第二章12 『もう一人の推薦生』
ゴールデンウィーク明けの5月8日、木曜日。
長かった連休が明け、校舎に再び生徒たちの声が戻ってきた。つい数日前まで、パートナー試験の緊張感で張り詰めていた空気は、連休の間にすっかり霧散してしまったようだ。
夕方の教室には、授業を終えたばかりの気だるい雰囲気と、名残惜しげな笑い声が漂っていた。
机に突っ伏して仮眠を取る者。
放課後の予定を話し合って盛り上がる者。
そして──教室の隅では、玲奈が数人の女子に囲まれていた。
「氷嶺さん、連休中はどこか行ったんですか?」
興味津々といった表情でこちらを覗き込んでいる。
以前なら、こうした視線にどう返せばいいか分からず曖昧な会釈だけ交わしていただろう。
けれど今は──ほんの少しだけ、言葉を返すことができる。
「はい。横浜へ行ってきました」
「え、横浜? いいな〜!」
「ゴールデンウィークだし、人めっちゃ多かったでしょ?」
「そうですね、やはり中華街とみなとみらい方面は賑わってましたね。ただ、あの辺慣れてないので、少し歩き疲れてしまったというか……」
玲奈自身も意外だった。
こうして誰かに、週末の出来事を楽しげに話すことができている。
その事自体が、どこか不思議で心地良かった。
「というか氷嶺さんって、横浜とか行くんだね。なんかイメージとちょっと違うかも」
「……実は、人生で初めて行ったんです」
その一言に、周囲の女子たちが小さくざわついた。
「うそ! 東京住まいで横浜初!? あれだけ有名なのに?」
「観覧車とか赤レンガとか行ったんだ?」
「はい。あと、中華街にも行きました。氷川丸に乗ったり……ラーメンも食べました」
驚きと羨望が入り混じった声に、玲奈は少し戸惑いながらも、思わず笑みを漏らす。
その表情が自然なものであることに、自分でも少し驚いていた。
連休の記憶が、まるで昨日のことのように鮮やかに蘇る。
肉まんやラーメンを始めとしたホカホカの食べ物、観覧車から見下ろす絶景、氷川丸で感じた風の冷たさと海の匂い、そして──ずっと隣にいてくれた少年の顔。
「え、ラーメンってもしかして家系?」
女子たちの間に驚きが包まれる。
ラーメン屋というだけでも、女子は行きづらいみたいな風潮が世の中にあるのは事実。ましてや家系ラーメンなど、こってりの権化のような食事だ。
「はい。総本山と呼ばれるところに一時間ほど並びました」
「まじ? 氷嶺さんがラーメン啜ってるの想像できないんだけど」
「本当に美味しかったです。スープにライスを浸して、海苔で巻いて食べると至高でした」
言いながら、玲奈の表情が自然と綻んでいく。
あの瞬間、湯気の立ちこめる店内で丼と向き合った時の真剣な気持ちと幸福感は、きっと一生忘れない。
「うわ、それお父さんがたまにやってる奴だ」
「意外と……いや、かなりギャップあるかも」
女子たちの言葉に、玲奈は頬に手を添えて少しだけ首をすくめる。
恥ずかしさよりも、どこか嬉しさが勝っていた。
笑いが弾ける中、話題は自然と、誰と行ったのかという方向へ流れていった。
「へー! 結構色々回ってるじゃん!」
「観光のプランとか、氷嶺さんが立てたの? 話聞く感じだと、初めての割には詳しく回ってる感じだよね」
「いえ、その……私自身初めてだったので、横浜の事はあまり詳しくはなかったのですが、同行者が色々と調べてくれて……」
「同行者ってことは、誰かと一緒に行ったんだ?」
「はい」
「家族? それとも友達?」
そう言われて玲奈は一瞬だけ言葉に詰まる。
別に隠しているつもりはなかった。
ただ、今この空気の中でどこまで話すべきか、ふと考えてしまっただけだ。
でも、みんなが悪気なく笑顔で問いかけてくれるものだから──つい、気が緩んでしまう。
「翔太郎と行ってきました」
その言葉が口をついて出た瞬間、まるで教室の空気が一秒だけ凍りついたかのような、微妙な静寂が訪れた。
玲奈自身、特別な意図があったわけではなかった。
気負いも躊躇いもなかった。
ただ自然に──彼の名前を言っただけだった。
「えっ、翔太郎って……鳴神くん?」
「うん? 鳴神くんと?」
きょとんとした顔から徐々に興味を滲ませていく女子たちの視線が、次々と玲奈に注がれる。
その熱を感じて、玲奈はようやく、自分の発言があまりに迂闊だったものであったと気付いた。
(あ……私、いま……)
思わず、言ってしまった。
考えるより先に、無意識のように。
だが、周囲の女子たちはその名前に思い切り反応していた。興奮と好奇心を露わにして、明らかにスイッチが入っている。
「待って。それって……もしかして、二人で?」
「ええ、まあ……その、はい……」
その返答が引き金となった。
「えぇぇーっ!? それってもう完全にデートじゃん!」
「ちょっ、どういうこと!? 何それ何それ! 詳しく!」
「観覧車とかも行ったってことは、夜景見ながら……うわぁ〜!」
「ラーメンも一緒に? ちょっと、そのギャップやばくない?」
女子たちは一気にヒートアップし、机に身を乗り出しながら、きゃーきゃーと盛り上がっていた。
その中心にいる玲奈は、戸惑いを隠せないまま、じわじわと頬に熱が上っていくのを感じる。
視線を逸らしても、話題の渦は逃してくれず、気づけば耳の先までほんのり赤く染まっていた。
「い、いえ……その……特別な意味は……別に……」
もごもごと呟く玲奈の姿が、これまでの態度とはあまりにギャップに差があった。
当然、女子たちはますます大盛り上がりとなった。
「ちょっ、何その反応! めっちゃ可愛いんだけど!」
「連休に二人で遊び行くとか、絶対何かあるでしょ!」
弾けるような笑いと声の渦の中に包まれる。
どうしてこんなに周囲が盛り上がっているのか、どうしてこんなに顔が熱いのか、理由も分からぬまま、俯き気味に口元を手で押さえた。
「本当に……違いますから」
──それでも、心のどこかで。
どこかほんの少しだけ、くすぐったいような、悪くない気持ちがしているのもまた事実だった。
「えっと、鳴神くんは……」
一方で翔太郎は、机に突っ伏してイヤホンをしていた。
けれど、音楽に意識が向いていたわけではない。
流れるインスト曲はただの背景で、そのほとんどは耳を素通りしていた。
時折、視線だけを上げて、教室の一角をぼんやりと見やる。そこでは玲奈が、数人の女子たちに囲まれて談笑していた。
(女子だけでも、随分と打ち解けたみたいだな)
入学からしばらくは無表情で周囲と距離を置いていた彼女が、今では自然に笑っている。
からかいにも照れ笑いを見せて、相手の話にもちゃんと耳を傾けている。
その姿を、翔太郎はどこか誇らしげに見つめていた。
──彼は、ただその会話が終わるのを待っていた。
家が同じ方向だから。
いや、家が同じだから。
一緒に帰るのは、もう自然なことになっていた。
ただ、玲奈には、できるだけ友達を作ってほしいと思っていた。
これまで他人との繋がりを縛られて、ずっと寂しい人生を送って来たのだから。
そんな想いもあって、翔太郎は教室の片隅でじっと時間が過ぎるのを待っていた。
──だが。
ふとした瞬間、女子の一人と視線が合った。
続いてもう一人。
そして何故か玲奈が慌てたようにこちらを見てきた。
玲奈の頬はほんのり赤い。
アイコンタクトと言うには視線が落ち着かず、困ったように、何かを伝えたいように、でも言葉にはしないまま──ただこちらをじっと見つめてくる。
(……なんか、注目されてないか? 俺)
ずっと感じていた居心地の悪さが、一気に這い上がってくる。
(女子に囲まれてるなら、フードの女も接触しにくいはずだし……今は俺が近くにいるより、ああやって複数人でいた方が安全だろ)
そう思った途端、決断は早かった。
「……ちょっと出るか」
イヤホンを外し、鞄を肩に引っかける。
玲奈が目を丸くするのが見えたけれど、手を振るように小さく合図だけして、翔太郎は静かに教室を出て行った。
廊下の空気は、思ったよりも涼しかった。
扉の向こうの笑い声が遠ざかると同時に、胸の奥のざわつきも少しだけ和らいでいく。
「玲奈にも、俺以外の友達が出来そうで良かったな」
そう呟くと、翔太郎は踊り場へと歩き出した。
♢
扉を閉める音が、わずかに乾いていた。
教室を抜け出した翔太郎は、そのまま昇降口を抜け、校舎裏手の自販機コーナーへと足を向けた。
「……あった。デッドガード」
薄暗くなりかけた校舎裏の自販機前。
ここは学園島で唯一、翔太郎お気に入りの炭酸飲料『デッドガード』が売られている場所だった。
変わらない場所、変わらない手順でボタンを押し、ゴトリと落ちた缶を拾い上げる。プルタブを引く指先にわずかに炭酸の冷たさが伝わる。
ふと、自販機のすぐ傍にあるベンチへ視線を向けると──そこには人影があった。
紅い瞳と、金髪を高く束ねたポニーテール。
改造制服の裾にフリルをあしらった、独特のファッション。
その少女は足を組み、どこか無感情な眼差しで黒い野良猫を膝に乗せて撫でていた。
野良猫もまた、すっかり安心しきった様子で彼女に身を預けている。
「……アリシア?」
思わず名前を呼ぶと、十傑第九席の外国人美少女──アリシア・オールバーナーは、ゆっくりと顔を上げた。
そして、何の感情も滲ませぬまま、淡々と返す。
「あぁ……誰かと思えば、鳴神翔太郎」
「俺の名前、覚えてたのか?」
「……心音から聞いていたし、貴方は前回の試験で一位だった。名前ぐらいは当然、記憶してる」
乾いた口調ながら、その言葉に揺るぎはなかった。
翔太郎は思わず驚いた。
アリシアとは、以前図書室で心音にペアの打診をした際に一度だけ顔を合わせた程度。
あの時の彼女は、今とは打って変わって少し警戒心の強い目をしていた。
当然だ。
彼女にとって、心音はペア。そして親友。
そんな相手に顔も知らない他人が接近してきたら、警戒するのも無理はない。
「確かに一位取ったけど、ほとんどは玲奈の手柄だよ」
缶を傾けつつ、控えめな謙遜を口にすると──
アリシアは即座に、少しだけ睫毛を伏せながら言葉を返す。
「……雑な謙遜は、時に嫌味として聞こえる。気を付けた方がいい」
「嫌味って……俺、そんなつもりじゃ」
「分かってる。でも、私たち──心音と私は、試験前まで優勝最有力の立場だった。それでも、実際に勝ったのは貴方と氷嶺玲奈。謙遜してもそれは変わらない事実」
感情の起伏を感じさせない声で、淡々と事実だけを語る。
だが、そこには嫉妬や敵意はなかった。
ただ冷静な評価があるだけ。
翔太郎は缶を置いて、ベンチの端に腰を下ろす。
「その猫、よくいるやつか?」
「……うん。最近ここによく来る。名前は、ない」
「撫でられるってことは、結構懐いてんだな」
「懐いてるかは分からない。……ただ、逃げない。そういう性格か、あるいは、どうでもいいだけかも」
言いながら、アリシアは再びゆっくりと猫の背を撫でる。その手つきに特別な感情はないが、決して乱暴でもない。
「猫、好きなのか?」
翔太郎がふと問いかけると──アリシアは少しだけ間を置いて、小さく答えた。
「実はあんまり好きじゃない」
「え」
「どちらかと言えば、私は犬派」
「猫撫でながら犬派とか言っちゃう人、初めて見たぞ」
「昔、その辺で寝転がっていた野良猫を触ろうとしたら引っ掻かれた。幼子の恨みってヤツ」
思いの外、可愛い理由だった。
翔太郎は思わず吹き出しそうになるのをこらえて、缶を口元に運ぶ。
「その割には、今は全然大丈夫そうじゃん。その黒猫にも懐かれてるように見えるけどな」
「……今日はたまたま。猫って気まぐれだから」
「そこが猫の魅力ってやつでもあるけどな。まぁ、俺もどちらかと言えば犬派だけど」
「なんとなくそんな気はしてる。氷嶺玲奈って貴方の忠犬っぽいし」
「え、玲奈ってそんな風に思われてたのか……?」
「大丈夫。忠犬っぽい態度取ってるのは、貴方にだけだと思うから」
アリシアは黒猫の背を指先でなぞりながら、視線を猫から外さない。
まるで、そこに翔太郎の反応なんて求めていないような口ぶりだった。
「それ、どういう意味?」
「そのままの意味。氷嶺玲奈は他の生徒に対して、あんなに信頼し切った顔はしない」
「へぇ、案外玲奈のこと良く見てるんだな。もしかして二人って結構仲が良いのか?」
「特に話した事はない。でも、普段の彼女を見ていれば普通に分かる。ほら、色々と有名人だし」
無表情のまま、短く返すアリシア。
その声音には非難も皮肉もなく、ただ事実を述べているだけのようだった。
「氷の女王とか一部で呼ばれてたけど、最近の彼女はどこか変わった気がする」
氷嶺家の令嬢で、十傑の第十席。
学年トップの学力に加え、その整った容姿と隙のない振る舞い──そして、周囲を遠ざけるような冷淡な雰囲気。
それが、かつての氷嶺玲奈の評価だった。
「まぁ、態度が変わったように見えるんだったら仲良くしてやってよ。最近は頑張ってクラスの女子たちと話すようになったみたいだし」
そう言ってみせる翔太郎に、アリシアは一瞬だけ視線を向ける。
そして、無表情のまま、はっきりとした口調で返した。
「……なんで私が? そもそも同じクラスでもないし、無理して仲良くなろうとも思ってない」
「ああ、そっか。クラス違ったな」
翔太郎は苦笑しながら返す。
しかし、その口調とは裏腹に、胸の奥にほんのわずかな違和感が残った。
(無理して仲良くなろうとも思ってないって……)
アリシアはたまたま人付き合いが淡泊なだけ。
最初はそう思っていた。
でも、今の言い方はどこか決定的で、壁を作ることを当然としているような──そんな印象を受けた。
何気ない一言なのに、妙に突き放された気がして、翔太郎は目の前の少女を改めて観察した。
(玲奈と少し似てるようで、違うタイプか?)
制服の裾にじゃれつく黒猫をそっとどかしながら、アリシアは視線を合わせることなく、膝に手を置いて座っている。
姿勢は正しいのに、どこか居心地の悪さを感じさせない、一定の距離を保つ姿勢。
──ああ、そういうことか。
彼女は誰に対しても、最初から線を引いている。
他人に無関心なのかは分からないが、積極的に人と関わる意志が希薄なんだと、翔太郎はこの時ようやく理解した。
「でもさ、同じ十傑なんだし、折角だから少しぐらい仲良くしてみてもいいんじゃない? 玲奈って冷たいところあるけど、悪い奴じゃないし」
半ば冗談交じりに言ってみせた言葉だったが、アリシアは表情一つ動かさなかった。
「同じ十傑ってだけで、他の誰かと仲良くする義務がある訳じゃない」
「……そりゃまぁ、義務じゃないけどさ」
「あの子がどんな性格をしていようが、私には関係ない。友達を作るためにこの学園に来たわけじゃないから」
それは、冷たいというよりも──どこか決まり切った反応に近かった。
まるで何度もそう言われ、何度もそう言ってきた人のように、淡々とした拒絶。
「それは氷嶺玲奈に限った話じゃない。他の人間とも特に仲良くする理由はない。もちろん、貴方ともね」
はっきりとした拒絶。
アリシアの言葉には遠慮も曖昧さもなかった。ただ、静かに線を引くような──乾いた温度のない声。
「それは悲しいな。普通に俺は仲良くしたいんだけど」
冗談めかして笑ってみせる。
それは強がりでも、取り繕いでもなく、本心だった。
こんな風にさっぱりと関係を断ち切ろうとする人間に出会うのは少し悲しかった。
しかし、アリシアはその表情を崩さない。
ただ翔太郎の言葉を受け取って、何も返さないまま少しだけ目を伏せる。
その反応を見て、翔太郎はふと思い出す。
「でも心音とは仲良いじゃん。親友みたいだし」
その言葉にアリシアの紅い瞳が、ほんの僅かに揺れた。
「心音は別」
今までの会話とは明らかに違う、少しだけ食い気味の返答だった。
翔太郎は思わず目を丸くする。アリシアの声には、これまでになかった熱がほんのわずかに混じっていた。
「別って、どういう意味だ?」
「……あの子は、私にとっても特別。周りの人の事をよく見てるし、押し付けがましくなくて、でもちゃんと手を差し伸べてくれる」
アリシアは黒猫を撫でながら、目を逸らしたまま続けた。
「心音は最初から、私をちゃんと一人の人間として見てくれてた。距離を詰めるのが上手いとかじゃなくて、ちゃんと尊重して、それでいて同じ目線で関わろうとしてくれた」
それはアリシアにとって、特別な経験だったのかもしれない。
「それが嬉しかったのか?」
アリシアは一瞬だけ黙り込んだ。
翔太郎の問いに対して、何も言わず、ただほんの少しだけ視線を落とす。
きっと、それが答えなんだろう。
「心音だけは他の人とは違う。……推薦生の私にも、あそこまで自然に接してくる子なんていなかった」
アリシアの言葉が、ふとした呼吸のように静かに漏れる。
その瞬間だった。
「──え?」
途端に、空気が張り詰める。
不意に、翔太郎の表情が固まった。
握っていた缶の金属が、僅かに軋む音を立てる。
「今、なんて言った?」
アリシアは無言のまま目を伏せた。
眉尻がほんのわずかに動く。
その沈黙は、誤魔化すでもなく、肯定でも否定でもない。ただ、明らかに「しまった」と思っている表情だった。
「何でもない。聞き流して」
翔太郎は静かに、しかし確実に言葉を重ねた。
「アリシア。お前も、推薦生なのか……?」
翔太郎の声は明らかに動揺していた。
目の前の少女が、まさか──自分と同じ立場だったなんて。
「だから、聞き流してって言った」
その淡白な言葉の裏に、乾いた居心地の悪さのような感情が滲んでいた。
初めて、自分以外の推薦生の存在を知った。
心音や影山の話からも、そこまで推薦生も数が限られている訳では無さそうだが、一般生から嫉妬と侮蔑の交じった目で見られるという点からも、自ら進んで推薦生だと名乗る生徒はごく僅かなことは確かだ。
「……あの時、言ってなかったじゃん」
声が少しだけ掠れた。
思い返すのは、心音と共に図書室でアリシアと会話を交わしたあの日。
十傑として心音と名を並べるアリシアは、学園内における凄い生徒の一人という印象でしかなかった。
まさか、自分と同じ推薦生だったなんて。
「なんで隠してたんだよ」
問いかけは自然と口をついて出たが、アリシアはわずかに眉をひそめて──それでも平坦な声で答えた。
「別に隠してたわけじゃない。言う必要がなかったから言わなかっただけ」
「でも、俺あの時推薦生だって話してたよな。その時言ってくれたって……」
「あなたが勝手に自分が推薦生だと話しただけ。それに対して私がどう答えようが、私の勝手」
言い放ちながらも、アリシアの視線は翔太郎を避けていた。責めてはいない──ただ、何も話す必要などなかった。
アリシアの様子からは、明確に線を引こうとする気配があった。
同じ推薦生として、少しは腹を割って話せるかもしれない──そんな淡い期待を抱いていた翔太郎だったが、彼女は玲奈や心音のようにはいかないらしい。
「……そうか。アリシアも推薦生だったんだな」
何気ない一言だった。
けれど、自分でも気づかぬうちに口元が緩んでいたのだろう。
「……なんでそんなに嬉しそうなの?」
唐突な問いに、翔太郎は目を瞬かせた。
「え? 嬉しそうか?」
「うん。口元、ニヤついてて気持ち悪い」
「気持ち悪いって、お前な……」
呆れつつも、アリシアの指摘は正しかった。
自分と同じ推薦生。
それだけで、心のどこかがふっと軽くなった気がしていた。
誰にも共有できなかったこの立場を、初めて理解してくれる相手に出会えた──それが、正直嬉しかった。
「アリシアもさ、推薦生ってことで何か苦労したのか?」
「まぁ、最初の内は」
アリシアは撫でていた黒猫の耳をそっと指でなぞる。
「でも私が試験で結果を出していくうちに、みんな何も言わなくなった。実力さえ証明すれば、それで十分だったし。それに、心音もそばにいてくれた」
淡々とした口調だったが、そこには少しだけ確かな誇りと感謝の色が滲んでいた。
翔太郎は改めて思う。
推薦生は差別される立場だ。
試験を受けず、特別扱いで入学したことへの反発。
その背景には劣等感や嫉妬、そして不公平さへの怒りがあった。
たとえ本人にその意志がなくても、周囲の目は容赦なく、それをズルだと決めつける。
──だが、それでも実力があれば話は別だ。
「さすがだな、アリシア。十傑の九番目なんだろ? 実力で黙らせたってわけだ」
「そうでもない。十傑の席順は単なる序列じゃない。だけど……私の成績や戦績を見て、何も言わなくなったのは確か。数字の前では、偏見なんて簡単に捻じ伏せられるものだから」
「まあ、それもそうだな。まだランキングが四桁台の俺からすれば、十傑なんて遠い話だとは思うけど」
「それを言うなら、貴方も前のパートナー試験では1位を取ったし、今じゃこの学園内では貴方を知らない人はいない」
「大半は玲奈のおかげだけどな」
「またそれ?」
アリシアはわずかに目を細める。
「さっきも言った。謙遜は場合によっては嫌味になるって」
「嫌味のつもりはないって。実際、玲奈がいたから影山から逃げ切ってゴール近くで待ち伏せ出来たんだし」
「そんな貴方の評価は、今学園内で大きく二分してる」
アリシアの声は、静かだが確信を帯びていた。
「え? そうなのか? 初めて聞いたぞ。それ」
「片方は、氷嶺玲奈の功績だと主張する人たち。推薦生の貴方を意地でも認めたくない、いわゆるアンチってやつ。どんな成果を出そうが、全部十傑の氷嶺玲奈の補助ありきって決め付けたがる」
「今となっては、別に好きに言わせとけとは思ってるけどな。玲奈のおかげで1位取れたのは事実だし」
「でも、もう一方はちゃんと実力を見てる。偏見じゃなく、貴方の力を素直に評価してる人たちよ。推薦生って肩書きに惑わされずにね。……きっと心音も、あの影山龍樹も」
アリシアがさらりと告げたその言葉に、翔太郎は一瞬、意外そうな顔をした。
心音の名前が出るのは分かる。
彼女は誰にでも分け隔てなく接する、心優しい人間だ。だが──影山龍樹の名前は、予想外だった。
「……心音はともかく、影山も?」
翔太郎の疑問に、アリシアはわずかに目線を逸らしながらも、静かに答えた。
「彼は……推薦生を“ある理由”で嫌っているけど、決して馬鹿じゃない。この前の試験での貴方の結果を見れば、あの人ですら嫌でも理解できる。理屈じゃなくても、納得してしまうだけの実力を貴方は見せたから」
その言葉は、決して慰めでもお世辞でもなかった。
アリシア自身が実力を重視する人間であるからこそ、そこに含まれた真実味は重かった。
翔太郎は、少し不思議そうにアリシアを見つめる。
「……影山のこと、随分知ってそうな雰囲気だな」
「──1年生の時、いろいろあったの」
一瞬、彼女の声の温度がわずかに落ちた。
それは語りたくないという拒絶ではない。
けれど、無闇に触れてほしくない何かが、その言葉の裏にはあった。
「色々って?」
「別に大した話じゃない。でも……あの時から私は影山龍樹という人間の本質を、少しだけ理解した気がした」
アリシアはそれ以上、深く語ろうとはしなかったが、それでも翔太郎の中で何かが引っかかっていた。
同じ推薦生でありながら、アリシアは影山について知っている。
彼女が何も言わなくても、その背後には何か確かな過去があるように思えた。
翔太郎は、胸の奥にぽつりと残る疑問を口にする。
「なぁ、アリシア。……影山龍樹について、教えてくれないか?」
アリシアは目を細めた。
「……どうして? 今更?」
「いや……同じクラスだし、気になるのは当然だろ。玲奈に聞こうと思ってて、聞きそびれてたんだよ。でもさ、アイツって試験でもあからさまに推薦生ばっかり狙ってただろ? なんかおかしいと思って。あれって単なる作戦とか、成績のためって感じじゃなかった」
アリシアはしばらく黙っていた。
話すべきか、話さないべきか。
その狭間で、微かな迷いが揺れていた。
だがやがて、そっと目を閉じて──諦めたように、静かに言葉を落とす。
「……去年の、私の誕生日。12月25日」
「誕生日?」
「その日に──ある事件が起きたの」
静寂が、自販機前のベンチに広がった。
翔太郎は息を呑み、言葉の続きを待った。
「それがきっかけで、影山龍樹はああなった。推薦生があそこまで嫌われるようになったのも……きっと、その日から」
アリシアは瞳を伏せる。
その横顔には、ほんの僅かだが過去の痛みに触れたような陰が射していた。
「貴方が聞きたいって言うから、話してあげる。推薦生が嫌われる理由と──影山龍樹が、今の彼になった理由を」
その言葉に、翔太郎はゆっくりと頷いた。
知らなければならない。
自分が推薦生である限り、いつか向き合わなければならないモノがそこにあるのだと──そう感じたから。