第二章14 『お見舞い』
5月9日・金曜日の昼休み。
翔太郎は職員室へと訪れていた。
「岩井先生」
声をかけると、奥の席でコーヒーをすすっていた男がゆっくりと顔を上げた。
毛玉だらけのスウェットに無精ひげ、相変わらず覇気のない表情──担任の岩井大我は欠伸をしながら翔太郎を出迎えた。
「なんだ、鳴神か? どうした」
翔太郎は一瞬だけ言葉を選ぶように息を飲んだが、すぐにまっすぐ視線を向けて口を開いた。
「去年から休学してる水橋美波って生徒が居ますよね? その子って、今どこに入院してるんですか?」
その瞬間、岩井の目がほんの僅かに細くなる。
「水橋の入院先だと?」
「はい」
「それを聞いてどうするつもりだ」
「別に深い意味はないです。ただ、お見舞いに行こうかなって」
翔太郎の言葉に岩井は眉をひそめた。
その視線には単なる疑念ではなく、どこか慎重さが滲んでいる。
「お見舞いか。お前、水橋と接点あったのか?」
「いや接点は無いですけど、ある生徒から去年起きた事件について聞いたんで、気になっちゃって」
翔太郎が去年のクリスマスの事件について触れると、これまで気怠そうだった岩井の目つきが鋭くなった。
「聖夜の魂喰いのことか」
その名称が岩井の口から漏れた瞬間、翔太郎の背筋に微かな緊張が走った。
「なんですか、それ」
「あの事件の呼び名だ。水橋が巻き込まれた、クリスマスの夜の騒動──その正式名称が、“聖夜の魂喰い”。」
岩井の声はいつになく低く落ち着いていた。
その響きには教職員としての義務感と、そして複雑な感情が混じっているようだった。
「誰から事件のことを聞いたかは言わなくて良いが……その様子だと、なぜ推薦生が学園で浮いた存在なのか、ようやく理解したようだな」
「まあ、ある程度は。聞いた上で──悪いのは事件を起こした海道杏子であって、他の推薦生じゃないと思ってますけど」
翔太郎は、あえて目を逸らさなかった。
その言葉に、岩井は静かに息を吐く。
「推薦生の立場からすれば、そう言いたくもなるだろうな。しかし、周囲から見れば話は別だ。教職員の中にも、推薦制度の見直しを求める声は多く出た。生徒たちの不信感もそれに拍車をかけた。何せ、魂を喰った張本人が推薦生だったんだからな」
それが現実だ、と言外に示すような言葉。
翔太郎は一瞬だけ口をつぐみ、それでも話を戻した。
「で、話戻しても良いですか? とにかく、その水橋って子の入院先を知りたいんですけど」
岩井はしばし黙ったあと、机の下の引き出しを開け、一枚の紙を取り出して差し出した。
だが、翔太郎が手を伸ばしかけたその時だった。
「本当に行くつもりか?」
岩井の声が、どこか含みをもって響いた。
翔太郎の手が止まる。
「お前は影山と水橋の関係を知ってるのか?」
「まあ一応は。幼馴染だって聞いてます」
「先ほども言ったが、誰から事件のことを聞いたかは知らん。だが水橋は海道に魂を喰われ、唯一の後遺症を残した被害者だ。そして、影山はその事件をきっかけに推薦生全体を敵視するようになった。
岩井の一言で、書類の中身を見ようとした翔太郎の手が止まった。
「そんな中、推薦生のお前が水橋のお見舞いに行ったと影山の耳に入ったらどうなると思う?」
彼自身も、考えていなかった訳ではない。
確かに、自分の行動が何かをかき乱す可能性もある。
だが──
「関係ないですよ。俺は確かに推薦生だけど、事件を起こした犯人なんかじゃない。堂々とお見舞いに行きます」
声は静かで、迷いは無かった。
翔太郎の中には知りたいという強い気持ちがあった。
海道杏子のことを、夜空の革命のことを。
そして、組織を追う以上は、海道から直接被害を受けた水橋美波のことを──知らなければならないと思っていた。
岩井は、翔太郎の顔をしばらく見つめていたが、やがて諦めたようにため息を吐いた。
「そうか。なら、止めはしない。だが、その後にお前が影山とどうなっても俺は何もしない。前にも言ったが、生徒同士の諍いに俺は極力干渉しないようにしてるからな」
「分かってますよ。ありがとうございます」
翔太郎は礼を言い、書類を手に取ってその場を後にする。彼の背中を見送る岩井の視線には、何かを思わせるような鋭さが残っていた。
♢
放課後、静かな校舎の廊下を歩いていた翔太郎は、見慣れた黒髪の少女を見つけて声をかけた。
「なあ、玲奈。ちょっと頼みたいことがあるんだけどさ」
「はい? 何でしょうか?」
立ち止まった玲奈が、いつものように丁寧な声で振り返る。
「今日の放課後、水橋美波のお見舞いに行こうと思ってるんだけど……悪い、付き合ってくれないか?」
一瞬、玲奈の表情が固まった。
「……水橋さんの病院ですか?」
「うん。ちょっと水橋って子に聞きたいことがあってさ。俺一人で行ってもいいんだけど、護衛の件もあるし、玲奈が一緒だと助かるなって」
翔太郎は軽い調子で言ったつもりだったが、玲奈の反応は明らかに戸惑っていた。
「何故、いきなり水橋さんのお見舞いに?」
「いや、ほんと急で悪い。でも、どうしても直接話してみたくなって」
「そもそも、翔太郎と水橋さんに接点なんてありましたっけ?」
的を射た指摘だった。
玲奈から見ても、二人に接点は皆無。
水橋美波は事件以来、学園に一度も姿を見せていない。そして翔太郎は、今年度から転入してきたばかり。
接点などあるはずがないのだ。
「昨日、アリシアから話を聞いたんだ。“聖夜の魂喰い”って事件のこと」
「あ……」
思わず玲奈は言葉を漏らす。
「前に玲奈も言ってたろ? 影山に向かって、水橋の休学がどうとか」
「ええ、言いましたけど……」
玲奈は翔太郎の言葉に頷きながらも、どこか釈然としない顔をしている。その表情を見て、玲奈はふと思い出したように訊ねた。
「そういえば、昨日翔太郎が遅くまで話し込んでいた相手って、アリシアさんだったんですね」
「え、ああ……まぁそうだけど。……何その顔」
「なんですか?」
「いや、今なんか凄い顔してたけど……」
「別に普通です」
玲奈はそっぽを向いたまま、感情の読めない声でそう返した。
少しムッとした表情を浮かべられたことはともかく、翔太郎は昨日、アリシアから昨年の事件の話を聞いたことを玲奈に話した。
「ともかくさ。事件のことを聞いた以上、実際に被害に遭った水橋に話を聞いてみたいんだ」
「でも、それって……水橋さんにとっては辛いことなんじゃありませんか? 第一、今彼女がどんな状態か私たちには分かりませんし」
玲奈は少し眉をひそめたまま、真っ直ぐに翔太郎を見た。
「確かにそうかもしれない。無理そうだったら、すぐに引き返すつもりだよ。あくまで話せる範囲で聞かせてもらえたらって思ってるだけだから」
翔太郎の声はいつになく真剣だった。
玲奈はその目をじっと見つめ、ほんの数秒だけ沈黙する。
「……分かりました。ついて行きます」
「マジで? ありがとな。玲奈が一緒に来てくれると心強いよ」
翔太郎がそう言うと、玲奈はわずかに頬を染めて目を伏せた。
「別に……私はただ、翔太郎が妙なことをしないか心配なだけです」
「おいおい、案外俺に対しての信用って無いのか?」
翔太郎が冗談めかして肩をすくめると、玲奈はふと立ち止まり、真っ直ぐに彼の目を見つめて言った。
「──何言ってるんですか。誰よりも信用してるに決まってますよ」
「えっ」
思わぬ直球に、翔太郎は不意を突かれて一瞬言葉を失った。玲奈の瞳に冗談の色はなく、静かに真剣な光が宿っている。
「だからこそ心配なんです。自分のこれまでの行動を振り返ってください。フードの女の件にしても、兄さんのことにしても──翔太郎はいつも、無関係なのに危ない方向に一直線です」
「ぐっ、それは言い返せない……!」
「ですよね。ちゃんと自覚してください」
玲奈は淡々とした口調のまま、ほんの少しだけため息をついた。
「正直、止めたくなる時もあります。ですが、翔太郎はきっと、危ない目に遭っている誰かを放っておけない人なんでしょう。そういう人なんです」
「……」
翔太郎は言葉を失くし、ただ彼女の真っすぐな言葉を受け止めていた。
玲奈の信頼は、ただの好意から来ているわけではない。危うさも含めて、彼という存在を理解しようとしている姿勢がそこにはあった。
「でもさ。俺、基本的に善意で動いてるだけなんだけどなぁ」
「善意を振りかざして火の中に飛び込むのは、ただのバカです。……少しは火傷をさせまいとする人の気持ちも考えてください」
「そこまで言う? ちょっとはフォローしてよ、相棒」
翔太郎が苦笑混じりに言うと、玲奈は一拍置いて、ぽつりと呟いた。
「……まぁ、結果的に私は翔太郎に、何度も救われてますけど」
「玲奈もツンデレの自覚ないよな」
「アホみたいなこと言わないでください」
玲奈はむすっとしながらそっぽを向く。
だが、その横顔にはごく僅かに、照れとも言えない感情が揺れていた。
翔太郎はそんな彼女の肩越しに視線を向け、ふと小さく笑った。
口数の少ない彼女の言葉が、時に何よりも真っ直ぐに心に届くことを、翔太郎は知っている。
そして──それが、彼にとって何よりの力になっているということを、玲奈はまだ知らなかった。
「ところで、玲奈は去年のクリスマスパーティーには出てなかったのか?」
話題を変えるように、翔太郎が訊ねる。
「はい。あの頃はまだ、兄さんに外出の自由を認められていませんでしたから」
「あ……そっか。そう言えばそうだったな」
そうだ。
最近の玲奈の姿に慣れすぎて、翔太郎はつい忘れていた。ファミレスも、ゲームセンターも、彼女にとってはほんの数週間前に初体験したものばかりだった。
そんな彼女が、クリスマスパーティーなどという自由な空間に参加できるはずもなかった。
「玲奈は、事件に巻き込まれなかったんだな?」
「はい。あのパーティーは任意参加でしたし、私の他にも不参加の生徒は居ました。その生徒たちは、被害には遭わなかったそうです」
「そうか」
静かに頷きながら、翔太郎は改めて思う。
あの夜、学園で何があったのか──何が水橋美波の魂を奪い、そして何が影山をあそこまで変えてしまったのか。
「それで、今回も私を送り迎えしてくれた時みたいに、水橋さんのお見舞いに行くことへの深い理由は話してくれないんですか?」
玲奈はふいに声を潜め、少しだけ翔太郎の目を覗き込むようにして訊ねた。
「え、いや……深い理由ってほどじゃないんだけどさ。単純に、事件の被害者の立場から、何があったのかを直接聞いておきたいっていうか……」
「そうですか」
玲奈の返事はそっけない。
だが、その目はどこかじっと翔太郎を測っているようだった。
「分かりました。今回も話してくれる気が無いなら、これ以上は深く聞きません」
「玲奈……」
「どんな事になっても、私が翔太郎を信じてついて行くのは変わりませんから」
翔太郎はその言葉に、思わず言葉を失った。
玲奈はやや頬を染めたまま、そっぽを向いて早足になる。
「そう言ってくれるのは嬉しいけど、ちょっと相棒からの信頼が重すぎて逆に怖い」
「勝手に怖がってください。これからの私は、翔太郎が無茶な真似をしないように、相棒兼監視役になりますから」
「一応、俺の護衛対象のはずなのに、もはや保護者じゃん」
「その通りです」
きっぱりと断言され、翔太郎は何も言い返せなかった。
玲奈はまだ翔太郎が何かを隠しているような気がしていた。
だが、それを無理に引き出そうとは思わなかった。
翔太郎が黙っているということは、話せない理由があるのだろう。それでも、彼の中に何か隠し事があるのは確定的だった。
(……だからこそ、少し怖いんです)
自分の知らない深い場所にまで、彼が巻き込まれていくのではないかという予感が、微かに胸の奥をざわつかせる。
それでも、翔太郎について行くと決めた。
どんな事があっても、もう一度独りになるのはもっと嫌だったから。
♢
学園島からバスで離れていた翔太郎と玲奈は、風雲台医療センターという巨大な総合病院の前に立っていた。
灰色の外壁と高層の建物。
いかにも無機質な医療施設の雰囲気に、玲奈は思わず足を止めてしまう。
「大きい病院ですね。水橋さんって、こんな場所に入院してたんですか?」
「零凰学園の生徒ってだけで、島の外でも色々手厚いらしいからな。担当医も特別に付けてもらってるらしい」
「それで面会って簡単に出来るんですか?」
「一応、先生から病室の番号は聞いてある。でも病院だし、ちゃんと受付通さないとダメだろ」
二人は自動ドアをくぐり、広々とした受付ロビーへ入る。翔太郎が受付に歩み寄り、手続きカウンターで応対している看護師に声を掛けた。
「すみません。ここの703号室に入院している水橋美波さんに、お見舞いで面会したいんですが──」
「お名前を聞かせてもらっても良いですか?」
「鳴神翔太郎と氷嶺玲奈です。水橋さんとは同じ学園の生徒です。面識はまだあまり無いんですけど」
「少々お待ちくださいね」
看護師は名簿を確認すると、電話でどこかに連絡を取った。
数分ほどのやり取りの後──
「はい、水橋様ご本人から承諾を得たので問題ありません。水橋様の病室は七階の東棟703号室です。今はお話もできる状態ですので、ご安心ください」
「本当ですか?」
思わず食い気味に尋ねた翔太郎に、看護師は笑みを浮かべて頷いた。
「ええ。現在は安静が必要な状況ですが、会話は可能です。ただ、無理のない範囲でお願いしますね」
「ありがとうございます」
翔太郎が軽く頭を下げて戻ると、少し離れて待っていた玲奈がすぐに寄ってきた。
「どうでした?」
「担当医と本人の許可も得たみたいだし、大丈夫みたいだ。今は普通に会話もできるってさ」
「そうですか。それは良かったです」
玲奈は小さく息をつき、ほんのわずかに表情を和らげた。
「正直、まだ衝撃から立ち直れていないような印象を想像してました。意識があるどころか、会話までできるなんて……」
「俺も同じ気持ちだよ。でも、話せる状態って分かっただけでも、まずは一歩前進って感じだな」
「ええ……けど、無理をさせないようにしましょう。少しでも表情が辛そうだったら、すぐに退きましょうね」
「ああ」
エレベーターに乗り込むと、七階のボタンを押す。
静かに上昇していく箱の中で、二人は言葉を交わさぬまま、これから出会う少女の姿を想像していた。
かつて、魂を喰われたとされる少女。
事件の核心に最も近い存在──水橋美波。
そして、扉が静かに開く。
♢
七階の東棟。
病室の扉には703号室のプレートが掛かっていた。
翔太郎がノックをしようとしたその時──玲奈が小声で囁く。
「本当に、無理だけはさせないでくださいね」
「分かってる。俺も訊くだけ訊いて、引き際は弁えるつもりだから」
玲奈が小さく頷くのを確認してから、翔太郎は扉を軽く叩いた。
「──失礼します。さっき受付で面会の許可を貰った鳴神です」
一拍の静寂の後、奥からふわりとした声が返ってきた。
「はぁい。開いてますぅ」
その拍子抜けするほど柔らかい声に、翔太郎と玲奈は思わず顔を見合わせる。
そっとドアを開けると、病室の奥にあるベッドの上──白いシーツに包まれながら、群青色の長い髪を枕にふんわり広げた少女が、二人を見て微笑んでいた。
どこかおっとりした瞳、ぽわんとした笑み。
顔色は少し青白いものの、病人というよりは、午後の陽だまりの中で昼寝をしていた少女のようだった。
「えっと、君が水橋美波さんで合ってる?」
ベッドの前に立った翔太郎が、静かに問いかける。
少女は群青色の長い髪をゆるく結び、病室の白い光に溶けるような、やわらかな微笑みを浮かべていた。
「はい、そうです〜。えぇっと……どちらさまでしょうか?」
その声音は、まるで春先の風のようにほんわかとしていて、思わず構えていた気持ちが緩んでしまいそうになる。
「初めまして、俺は鳴神翔太郎。今年から零凰学園、二年A組に転校してきたんだ。こっちは──」
「氷嶺玲奈です。翔太郎の……まぁ、学園におけるパートナーみたいなものです」
玲奈はほんの少し躊躇いながらも、丁寧に頭を下げた。
その瞬間、水橋の目がぱっと輝く。
「やっぱり……あの氷嶺さんなんですね〜! わぁ、本物だ……!」
病室の柔らかな光の中で、少女がぱっと花が咲くように笑う。
「嬉しいです、お二人ともわざわざお見舞いに来てくれて……ありがとうございます〜」
「え? あ、はい……」
玲奈は思わず目を丸くする。
自分が水橋に認識されていること自体が意外だった。
一年生の頃、水橋美波とほとんど接点はなかった。
氷嶺玲奈の名が学園内に広く知られ始めたのは、学園ランキングが更新された今年の三月以降──つまり、彼女が入院した後の話のはずだ。
「玲奈って、去年からそんなに有名人だったのか?」
翔太郎が苦笑まじりに尋ねると、玲奈はやや戸惑いながら首を振る。
「いえ去年の時点では、別に大したことは……。元々、あまり人と絡んでいなかったので」
「ん〜でも学園のことって、病院にいても結構耳に入ってくるよ? 噂とか、先生の話とか色々〜」
水橋は首を左右に揺らしながら、何気なく口にする。
ふわふわとした調子の奥に、なぜか妙によく知っている空気を感じて、翔太郎の眉がわずかに動いた。
「それで、あの……実はお見舞いっていうより、君から少し話を聞かせてもらえたらと思って来たんだ」
翔太郎がやや低く切り出すと、水橋はぱちりと瞬きをしてから、にこっと笑った。
「話? いいよー。どんな話?」
言葉の調子が、ふと砕ける。
先ほどまでの丁寧さが、自然に抜け落ちたような響きを見せた。
「去年の──クリスマスパーティーの時のことなんだけど」
「あ〜、あれかぁ」
水橋はすとんと背もたれに体を預け、薄く目を伏せる。
頬に笑みを残したまま、少しだけ顔を曇らせた。
「もし、無理なら無理で構わない。記憶があやふやだったり、話したくなかったりするなら──」
「ん〜……大丈夫だよぉ。喋るのは、ぜんぜん平気。もう、だいぶ時間も経ったしね〜」
明るい声で笑うその表情には、しかしどこか空虚な影が射していた。
響いてくる言葉は柔らかいのに、まるで深さのない水面を覗いているような不安が胸に残る。
「本当に? 無理しなくていいんだよ?」
「うん、ほんとに。だって……私、あんまり覚えてないんだよねぇ〜。あの日のこと」
「え?」
思わず聞き返した翔太郎に、水橋は変わらぬほわんとした笑みを浮かべたまま、さらりと続ける。
「なんかね、ぽわぽわしてたの。楽しかったような、怖かったような……夢見てたみたいな感じ? 後で先生たちに魂を抜かれたって聞かされても、なんか現実味がなくって〜。あはは、変だよねぇ?」
「えっと、そっか……」
笑顔のまま語られる事件の記憶には、何かが決定的に欠けているようだった。
まるで誰かの言葉をなぞっているだけ──そんな印象が、翔太郎の背中にじわりと冷たいものを走らせた。
何かを忘れたというより──最初から何もなかったような、そんな奇妙な感覚。
それに気付かぬふりをして、翔太郎はなるべく優しく口を開く。
「それって例えば、会場の様子とか……誰かと話してたとかも?」
「う〜ん……あの時って、飾り付けが綺麗だったのは覚えてるんだよ? あとは……甘い匂い? ケーキとか、キャンドルとか。そういうのは、ふわっと残ってる感じで〜」
水橋は目を細めながら、ふわふわと手を動かして記憶の残り香を描くように話す。
しかしその語り口は、どうにも曖昧すぎた。
「じゃあ誰かに何かされたとか、そういうのは?」
「う〜ん……たぶん? でもね、そこがいちばん曖昧なんだよ〜。人の顔とか、声とか……ぜーんぶ霞んじゃっててさ〜」
語尾が揺れるたびに、玲奈の表情が徐々に硬くなっていく。
「本当に、記憶が曖昧なんですね……」
玲奈の声は柔らかいが、観察するような鋭さが滲む。
「うん、ごめんねぇ……期待はずれだったり、する?」
そう言って、まるで小動物のように申し訳なさそうに首をすくめる。
翔太郎は笑顔を作りながら、どこか釈然としない胸のざわつきを無理やり押さえ込んだ。
「いや、そんなことないよ。話してくれてありがとう」
「えへへ〜。お役に立てたなら、よかったです〜」
翔太郎は優しく頷くが、その声の奥に小さな警戒心を滲ませる。
──本当に、記憶が曖昧なだけなのか?
──それとも、最初から記憶なんて存在していないのか?
ふわふわとした水橋の笑顔は、どこまでも柔らかくて、どこまでも掴みどころがなかった。
それとも魂を一度抜かれた人間は、抜かれる前後の記憶が曖昧になってしまうのか。
「あのさ、一つ聞きたいことがあるんだけど良いかな?」
「なに?」
「水橋さん、どうしても確認したいことがある。海道って能力者のこと────」
翔太郎が海道杏子について、水橋から聞き出そうとした瞬間だった。
ガンッ!
重たい音を立てて、病室のドアが内側から勢いよく開け放たれた。
鋭い金属音が壁に跳ね返り、張りつめた静寂が一瞬で切り裂かれる。
その場の全員が、反射的にそちらへ顔を向ける。
「……何でテメェらがここに居るんだ?」
低く、感情を押し殺した声が病室の空気を裂いた。
振り返ると、そこには肩で息をしながら立ち尽くす影山龍樹の姿があった。
制服の上着は羽織られておらず、シャツの袖もまくれたまま。
乱れた前髪の奥で、その鋭い視線がじっと翔太郎と玲奈を射抜いている。
明らかに全力で駆けてきたのだと、見て取れた。
「影山……?」
思わず名前を呼んだ翔太郎に、影山は無言のまま一歩、足を踏み出す。
まるでその一歩に、すべての怒りを込めるかのように。睨みつける視線には、はっきりとした敵意が浮かんでいた。
「岩井の先公が……口を滑らせやがったんだよ。お前たち二人が、美波の見舞いに行くって言ってたってな。──こいつは、何のつもりだ」
その声には、苛立ちよりも深く、怒りよりも鋭いものが混ざっていた。
奪われた時間を、取り戻せなかった無力感を、誰にも理解されない孤独を。
全てを翔太郎にぶつけるかのように。
「岩井から聞いたなら分かるだろ。俺と玲奈は、水橋さんのお見舞いに来たんだよ」
翔太郎は一歩も引かず、静かにそう返した。
その眼差しには言い訳の色も、言い逃れもない。
ただ真意を伝えようとする誠実さがあった。
玲奈も、すぐに小さく頭を下げて言葉を添える。
「私も翔太郎の付き添いとして来ました。水橋さんが……しっかり喋れたというのは、今日初めて知りましたが」
それでも、影山の視線は凍ったままだった。
心の奥にある棘に触れられたときの、防衛本能にも似た拒絶。
理屈ではない、もっと感情に近い反応だった。
「どういうつもりだ、テメェら。何で突然、美波の病室に来ようなんて発想になった?」
その問いは、疑問ではなかった。
推薦生に来る資格なんてないと、そう言い切っているようだった。
「昨日、アリシアから聞いたんだ。聖夜の魂喰いのことをな。それで──何があったのか、自分の目で確かめたかった。それだけだ」
「聖夜の魂喰い……?」
水橋がぽかんとした顔で首を傾げる。
その反応は、まるで話の中にいるはずの自分が、そこにいないかのようだった。
「そう、クリスマスパーティーの夜。君が巻き込まれた事件のことだよ、水橋さん。何か覚えてることを聞ければって思って来たんだ」
翔太郎の言葉は真剣だった。
だが、同時にその真剣さが、影山の心を深く抉る。
──まただ。
何も知らない奴が、どこかの誰かから聞いた事件の話だけで、この傷に踏み込んでくる。
影山の眉がわずかに跳ね、握った拳に力がこもる。
「──余計なお世話だ!」
怒号が病室に響いた瞬間、玲奈が小さく肩をすくめた。
翔太郎もわずかに表情を引き締め、影山の怒りを正面から受け止めようとする。
「ちょっと龍樹ぃ〜」
そんな中、水橋が間延びした声で口を挟んだ。
緊張を和らげるような声色。
けれど、それが影山に届くことはなかった。
「せっかく、わざわざ二人がお見舞いに来てくれたのにぃ……そんな言い方、ひどいよぉ? ごめんね、二人とも。龍樹って、いつもこうなの。誰にでもキツくて〜」
「お前は口を挟まなくていい、美波」
その言葉には、苛立ちと焦りが滲んでいた。
水橋にまで言葉を遮られたことが、何よりも自分の立場を崩されるようで──惨めだった。
水橋は「ふぇ〜」と呟いて肩をすくめ、またふにゃっとした笑顔に戻る。
影山の視線は、翔太郎から逸れることなく鋭さを保ったままだ。
「ここにはよく通っているのか?」
「黙れ。さっさと消えろ」
その返答に、水橋の猫撫で声が再び響く。
「龍樹ぃ」
思わず舌打ちした影山は、堪えきれなかった感情を押し出すように、口を開いた。
「……ああ、通ってるよ」
影山は吐き捨てるように答える。
だが、その声はほんのわずかに震えていた。
「あの事件の後、毎日ってほどじゃねえが──できる限り、来てる。何か思い出してくれるかもって思ってな」
自嘲のような笑みすら浮かべず、ただ事実だけを呟いた。
「話を聞いたなら分かってんだろ。美波はあの推薦生のせいで、こうなった。同じ推薦生のテメェが来て、俺の神経を逆撫でしないとでも思ったかよ?」
滲んだ感情は、怒りそのものだった。
理屈では分かっている。
事件を起こしたのは海道杏子で、他の推薦生は関係ない。
だが、それでも感情が許さなかった。
海道の推薦者は姿を消し、元々一般生徒と違って優遇された条件で学園に入学したにも関わらず、あんな事件を起こしたことが許せなかった。
やるせない怒りは、彼女の推薦者にではなく、学園に残っている他の推薦生たちへと向けられた。
「分かってる、影山。お前が水橋と幼馴染ってことも、お前があの事件のせいで推薦生に憎しみを抱えてるってことも。でも──」
翔太郎は息を吸い、言葉を選んだ。
「それでも、あの日何があったのかを知りたい。これは俺自身の為でもある」
「テメェが知る必要なんかねえだろ!!」
影山の叫びは、もはや怒号ではなく悲痛だった。
握りしめた拳は震えていて、今にも崩れそうなほどだった。
「これは、俺と美波の問題だ。海道と同じ推薦生のテメェが、偉そうに割り込んでくんな……!」
その言葉に、ふと水橋が反応する。
「……龍樹」
彼女の声は、今度は少しだけ真剣だった。
まるで何かに気付きかけたように。
「さっさとここから出ろ、鳴神。そして氷嶺も。──これ以上は言わせんな」
その目は、この場にいる誰よりも真っ直ぐだった。
拒絶ではない。願いに近い何か。
過去を守ろうとする最後の砦のように、必死に立ちはだかっていた。
翔太郎は、すぐには何も言えなかった。
その言葉の重さを受け止めるには、あまりに切実すぎて。
ふと、隣に視線をやる。
玲奈が静かに頷いていた。
今は、それ以上を踏み込むべきではない。
そう告げるように。
「……分かったよ。今日は引く」
短く、けれど確かな言葉を残し、翔太郎は水橋に向き直った。
「話してくれてありがとう、水橋さん。ほんの少しでも……意味はあったと思う」
「えへへ〜、また来てくれると嬉しいなぁ。……ダメ、かな?」
その返事に、翔太郎はうっすらと笑った。
だがその背中には、影山の視線が最後まで突き刺さっていた。
その目に宿るのは、怒りでも嫉妬でもない。
過去も記憶も、誰にも明け渡したくないと叫ぶような孤独な願いだった。