜空の革命』という黒のフードを纏った男女で構成された異能力者の集団だ。異能力の痕跡や村の跡に残されたシンボルを見ても、君の村を襲ったのは奴らで間違いない」
確か、父が口にしていたのを思い出した。
国際テロ組織・夜空の革命は、日本政府が現在最も危険視している異能犯罪集団。
組織のシンボルの旗は黒背景に七つの白い星が付いている。所属する一人一人がS級クラスの超危険集団だと話していた。
「話を続けるが、奴らは一週間後の深夜零時に都心の重要施設を複数破壊すると日本政府に犯行声明を出していた。だが、鳴神家が滅ぼされ、姿を消した今、あの犯行声明はブラフだったと考えられる」
「父さんが、言ってたような……」
「……父さん、だと?」
夜空の革命というワードを聞いて、父の電次郎が言っていた言葉を思い出し、復唱しようと思った瞬間、顔をこわばらせた剣崎が近づいてきた。
「失礼だが、まだ君の名前を聞いていなかった」
「鳴神翔太郎です」
その名前を告げた途端、剣崎は一瞬目を閉じ、見開いてゆっくりと話し始めた。
「……鳴神本家の四男で、六人兄弟の五人目か。となると事件を間近で目撃したのか。それはさぞ、辛かっただろうな」
「……」
「君たち兄弟のことは電次郎氏から聞いている。本家は真っ先に狙われたらしいから、生存は絶望的だと考えていたが、よく生き延びてくれた」
「なんで、俺だったんだ」
「……何?」
「なんで、俺だけが生き残ったんだ……?」
掠れた少年の声に剣崎は何も言えなかった。
よく生き延びてくれたと告げたが、翔太郎個人としては自分以外の誰かが生き残るべきだと考えていたのだろうか。
「だって、そうだろ!? なんで助かったのが、何も出来ない俺一人だったんだ!? 本当なら、俺じゃなくて陽奈が助かるべきだったのに!」
「……」
「陽奈が死んだら、俺は何の為に生き残ったのか分かんないよ」
サバイバーズ・ギルトという言葉がある。
これは自分一人だけが助かり、他の仲間や愛する人々が命を落としたときに感じる強い罪悪感や後悔を指す心理的な感情だ。
生き残ったことへの自己嫌悪、或いは「なぜ自分だけが助かったのか」という疑問が頭を離れず、その重さに押し潰されそうになる。
特に、他の誰かが助かるべきだったと感じる瞬間、この感情はさらに深くなり、今後の日常生活にも影響を及ぼすことがある。
生き残った者は、無意識のうちに自分だけが幸運だったという思いに捉えられ、その結果、亡くなった人々に対して負い目を感じ続けることが多い。
こんな幼い少年が生き残ったことに、ここまで負い目を持つ必要は無いし、剣崎はこれ以上見ていられなかった。
「翔太郎、聞け」
一歩踏み出し、少年の目を真剣に見つめた。
「お前が生き残ったことに理由なんて求めるな」
剣崎は静かに翔太郎の背中に手を置いた。
その手は重かったが、どうしようもなく温かかった。
「生き残ったからこそ、お前にはまだできることがある。妹や他の誰かのために、その命を無駄にはできないんだ。お前が生きたことには、必ずそれ以上の意味がある」
「意味……?」
「仮に生き残ってしまった負い目でどんなに苦しんでも、それはお前のせいじゃない、むしろお前が誰かのために生きるための証なんだ」
剣崎は深く息を吸い込むと、真剣な眼差しで続けた。
「助かった命に、誰がどう生きるかなんて決まりはない。でも生きた者がその命をどう使うか、それはお前が決めることだ」
「……」
「自分だけでも助かったことに負い目を感じる必要はない。翔太郎の生きる意味は、これから生きて見つけるんだ」
たった今知り合ったばかりだったのに、剣崎の言葉が翔太郎の胸に響く。
言葉は、痛みを引き裂き、心の中に小さな光を灯した。だが、その光が差し込むと同時に、翔太郎の中に眠っていた感情が一気に溢れ出す。
────お兄様。
その最中で彼の目に一番最初に浮かんだのは、幼い日の陽奈の笑顔だった。
どんなに辛い時も陽奈が隣にいてくれた。
彼女の優しさ、明るさ、何気ない言葉ひとつで心が温かくなったあの頃。あの日、彼女を守れなかったという無力さが、また蘇った。
「俺は……」
思わず震える手で顔を覆う。
目の奥に熱いものが込み上げてきて、言葉にできない痛みが胸を締め付ける。
「陽奈、助けてあげられなくてごめんな……」
ついに、彼の目から一筋の涙がこぼれ落ちた。今まで自分の中で必死に抑え込んでいた感情が、剣崎の言葉をきっかけに解き放たれた。
涙は止まらず、頬を伝って落ちていく。
剣崎は黙ってその姿を見守る。
翔太郎が涙を流すことで、少しでも心の中の重荷が軽くなることを、彼はただ願っていた。
「陽奈が生かしてくれた命を『俺なんか』って言うのは間違ってたよな」
翔太郎は、涙を拭いながら呟く。
その言葉には決意が込められていた。
もう、彼女が救ってくれた命は無駄にしないと。
剣崎は静かに頷き、少年の肩をそっと叩いた。
「それでいい、翔太郎。これからを生きろ。生きてくれば、その内自分が生き残った理由がきっと見つかるはずだ」
一度深呼吸をし、涙を拭いながら顔を上げた。
その瞳にはもう迷いはなかった。
♢
「目覚めた直後だし、気分転換にでも少し外の空気でも吸おうか」
剣崎は用意が良いのか、車椅子を取り出してまだ万全に動ける状況ではない翔太郎をゆっくりと乗せた。
「この施設も、ちょっとした歴史があるんだ。君にも少しは見ておいてほしい」
車椅子を引かれ、医務室と思わしき場所を出る。
そのまま外に出ると案内された先には、外観には広い庭と古びた建物が見えた。
建物は年月を感じさせるものの、手入れは行き届いており、周囲には色とりどりの花が咲き乱れていた。風が心地よく吹き抜け、木々の間からは陽の光が差し込んでいた。
「ここは、昔から多くの子どもたちが過ごしてきた場所だ。翔太郎と同じように何かしらの理由で家族を亡くした子供たちや、生まれながら持つ異能力が強すぎて親元から離れた子供もいる」
施設の中庭まで車椅子を引かれ、翔太郎は辺りを見渡した。
「さっき、アンタが言っていた子供たちがたくさんいるんだな」
翔太郎は目を閉じて深く息を吸う。
ここには、今の自分と同じような境遇に置かれている子供達がいる場所。
そんな彼らにとっては多くの思い出がある場所だが、余所者の自分には馴染めるだろうか。
「大丈夫だ。きっと翔太郎もすぐに馴染めるさ」
自分の内心を見透かされたのだろうか。
思わず睨みつけると剣崎は苦笑していた。
「あー先生!この前の子、やっと起きたんだ!」
車椅子の翔太郎とそれを引いて施設を散策する剣崎の姿を見て、ボール遊びをしていた子供の一人が元気な声が中庭に響き渡る。
その声に反応して、遊んでいた子どもたちが一斉に振り向き、次々と駆け寄ってきた。
「本当だ! ねえねえ、大丈夫なの?」
「ずっと寝てたけど、もう平気なの?」
「やっとお話できるね!」
皆、翔太郎よりも歳は幼い。
無邪気な笑顔に取り囲まれ、車椅子に座る彼の視線の先で、子供たちの目が期待に満ちて輝いていた。
鳴神家では陽奈以外の人間にこんな温かく出迎えられた事は無かった為、こんなにも自分のことを気にかけてくれる人がいる事に少し戸惑いながらも驚いていた。
そんな彼の様子を見て、剣崎が軽く咳払いをして子どもたちの注意を引く。
「おいおい、いきなり押し寄せるな。こいつもさっき目覚めたばっかなんだから、もう少し落ち着かせてやれ」
剣崎の言葉に「はーい!」と素直に返事をするものの、子供たちの目は車椅子の翔太郎に興味津々といった様子だった。
「翔太郎、お前がどんな場所にいるのか、まだ実感が湧かないかもしれないがな……ここはお前の新しい家みたいなもんだ。そして、こいつらが家族みたいなもんだ」
翔太郎は戸惑いながらも、集まった子どもたちをゆっくりと見渡す。彼らの顔には不安も緊張もなく、ただ純粋な興味と親しみがあった。
「……鳴神翔太郎、です」
小さな声で名乗ると、子どもたちはぱっと笑顔になり、一人また一人と自己紹介を始めた。
「俺はタケル! ここのリーダーみたいなもん!」
「私はミサ! お絵描きが得意なんだよ!」
「アカネだよ! 早く元気になって、一緒に遊ぼうね!」
次々と飛び出す名前に、翔太郎は少し圧倒され、思わず剣崎を見上げた。
剣崎は、子どもたちにとって先生であり、同時に父親代わりのような存在なのだろう。
だからこそ、彼が連れてきた翔太郎もまた、彼らにとっては「新しい家族」に他ならないのだ。
──家族。
その言葉が、心のどこかに引っかかった。
鳴神家では決してあり得なかったような、無邪気で親しげな笑顔が、次々と自分に向けられる。
誰も上下を決めつけず、何者でもない自分をただ受け入れようとしてくれている。
「……」
胸の奥で、何かがじんわりと温かくなるのを感じた。
しかし、それが何なのかを言葉にすることはまだできそうになかった。
そんな翔太郎の様子を見て、剣崎は穏やかに微笑みながら、肩をぽんと叩いた。
「ゆっくり慣れればいいさ。お前はもう、一人じゃないんだからな。」
剣崎の言葉は、静かに、けれど確かに翔太郎の胸に響いた。
ずっと張り詰めていた心が、わずかに緩むのを感じる。
──この人は、一体何者なんだろう。
会ったばかりのはずなのに、どこか懐かしい。
厳しさの奥に優しさがあり、迷いなく手を差し伸べてくれる。
その大きな背中に、どこか父親のような面影を感じてしまう自分がいた。
(……違う。父さんとは、全然違うのに……)
鳴神家の当主であり、厳格な武人だった父・電次郎。
彼からはいつも雷鳴のような威厳を感じていた。
だが、剣崎は違う。強さの中に温もりがある。
怒鳴るわけでも、突き放すわけでもなく、ただ当たり前のように手を差し出してくる。
そんな存在に触れたことが、翔太郎にはなかった。
「……」
胸の奥が、ひどく揺れる。
これは甘えなのかもしれない。
でも、もし少しだけなら──
翔太郎はそっと視線を落とし、小さく息を吐いた。
まだ何も言えなかった。だが、それでもほんの少しだけ、心が軽くなった気がした。