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雷鳴のラストピース  作者: 雨車狸
第一章 『氷結のマリオネット』
33/92

第一章25 『パートナー』

 氷嶺家の門を出た先、静寂に包まれた夜道に、一台の黒塗りの車が停車していた。


「待っててくれたんですね」


 翔太郎が呟くと、車の後部座席のドアが静かに開く。


 車から降りてきたのは、一人の老年の使用人だった。

 品のある背筋の伸びた佇まい、厳格ながらもどこか温かな表情──氷嶺家の長年の執事であり、玲奈の世話を任されてきた人物だ。


「爺や?」


 驚いたように玲奈が声を上げる。

 翔太郎が玲奈にに学園の送迎をしていた頃、毎朝車を運転し、静かに見守っていたのがこの男だった。


「本当に、当主様からお嬢様を連れ出してこられましたか。鳴神さん」


 爺やは深く息をつくと、どこか安堵したように目を細め、穏やかな笑みを浮かべた。

 その言葉に、翔太郎は迷いなく頷く。


「はい。約束通り、玲奈を連れてきました」


 玲奈は驚いたように瞬きをする。

 翔太郎と爺やの間には、彼女の知らないやり取りがあったのだと悟る。


「爺やと……何か話していたんですか?」


 戸惑いを滲ませた玲奈の問いに、翔太郎は肩をすくめる。


「この家に潜入する前に、電話して頼んでおいたんだ。俺がちゃんと玲奈を連れ出せた時だけ、手を貸してほしいって」


 淡々と答える翔太郎に、爺やは静かに頷いた。


「当主様……いえ、凍也様がご決断なさることができなければ、お嬢様をこの家から解放できるのはあなただけだと思いました」


 その声は、どこまでも穏やかで、けれど長年秘めてきた想いが滲んでいた。

 玲奈の境遇を憂いながらも、爺やはただ見守ることしかできなかった。

 家に仕える者として、何よりも氷嶺家の在り方を尊重しなければならなかったからだ。


 だが、それでも。


「お嬢様には、ご自分の意思で生きる自由があるはずです。それを叶えられる機会が訪れたのなら、私は──見届ける義務がある」


 爺やの静かな決意に、玲奈の胸が締めつけられる。

 幼い頃からずっと傍で見守ってくれていた人。異能の手ほどきをしてくれた師。

 それでも、凍也が氷嶺家の実権を握ってからは、彼に従うしかなかった。


「爺や……」


 玲奈の声が震える。


「ありがとうございました。鳴神さん」


 爺やは深く頭を下げた。

 翔太郎は少し照れくさそうに鼻をかきながら、苦笑する。


「いやいや、本当にお礼を言わなきゃいけないのはこっちの方ですよ」


 爺やが後部座席のドアを開き、恭しく玲奈に向かって一礼する。


 玲奈は、しばし言葉を失った。

 人を寄せ付けない彼女の周りには、いつも誰もいなかった。

 それが当たり前だった。


 けれど翔太郎が現れてから、何かが変わり始めた。

 最初は鬱陶しさばかりを覚えていたのに、気がつけば心を揺さぶられ、今では彼と共に家を出ようとしている。


 爺やは、そんな自分をずっと見守っていたのだ。

 変わるはずがないと思っていた世界が、少しずつ動いていく様子を。


 玲奈は小さく息を吐き、ふと微笑んだ。


「……ねえ、爺や」


「はい、お嬢様」


「私は氷嶺家を出るのですから……これからは、もう爺やとは呼べませんね」


 玲奈の言葉に、爺やの目元がわずかに和らぐ。

 彼女が自らの意思で家を出ることを、改めて実感したのかもしれない。

 玲奈はしっかりと彼を見つめ、静かに頭を下げた。


「今までありがとうございました。藤堂氷一(とうどうひょういち)さん」


 藤堂氷一(とうどうひょういち)

 翔太郎が目を瞬かせる。

 初めて聞く爺やの本名に、自然と耳を傾けた。

 しかし、藤堂は穏やかに微笑み、ゆっくりと首を振る。


「私はこれからも爺やでよろしいですよ、お嬢様」


 玲奈は思わず笑みを零す。

 それは、どこか懐かしく、温かいものだった。


「……ふふっ、そうですか」


 玲奈はゆっくりと車に乗り込んだ。

 翔太郎も続いて乗り込み、ドアが静かに閉まる。


 爺や──藤堂氷一は最後にもう一度、氷嶺家の門を振り返った。

 この屋敷はどれほど豪奢であろうと、玲奈にとっては籠の中だった。

 そして今、彼女はそこから羽ばたこうとしている。


「困った時は、いつでも連絡してください」


「はい」


 優しい声が車内まで響くと、玲奈は静かに頷いた。


「……お嬢様、どうかお身体には気を付けてください」


 そう小さく呟き、藤堂は運転席に乗り込む。

 ギアを入れ、アクセルを踏み込んだ。


 静かに、しかし確実に車は動き出す。

 氷嶺家を、完全に後にして。




 ♢




 4月26日・土曜日。

 その日の夕方に、翔太郎は剣崎に今回の件についての詳細を語った。


『なるほどな。それで嬢ちゃんは?』


「昨日の夜は爺やさんが手配してくれたホテルで一晩泊まったよ。多分、今は学園島の女子寮の手続きをしてると思うけど……」


 剣崎の低い声が受話器越しに響く。


『学園島の女子寮か……確かに今の学園島は、不審者情報の件で警戒体制を強めている。能力者の数も多いし、氷の結界ぐらいの警備強度はあるって話だ』


「ああ。これなら氷嶺家と学園島の寮内でも、玲奈の安全面でそこまで変わりはない」


 ただ、と一言付け加える。


「夜空の革命が本気で襲撃しにきたら、多分どこも変わらない。一刻も早くあのフードの女を捕まえないとだな……」


 あのフードの女が組織の関係者と決まった訳ではない。

 だが奴は翔太郎を見て「やっぱり生きてたんだ、お兄さん」と言葉を発した。

 黒いフードと、生きていたんだという言葉。

 その二つがあれば、翔太郎の頭の中で奴が組織関係者と結びつくのは必然である。


 剣崎も同じことを考えていたのか、しばし沈黙した後、低く呟いた。


『お前を知っている素振りを見せたってことは……やはり、組織と繋がりがあるのが自然な考えか』


「ああ。まだ確定した訳じゃないけど、今のところ一番の手がかりだ。……玲奈の安全面もあるし、出来るだけ早く捕まえないとな」


『嬢ちゃんの方はどうなんだ? 氷嶺家を出たは良いが、何か心境の変化はあったか?』


「さぁ? そればっかりは本人じゃないと分からないよ。ただ、玲奈が本当に氷嶺家を出てまで自由を選んだってのは確かだ。多分、今はまだ実感も湧いてないんじゃないか?」


 氷嶺家という豪奢な檻を出た玲奈。

 だが、自由になったからといって、すぐに馴染めるほど世界は甘くない。


「昨日の夜も、ちゃんと眠れたかどうか分からないしな」


『まあ、それもそうだな。環境が激変したんだ。特に名家の育ちのお嬢様にはな』


「でも、玲奈は十分強いよ。最初は反発してたし不安にも思ってたんだろうけど、氷嶺家を出た頃にはもう覚悟を決めてた」


 翔太郎の言葉に、剣崎がわずかに鼻を鳴らす。


『その手の覚悟ってのは、いざという時に試されるもんだ。どうしようもなく困っていた時は、連れ出したお前が責任を持ってちゃんと支えてやれよ』


「言われなくても分かってるよ」


 翔太郎は短く答えると、話を切り替えた。


「それで、先生はいつ孤児院に顔を出せるんだ?」


『おそらくゴールデンウィークよりも後になるだろうな。その時になれば、みんなの顔を見にいけると思うんだが』


「なるべく早く子供たちに会ってくれよ。俺ももういないし、正直心配なんだ」


 孤児院に残した子供たちの顔が脳裏をよぎる。

 元気にやっているだろうか。


『分かっている。ただ、もうアイツらも十分大人だ。俺やお前が居なくても、しっかりやっていけるはずだ』


 剣崎の声はどこか確信めいていた。

 翔太郎は分かっていた。

 彼らが強く生きようとしていることも、それでも寂しさを抱えていることも。


「……俺は、もうあいつらに寂しい思いをさせたくないんだ」


『お前は俺のいない間、十分よくやってくれたよ。翔太郎』


 剣崎の言葉は、どこか優しかった。


『それより、お前も分かっているとは思うが、そのフードの女の情報が入手できるまでは、引き続き嬢ちゃんの周りを警戒しておくんだぞ』


「当然だろ」


 夜空の革命の目的は依然として不明。

 だが、もしも奴らが再び鳴神村災害のような大規模な事件を起こそうとしているのなら、今度こそ阻止しなければならない。


 翔太郎は拳を握る。


 ──あの燃え盛る炎の中、生き残った自分が、妹の陽奈が心臓を抜かれる様を目の前で見せつけられた。


 あんな過ちを二度と繰り返すつもりはない。


『本来は俺も学園島に向かって調査すべきなんだろうが、生憎こちらが立て込んでいて動けない状況にある。だから、フードの女が関係者かどうか判断して追いかけるのはお前の判断に任せる。ただ、絶対に無茶はするな』


「分かってる。……先生も、あんまり無茶すんなよ」


『俺を誰だと思ってるんだ?』


 剣崎の苦笑が聞こえ、翔太郎も少しだけ口元を緩める。

 けれど、胸の奥に渦巻く感情は決して消えることはなかった。


 ──その時、不意に部屋のチャイムが鳴った。


「……ん?」


 剣崎との会話を中断され、翔太郎は一瞬だけ考え込む。


「先生、悪い。来客みたいだ。また今度掛け直す」


『おう。これからも頑張れよ、翔太郎』


「ああ。先生もな」


 そう言って通話を切り、スマホをポケットにしまう。


(誰だ?)


 翔太郎は眉をひそめた。

 何か注文した覚えもなければ、わざわざこの家まで訪ねてくるような知り合いもいない。


 宅配業者かとも思ったが、荷物が届く予定もない。

 不審に思いながら慎重にドアへと向かい、ドアノブに手をかける。


 ゆっくりと扉を開けると、そこに立っていたのは──昨夜、家を飛び出した少女・氷嶺玲奈だった。


「玲奈?」


「こんばんは」


 玲奈は、昨夜氷嶺家を出る際の服装のままだった。

 白いコートを羽織り、赤いスカートに黒のロングスパッツ。そして、手には変わらず大きなトランクを持っている。


 つまり、彼女はあのままホテルで一夜を過ごし、着替える事もなく、そのままここに訪ねて来たのだ。


「俺って、玲奈に住所教えてたっけ?」


「爺やから聞きました。私を送り迎えしていた際に、あなたも爺やの車で家まで帰っていましたよね?」


「あー、そういえばそうだったな」


 妙に納得しつつも、それより気になったのは別のことだった。


「それで……大丈夫だったか?」


「何がですか?」


「いや、連れ出した身で言うのも何だけど、やっぱり実家から離れていきなり一人暮らしっていうのは不安なんじゃないのかなって」


「……」


 玲奈は少し視線を落とした。


 翔太郎は内心、少し気まずさを覚える。

 昨夜、彼は彼女のために家を飛び出す手助けをした。

 自分勝手を通したことで、玲奈の環境を劇的に変えてしまった自覚はある。

 だが、それが本当に良かったのかどうかは、まだ分からない。


 玲奈がどれだけ決意していたとしても、いざ実家を出てしまえば、今まで当たり前だった環境が一変する。

 その戸惑いは、きっとあるはずだ。


 高校卒業までは彼女をサポートするつもりでいるが、生活面での不安までは、彼女にしか分からない。


「今日は昨日の件でお礼を言いにきたのと、お願いを言いにきました」


「お礼とお願い?」


「どちらから聞きたいですか?」


 玲奈の真剣な瞳が、まっすぐに翔太郎を見つめる。

 どちらから聞きたいも何も、両方聞かなければならないのは明白だったが、翔太郎は思わず頭を掻いた。


「……じゃあ、お礼の方から?」


 苦笑しながら答えると、玲奈はすっと背筋を伸ばし、深く頭を下げた。


「あ、いや、そんな頭を下げられる程のことじゃ──」


「いいえ。今回、あなたが助けてくれなかったら私はきっと何も変えられないままでした。氷嶺家の縁談は、おそらく完全に破談になるでしょう。兄さんに責任を押し付ける形になるのは申し訳ないですが……それでも、どうすることもできなかった私を、あなたが助けてくれました」


 玲奈の声には、迷いはなかった。

 翔太郎は苦笑しながら首を振る。


「俺は単純に、玲奈に自分の気持ちに正直になって欲しかっただけだよ。凍也に言いたいことがあったのは俺も同じだしな」


 だから、そんなに感謝されるようなことでもない。

 むしろ、自分が出しゃばり過ぎたんじゃないかと思っていたぐらいだ。


 あの行動が正しかったのかどうか、今でも答えは出ない。

 けれど、こうして玲奈が感謝を伝えてくれるのなら、正しいかどうかは別として、少なくとも無駄ではなかったのかもしれない。


 そこまで頭を下げなくていい、と翔太郎は笑った。

 玲奈は零凰学園で出来た、数少ない友人だ。

 どんな形であれ、助けて欲しそうな顔をされたら力を貸すのが当然だろう。


「……それでも、あなたには感謝しています」


 玲奈は真っ直ぐに翔太郎を見つめながら、はっきりと言った。


「翔太郎」


 そして──不意に、彼の名前を呼んだ。


「え」


 突然の名前呼びに思わず動揺した。

 しかも、呼び捨て。


 今までの玲奈は、常に「鳴神くん」と苗字にくん付けで呼び、どこか一定の距離を保っていた。

 それが今、何の前触れもなく「翔太郎」と名前を直に呼ばれたのだ。


 これは、単なる言い間違いではない。

 意図的な変化──つまり、彼女の中で何かしらの意識が変わった証拠だ。


(……いや、待てよ)


 一瞬で色々と考えを巡らせながら、翔太郎は自分の耳を疑うように玲奈を見つめた。

 彼女の顔には、少しだけ赤みが差している。


 わざとなのか、それとも無意識なのか。

 どちらにしても、これまでにはなかった距離の縮まりを感じてしまい、翔太郎は妙に落ち着かない気持ちになった。


「……おかしかったですか?」


 玲奈が少しだけ顔を赤くしながら、上目遣いで問いかけてくる。


 その様子を見て、ようやく翔太郎は理解した。

 意識的に名前で呼んだのだろう。

 けれど、彼女自身もそれに対して恥ずかしさを感じているのが伝わってくる。


 一瞬、甘い空気が流れた。

 しかし、それを破るように翔太郎は何度か咳払いをする。


「いや、全然それでいい。むしろ、仲良くなれたみたいで嬉しいよ」


 玲奈は、何かを言いたそうに口を開きかけ──それでも何も言わなかった。

 ただ、視線を逸らしながら、頬にうっすらと赤みを残している。


(おいおい、なんだこの空気……)


 翔太郎の胸が、妙に落ち着かない。

 慣れない雰囲気に戸惑いながら、翔太郎はふと思いついて話題を変えることにした。


「あ、そうだ。せっかくだし引っ越し祝いでもするか? 今から出前でも取って──」


「ありがとうございます。その提案をしてもらう前に、もう一つお願いがあって来ました」


 玲奈は、翔太郎の引っ越し祝いの提案を遮るように言った。


 その表情は、先ほどまでの感謝の気持ちを伝えていたものとはまるで違う。

 先程よりもはるかに真剣な目で、まっすぐに翔太郎を見つめていた。


 明らかに、これが本題だと言わんばかりの態度。

 彼女の気迫に、翔太郎は思わず生唾を飲み込む。


「兄さんの件については、本当に感謝しています。感謝してもしきれないぐらいです」


「ああ、その話はさっき──」


「ですが、氷嶺家を出たことで、一つ厄介な問題が発生しました」


「……厄介な問題?」


 それはまた穏やかじゃない話題だ。

 翔太郎も意識を切り替え、玲奈をじっと見る。


 彼女は一瞬、言葉を選ぶように躊躇したあと、意を決したように口を開いた。


「お恥ずかしながら、今の私には、住むところがありません」


「……え?」


 思わず固まった。


 もしかして、氷嶺家とは別の問題が?

 いや、まさかとは思うが──。

 まったく予測していなかった方向からの爆弾発言に、翔太郎の思考が一瞬で停止する。


 昨日、ホテルに入る前に、住む場所の問題はしっかりと解決したはずだった。

 それなのに──。


「まさか……女子寮に入れなかったのか!?」


「……はい」


 萎れる玲奈。

 動揺が収まらない翔太郎。


 これは、かなりまずい。

 氷嶺家を出るにあたって、最も重要なことの一つが住む場所だった。


 毎日ホテル暮らしなんて現実的じゃない。

 だからこそ、玲奈の第一候補として零凰学園の女子寮が挙げられていた。


 家賃は少し割高だが、玲奈ならスクールマネーで十分まかなえる。だからこそ、寮に問題なく入れると確信していたのに──。


「な、なんで!? 玲奈は十傑だし、スクールマネーもちゃんとあるだろ?」


「……スクールマネーの件は大丈夫でした。仮にも一年生から零凰学園に通っていますし、貯金を合わせれば家賃の一年分はあります。このまま十傑を維持し続ければ、卒業までは問題なく支給されるはずでした」


「じゃあ何が──」


「……問題は、手続きの件です」


「手続き?」


 玲奈は申し訳なさそうに、ため息をついた。


「女子寮は、スクールマネーの有無に関わらず……その……親の許可がなければ、どうやら入れないみたいで」


「……おい、聞いてないぞ先生」


 翔太郎は、心の底から剣崎をぶん殴りたい気分に駆られた。


 しっかりと確認しなかった翔太郎にも非はある。

 だが、玲奈の住む場所が確保できると確信していたからこそ、家出の提案をしたのだ。

 なのに、こんな重要な条件を見落としていたなんて。


 玲奈の父親は、氷嶺家のことなどほとんど顧みない男だ。

 いつ帰ってくるかもわからないし、仮に帰ってきたとしても、玲奈の頼みを聞いてくれるとは到底思えない。


 じゃあ、それまで玲奈はどこに住む?

 ホテル暮らしは現実的じゃないし、学園に問い合わせたところで、すぐに対応してくれるとは限らない。


 そんな翔太郎の脳裏に、氷嶺家に潜入する前の剣崎の言葉がよぎる。




『最悪、その子の了承を取って、俺が契約したそのアパートに住ませてやれって言ってんだ』




 ──いやいや、待て待て。


 それはどう考えてもまずい。

 あくまで寮の費用が払えなくなった場合の最終手段だったはず。スクールマネーがある以上、まだ打てる手はあるはずで──。


「……ここまで言えば、おおよそ予想はついていると思いますが、お願いがあります」


 玲奈の声が、かすかに震えていた。


「ま、まさか──」


「確かに私は、自分の意思であの家を出ました。でも……」


 ふいに言葉を詰まらせ、玲奈は小さく唇を噛みしめた。かすかに潤んだ瞳が、迷いと葛藤を物語っている。


「……連れ出したあなたにも、一定の責任はあると思います」


 その言葉と同時に、玲奈の頬がみるみる赤く染まっていく。


「え……?」


「そ、そうじゃなくて……! えっと、その……っ」


 玲奈は両手をぎゅっと握りしめ、まるで体を小さく縮こませるようにして必死に言葉を繋げた。


「その……だから……っ」


 ますます赤くなる顔。

 必死で目をそらしながら、なんとか続きを口にしようとするが、声は途切れ途切れになる。


「ちょ、ちょっと待って……まさか、それって──」


「っ……!」


 ついに限界を迎えたかのように、玲奈は顔を真っ赤に染めたまま俯いた。

 拳をぎゅっと握りしめるその仕草は、まるで子供が駄々をこねるような可愛らしさがあった。


「し、しばらくの間……っ、あ、あなたの家に……住まわせてもらえませんか……?」


 最後の一言は、消え入りそうなほど小さな声。

 顔は火照りきって真っ赤になり、今にも泣きそうなほど羞恥に震えている。それでも絞り出すように口にしたその願いに、翔太郎は思わず息を呑んだ。


 玲奈自身、これが最後の手段だと分かっているのだろう。

 それでも、恥を忍んで頼まなければならない状況。

 それが分かるからこそ、翔太郎は一層返答に困った。


(マジかよ)


 目の前の少女は、決死の覚悟でこれを言っている。

 そんな玲奈を前に、翔太郎の心臓は妙な鼓動を刻み始めていた。


「でも、さすがにそれは……」


 翔太郎は必死に言葉を探すが、どこか頭の中がまとまらない。

 何かしら理由をつけて断ろうとするが、玲奈の目線が真剣で、まるでその言葉を受け入れてくれる気配がない。


「当然、生活費は折半します。なんなら、全額出してしまっても構いません。スクールマネーは沢山ありますし、いつでも換金できますから」


「いやお金の問題じゃなくて、玲奈は良いのか? ほら、俺の部屋って別にそんなに広い訳でもないし──」


 玲奈は顔を上げ、真摯な眼差しで翔太郎を見つめる。

 その言葉には、必死に自分の立場を少しでも良くしようとする強い意志が感じられた。

 しかし翔太郎は、それだけでは済まないという思いに駆られていた。


「……すみません。翔太郎以外に頼れる人がいないので」


(やめてくれ、その言葉は俺に効く)


 その一言が、まるで翔太郎の心を直撃したかのように響く。

 玲奈の瞳に映るのは、どこか不安げな様子だった。

 それが翔太郎に、何かしらの責任を感じさせる。

 彼女の目の前で立ち尽くし、気づけば心臓が速くなる。


 玲奈の可憐な容姿から漏れる懇願の声とその仕草は、まるでダンボールに捨てられた子猫が雨の中で震えているような印象を与える。

 翔太郎が言葉を濁していると、玲奈は更にその瞳を伏せ、心底落ち込んだように肩を落として見せた。


「私たちは友達、ではなかったんですか……?」


 その一言は、翔太郎の耳に重く響く。玲奈は、何も悪いことをしていない。

 それどころか、自分を信じて頼ってきている。


「いやそうだけど! 友達だけども! それ以上にほら、年頃の男女な訳じゃん? 玲奈は俺の部屋に住むの、嫌じゃないのか?」


「──嫌じゃありません」


 玲奈はきっぱりと答える。

 その言葉には、迷いが全く感じられなかった。


「それに、いきなり女子寮に移ったら周りの方々に邪推されます。あくまで家出は裏の事情として処理したいので」


 その目には、翔太郎はますます言葉が出なくなり、逃げ道が一つずつ潰されていく気がした。


「フードの女の件だって何も解決していません。あなたも奴を追うなら四六時中、私を見張っておいた方がいいのでは?」


(うっ……)


 玲奈の言葉が、翔太郎の心に重くのしかかる。

 フードを被ったあの不審者の件、解決していないのは確かだ。

 確かに女子寮で問題が発生してからでは遅い。

 奴が玲奈を狙うと分かっている以上は、学園以外でも彼女を見張っておくことがベストだと言うのも理解できる。


「いや、でもそれでも……」


「あなたに無理矢理連れ出されたことになってるんです。あなたの元でお世話になります」


 その冷静で、かつ決意に満ちた言葉が、翔太郎を完全に言い返せない状態に追い込んだ。

 玲奈の眼差しには確固たる覚悟が見え、翔太郎はその圧力に押されるように黙り込むしかなかった。


「あなたは私に居場所を作ると言いました。私はそれを信じてあの家を出ました。……出てきた直後に厚かましいお願いだとは思いますが、私には翔太郎だけが頼りです」


「……」


 何も言えないでいると、玲奈がさらに一歩踏み込んできた。


「もし生活費の負担でも駄目ならば、あなたの言うことは何でも聞きます」


「──っ」


 その言葉が、翔太郎にとっては予想以上に強烈な決定打となった。

 言葉で責任を取らせることなどできないが、玲奈の真剣な眼差しに、その場で意識を持っていかれてしまう。


 翔太郎は一瞬、息を呑む。

 だが、その言葉で彼の心に何かが変わる。


「あなたの言うことは何でも聞く、なんて言葉は軽々しく使うな」


「……え?」


 今の玲奈の頼み方は、これまでの彼女の生き方と何も変わっていない。

 それだけは絶対に訂正しなければならない箇所だった。


「玲奈は誰かの言いなりになるのが嫌だから、自分の意思で生きてみたいと思ったから、あの家を出たんだろ? そんな事を俺に約束させたら、氷嶺家に居る時と何も変わらないよ」


 翔太郎は真剣に言葉をかけ、玲奈をじっと見つめる。

 その言葉が玲奈にしっかり届いた瞬間、彼女は少し絶句した。


「……確かにそうでしたね。では、少し頼み方を変えます」


 だが、やがて玲奈はその手をしっかりと翔太郎の腕に握り、真剣な顔つきで彼を見上げる。


「──分かりました。では、あなたには責任をとってもらいます」


「え、責任?」


 翔太郎は思わず驚き、目を見開く。


 なんか変な方向に話が脱線した気がした。

 責任。その言葉が重くのしかかる。

 年頃の女の子に言われるのだから尚更だ。


「私はあなたに連れ出されて住む場所を失いました。責任とってくださいね。翔太郎」


 その言葉は、翔太郎の心に冷徹な鋭さを突き刺す。

 彼女の微笑みの中に潜む不穏な空気に、翔太郎の背筋がぞくりとした。


「翔太郎?」


 問いかけた玲奈はほんの一瞬、艶かしく薄く笑った。

 その笑顔は、まるで翔太郎に向けた甘い罠のように見えたが、目が全く笑っていないのに気付く。


 その目は、まるで彼を捕らえて離さないかのような冷徹さを放ち、翔太郎の鼓動を色々な意味で速くさせた。

 玲奈はどれほどの恥を忍んで、どれほどの覚悟でここまで言っているのか。

 その必死さが翔太郎の胸を締め付ける。


 彼女が提案した生活費の折半や、何でも言うことを聞くという条件は、単なるお願い事ではない。

 それは、彼女が自身に全てを委ねるという重い決意の表れだった。


 ──無理矢理連れ出したのはそっちなんですから、責任も取らずに断ったらどうなるか分かっていますよね?


 そう言わんばかりの剣幕で、まるで刃のように鋭く翔太郎を突き刺す。

 玲奈の無言の圧力が、彼の内心を圧倒し、逃げ場が無いことを悟らせる。


 翔太郎は思わず震えが走り、慌てて頭を掻こうとしたが、玲奈に両腕をしっかりと握られているため、それすらもできない。


「ちゃんと目を合わせてください」


 この場は完全に玲奈に支配されているような感覚に陥る。

 その無言の圧力、無自覚に押し寄せてくる懇願のようなものに、彼はどうしていいかわからなくなる。


 玲奈の手のひらに込められた力の強さが、彼女の執着心の現れであることに翔太郎は気づくことができなかった。

 ただ、ただ、恐れを抱きながらもその重圧に従わざるを得ない自分を感じていた。


「わ、分かった! 分かったから!」


「……私はここに住んでいいと?」


「うん。そんな顔されて、もう放置なんて出来ないよ」


 玲奈の目に浮かぶ深い決意と、その裏に隠れた不安が翔太郎の胸を締め付ける。

 彼女の気迫に負けた翔太郎は、ついに苦笑いを浮かべながら決断を下す。


「確かに玲奈の言う通り、連れ出したのは俺の方だ。玲奈のしたい事を一緒にするって、あの時言っちゃったしな」


 全て玲奈の言う通りだ。

 剣崎も覚悟が無い状態で連れ出すなと翔太郎に念を押した。今まさに、その覚悟が問われている状況という事だろう。


「ただまぁ……お互い異性である事には変わりないし、なんていうか、色々気を付けながら生活しようぜ? 多分、玲奈に迷惑をかける事だって沢山あるだろうし」


「迷惑をかけているのは私の方です。頼んでおいてはなんですが、本当にいいんですか?」


「ああ、もう決めた」


 その言葉に、玲奈は少しだけ安心したように表情が和らいだ。


 翔太郎は自分のエゴで玲奈を連れ出したのだ。

 あの家を一緒に出た時に覚悟を決めた。

 だからこそ、玲奈が心から納得するまで自分が一緒にいると約束した。


「だから、そう固くならなくていいよ。悪かった。あれこれ言って、玲奈を不安に思わせたな」


「いえ、私の方こそすみませんでした。恩人のあなたに、プレッシャーを掛けるような真似をしてしまって……」


「気にしてないって。それに玲奈の居場所になれるように頑張るって言っちゃったしな」


「……っ!」


 彼女を不安がらせないように、翔太郎はできるだけ軽く笑って言葉を続けた。

 彼女の表情が明るくなることを期待して。

 だが、彼の言葉が終わると、玲奈が一瞬固まった。

 その後、玲奈は急に顔を俯け、両手をしっかりと翔太郎の腕に掴んだまま動かなくなった。


 翔太郎は玲奈の顔を覗き込もうとしたが、髪の下に隠れて見えない。

 だからだろうか──彼女の両耳が真っ赤になっていることには、翔太郎は全く気付けなかった。


「あ、そうだ。俺も玲奈に一つお願いしても良いか?」


「……なんですか?」


 顔を上げないまま、玲奈が両腕を掴んで離さない。

 その様子に翔太郎は少し不思議に思いつつも、玲奈がこのアパートを訪ねてきた時から、ずっと考えていた言葉を口に出した。




「──改めてだけど。5月の異能試験さ、俺とパートナー組んでよ」




 初めて会った時から、ずっと言っていたこと。

 ようやく玲奈は自由となり、来週からは普通に学園に通うことができるのだ。

 ならば、この一ヶ月間、放置していた問題に手を付ける時が来た。


「……ふふっ」


 玲奈の微笑みが翔太郎を驚かせた。

 顔を上げた玲奈は、予想以上に朗らかな笑顔を見せていた。


「……全く。そうですね、あなたは最初からそういう人でした」


 彼女の純粋な笑みを見て、思わず鼓動が早まった。

 それを意識する間もなく、玲奈が続ける。


「分かりました。これからは友達としてだけではなく、正式にパートナーとしてあなたと接します」


「え、マジ? 組んでくれるのか!?」


「なんで、頼んだあなたが不思議そうな顔をするんですか」


「いや、てっきり頼み込んでも、玲奈が単独で参加するのは変わらないのかなと思って。今も結構ダメ元だったからさ」


「この流れで、ですか?」


 玲奈は笑いながら、掴んだ腕をようやく離した。

 その一瞬、翔太郎は目を見張ったが、彼女の目には確かな決意と温かさが宿っていた。


「本当に良いのか? 俺がパートナーで」


「──まさか。あなたの実力も人間性も、この4月中に嫌と言うほど理解させられました。私にとって、あなた以上にパートナーに相応しい人間はいません」


「それじゃあ……」


「はい。これからもよろしくお願いします、翔太郎」


 玲奈の言葉に、翔太郎は軽く頷き、しっかりと感謝の気持ちを込めて答える。


「……ありがとな、玲奈」


 玲奈は、どこか少し照れたように頬を染めながら、内心で思っていた。

 ああ、この人は、やっぱりそういう人だ。

 彼の予想外な一言に、心の中で笑いが込み上げ、全身でその笑顔を解き放った。


「──さて、と」


 翔太郎は腕を軽く伸ばし、玲奈に向き直る。


「じゃあ、入んなよ。大したもてなしは出来ないけど、引っ越してまだ一ヶ月しか経ってないから荷物置けるしな」


 玲奈は一歩、部屋の中へと踏み入れた。

 その表情には、ようやく張り詰めた緊張が和らぎ、微かな安堵が見えていた。


「お邪魔します。そして、お世話になります」


 静かに翔太郎の部屋の中を見渡す。

 新しい生活の始まりを告げるような、穏やかな空気がそこにはあった。


 氷嶺家の影から抜け出し、ようやく手にした自由。

 そして──信じられる誰かが、そばにいるという安心感。


 これは、逃げの先ではない。

 ここから始まるのは、彼女自身の物語。

 玲奈は小さく息を吐き、翔太郎の方を振り返った。


「──改めて、よろしくお願いします。翔太郎」


 未来はまだ見えない。

 それでも、彼とならきっと、どこへだって歩いていけると信じてる。












ここまで読んでいただき、本当にありがとうございます。


一ヶ月も経たずにヒロインと同棲してしまう主人公。

そして、出会って間もないのに、完全な信頼を寄せて男の部屋に上がり込む元お嬢様()。

そんな二人の関係が、これからどうなっていくのか……ぜひ見守っていただけると嬉しいです。


さて、次章からは物語も一気に加速します。

零凰学園の内情や、夜空の革命の実態など、より深い部分に踏み込んでいく予定です。

第一章とは打って変わって、かなり重めの展開も待ち受けていますが、最後まで読んでいただけたら幸いです。


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皆さんの応援が、今後の執筆の大きな活力になりますので、ぜひよろしくお願いします!


それでは、第二章でまたお会いしましょう!

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第1章完結お疲れ様でした。 最近はこの作品の投稿を毎日チェックしている気がします。 今後とも、ご自分のペースで投稿を続けてくれると嬉しいです。 第2章も楽しみにお待ちしています。
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