第一章24 『氷結のマリオネット』
生まれた時から、僕には道が決まっていた。
氷嶺家の嫡男として、当主となること。
父に認められ、家を継ぐこと。
それが僕の生きる意味であり、存在価値だった。
──いや、それ以外の生き方を知らなかった。
「凍也。お前は氷嶺家を背負う者として、他の誰よりも強くなれ」
父の言葉は絶対だった。
幼い僕にとって、父は偉大で恐ろしく、そしてたった一人の指針だった。
朝から晩まで、異能力の修練。礼儀作法。帝王学。戦闘技術。それらを学ぶことに必死だった。
友達など必要なかった。遊びなど無意味だった。
僕は氷嶺の名に恥じぬよう、ただひたすらに鍛錬を積み重ねた。
──たとえ、才能が凡庸だとしても。
凡庸。
それが、僕の真実だった。
氷嶺家の歴代当主の中では並の能力。
強くも弱くもない中途半端な部類だ。
近年急激に力をつけ始めた他の名家に太刀打ち出来るかと聞かれたら、当時の僕にはあまり自信が無かった。
それでも、僕は努力だけでのし上がった。
努力すれば、報われると信じていた。
「努力すれば、お前はきっと一流になれる」
親族たちはそう言った。
だが、彼らの目は期待と同時に落胆に満ちていた。
──特別秀でた才能がないなら、せめて努力くらいは認めてやると。
どれだけ血を流しても、どれだけ歯を食いしばっても、父の目が僕に向くことはなかった。
それでも、認められたかった。
それでも、僕は氷嶺家の当主になると信じていた。
そんな僕の唯一の支えが、母だった。
母は病弱だったけれど、僕のことを気にかけてくれていた。
厳しい鍛錬の合間に聞こえる、あの優しい声だけが、僕を人間に繋ぎとめていた。
でも──玲奈が生まれて、母は死んだ。
その時、すべてが終わった。
父は変わり果てた。
氷嶺家の未来を語っていたはずの男が、母の死を境に何もかも投げ捨てた。
僕を見もしなくなり、玲奈のことなど当然のように放置し、家には帰らなくなった。
氷嶺家の当主となるはずだった僕は、ただの取り残された子供になった。
これまでの努力は何だった?
血が滲むほどに磨き続けた力は?
──僕が何者であるかを、誰も気にしなくなった。
「馬鹿馬鹿しい」
それでも僕は、自分の誇りを捨てることはできなかった。
どれほど凡庸であろうとも、努力で積み上げた力は本物だ。
これまでは父という指標があったが、元異能力者のプロフェッショナルであった爺やの指南の甲斐もあって、異能力の訓練には困らなかった。
父の変わりようを見た他の親族や使用人たちも宛てられた様で、氷嶺家には暗雲が立ち込めていた。
誰も、生まれたばかりの赤子である玲奈を気に留めやしない。
父は、僕たちを見てすらいなかった。
母が死んだあの日から、父は氷嶺家の当主を僕に譲った。
まるで母とともに心までも失ったかのように、仕事に没頭し、家を空け続けた。
──残されたのは、僕と玲奈だけ。
僕はあの男を許せなかった。
どれほど厳しく育てられたか。
どれほど苦しい鍛錬を課されたか。
それなのに、父は責任も果たさず、すべてを投げ捨てた。
ならば、僕がやるしかない。
僕が玲奈を守るしかなかった。
幼い玲奈は、いつも僕の後をついて回っていた。
父に冷たくされても、使用人たちに気味悪がられても、玲奈は決して泣かなかった。
ただ黙って、僕の袖を掴み、小さな手でしがみつくようにしてついてきた。
──そう、僕だけが玲奈を見ていた。
誰からも顧みられない妹を、僕だけが守っていた。
だが、それもあの日で終わった。
十四歳の冬、氷嶺家に外部の能力鑑定士が呼ばれた。
それは正式な素質検査だった。
氷嶺家の長男で現当主である僕は、当然のように期待されていた。
この身に宿る血こそが、僕が氷嶺家の正統な後継者であることの証明なのだと、ずっと信じていた。
だが──
「玲奈様は氷嶺家歴代最強の能力者としての潜在能力が備わっております。順当に成長していけば、S級能力者すらも上回る領域に行けるでしょう。間違いなく世界最強の一角になり得ます」
その言葉が、僕の世界を打ち砕いた。
何を言われたのか、一瞬理解できなかった。
いや、理解することを拒んだ。
僕ではなく、玲奈の方が──選ばれた人間?
僕が必死に積み上げてきたものを、こいつは生まれ持った才能だけで超えたのか?
何かの間違いだと思った。
だが、周囲の反応がそうではないことを示していた。
驚き、歓喜し、称賛の声が玲奈へと向かう。
今まで玲奈を冷遇していた親族や使用人たちが、一斉に態度を変えた。
まるで、僕なんか最初からいなかったかのように。
──この感覚を、僕は知っている。
そうだ。あの日も、そうだった。
母が死んだ時、父は僕を見なかった。
それどころか、声すらかけなかった。
母の死に苦しんでいたのは僕も同じだったのに。
母は唯一、僕を愛してくれた人だった。
どれだけ父に冷遇されても、どれだけ厳しい修行を強いられても、母だけはいつも僕のそばにいてくれた。
温かい手で、優しく頭を撫でてくれた。
僕が泣けば、そっと抱きしめてくれた。
どんな時でも、僕を凍也として見てくれた。
それなのに──母は玲奈を産んで、死んだ。
母を奪ったのは、玲奈だった。
僕の努力を無意味にしたのも、玲奈だった。
僕の存在証明を根底から崩したのも、玲奈だった。
頭の中に黒い泥のような感情が渦巻く。
何かが胸の奥底で音を立てて弾けた。
「これで満足か?」
気がつけば、玲奈を怒鳴りつけていた。
一瞬で空気が凍りつく。
僕の放つ冷気が、部屋の温度を急激に下げた。
今まで浮かれていた使用人たちは、完全に萎縮し、何も言えなくなっている。
「お前の才能は氷嶺家の誰よりも優れている。良かったな。これでもう、お前に僕は必要ない」
玲奈は目を見開き、すぐに泣きそうな顔になった。
小さな手を震わせながら、怯えたように僕を見上げる。
「……っ、ごめ、なさい……」
縋るように、泣きじゃくりながら。
幼い頃も、そうだった。
玲奈はよく泣いた。
屋敷の隅で、誰にも気づかれずに小さく泣いていた。
母がいない夜、玲奈は僕の袖を掴んで、涙を零しながら震えていた。
「……とうや……にい……どこにもいかないで……」
あの時の僕は、玲奈の涙を拭い、抱きしめていた。
この子は守らなければならないと、そう思っていた。
けれど、今は違う。
「謝るな!」
叫ぶと同時に、空気が震えた。
氷が張りつめるように、冷気が広がる。
「昔から、ずっとお前が憎かった」
玲奈の顔から血の気が引いた。
幼い頃から泣き虫だったこの妹は、今も変わらず小動物のように震えながら、僕を見上げている。
だが、その瞳に宿るのは恐怖だけだった。
「お前が生まれてきたから、母さんが死んだんだ」
玲奈の唇が震える。
まるで、自分の耳を疑うように。
何か言いたそうに口を開くが、声にならない。
「……ぁ」
かすれた息と共に漏れた声は、あまりに頼りなく、脆い。
玲奈の膝が砕けたように折れ、力なく床に崩れ落ちる。
冷たく磨かれた大理石の床に、小さな両手を突いて、それでも立ち上がろうとした。
だが、足に力が入らないのか、何度も震えるばかりで動けない。
僕は、その姿を見下ろしながら、妙に冷静だった。
やっと言えた。
ずっと抱えていた感情を、ようやく玲奈に叩きつけることができた。
それなのに──胸の奥に渦巻く怒りは、まるで消えなかった。
玲奈が泣いている。
打ちひしがれ、傷つき、絶望している。
なのに、何故だ。
これほど惨めな姿を晒しているというのに、僕の苛立ちは一向に収まらない。
何かが足りない。
何かが、満たされていない。
こいつが泣けば、僕は満足できると思っていたのに。
そんな時、廊下の向こうから、足音が聞こえてきた。
視線を向けると、そこに立っていたのは父だった。
久しぶりに見るその姿に、一瞬、僕の中で何かが揺れた。もしかしたら、この惨状を見て、何かを言うのではないか。
玲奈にでも、僕にでも、何かしらの言葉をかけるのではないか。
それだけの期待を抱いた自分が、今となっては滑稽だった。
──父は、僕も、玲奈も、見てすらいなかった。
ただ静かに、淡々と歩いていく。
僕の怒りも、玲奈の泣き声も、屋敷を覆う凍てつく冷気すらも、何一つ感じ取っていないかのように。
「…………」
何かが崩れ落ちる音がした。
それは心の中で砕けた、最後の欠片だったのかもしれない。
──もういい。
僕は玲奈を守る必要などなかった。
守る価値すらない。
それどころか、玲奈の存在そのものが、僕を脅かすのなら──僕が玲奈を、完全に管理すればいい。
それから、僕と玲奈の関係は完全に一変した。
玲奈の潜在能力が明らかになっても、この家で一番力を持っているのは依然として僕だった。
使用人たちも親族たちも、それを理解していた。
だから、玲奈ではなく僕に従った。
「玲奈。お前は氷嶺家の人間として、相応の教育を受けねばならない」
玲奈は何も言わなかった。
ただ、泣いていた。
ふざけるな。
氷嶺の名を背負う以上、感情など必要ない。
無駄なことを考える余地など与えてはならない。
玲奈は、僕の妹として生きることしか許されないのだから。
「余計なことを考えるな」
俯いた玲奈の肩を力任せに掴んだ。
華奢な身体が震え、びくりと跳ねる。
「無駄な感情を持つな」
玲奈は涙に濡れた瞳で僕を見上げたが、すぐに視線を逸らし、静かに唇を噛んだ。
そうだ、それでいい。
玲奈に考える力など必要ない。
玲奈が持つべきものは、ただ氷嶺家の命令に従う本能だけだ。
考えない、反抗しない、意思を持たない──ただ、僕の言葉に従えばいい。
「玲奈。お前に償う気があるなら、これからはずっと何も考えずに、僕の言うことだけ聞いていればいいんだ」
玲奈は微かに肩を震わせながら、小さく頷いた。
僕が決める。
玲奈がどう生きるべきか。
玲奈が誰と関わるべきか。
「お前が誰と関わるべきか、僕が決める」
かつて、玲奈は僕の妹だった。
けれど今は、ただの人形だ。
それでいい。
そうでなければ困る。
それから、玲奈は家の中で完全に浮いていた。
幼い頃は氷嶺家の人形と嘲笑われ、才能が発覚した途端に氷嶺家の希望ともてはやされた。
だが──今は違う。
玲奈は、もう何の感情も示さない。
僕がそうさせたのだ。
「氷嶺家に新たな才能が生まれたと聞いていたが……」
屋敷を訪れた遠縁の親族が玲奈を見て、鼻で笑った。
「まるで元のお人形さんに戻ったみたいじゃないか」
それを聞いて、なぜか胸の奥が微かに疼いた。
──くだらない。
使用人たちの態度も変わった。
玲奈が才能を発揮しようが、家の者として認められようが、関係ない。
彼らは玲奈を気味悪がる視線を再び向け、氷嶺の人形に戻ったかのように扱い始めた。
玲奈は、ただの置物になった。
なのに──僕は満たされなかった。
玲奈を押さえつけ、支配し、思考を奪い、感情を押し殺させたはずなのに。
それなのに、あの夜、母さんを失った時に広がった胸の穴は埋まらなかった。
埋まるどころか、広がっている気すらする。
玲奈の才能?
そんなもの、どうでもいい。
玲奈が最強の力を持とうと、それを発揮する自由を与えなければいいだけの話だ。
才能を持つことと、それを発揮できることは別の話。
玲奈は、僕の言う通りに生きる。
僕が玲奈のすべてを決める。
それだけのことだ。
それなのに、どうして。
どうして、胸の奥がこんなに冷たいんだ。
それからしばらくして、玲奈に縁談が持ち上がった時、僕は心の底から思った。
──これで、厄介者を処分できる。
玲奈が家からいなくなれば、僕は氷嶺家の当主としての立場を完全に確立する。
そして玲奈が他の名家との繋がりを持てば、氷嶺家当主たる自分に莫大な利益が手に入れられる。
煩わしいだけの妹の存在に意味を感じた瞬間だった。
「玲奈、今日はお前に縁談を持ってきてやった」
玲奈は顔色ひとつ変えずに、黙って座っていた。
まるで、そこに魂がないかのように。
「将来的に氷嶺家にとって有用になる名家との繋がりを作る、大事なチャンスだ」
玲奈の眼差しは虚ろだった。
何の感情も浮かばない、ただのガラス玉のような目。
「お前には卒業と同時に、僕が指定した名家の跡取りと婚約してもらう」
玲奈は、無言だった。
「なに、そう不安そうにしなくても良い。出来損ないのお前でも苦労のないように、僕がしっかりと相手を見定めておく」
その言葉に、玲奈の指先がほんの僅かに震えた。
だが、すぐに静止する。
ほんの一瞬、胸の奥で何かが締めつけられるような感覚を覚えたのだろう。
しかし、それを振り払うように玲奈は視線を落とした。
「分かるだろう?」
僕は冷徹な目で言葉を続ける。
「お前が結婚すれば、氷嶺家も将来的に安泰になるし、異能社会において盤石な立ち位置を築ける」
玲奈は静かに瞬きをした。
見合い、相手、結婚──全て僕が決めること。
玲奈の人生は最初から決まっている。
僕が選んだ道を進むだけだ。
この時、玲奈は初めて実感したのだろう。
──自分は生涯に渡り兄の手の中にある、と。
自分が誰と添い遂げるかすら、兄の命令で決まる。
自分の意志など、最初から存在しない。
玲奈の心が冷たく凍りついた瞬間である。
氷嶺家という冷たい檻の中で、生涯、人形であり続ける。
その思考が、頭の中で何度も繰り返される。
どれだけ何を望んでも、兄の決定がすべて。
この屋敷の中で生きている限り、玲奈には何の選択肢もない。
だが──どうしてだ。
僕は、玲奈を厄介払いしようとしている。
玲奈を外へ出せば、僕はもう彼女を管理する必要がなくなる。
玲奈がどう生きようと、誰と結ばれようと、僕には関係なくなる。
それが、本来ならば最善のはずだ。
それなのに。
それなのに、胸の奥がひどくざわつく。
玲奈がこの屋敷からいなくなったら──僕は、一体どうなってしまうのだろう。
玲奈がいなければ、僕は一人になる。
誰も僕の言葉を聞かず、誰も僕の命令に従わず、僕が何を言っても誰も応じない。
母がいなくなったあの夜のように。
僕だけが、独りになる。
違う。そんなことは考えるな。
玲奈など僕にとってただの道具だ。
玲奈がこの屋敷にいようがいまいが、関係ない。
「分かりました、兄さん」
玲奈が機械的な声でそう言った。
まるで、自動人形の返事のように。
玲奈の瞳は、ただのガラス玉のように何の光も宿していない。
僕がどんな命令を下しても、玲奈は逆らわない。
玲奈は、僕の思い通りになる。
──これでいい。
そう思ったはずなのに。
胸の奥が──酷く冷たかった。
♢
意識が浮上する。
瞼を開けると、夜の空が視界に広がった。
月は高く、澄んだ光が降り注いでいる。
凍也はゆっくりと息を吸い、次いで吐き出す。
身体は鉛のように重かった。関節が軋み、冷えた石畳の感触が背中に伝わる。
──負けたのか。
全身に刻まれた痛みが、その事実を告げていた。
ふと、耳元で誰かの気配を感じる。
「よう。起きたか」
淡々とした声。
視線を向けると、鳴神翔太郎がいた。
両腕を組み、無造作に立っている。
やや汚れた制服と、わずかに乱れた髪が激戦の余韻を物語っていた。
凍也は無言のまま、ゆっくりと身体を起こした。頭の奥が鈍く痛む。
その視線の先に広がるのは──破壊された庭園。
凍也の放った氷の礫が、かつて美しく整えられていたはずの庭を無惨に切り裂いていた。
石畳は砕け、木々は幹ごとへし折れ、無数の氷塊が散乱している。
冷気がまだ周囲に残滓を留めており、白い霜が地面に張り付いていた。
元々、夜の静寂に包まれた場所だったが、今は違う。
そこにあるのは、戦の痕跡。
氷の棘が無秩序に散乱し、地面は砕け、風が吹くたびに細かな氷片が舞い上がる。
──何もかもが、ボロボロだった。
凍也は痛む頭を押さえながら、静かに口を開く。
「僕は、どれくらい気を失っていた?」
「二十分ぐらいだな」
二十分。
それは氷嶺凍也にとって、屈辱的な時間だった。
戦いに敗れ、地に伏し、そして目の前には己を打ち倒した男が立っている。
あの誇り高き氷嶺家の後継者が、こうして打ちのめされているのだ。
何より──翔太郎のその目が、癪だった。
そこにあるのは、嘲笑でも侮蔑でもない。
ただ淡々とした視線。
それだけが胸の奥を鋭く刺した。
凍也が周囲を見渡すと、屋敷の使用人や護衛たちが忙しなく動き回っていた。
砕けた石畳の修繕、倒壊した塀の撤去、折れた木々の始末──。
どこもかしこも破壊の爪痕が残り、屋敷全体が戦場の後のような有様だった。
それでも彼らは手慣れた様子で動いている。
氷嶺家に仕える者たちにとって、異能者同士の戦闘による被害は決して珍しいものではないのだろう。
しかし、それが当主自身の敗北によるものとなると、話は別だ。
「最初はやばかったよ」
不意に翔太郎が口を開く。
「なんせ侵入者が、自分たちの当主を倒しちまったわけだからな。護衛たちが大騒ぎで取り囲んできてさ」
淡々とした口調だった。
勝者の優越も、敗者への嘲りもない。
ただありのままの事実を語るだけ。
凍也は拳を握る。
怒りではない──いや、怒りでもあった。
だが、それ以上に胸の奥を支配していたのは、どうしようもない焦燥感だった。
「……どうやって、それを切り抜けた?」
口に出してから、自分が何を期待しているのか気づいた。
氷嶺家の護衛たちが翔太郎を説得し、玲奈を屋敷に引き戻した──そんな報告を、無意識に期待していたのではないか?
翔太郎は肩をすくめた。
「玲奈が事情を説明してくれたんだよ。おかげで事なきを得た」
それを聞いた瞬間、凍也の心臓が跳ねる。
──玲奈が、僕のために?
だが、次の瞬間には悟る。
違う。
玲奈が庇ったのは、自分ではなく目の前の男だ。
「そうか」
掠れた声で答えながら、凍也は無意識に夜空を仰いだ。
視線の先には、蒼白い月が浮かんでいる。
ふと、違和感に気づく。
──玲奈がいない。
翔太郎の言葉が正しいのなら、玲奈はこの庭にいてもおかしくない。
兄が目を覚ますのを待っていたのではないのか?
「……玲奈、は」
無意識に呟く。
翔太郎は少しだけ目を細め、それから何の感情も込めずに言った。
「玲奈か? 今さっき、部屋まで戻ったよ」
「──っ」
凍也の瞳が大きく揺れた。
思わず顔を上げる。
戻った──?
つまり、玲奈はまだこの屋敷にいる?
心の奥底で、押し殺していた期待が首をもたげる。
もしかして、玲奈は氷嶺家を出て行くつもりはないのではないか。
もしかして、玲奈はまだ──
「勘違いするなよ」
冷たく響く翔太郎の声が、その甘い幻想を叩き潰した。
「玲奈は単純に、荷物を取りに戻っただけだ」
風が吹き抜ける。
土煙が舞い、夜の静寂が広がる。
「テンション上がって家出しようとしたら、何にも荷物持ってなかったことに気づいたんだとさ。急いで引っ越しの準備してるよ」
引っ越し──。
つまり、玲奈はもうここには戻らない。
心臓を掴まれたような感覚だった。
当たり前だ。
あれほど玲奈を人形のように扱い、冷酷に縛りつけたのだから。
今さら彼女がここに留まる理由など、どこにもない。
それでも、喉の奥が痛む。
無理やり吐き出した息が、やけに重かった。
──玲奈が、いなくなる。
それを望んだのは、自分のはずなのに。
「アンタが気絶している間、玲奈との昔話を聞いた」
翔太郎の低い声が、静かな夜に溶けていく。
凍也は誰から聞いたのかなど問うつもりもなかった。
玲奈か、屋敷に残っていた使用人たちか、はたまた爺やか──。
おそらく、凍也が思い浮かべる顔の誰かから聞いたのだろう。
「アンタも大変だったんだな。七歳で当主の責任を押し付けられて、大好きなお母さんも居なくなった」
淡々とした語り口だったが、その言葉の奥には、わずかながらも理解と哀れみの感情が滲んでいた。
「俺の知ってる奴は九歳で当主になったから、それよりも年下で当主になったアンタにはどれだけ苦しかったか想像もできない」
翔太郎は、倒れる凍也の隣に腰を下ろした。
大の字に寝転がり、夜空を仰ぐ凍也と、ボロボロになった庭園を真っ直ぐ見据える翔太郎。
先ほどまで命を削り合っていたとは思えない光景だった。
「でも、アンタが玲奈にしでかしたことは全く別の話だ」
「……」
「確かに昔話は聞いたけど、深い事情については俺も知らない。きっと兄妹二人にしか分からないことがあるんだろう。でも、酷い仕打ちを受けていた玲奈は、それでも兄貴を家族として愛してたんだ」
家族として、愛していた。
その一言に、凍也は思わず目を見開いた。
玲奈が自分を──?
そんなはずはない。
あれほど冷たく接し、あれほど無理を強いてきたのに。
だが、確かに玲奈はずっと凍也のそばにいた。
優しかった兄にも、変わってしまった兄にも、逆らうことなく従っていた。
そして、どんな扱いを受けても、家を出ることはなかった。
──翔太郎がやってくるまでは。
「少なくとも、玲奈はアンタを兄としてずっと大事に想ってたぞ」
翔太郎は、それを知っている。
「アンタが倒れた瞬間、一番真っ先に駆け寄ったのは、他の誰でもなく玲奈だったからだ」
今まで屋敷では無表情に過ごしていた玲奈が、必死な顔つきで屋敷の人間を集め、凍也の容体を確認させた。
気絶しているだけだと分かるや否や、すぐに庭園の撤収作業を指示した。
玲奈は家を出ると決めた後でも、兄を放ってはおけなかったのだ。
「負けた立場で言うのはなんだが、頼みがある」
掠れた声で、凍也が呟く。
「──どうか、玲奈を連れて行かないでくれ」
その言葉に、翔太郎は驚いた表情で凍也を見下ろした。
凍也の顔からは、当主としての威厳も冷徹さも消え去っていた。
そこにあるのは、ただ家族を失うことに怯え、必死に縋ろうとする一人の男の姿だった。
先ほどまでの冷酷な顔つきとはまるで違う。
玲奈を人形として縛ろうとしていた男ではなく、家族を外の人間に奪われまいとする弱さを滲ませた兄だった。
「……悪いけど、それは出来ない」
翔太郎は、静かに言った。
「俺はアンタの願いじゃなくて、玲奈の願いを叶えるためにここにいる」
凍也の表情が歪んだ。
それは理解できないという困惑ではなく、受け入れたくないという拒絶の色だった。
この男は、本当に玲奈を連れ去ってしまうのだ。
やっと気付いた。
凍也が玲奈を手放したくなかったのは、単に自分の管理下に置くことで、自身の小さくて薄汚い性根を保ちたかった為ではない。
妹が家を出ることで、自分が独りになる事を恐れていたのだ。
家を継いだあの日から、凍也はずっと孤独だった。
幼すぎる当主は、誰にも甘えられなかった。
誰にも心を許せなかった。
ただ、家のために、家族の名のために、自分の感情を押し殺し続けた。
気が付けば、凍也は氷嶺家の当主という役割に縛られていた。
玲奈を人形にしていたつもりが、本当は自分の方が氷嶺家の操り人形だったのだ。
「本当に、お前らは紛れもない兄妹だよ」
翔太郎は、ため息混じりに呟いた。
玲奈だけではない。
凍也もまた、ずっとこの家に縛られていた。
それぞれ形は違えど、二人とも家のしがらみに囚われ、自由を奪われていた。
凍也は幼くして当主の座を押し付けられた。
母の死を境に、父は家族に無関心となり、凍也は誰からも愛情を受けることなく育った。
家を背負うことが存在意義になり、それを失えば彼には何も残らなかったのだろう。
──だから、玲奈を手放せないのか。
どれほど冷たく接しても、玲奈だけはそばにいた。
それがどんな歪な形であれ、玲奈の存在があったから、凍也は兄でいられた。
それは、氷嶺家の当主としてではなく、ただの家族としての唯一の繋がりだった。
しかし、今、その繋がりすら失われようとしている。
(──それでも、俺は連れて行く)
翔太郎は立ち上がり、静かに夜空を見上げた。
玲奈が望む未来は、この屋敷にはない。
「僕が強引な手を使って連れ戻すとは、考えないのか」
尚も敵に縋る自分自身に、凍也は内心、自嘲する。
それでも、彼は捨てられることを恐れるように、しがみつかずにはいられなかった。
「取り返しに来てもいいけど、その時は今よりも容赦しない。アンタを完全に敵とみなす」
翔太郎の声には一切の迷いがなかった。
玲奈がこの家を出ることを決めた。
ならば、翔太郎はその意思を何があっても貫く。
それは、凍也の心情を理解していないわけではない。
むしろ、その痛みを誰よりも分かっているからこそ、彼の甘えを断ち切ろうとしているのだ。
「アンタが何を言おうが、玲奈がここを出たいって言う限りは、玲奈を連れて行く」
冷たく言い放つのではなく、ただ事実として突きつける。
「それでも本気で玲奈に申し訳ないって気持ちがあるなら、あいつに深い謝罪をするんだ。それで玲奈が心変わりして残るって言うんなら、俺は何も言わないよ」
凍也の拳が、震えた。
翔太郎の言葉は正論だった。
それでも、心が追いつかない。
──自分は、何をしてきたのだろう。
玲奈を支配し、意志を奪い、自分のそばに置くことで孤独を誤魔化してきた。
それがどれほど愚かだったか、今になってようやく気付いた。
けれど、それでも、手放したくなかった。
今まで玲奈を縛りつけてきたのは、自分自身のためだったのだと、痛いほど分かっているのに。
(……こんな僕が、まだ玲奈を求めようとするのか)
滑稽で、浅ましい。
それでも、妹がいなくなることが、耐えられない。
「……」
そんな凍也を前に、翔太郎は静かに立ち上がった。
ふと、視線を感じて振り返る。
そこに立っていたのは、寝巻きから着替え、真っ白なコートを羽織った玲奈だった。
荷造りを終えたのか、大きな水色のトランクケースを持っている。
彼女の歩みには、迷いはない。
「最終的に決めるのは玲奈だ」
翔太郎はポケットに手を突っ込みながら、肩越しに言った。
「……あとは、兄妹水入らずで話してくれ」
そう告げると、彼は静かにその場を後にしようとする。
凍也は、玲奈に何を言えばいいのか分からなかった。
言葉が、喉の奥に詰まる。
ただ、彼女が旅立とうとしていることだけは、痛いほど理解していた。
そんな彼を横目に、翔太郎は微笑む。
「じゃあな。今度は落ち着いた時にでも遊びにこいよ、凍也」
軽い調子で言いながらも、その声には僅かな温もりが滲んでいた。
翔太郎は凍也の目を真っ直ぐに見つめる。
そこにあるのは同情でも憐れみでもない。ただの同じ兄としての気持ちだった。
「アンタとも──いずれ二人で、ゆっくりしたところで話したいんだ」
今の凍也では、届くはずもない願いを託すように、最後にそんな余計なお世話を残して。
それはきっと、もう二度と交わらない道の上で、兄としての在り方を示すための、ささやかな言葉だった。
♢
「これまでお世話になりました」
頭上から聞いた玲奈の声は、ひどく静かだった。
まるで、ただの礼儀のような響きを持っていた。
凍也はその言葉に、思わず喉が詰まるのを感じた。
今まで、玲奈からそんな言葉を聞いたことはなかった。
「……僕に対して、何も恨みはないのか?」
しばしの沈黙の後、どうにかそう絞り出す。
自分でも浅ましい問いだと思った。
玲奈は、静かに目を伏せる。
「当然、恨みはあります」
はっきりとした口調だった。
その声音には、迷いも躊躇いもなかった。
ただ淡々としていて、それゆえにどこまでも鋭く突き刺さる。
「何度も、何度も、あなたに心を折られました」
玲奈の視線が、真っ直ぐに凍也を捉える。
思わず凍也は息を呑んだ。
「兄さんは昔は優しくて、誰よりも格好良くて、いつも誰かに囲まれていて、内気だった私にとっては自慢の兄でした。──でもあの日を境に、変わってしまった」
玲奈は静かに、ゆっくりと凍也を見つめる。
素質検査で玲奈の才能が凍也よりも上だと判明した時、これまで押さえ込んでいたドス黒い感情が完全に解放された時だった。
「どうしてあんな風になってしまったのか、昔の私はずっと分からなかった。ただ、母が死んだのは自分のせいだと思う事で、兄さんに贖罪を果たしてきたつもりでした」
凍也の表情がわずかに歪む。
玲奈は懸命に兄の言葉を信じた。
兄の背中を追い続けた。
それなのに、向けられるのは冷たい視線と、厳しすぎる命令ばかりだった。
「どんなに頑張っても認めてもらえない。どんなに従っても愛してもらえない」
玲奈の拳が、ぎゅっと握り締められる。
「……それでも、私は兄さんを愛していました」
凍也の肩が、僅かに揺れた。
玲奈は、凍也を憎んでいたはずだった。
何度も、何度も、心を踏みにじられたのだから。
けれど、それと同じくらい──いいや、それ以上に兄を愛していたのも事実だった。
「あなたは、私にとって唯一の家族でした」
幼い頃、優しかった兄も。
冷たくなってしまった兄も。
どれだけ傷つけられようとも、玲奈にとってはただ一人の兄だった。
玲奈の言葉は、冷静さを保ちながらも深い感情に満ちていた。
幼い頃、兄の温かさに包まれていた日々が、今では遠い記憶のように感じられる。
しかし、それでも心の奥底には兄への愛情が眠っていた。
「だから……どんな形であれ、ずっと側にいたかった」
静かな息を吸い込み、玲奈はその思いを胸に秘めていた。
そして、続けた。
「でも、もうやめます」
その言葉が、凍也の心に深く突き刺さった。
「誰かに縛られた生き方じゃなくて……今度は、自分の思う生き方をしてみたいんです」
その瞳は、もう迷いを感じさせなかった。
玲奈の決意が、凍也の胸に重く響く。
「兄さんの命令に従うために生きるんじゃなくて、自分の意志で生きてみたい」
言葉一つ一つに、玲奈の決断の強さが感じられた。
彼女の言葉が、凍也にとっては初めての衝撃だった。
これまで、どれだけ冷たく接しても、どれだけ傷つけても、玲奈は自分に離れることなく従ってきた。
それが当然だと思っていた。
けれど、今——
「誰かの言いなりになってずっと生きて行くなんて……そんなの、生きてるなんて言えないって」
玲奈は穏やかな微笑みを浮かべた。
その微笑みには、何とも言えない切なさと、どこか解放されたような輝きがあった。
「初めて出来たお友達に、教えてもらいましたから」
凍也はその瞬間、何かが崩れる音を感じた。
自分がどれだけ玲奈を縛り続けてきたのか、その事実が痛いほどに胸に迫る。
(……僕は、玲奈に何をしてきた?)
玲奈を縛りつけていたのは、他ならぬ自分だった。
自分が当主であることを強いられたように、玲奈もまた、氷嶺家の娘としての役割を押し付けられてきた。
なのに、自分はその重荷を玲奈に強いることで、家の枷を一緒に背負わせていたのではないか。
(玲奈がいたから、僕は──)
気付けば、拳を握り締めていた。
玲奈がいなくなったら、自分はどうなる?
当主としての責務だけが残り、家の中でただ生き続けるだけの存在になるのではないか?
「……行くのか?」
震える声で問いかける。
玲奈は、静かに頷いた。
「はい」
その一言が、何よりも重く感じられた。
「……そうか」
それ以上、何も言えなかった。
ただ、玲奈の背中が、今までよりもずっと遠くに感じられた。
玲奈の返事を聞いた瞬間、凍也の喉の奥が詰まるような感覚に襲われた。
自分は何をしてきたのか。
今、この瞬間になってようやく、玲奈の気持ちを知った。
(僕は……玲奈を傷つけることしかできなかった)
玲奈は何も責めなかった。
恨みを抱いていると認めながらも、それを乗り越えて自分の道を選んでいた。
「……今まで、すまなかった」
それは、あまりにも小さな声だった。
自分の口から出たのが信じられないほど、掠れていた。
玲奈の足が、ふと止まる。
凍也はただ俯きながら、微かに震える拳を握り締めた。
「……あんな扱いをしても、それでもお前は僕を家族として思ってくれていた。でも……もう遅かったな」
玲奈はゆっくりと振り返った。
「僕は……お前を、ただ縛りつけていただけだった」
その言葉が、どれほどの重みを持つのか、凍也自身が誰よりも理解していた。
「玲奈も、僕にとって唯一の家族だったから」
玲奈は、ただじっと兄を見つめていた。
そして——
「私はあなたを恨んでいるし、正直大嫌いです。それでも、あなたが私の兄だったことは感謝しています」
玲奈は静かにそう呟いた。
その言葉に凍也は顔を上げる。
玲奈の表情は、どこか寂しげで、どこか優しくて。
「……ありがとう、兄さん。最後に家族だって言ってくれて、嬉しかった」
凍也の目がわずかに揺れる。
「だから、もし……いつか、お互い変わることができたら──その時は、また兄妹として会いましょう」
玲奈はそう言い残し、再び歩き出した。
凍也は、その背中をただ見送ることしかできなかった。
──玲奈は、もう二度と振り返らなかった。
この家に引き返すことはもう無い。
奥の門で手を挙げる彼の元へと足を進める。
知らない世界に踏み出すことは怖い。
それでも、隣に彼が居てくれるなら。
きっとその一歩を踏み出すことは、絶対に恐れることじゃないと信じてる。
次回で第一章完結です。