第一章23 『鳴神翔太郎VS氷嶺凍也(後編)』
セカンドオリジン。
それは、一部の異能力者だけが辿り着くことを許された境地。
異能力の根源に眠る潜在領域を解放し、通常の異能力を遥かに凌駕する力を得る。
第二の異能──まさにそう呼ぶに相応しい存在。
セカンドオリジンを発動した者は、通常の異能力者とは一線を画す。
その力は単なる強化ではない。
己の本質を反映した固有の異能が覚醒し、全く別次元の戦闘能力を獲得するのだ。
同じ家系に生まれた者であれば、通常の異能力は属性や系統がほぼ一致することが多い。
しかし、セカンドオリジンによって発現する固有能力は、発動者の人格、精神、そして内に秘めた欲望や執念に強く影響される。
それゆえ、それはどこまでも個としての色を帯び、決して他者が真似できるものではない。
繰り返す。
セカンドオリジンに到達できる者と、そうでない者では、異能力者としての実力に天と地ほどの差が生じる。
それは、圧倒的な領域の差。
才能だけでは越えられない壁であり、異能者の中でも選ばれた者だけが手にする絶対的な力。
氷嶺凍也は、その境地へと至った。
その瞬間、彼の黒髪が雪のように純白へと染まる。
肌は冷気を帯び、淡く光る氷のヴェールに包まれる。
瞳は深淵のような青へと変わり、冷酷な光を放つ。
その姿は、もはや人間ではない。
まるで吹雪に生まれ落ちた雪の亡霊──氷嶺家の血が生み出した、冷厳なる破壊者。
彼が吐く息さえも白く凍え、周囲の空気が軋むような音を立てる。
一歩踏み出せば、足元から氷が広がり、あらゆるものを白く染め上げる。
その存在そのものが、絶対零度の暴威と化していく。
氷嶺凍也──セカンドオリジン、発動。
純白の髪が揺れ、全身が冷気に包まれたその姿は、まるで雪と氷でできた亡霊のようだった。
凍えるような気配が周囲に満ち、地面が軋みながら霜に覆われていく。
翔太郎は、その変貌した凍也をじっと見つめた。
内心、驚きを隠せなかった。
「凄いな。正直ここまでとは思わなかった」
ポツリと呟く。
その声には皮肉も侮蔑もなく、ただ純粋な感嘆が滲んでいた。
まさかここまでの領域に踏み込めるとは──正直、予想していなかった。
「氷嶺家の当主ってのは伊達じゃないってことか」
本音だった。
確かに強い。
今の凍也は、まさしく選ばれた者の領域にいる。
この瞬間だけは、翔太郎は純粋に彼の強さを認めた。
「鳴神くん」
だが──その横で、少女の声が震えた。
瞳が不安に揺れる。
彼女は、知っているのだ。
凍也が本気になった時、どこまでも冷酷になり、自らをも顧みないことを。
「兄さんは本気です」
「ああ。見てれば分かるよ」
「あははははははははははははははっ!!」
玲奈の言葉を遮るように、凍也の狂笑が響いた。
彼の瞳には、もう理性の光など微塵もなかった。
「仕方がない。仕方がない事なんだ、これは。だってそうだろう? 可愛い、可愛い僕の人形を推薦生のゴミクズがこの家から連れ出そうとしているんだ。これは誅罰だ……! 奴を殺したところで氷嶺家の力で揉み消すだけ。そう、これは必要な事なんだ……!」
凍也は自分に言い聞かせるように叫び、顔を両手でかきむしる。
「これは僕が乗り越えなきゃいけない氷嶺家に対する試練なんだ! そうだ、そうに決まってる! そうでなければ、おかしい! 氷嶺家の当主が、あんなゴミクズに遅れを取るなんて……そんな事が許されていい筈がない!」
寒気とともに狂気が膨れ上がる。
その歪んだ執念が、さらに冷気を研ぎ澄ませていく。
「──鳴神翔太郎」
憎悪の声が夜空に突き刺さる。
「今すぐ、お前の存在をこの手で消してやる」
自分に言い聞かせるように、凍也は拳を握る。
視界の全てから翔太郎を抹消するために。
翔太郎はそんな彼を見据え、ゆっくりと息を吐いた。
「なるほどな。確かに面と向かって言われると、ちょっと怖いな」
その口元には、どこか楽しげな笑みが浮かんでいる。
淡々とした声。
だが、微塵の怯えもない。
隣にいる玲奈が不安げに翔太郎を見た。
しかし、彼の目は相変わらず冷静で、揺らぐことはなかった。
「セカンドオリジン、大した力だ。アンタまじで凄いよ。俺の実家でも発動できたのは陽奈だけだ。あの親父や兄貴たちですら使えなかった」
翔太郎は、ふっと肩の力を抜いた。
「でも、だからって俺が負ける訳じゃない」
玲奈の胸が、一瞬で軽くなった。
彼の言葉には、根拠のない自信など一切なかった。
ただ、事実として負けないと言い切っているだけ。
小さく息を吐き、強張っていた手を胸元で握りしめた。
信じられる。
この人なら、どんな相手でも──あの兄にだって、絶対に負けない。
「決着つけようぜ。氷嶺凍也」
翔太郎が一歩前に出る。
その言葉は、まるで宣告だった。
この狂気に支配された戦いに、確かな結末をもたらすための──決定的な宣告だった。
♢
夜空を貫く雷鳴の光。
そして、夜空を凍て付かせる死の氷結。
戦場は、二つの異能によって完全に塗り替えられた。
「殺してやる」
凍也が右手を翳した瞬間、空気が凍てつく音が響き、世界が凍る。
視界に捉えたその瞬間、全てを凍りつかせる絶対の支配力。
空気が氷の結晶へと変わり、純白の光の柱が翔太郎を包み込もうとする。
──氷嶺凍也の固有能力『絶対零度』。
彼の目が捉えた空気中の水分が即座に凍結し、純白の光の柱となって翔太郎を包み込んだ。
まるで氷の監獄。
いや、それ以上だ。
この一撃を受けた瞬間、細胞すら瞬時に凍結し、死に至る。
視界に捉えた瞬間、即座に氷結する死の領域。
息すら凍るその異能に、逃げ場など存在しない──はずだった。
「行くぞ」
電撃の奔流が炸裂する。
凍りつくはずだった空間に、突如として雷が弾けた。
次の瞬間、翔太郎の姿がそこから消え去る。
「──見えてるんだよ!お前の動きの全てが!」
凍也が怒号を上げ、更に周囲の温度を急激に落とす。
この場全てを、ただの冷気ではなく絶対零度に引きずり込むつもりか。
中庭の地面が一瞬で氷漬けと化し、空気そのものすら凍結する。
しかし──完全に凍結する寸前で、雷閃がその場を走り抜けた。
雷の軌跡が、縦横無尽に戦場を駆け巡る。
翔太郎の動きは、もはや視認できる領域を超えていた。
まるで稲妻が瞬くように、彼の姿は現れては消える。
──これは、雷を纏った超高速の戦闘スタイル。
凍也の視界が届く前に、翔太郎は既に別の場所へ移動している。
凍也の目が僅かに揺れる。
しかし、彼はすぐさま行動に移った。
次の瞬間、空間そのものが震え出す。
「逃げられると思うなよ」
凍てついた白銀のオーラが溢れ出す。
凍也の指先がわずかに動くと、氷塊が地面から隆起し、急速に形を成していった。
それは──巨大な氷の怪物。
西洋の伝説において、グリフォンと呼ばれる幻獣だ。
しかも、先程の氷狼の三匹よりも更に数が増え、咆哮と共に五体のグリフォンが出現した。
氷狼よりも更に巨大で、荒々しく、冷気を撒き散らしながら翔太郎を追う。
「さっきよりも図体がデカくて、数も多いな」
翔太郎がため息混じりに呟く間にも、氷のグリフォンたちは一気に間合いを詰める。
その鋭い氷の翼が空間を切り裂き、獲物を逃がさぬように包囲する。
雷閃が身体中を奔る。
地を蹴った少年は、凍り付いた庭園を稲妻となって駆け抜けた。
「殺せ!」
凍也が叫ぶと同時に、五体のグリフォンが一斉に口を開いた。
そこから放たれるのは、超圧縮された氷嵐。
「僕の固有能力の攻撃範囲はこの視界の全てだ。この力を発動させる前に、勝負を付けるべきだったな!」
翔太郎が逃げた先には、地面から先回りして氷の柱を生み出そうとしていた。
──逃げ場を潰す包囲攻撃。
「やべっ……!」
翔太郎の脳裏に警鐘が鳴る。
これは、ただの氷の造形ではない。
凍也は敵を視界に捉えた瞬間に絶対零度を発動する。
つまり、翔太郎の速度を計算し、逃げ場すら封じる冷気を放っているのだ。
速度だけでは、突破できない。
「だったら──力づくで抜けるまでだ!」
翔太郎の全身が、一瞬で雷光に包まれる。
次の瞬間、稲妻が爆ぜた。
翔太郎は真っ向から、氷嵐を突き破るべく飛び込む。
「調子に乗るなああああああああッ!!!!」
凍也が叫び、さらに冷気を強める。
五体のグリフォンが咆哮し、空間ごと翔太郎を封じようとする。
「疾風迅雷」
雷閃の時よりも更に速度が上昇する。
五体のグリフォンが放つ、絶望的な氷の礫を軽々と飛び避けて、その先で手を翳しこちらを睨みつける凍也へと瞬時に近付いた。
「──は?」
翔太郎の姿が消えた。
苛立ちに満ちた咆哮と共に、凍也は一気に拳を振るう。同時に氷の衝撃波が、周囲一帯を粉砕するかの如く解き放たれる。
雷鳴が轟く。
「──雷閃!」
次の瞬間、翔太郎の拳が炸裂した。
凍也の防御氷壁を、雷光の拳が粉々に打ち砕く。
一瞬の衝撃。
それは凍也にとって、理解を超えた速度だった。
「がっ──!?」
雷速の突撃。
そして、打ち込まれた拳の余波で凍也の体が後方へ吹き飛ぶ。
全身を冷気で覆っていた彼すらも、その一撃の重さに驚愕せざるを得なかった。
後方へと吹き飛ばされた凍也は、白のロングコートを泥に染めながら地面を何度も転がった。
荒い息を吐きながら膝をつき、震える足で立ち上がる。
その姿は、執念の塊だった。
そんな彼を見下ろしながら、翔太郎は冷静に呟いた。
「セカンドオリジンを使えるとは思わなかった。正直、驚いたよ」
その言葉の瞬間、凍也が作り出していた五体のグリフォンが空中で爆散する。
強すぎる異能力は消耗も激しく、コントロールも難しいことを物語っていた。
全身が痛む。
肺が焼けるように熱い。
だが、それ以上に胸の奥を焼き尽くすような感情が渦巻く。
恐怖。
彼の力は確かに凄まじい。
どれだけ冷気を操ろうと、雷の速さには追いつけない圧倒的な差があった。
凍也は思わず、歯を食いしばる。
「でも……使い慣れてる感じはしないな。力のバランスが崩れてる」
図星だった。
制御しきれない。
手にした力に自分が追いついていない。
通常時よりも遥かに強くなった筈なのに、彼の前ではまるで無力だ。
「アンタの努力は認めるよ。零凰学園の高校生たちとは比べ物にならないくらい強い。今は十傑の玲奈よりも確実に上だろうな」
言葉だけを聞けば、それは称賛だった。
だが、翔太郎の余裕を崩さぬ態度が凍也の胸に釘を打ち込む。
「でも、いずれ玲奈の方が強くなるぞ。一回玲奈の能力を見てるから分かる。元から十傑なのに、才能が開花すれば、間違いなく将来はS級能力者になる」
その一言が、凍也の表情を凍りつかせる。
全身に張り巡らされた神経が一斉に騒めいた。
──違う。そんなことはない。
視界がぶれる。
全身が強張る。
何かが胸の奥で暴れ出しそうだった。
目を見開き、憎悪と殺意が渦巻く視線で翔太郎を睨みつける。
その奥には焦燥と恐怖が滲んでいた。
「アンタは怖がってたんだろ? いずれ自分の実力が妹に追い抜かれる事が」
自分がずっと目を逸らし、心の奥底に封じ込めていた不安。
誰にも気取られないように、誰にも見透かされないように、自分自身ですら認めないようにしていた感情。
翔太郎はそれを、あまりにも簡単に言い当てた。
「だから玲奈を虐げた。自分の優位性を確かめるために。彼女が自分より強くならないように、ずっと押さえつけていた」
(──やめろ)
「でも、無理だろ。アンタの努力は凄い。でも玲奈は──生まれつき才能が違う」
(──違う、違う、違う!)
玲奈は弱い。
玲奈は愚かだ。
玲奈は──自分の人形で、自分よりも下の存在でなければならない。
でなければ、氷嶺家の当主としての存在価値が──。
心臓が嫌な音を立てて跳ねた。
胸の奥に隠していたはずの不安が、黒い影となってせり上がってくる。
違う。そんなはずはない。
玲奈は、氷嶺家の継承者としての器を持たない。
あの才能がどうだろうと、氷嶺家の当主としての努力を重ねてきたのは自分だ。
それを、こいつに──こんな子供に、たった数分の戦闘で見抜かれた?
「……黙れ」
言葉が喉に詰まる。
だが、否定しなければならなかった。
「玲奈はアンタが十年かけて積み上げたものを、たった一年で追いつけるようなやつなんだよ」
突き刺さる言葉。
体が震える。視界が揺れる。
冷気すらまともに操れなくなった気がした。
そんなわけがない。
玲奈が自分より上に立つなど、あってはならない。
なのに──今、翔太郎の言葉が、自分の奥底にあった恐怖を、はっきりとした形で浮かび上がらせた。
玲奈は才能がある。
認めたくないのに、心のどこかで、それを知っていた。
だから、ずっと虐げた。
だから、ずっと押さえつけた。
──認めた瞬間、自分の存在意義が崩れ去るから。
それが怖かった。
それだけは、絶対に許せなかった。
「黙れと言っている!」
凍也の怒声が戦場に響き渡る。
それはまるで、己の心の内を暴かれたことに対する悲鳴のようだった。
けれど──
「アンタは俺と同じだ」
「──は?」
翔太郎の声が、驚くほど柔らかくなった。
その変化に凍也は思わず顔を上げる。
今まで頭を抱えて絶叫していた彼の瞳が、戦意ではなく動揺に揺れた。
「俺も同じだ」
翔太郎の声は、静かに降り積もる雪のように穏やかだった。
「一つ下に才能のある妹がいた。異能力は誰よりも強かったのに、心は誰よりも弱くて脆かった」
「────っ」
脳内に警鐘のようなノイズが鳴る。
聞きたくない。
聞いてはいけない。
そんなモノが分かる筈がない。
「俺は、アンタの気持ちが分かるよ」
翔太郎がそう優しく告げた瞬間、空気がひび割れる音がした。
凍也の周囲の冷気が一気に舞い上がる。
「──ふざけるな」
声が掠れる。
震えていたのは、手か、足か、それとも──心か。
「……」
「お前に、お前なんかに、僕の、僕の何が分かるって言うんだぁぁぁぁぁぁぁぁ!!!」
夜空に響く絶叫。
同時に、空間が凍てつく。
気温が一瞬にして急激に低下し、空気中の水分が音を立てて凍りついた。
それでも翔太郎の表情は揺るがなかった。
「──だって、俺も内心では陽奈を羨ましいって思ってたから」
静かな言葉が、決定的な真実を孕んでいた。
ずっと思ってた。
ずっと言いたかった。
ずっと、羨ましかった。
──確かに、翔太郎は陽奈を愛していた。
鳴神家で翔太郎の存在を認めてくれたのは、妹ただ一人だった。
だが、陽奈と一緒にいる時、翔太郎は嫌でも劣等感を感じずにはいられなかった。
歴代最弱の落ちこぼれと、歴代最強の当主。
とてもじゃないが、釣り合わない。
いつも見上げるばかりで、無意識に距離を取っていたのかもしれない。
──だから陽奈に連れ出して欲しいと言われた時も。
──鳴神家に残って欲しいと言われた時も。
翔太郎は曖昧な笑みを浮かべて答えを濁した。
妹と一緒にいると、自分の存在価値が揺らいでしまうから。自分は本当に必要な存在なのかと、嫌でも向き合わなければならないから。
だから、氷嶺凍也は自分と同じだ。
彼は──有り得たかもしれない鳴神翔太郎なのだ。
「お前が、僕と同じ……?」
その言葉を噛み締めるように、凍也が唇を震わせる。
有り得ない。
絶対に有り得ない。
この男が、自分と同じだというのか。
「ああ」
翔太郎の返答は、あまりにも静かで、あまりにも確信に満ちていた。
その瞬間、凍也の顔が憎悪に歪む。
強烈な怒りと殺意。
そして──底知れない恐怖が滲んでいた。
違う。違う。違う。
この男に理解されたくない。
この男に共感なんてされたくない。
──それを認めた瞬間、自分という存在が崩れてしまうから。
轟音と共に、凍也の全身から極寒の冷気が爆発的に噴き出した。
視界が白に染まり、空間そのものが軋みを上げる。
その身を包むのは、絶対零度。
物理法則すらねじ伏せ、空間そのものを凍てつかせる究極の氷結能力。
凍也の瞳には、もはや何の感情も映っていなかった。
憎悪も、怒りも、そして──絶望すらも、凍りついていた。
「もう、いい……」
凍える夜の空に、静かな声が落ちる。
「お前は、もう僕に何も話さなくていい」
感情を殺したような低い囁きだった。
それはまるで、縋るように、縋ることすら許されない自分を拒絶するように。
──憎悪と、拒絶と、恐怖。
すべてを乗せた最後の異能力。
氷嶺凍也が、自分自身の存在証明を賭けた全身全霊の一撃だった。
「──消えろっ!!!」
刹那。
世界が凍った。
空気が凍結し、時間すら止まったかのような錯覚に陥る。
白い世界。
無機質な冷気。
まるで命の気配すら存在しない、静寂の世界。
だが──
「──雷閃」
雷鳴が轟く。
黄金の光が、凍てついた世界を引き裂くように奔った。
翔太郎の体を包む雷が、爆ぜるように炸裂する。
その一閃は、夜の闇を貫き、金色の閃光が絶対零度の凍気に激突した。
──蒼白い氷と、黄金の雷。
相反する二つの力が激突する。
天地が震え、大気が悲鳴を上げる。
刹那、凍りついた戦場に無数の亀裂が走り、雷が光の奔流となって炸裂する。
「ぐああああああああああああっっ!!」
雷光が氷を砕き、吹き飛ばし、そして貫く。
圧倒的な閃光の中で、凍也の体が弾かれるように崩れ落ちた。
力尽きた彼の体が、ゆっくりと地面に沈んでいく。
翔太郎は、静かにその姿を見下ろしていた。
そして──凍也が意識を手放す直前。
翔太郎は、ただ真っ直ぐに言葉を紡いだ。
「どんなに辛くても、どんなに苦しくても──」
家族と向き合うことを避け続けた、かつての自分への戒めのように。
それでも逃げなかった今の自分への誓いのように。
「いつかは、向き合わなきゃいけない」
凍也の瞳がわずかに揺れる。
その表情には、憎しみよりも、痛みが滲んでいた。
翔太郎は、その姿を見つめながら、静かに続ける。
「どれだけ逃げても、どれだけ否定しても……家族は消えない」
家族の存在は、誰よりも重い。
時に苦しく、時に疎ましく、時に憎しみすら抱いてしまう。
だが、それでも──
「本当は、お前も分かってるはずだ」
凍也の指が、かすかに震えた。
「お前は玲奈を否定し続けた。でも、それはお前自身を守るためだった」
玲奈が自分の想像を超えてしまうことを、認めるのが怖かった。
自分の積み上げてきたものが、ただの自己満足に過ぎなかったと気づくのが、怖かった。
「だから、玲奈の成長を見ようとしなかった。受け入れようとしなかった」
翔太郎の声は、冷たくそれでいて優しかった。
「だけどな。本当の強さっていうのは、誰かを無理矢理押さえつける事なんかじゃない」
凍也の意識が朦朧としながらも、翔太郎の言葉に引き寄せられる。
「お前が本当に玲奈をこの家に置いておきたかったなら、分かってくれよ。玲奈が今までどんな思いでアンタの妹であり続けたのか」
守るべきものは、ただの人形ではない。
玲奈はもう、自分で歩き出していたのだ。
翔太郎は、雷が過ぎ去った夜空を見上げ、そっと息を吐いた。
「俺もずっと怖かったよ。妹の才能に圧倒されるのが」
苦笑するように、静かに続ける。
「でもな、一人で生きてからやっと分かったんだ。妹が強くなることは、決して悲しむことなんかじゃない。異能力は誰かを守るために必要な力だ。だったら、家族としてきっと誇りに思うべきなんだと思う」
それは、誇りに思うべきことなんだと。
翔太郎は静かに言葉を紡ぎながら、最後の一歩を凍也に踏み出した。
目を見据え、まるで自分の想いをそのままぶつけるかのように、声を絞り出す。
「だって──玲奈は、お前にとって、たった一人の妹なんだろ?」
静かに紡がれた言葉が、夜の闇に溶けていく。
それは、拒絶することも、切り捨てることもできない、絶対の真実だった。
凍也の体が音もなく膝をつく。
彼の胸に残ったのは痛みか、それとも安堵か。
──最後に見た景色は、果たしてどんな色だったのか。
夜空には、雷が過ぎ去った名残の閃光が、儚く瞬いていた。