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雷鳴のラストピース  作者: 雨車狸
第二章 『爆炎のプリンセス』
45/93

第二章11 『ゴールデンウィーク』

 5月3日・土曜日。


 今日は「憲法記念日」と呼ばれる祝日。

 今年の4月29日・昭和の日はパートナー試験直前だったこともあり、零凰学園では通常授業が行われ、その振替として5月7日が休みとなっている。


 そして迎えた、待望のゴールデンウィーク初日。

 学生にとっては、今日から6日のみどりの日の振替休日までの4日間が、今年度最初の大型連休だ。


 この期間を、友人や家族、あるいは恋人とどこかへ出かけて過ごすのは、ある意味定番とも言えるだろう。


 ──勿論、それは氷嶺玲奈も例外ではなかった。


「遊びに行きたいです」


 そう口にした彼女は、アパートの一室。

 テレビを眺めながら、隣にいる翔太郎へと自然に視線を向けていた。


「ん?」


「遊びに、行きたいです」


 玲奈が二度繰り返して強調する。

 彼女は翔太郎からテレビへと視線を向け直した。


 今流れているのは横浜特集。

 華やかな中華街、青空の下の赤レンガ倉庫、某遊園地の観覧車越しの美しい夜景。ゴールデンウィーク初日の朝に相応しい、心をくすぐる映像だ。


 無論、横浜への集客を目的とした特集ではあるのだが、今日はゴールデンウィーク初日で、しかも土曜日である。


(……横浜か。混んでそうだなぁ)


 決して口には出さないが、人混みを予期して若干げんなりする。


 別に行きたくないわけじゃない。

 けど、あの人混みに飛び込むのはちょっと覚悟がいる。東京に引っ越した直後も正直疲れた。

 そんな事を思い出しつつ、映像の中の賑わいを見て、思わず内心で苦笑いが浮かぶ。


(まあ、休みに人が多いのは当たり前か)


 そう思って玲奈の方をそっと見ると、彼女はじっとテレビを見つめたまま、小さく手を握っていた。

 その横顔は少しだけ期待に染まっていて、でも言葉を足すことなく、静かに次のシーンへ目を向けている。


「横浜に行きたいの?」


 そう聞いてみると、玲奈は静かに頷いた。

 まるで子供みたいな表情の彼女を見て思う。


 翔太郎がそう尋ねると、玲奈はテレビから視線を外し、静かに頷いた。


「はい。中華街とか、行ってみたいなって……観覧車もちょっと気になります」


 小さく呟きながら、玲奈はテレビの画面に映る場所を一つ一つ指さしていく。


「山下公園っていろいろな大道芸人が来るらしいんです。今テレビでやってるラーメン屋も行列が出来てますが、美味しそうです。……コスモワールドから見える夜景も、綺麗ですね」


 一人でぽつぽつと語る姿は、どこか無防備で子どもみたいだと翔太郎は思った。

 同時に、ふと思い出す。


「そういや……俺も、去年行ったな。横浜」


「そうなんですか?」


「あ、まぁプライベートじゃなくて、高校の校外学習でだけど」


 まだ普通の高校に通っていた頃、校外学習で立ち寄った横浜。あの時はクラスの友人とただ歩いて回って、お土産を買って、写真を撮って──ごく普通の、他愛のない思い出。


 思い出を振り返ると、玲奈が酷く真剣な表情で翔太郎の話を聞いていた。


 そう言えば、玲奈は凍也の言いつけを守り、ついこの間までファミレスやゲームセンターにすら行った事がないと言っていた。


 それは、彼女が長年、兄・氷嶺凍也の言いつけに縛られ続けてきた結果だった。

 必要のない外出は禁じられ、寄り道や娯楽を許されることもなかった。


 翔太郎は自然と気付く。

 玲奈にとって、こうして何処かに行きたいと自分から言うことが、どれだけ勇気のいることなのか。

 それを、見逃したくはなかった。


「よし、じゃあ行ってみるか。横浜」


「……本当ですか!?」


 玲奈がゆっくりこちらを向く。

 驚いたような目が、すぐにぱっと柔らかく輝いた。


「うん。せっかくの連休だし、今日は天気も良いしな。試験も終わったばかりだし、ちょっとリフレッシュしに行こう」


「ありがとうございますっ!」


 満面の笑顔でぴょこっと立ち上がる玲奈を見て、翔太郎も自然と立ち上がる。

 その笑顔を引き出せたことが、ただ嬉しいと思える。


(去年の校外学習で行ったときは、ただの観光地だったけど……)


 今は少し違う。

 この前まで箱入り娘で、まだ世間を全く知らない親友と一緒に行く場所は、きっと見え方も変わるのだろう。


「じゃ、準備するか。混む前に出た方がいいな」


「はいっ!支度してきます!」


 彼女が嬉しそうに部屋の奥へ駆けていく。

 その背中を見送りながら、翔太郎は小さく笑った。

 ──こうして、二人の初めての大型連休が始まった。




 ♢




「マジかよ」


 駅を出てすぐの中華街の入口。

 その一言は、思わず漏れた本音だった。

 色とりどりの看板、湯気の立つ屋台の数々、人波の濁流──まさに祭りの渦中のような熱気と密度である。


(想像の三倍は混んでる……!)


「すごいですね……!」


 一方、玲奈はというと、目を輝かせている。


 顔を上げ、あちこちの屋台を見回しては「わぁ、美味しそう……」と小さく感嘆の声を漏らしている。

 その様子はまるで、夢の国に来た子供のようだった。


「ほら、あれ見てください。肉まん、あんなに大きいです!」


 玲奈が指差した先には、両手で抱えるサイズの特大肉まんが湯気を立てていた。

 しかも、見た目に反して一個600円とサイズの割には案外安い。


(前来た時は500円だったんだけどな……)


 昨今の物価高上昇は観光地である中華街にも影響が出ているようだった。


 にしても、玲奈は全てが初めての体験なのか、目を輝かせながら周囲を見渡している。普段学園でクールな佇まいをよく見せる彼女とは、ほぼ別人だ。


「一つ買おうか?」


「え、良いんですか?」


「うん。パートナー試験で1位取ったんだから、休み明けのスクールマネーにも期待できるしな」


 翔太郎の言葉に頷いた玲奈は、迷いなく列に並び、数分後にはホカホカの肉まんを手に戻ってきた。

 両手で包み込むように持って、そのまま豪快にかぶりつく。


 顔よりも大きそうな肉まんが、彼女の口のサイズで少しずつ減っていく様は、どこか不思議な光景である。

 けれどその顔は本当に幸せそうで──


「美味しいです」


 頬を膨らませながら、満面の笑みでそう呟く玲奈を見て、翔太郎はつい吹き出しそうになる。


「……なんですか?」


「ごめんごめん。あんまりにも美味そうに食べるから」


「むぅ、食べた事ないものを美味しそうに食べてたらおかしいですか?」


「いや? むしろこれまで食べてなかった分、じゃんじゃん食べた方が良いと思うけど」


「翔太郎も一口どうですか?」


 ずいっと玲奈が、その巨大な肉まんを差し出してくる。彼女が齧った部分のすぐ近くからは白い湯気がふわりと立ち上り、肉の香ばしい匂いが鼻をくすぐった。


「じゃあ、折角だし一口貰うわ。いただきます」


 そう言って、翔太郎は何の躊躇いもなく、玲奈がさっきまで口を付けていた場所に齧りついた。

 あっという間に、一口分の肉まんが消える。


(──あ、普通に美味いな)


 予想を遥かに超えるジューシーさとふわふわの皮。

 口の中いっぱいに広がる旨味に思わず目を細めながら、何気なく横を見る。


「確かに、これは中々──ん?どうしたんだ?」


 玲奈が、なぜか固まっていた。


「────ぁ、ぅ、あ……」


 両手で肉まんを持ったまま、視線は宙をさまよい、顔はほんのりどころか真っ赤に染まっている。

 唇がかすかに震え、何かを言いかけては飲み込むような仕草を繰り返している。


「玲奈? ……大丈夫か?」


 目の前で手を振ってみるが、まるで夢の中にいるかのように反応が鈍い。


(……熱かったわけじゃないよな?)


 翔太郎は不思議そうに首を傾げつつ、もう一口いこうかと肉まんに視線を戻す。

 だが、当の玲奈は完全に別のことで頭がいっぱいだった。


(ど、どうしましょう。今……私の食べた場所を翔太郎が……!)


 ぐるぐると回る思考がまとまらない。

 何気なく差し出したつもりだった。

 ただ、美味しいものを共有したかっただけだったのに──。


 翔太郎が一口食べただけ。

 それだけのはず。

 けれど、自分の齧った場所に、翔太郎の口が触れた光景が、やけに鮮明に記憶に残ってしまっている。


「……本当に、大丈夫か?」


「は、はい。……だいじょぶです」


 翔太郎の優しい声に、ようやく玲奈は小さく頷いた。

 ただ、その頷きは妙にぎこちなく──まるで、今にも湯気を立てて蒸発してしまいそうなほど、彼女はひたすらに真っ赤だった。


「折角だし、もう一口貰うわ」


 そう言いながら翔太郎は特に気にした様子もなく、玲奈の肉まんをもう一口齧って満足げに頷いていた。


「うん、やっぱこれ美味いな」


 隣にいる玲奈はヤケクソと言わんばかりに、残りの肉まんをハムスターの如く、勢いよく頬張っていた。




 ♢




 肉まんを食べ終えた二人は、中華街から山下公園方面へと歩いていた。

 天気は快晴。

 春の終わりの柔らかな陽射しが心地よく、潮の香りを含んだ風が頬を撫でていく。


 海沿いの道に出ると、視界が一気に開け、穏やかな海と停泊している白い船──氷川丸が姿を現す。


「あれが氷川丸ですか?」


 玲奈が小さく呟いた。

 どこか感嘆混じりの声。

 船は大正時代に建造され、今は記念館として一般公開されている。

 白と黒のコントラストが印象的なその船体は、どこか優雅で、哀愁を漂わせている。


「うん。中入れるし、デッキにも出られるぞ。風も気持ち良いし、行ってみるか」


「はい」


 入場券を買い、ゆっくりと船内へ。

 木造の内装、クラシカルな客室、展示されている航海の記録。

 玲奈は興味深げに一つひとつを眺めていた。


「こっち出られるっぽいな」


 翔太郎がそう言って案内したのは、甲板へと続く階段。

 船上に出た瞬間、潮風がふわりと髪を撫でた。


「わぁ、海風が気持ち良いです……」


 玲奈が小さく目を細めて呟く。

 彼女の髪が風に舞い、頬にかかった前髪をそっと押さえる仕草が、妙に柔らかく映る。


「ここ、昨日のドラマの撮影で使われてたんだよな。確か、ヤクザ上がりの探偵が主人公だったヤツ」


「一緒に見たドラマですよね? 第五話で主人公が因縁の相手と二人で会話するシーンで……」


「あー、それだそれ。意外と印象に残っててさ」


「まさか、同じ場所に来るなんて思いませんでした」


「図らずとも、ドラマの聖地巡礼しちゃったな」


 玲奈は、まるで夢の中のように、ゆっくりと海を見下ろす。

 穏やかな波がきらきらと光を反射して、風が音もなく背中を押してくるようだった。


「こういうの、初めてです。学校の旅行でも、家族でどこかに行くことも、ずっと無かったから……」


 ぽつりと零したその言葉に、翔太郎は返す言葉を選ばず隣に立ち、同じ景色を見た。

 無理に何かを言う必要はない。彼女がこの風景を楽しめているなら、今はそれでいい。


 少しの静寂の後、玲奈がそっと口を開いた。


「こういうところ、一人で来たら寂しいと思いますけど──翔太郎と一緒だから、今はすごく楽しいです」


 その言葉は、潮の香りと共に、柔らかく翔太郎の胸へと届いた。


「それは良かったな。あの時にも言ったと思うけど、俺は玲奈のやりたいことにはちゃんと付き合うからさ」


「……あの時、ですか」


「ほら、俺が玲奈を氷嶺家から連れ出した日の夜」


 ぽつりと翔太郎が言ったその言葉に、玲奈の視線がふと揺れる。

 冷たい夜の空の下、部屋の窓から現れた彼に差し伸べられた手。

 あの日の温度は、まだ胸に残っている。


「食べたいものとか、行きたい場所とか、作りたい思い出とか、今まで我慢してた分、取り返していきなよ。俺で良かったら、いつでも付き合うから」


 そう言いながら、翔太郎は無邪気に笑った。

 それは玲奈の胸を温かくするような、優しくて、そして少しだけずるい笑顔だった。


 玲奈は、風にそよぐ髪を耳にかけながら、少しだけ遠くの海を見つめた。


「……じゃあ、今度は海に行きたいです」


「海?」


「はい。こういう港町ではなく、海水浴場です。足を浸けて、貝を拾ったりするような、ちゃんとした夏の海が見てみたいです」


「海か……」


 その言葉に、翔太郎の視線がわずかに宙へと泳ぐ。


 思い出すのは、自分の故郷──千葉県南部、孤児院『あじさい』のある小さな町。


 山に囲まれながらも海まで車で1時間とかからず、夏になれば剣崎がバスを借りて、年下の子たちを連れて砂浜に出かけていた。


「あー……じゃあ、次の夏休みさ。久しぶりに実家に帰ろうかと思ってるんだけど、良かったら玲奈も来るか?」


 その一言に、玲奈の表情がふっと固まる。


「えっ────」


「山に囲まれてるくせに結構海近いんだよ。そこなら人も少ないし、静かだし、ついでに遊びたかったら──」


「しょ、翔太郎の……実家……」


 玲奈の声は、どこか上擦っていた。


 今のは誘われたのだろうか。

 いや、確かに誘われた。


 異性に実家に誘われる理由。

 もう、それは────。


「え、えっ……? それは、そもそも私が行っていい場所なんですか?」


「別に変な意味じゃなくてな? ほら、海行きたいって言ってたし、どこか良い場所ないか考えてて──」


 翔太郎はあくまで自然体だった。

 本当に、何も深く考えずに提案したのだろう。


 そう、多分。

 本当にただの善意。


 けれど、玲奈の頭はそれどころではなかった。

 実家に来る? 一緒に帰る?

 ──それはまるで、自分を家族に紹介するような響きで。


 顔がじわりと熱くなる。

 耳の先まで真っ赤なのが自分でも分かる。


「それってその……そんなに軽く……。あ、いや、別に嫌な訳じゃないんです」


「玲奈?」


「な、何でもありません!」


 言い終えた玲奈はくるりと踵を返し、そそくさと船の反対側へ向かって歩き出した。

 その背中に、翔太郎がぽかんとした顔で首を傾げる。


 海風がさらりと吹き抜け、二人の間にふとした温度差を残していった。


 けれど、その違いもまた、どこか微笑ましくて──氷川丸の甲板には、ほんの少しだけ、春よりも早い夏の気配が漂っていた。




 ♢




 横浜の港にそびえる観覧車が、夕暮れに淡く光りはじめていた。


 時間はもうすぐ18時を回る頃。

 空は茜色から群青へと溶けていく最中で、街に明かりが灯り始めていた。


「観覧車、乗っていきますか?」


 玲奈がそう言ったのは、山下公園で非公認の大道芸人を見てから、赤レンガ倉庫で軽く休憩しつつソフトクリームを食べた後、みなとみらい方面に歩いている途中だった。


「まだ並んでるけど、折角ここまで来たんだし、最後に締めで乗るか」


 翔太郎は迷わず頷いた。


 長蛇の列とはいえ、回転が早いのか、思っていたよりも待ち時間は短かった。

 乗り込んだゴンドラは、二人きり。

 最初は向かい合わせに座ったが、扉が閉まってしばらくすると、玲奈がそっと立ち上がり、躊躇いがちに翔太郎の隣に腰を下ろした。


「こっち、座ってもいいですか?」


「ん? もちろん」


 少し驚いた翔太郎だったが、特に気にする様子もなく、自然に受け入れた。


 ゴンドラはゆっくりと地上を離れ、静かに上昇していく。

 窓の外には海と街が広がり、夜の帳が少しずつ空を染めていた。


「うわやば、たっか!」


「思ったよりも揺れますね」


「俺、自分の能力でもこんなに高く飛んだことなんて無いよ。だってこれ、下マジで見えないぞ?」


「そりゃそうですよ。そんな事まで出来てしまったら、もう十傑どころの話ではありません」


「でも空飛ぶ異能力って正直夢あるよな。使える人、全然いないみたいだけど」


「翔太郎なら何かの拍子に、割とその内飛びそうで心配です」


 その一言に、翔太郎が思わず吹き出した。


「でんき・ひこうタイプじゃないぞ。俺は」


「どちらかと言えば、でんき・かくとうタイプですね」


「違いない」


 他愛ない会話をしているうちに、高度はどんどん上がっていく。

 ふと気づけば、ゴンドラの下には、昼間歩いた中華街や氷川丸の埠頭、赤レンガ倉庫の明かりが、まるで宝石のように光っていた。


「……綺麗」


 玲奈がぽつりと呟いた。


「テレビで見た時より、ずっと」


 窓の外をじっと見つめたまま、膝の上で両手を組んでいるその横顔は、昼間のはしゃいだ様子とはまた違って、どこか大人びていた。


「なんか絵になるな」


「ですよね」


 玲奈は風景のことだと思ったのか、少し微笑んだ。

 翔太郎が言ったのは玲奈自身の事である。

 元から美人なのも相まって、夜景と合わせて絵になるなと、率直に翔太郎は感じた。


「でもテレビで見るより実物は違うな。落ち着く」


「……はい。でも、こういう場所って」


 玲奈が少し間を置いて、言葉を続けた。


「一人で来たら、たぶんすごく寂しい場所だと思います」


「……」


「でも、今日は──翔太郎が一緒だから、ずっと楽しかったです。夢みたいで」


 玲奈の声は小さく、けれど確かなものだった。


「そっか。なら俺も付き合った甲斐があったよ。玲奈が楽しそうにしてるの、見てて俺も嬉しかったし」


 翔太郎が笑いながらそう言うと、玲奈は少しだけ顔を逸らした。


「……嬉しいなんて」


 その声は照れと嬉しさがない交ぜになっていて、どこか心地よい空気がふたりの間に流れる。


「……また、私とどこかに行ってくれますか?」


 玲奈がぽつりと呟いた。


「うん、当たり前だろ」


 その瞬間、玲奈はまるで一歩踏み出すように、そっと翔太郎の袖を指先でつまんだ。

 ごく自然な動作──だけど、自分にとってはとても大きな勇気の証だった。


 翔太郎はというと、相変わらず気付いているのかいないのか、穏やかな顔で遠くの景色を眺めていた。


「──あ、あれ見てください。観覧車の下、カップルが写真撮ってますよ」


「おっ、ほんとだ。なんか、デートっぽくていい感じじゃん」


「デートですか……」


「うわ、やっべぇ! 周りに人いるのに普通にチューしてる!」


「……」


「ん? どうした?」


「……いえ。別に」


 玲奈は言いかけて、ふと口を閉じた。

 それは、心の奥で何かを言葉にしたかったのに、まだその言葉を知らないような、そんな沈黙だった。


 ──でも、沈黙は不思議と居心地が悪くなかった。

 むしろ、二人で見る夜景が、静かにその距離を繋いでくれている気がした。


 外の景色はゆっくりと回り、やがて地上へと戻っていった。

 けれど、玲奈の胸にはずっと、観覧車の最上部で見た光景と──隣で笑っていた翔太郎の横顔が、しっかりと焼き付いていた。




 ♢




 観覧車を降りてから小一時間後。

 横浜の夜風に吹かれながら、二人が並んでいたのは──横浜家系ラーメンの総本山と名高い名店の前だった。


「まさか、観覧車降りた直後にラーメンの行列とは……」


「でも行ってみたかったんだろ?」


「はい。元々ラーメン屋自体、女一人で入るのは中々ハードルが高かったので、翔太郎がいる時に行こうと思っていました」


「なるほどな。男が一人でスイパラに行くのと同じぐらいの難易度って訳だ」


「……え、一人でスイパラ行くんですか?」


「いや例え話だってば。俺、甘党だし」


 そんな二人が並んでいたのは、横浜家系ラーメンの総本山──かつて多くの猛者たちが修行を果たし、日本各地に散っていたという歴史を持つ聖地だった。


「やはり行列ですね」


「そりゃそうだろ。ここ、ラーメン好きの巡礼地みたいなもんだからな」


「でも並ぶと聞いて覚悟はしてました。──それでも、今日はどうしても来たかったので」


「ラーメン屋って、そんなに?」


「はい。ずっと憧れてたんです、こういう……食べ物で周りと語れる系の文化に」


「……語れる系?」


 なんか相棒が突然変なことを言い出した。

 遊び疲れてテンションがハイになっているのかは分からないが、しばらく親身になって聞いてあげよう。


「硬め濃いめ少なめって一回言ってみたかったんです」


 玲奈は真顔のまま、しっかりとしたステップで列に並び直す。

 観覧車でしっとりしていた彼女とは、明らかにモードが違っていた。


「……にしても玲奈、意外とラーメン好きだったんだな」


「好きかどうかはまだ不明ですが、翔太郎もご存じだと思いますが、何かと"青春食"と呼ばれるものに縁がなくて……これは是非とも体験しておかないとと思いました」


「青春食?」


「ちなみに、牛丼と学食のカツカレーは制覇済みです」


「ああ……この前、凄い美味そうに食べてたしな」


 一時間近くの行列をものともせず、玲奈はテンションこそ表に出さないものの、完全にラーメン脳になっていた。


「前に横浜に来たと言ってましたが、翔太郎はこのお店に来たことがあるんですか?」


「いや、家系は高校の時よく食ってたけど……総本山は俺も初めてだな。なんか緊張してきた」


「では今日は、私たち二人の初陣ということで」


「うん、頼もうぜ。熱くて濃いやつ」


「……少し緊張してきました。脂の量、少なめでいいですよね?」


「お腹壊したくないなら、少なめで良いんじゃない?」


 そしてついに、列の最前列へ。

 店内の空気は、ただならぬラーメンへの敬意と期待感に満ちていた。


 カウンターに案内され、食券を差し出すその瞬間──玲奈は、きゅっと背筋を伸ばした。水を一口含み、白い湯気の立ち昇る厨房を見つめる。


「……緊張しますね」


「ま、言うだけだからな。“麺の硬さ・味の濃さ・脂の量”──全部、好きにカスタムしていいってやつ」


 席に着いて間もなく、厨房から張りのある声が飛んだ。


「はい、お兄さんお姉さん、ラーメンの好み聞きますよー。麺の硬さ、味の濃さ、脂の量。どうします?」


 その瞬間、玲奈の背筋がカクンと一段階さらに伸びた。

 まるで、異能力の実技試験前かのような緊張感である。


「え、えっと──」


 店員は慣れた様子で注文札を片手に、眉ひとつ動かさず二人を見ている。


「順番にいきますよ。麺の硬さは?」


 玲奈は迷わず、いや、迷う余裕すらなく即答した。


「……硬めで」


「はい、味の濃さは?」


「濃いめで」


「脂の量は?」


 玲奈は一瞬の間を置き──そして、噛んだ。


「しゅ、しゅくにゃめでぇっ」


「……はい?」


 店員が一瞬だけ、聞き返すように首を傾けた。

 その刹那、隣の翔太郎がぶはっと吹き出して、咄嗟に腕で顔を覆う。


「す、すみません。少なめで……お願いします」


 玲奈はもう、耳の先まで真っ赤だった。

 店員は苦笑しながらも、了解でーすと、さして気にした風もなく奥に声を飛ばす。


「じゃ、お兄さんは?」


 翔太郎は笑いを堪えつつ、咳払いを一つ。


「えーっと、硬め・濃いめ・普通で」


 厨房に張りのいい注文が響いた。

 玲奈は湯飲みに口をつけながら、視線を斜め下に向けてぼそり。


「あんな恥ずかしい注文、人生初です……」


「いい記念になったな。“しゅくにゃめで"は伝説になるよ」


「そのワード、今後一切口に出さないでください。翔太郎でも許しません」


 それでも、翔太郎がまた吹き出しそうになるのを、玲奈は半ば呆れた目で見ていた。

 どこか楽しげに、でもちゃんと隣で一緒に笑ってくれる人がいる──それだけで、心がほんのりと温かかった。


 やがて、湯気を立てながら二人の前にラーメンが運ばれてきた。

 丼の中では、黄金色のスープの表面に豚脂が光を反射している。

 海苔、ほうれん草、チャーシューに極太のストレート麺。


「お待たせしましたー、硬め・濃いめ・しゅくにゃ……じゃなかった、少なめ!」


「……っ」


 思わず顔を伏せる玲奈を横目に、翔太郎が肩を震わせていた。


「一言多いですよね、あの店員さん。このお店が凍らなかった事に感謝して欲しいです」


「いやでも、あの店員、絶対わざとだよな……っくく……!」


 翔太郎が堪えきれずに笑っている中、玲奈はというと──静かに箸を取り、丼に向き合うと、その瞳から一切の羞恥が消えた。


「いただきます」


 ズズッ、と一口啜る。

 それはまるで、学術的な探究心に満ちた儀式のような──いや、純粋な感動だった。


「……ふぅ」


 次の瞬間、玲奈の中で何かのスイッチが入った。


 二口、三口と、麺が吸い込まれていく。


「ちょっと玲奈さん? 食べるの速くない? まだ俺、ラーメン来てないよ? さっきまで"しゅくにゃめで"って噛んでた子だよね?」


「話しかけないでください。今、集中してますから」


 バキバキに鋭い眼光で、スープに箸を走らせる玲奈。

 チャーシューをひと口、続けてご飯にスープを染み込ませた海苔を巻いて── 何を隠そう、人生初の家系スープを浸したライスまで、しっかりきっちり堪能していた。


「美味しいです」


 翔太郎はというと、最初こそ笑っていたが、すぐに自分の丼へ集中する。


「……あーやっぱり普通に美味いな。高校の時に食ってた店より若干醤油が濃いな。てか、思いの外麺がモチモチしてる」


「翔太郎、スープにライスを少し染み込ませて、海苔で包むと至高です。脂を少なめにしたのは正解でした。これ、もう完成された構造物ですよ」


「何のキャラだよお前……」


 最終的に、翔太郎は満腹で箸を止めたが──玲奈は黙々とスープまで飲み干し、丼を空にしていた。


「完食です」


「マジか……俺たち、今日ずっと食べて回ったのによく完飲出来たな」


「スープを全て飲むのは、作ってくださった相手へのリスペクトですよ。残り汁が無ければ、この後の洗い物も楽ですし」


「まあ、それは確かに……。脂"しゅくにゃめ"だと飲みやすいよな」


「……“少なめ”です」


 後頭部に鋭いチョップが落ちた。

 地味に痛い。


 翔太郎が苦笑しながら頭を押さえると、玲奈は無言で口元を拭き──ほんの少しだけ、満足げに微笑んだ。

 心からの美味しいが、そこにあった。




 ♢




 ラーメンを食べ終え、店を出た頃には、夜の風がほんのり涼しく感じられた。

 横浜の街もすっかり落ち着きはじめていて、先ほどまでの喧騒が嘘のようだった。


「……なぁ、ちょっとコンビニ寄って行かないか? しょっぱいの食べたら甘いもん欲しくなるんだよな」


「……あ。わかります、それ。緩急、大事です」


 玲奈も頷きながら、手のひらでそっとお腹を押さえる。


「でも今日だけで食べ過ぎですよ。私、もう三食分は余裕で摂取しました」


「良いんだよ、今日はリフレッシュしに来てるんだから」


 そんなわけで、近くのコンビニに立ち寄った二人は、アイスのコーナーを物色し始めた。

 翔太郎は定番のチョコミント、玲奈は静かにバニラを選ぶ。


「このチョコの比率、絶対こっちの方が高いんだよな。味の構造が分かってないと見抜けないやつ」


「チョコミントって歯磨き粉みたいな味がして、あんまり好きじゃありません」


「うわ出たよ、ミント味は歯磨き粉理論。全然そんな事ないから!」


 二人でレジを済ませて外へ出ると、ちょうど店頭の上に設置された街頭テレビが音声付きで流れていた。


 画面には、赤く染まった夜空と立ち上る煙。

 まるで何かの映画のワンシーンのようだった。


「……火事?」


 玲奈がアイスを持ったまま、ふと足を止めた。


《速報です。本日午後9時前、都内・江東区の住宅街にて、大規模な火災が発生──》


 翔太郎も、アイスの包みを剥きかけた手を止め、テレビに目を向ける。


《火災現場は三階建てのアパート。住民の一部は避難できたものの、現在も消火活動が続けられています》


 ──画面の端、炎の揺らめく中に、何かが弾けるような青白い光が走った。


《先日、文京区で発生した連続放火事件とも同じで、現場周辺からは異能力が使用された形跡があるとのことで、警視庁は同一犯の異能力犯罪として捜査を進めています。犯人は依然、逃走中とのことです──》


「……あの放火の犯人、まだ捕まってなかったのか」


 翔太郎が小さく呟いた。


 楽しかった一日の終わりに、ふと顔を覗かせた異能力者絡みの事件。

 異能力者が事件を起こす事は、今の世の中ではそこまで珍しいことではなくなっていた。


 玲奈も黙ったまま、じっと画面を見つめている。

 アイスは溶け始めていたが、誰もそのことに気づいていなかった。


「江東区ですか。若干、場所が学園島に近いですね」


「だろうな。でも、前の放火場所が文京ってのがちょっと気になる……」


 二人の間に、ほんの少しだけ、沈黙が流れる。


 そして──今夜、火が灯った現場が学園島の近くである事は、ただの偶然ではなかった。

 それが、二人の未来に繋がっていくことを、この時はまだ知らない。

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