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雷鳴のラストピース  作者: 雨車狸
第一章 『氷結のマリオネット』
29/93

第一章21 『鳴神翔太郎VS氷嶺凍也(前編)』

 翔太郎に手を引かれ、屋敷の廊下を進む。

 躊躇いも迷いも、あの部屋で一度全て捨てたはずなのに。


(……さっきから、胸の奥が何かおかしいです)


 手を繋いで屋敷を進んでいる間、頭の中では先程の彼とのやり取りが何度も繰り返される。


 ──私をここから連れ出して。

 まるで童話のヒロインが王子様に助けを求めるような、そんな台詞を自分の口から言ってしまった事実が信じられなかった。


 どこか顔が熱い。

 彼に手を繋がれていることに、今更ながら意識が向かう。指先から伝わる温かさが、余計に心臓を早鐘のように打たせた。


「急ぐぞ、玲奈」


 翔太郎の声が現実へと引き戻す。

 けれど、どうしても彼の顔が見られない。

 鼓動がうるさくて、どうにかなりそうだった。


「……は、はい」


 上手く声が出ない。

 別に歩いてるだけなら、手を繋いでいなくたっていい筈だ。だけど翔太郎はまるで無意識に、迷子の手を引くように玲奈の手を離さない。


 彼と二人で、屋敷の外へと一直線に進んでいた。

 だが──ここまで歩いて来て、奇妙なことに気付く。


「……護衛がいない?」


 翔太郎が小さく呟く。

 玲奈もまた、違和感を覚えた。


 本来なら、氷嶺家の屋敷を抜け出すことなど不可能なはずだった。

 この屋敷の敷地に一歩でも入れば、厳重な警備の目が光り、家の者以外の侵入者を即座に排除する。

 ましてや、氷嶺家の娘が無断で外へ出ようとすれば、それこそ屋敷中が騒然となるのが当然だった。


 ──なのに、今は驚くほど静かだ。


「入って来た時は、結構な人数がいたんだけどな」


 先程まで屋敷の廊下を警戒していた護衛たちが、まるで幻だったかのように姿を消している。


 足音も気配もない。

 それはあまりに不自然で、何かの意図すら感じさせる静けさだった。


(まるで──誰かが意図的に道を開けたみたいだな)


 もしこれが、二人が何事もなく屋敷を出るための計らいなのだとしたら、それに越したことはない。

 けれど、それと同時に得体の知れない不安が心に広がる。


「まあ良いか。誰もいないなら、堂々と行こうぜ」


 翔太郎は特に気にする様子もなく、玲奈の手を引いたまま正面玄関へと向かった。

 その頼もしさに、玲奈の胸がかすかに温かくなる。

 不安を抱えながらも、彼の後についていくしかなかった。




 ♢




 やがて二人は、中庭の噴水広場へと出た。


 夜の帳が屋敷を包み、月明かりが水面を静かに揺らしている。

 敷石が敷き詰められた広場には、二人の足音だけが響く。

 静寂に満ちた夜の庭園。


 ──しかし、そこに異質な影があった。


 噴水の縁石に腰掛ける、一人の男。

 白のロングコートを纏った長身の人物が、足を組み、余裕すら漂わせながらこちらを見つめていた。

 黒髪が月光に照らされ、鋭い瞳が玲奈を捉える。


 冷たい。

 その視線はまるで、冬の夜風よりも冷たいように感じさせる。


「何処に行くのかな?」


 静かに響いた声が、玲奈の体を強張らせる。

 知っている声。

 避けたかった声。

 それは彼女の兄──氷嶺凍也のものだった。


「玲奈。お前に、外出の許可は出していない」


 心臓が跳ねる。

 まるで鋭い氷の刃が突きつけられたような声音。

 そこには、家族としての情も、優しさも、何一つ感じられなかった。


(見つかった……!)


 ぎゅっと翔太郎の手を握る。

 寒さではない。

 恐れに、震えそうになる指先を隠すように。


「──兄さん」


 どうして、ここに。

 どうして、こんな静かに待っていたの。

 玲奈の胸に浮かぶのは、疑問よりも恐怖だった。


「君にも忠告はしたんだけどね。鳴神翔太郎」


 次の瞬間、凍也の視線が翔太郎に移る。

 玲奈を見ていたときとは違う、まるで興味のないものを見るかのような、無機質な眼差し。


 表情は完全に消え去っていた。

 そこには怒りも苛立ちもない。

 ただ冷たく、淡々とした視線が、静かに翔太郎を見つめている。


 その無表情が、余計に不気味だった。

 まるで、ここにいることすら取るに足らないと言わんばかりの無関心。


 けれど、その中に潜む圧倒的な威圧感が、空気を一変させる。

 氷嶺凍也という男が、ただの兄ではないことを痛感させる沈黙。

 玲奈の心が、冷たい手で締めつけられる。


 翔太郎の指が、僅かに動く。

 玲奈は無意識に、その感触を求めるように手を握り返した。


「どうするんですか……?」


 震える声で、彼を見上げる。

 兄の前では、自分は何もできない。

 何を言っても無駄だと、ずっと思い込んできた。


 でも──


「大丈夫。全部、俺に任せときな」


 そう言って、翔太郎は彼女の手を包み込むように握った。


 玲奈の世界に、温もりが差し込む。

 兄の冷たさとは対照的な、揺るぎない熱。

 その言葉に、ほんの少しだけ──希望が見えた気がした。


「見て分かんないか? 今からアンタの妹を連れ出す。急な話にはなるが、玲奈は自立して実家を出るって言うんだ。むしろ妹の成長に喜んでやるべきだろ」


 翔太郎は堂々と言い放ち、玲奈の手を離さない。

 凍也の冷たい眼差しを正面から受け止めながら、一歩も引く気はなかった。


「そんな必要はない。僕が一度でも玲奈に許可をしたのか?」


 凍也の声には一片の感情もない。

 まるで玲奈の意志など最初から存在しないかのように、当然のように否定する。

 玲奈は兄の視線をまともに見れず、ただ翔太郎の手の温もりを頼りに立ち尽くしていた。


「玲奈の行動に、いちいちアンタの許可が必要なのか?」


「当たり前だ。僕は氷嶺家の当主で、玲奈は氷嶺家の人間だ。当主たる僕の命令に玲奈が従うのは当然だろ?」


(……また、これだ)


 玲奈は奥歯を噛み締めた。

 昔からずっと、この家では兄が絶対だった。

 彼が言えば、氷嶺家の誰もが従うのが当たり前。

 兄から直接そう教えられてきたし、玲奈自身もそうするものだと諦めていた。


 けれど──氷嶺家の人間ではない、翔太郎は違う。


「じゃあ玲奈の行動じゃなくて、俺の行動って事にするわ」


「──は?」


 凍也が眉をひそめる。


「今から俺が玲奈を連れ出す。これは俺の意思であって玲奈の行動じゃない。そういう事ならそこを通ってもいいだろ?」


 言いながら、翔太郎はまるでふざけた冗談を言うような調子で肩をすくめた。

 玲奈は思わず彼を見上げる。


 そんな屁理屈が、兄に通る訳がない。


 兄を前にして、こんなにもはっきりと歯向かう人間を見たことがなかった。

 今までは誰もが兄の言葉に従い、反論することすら許されない空気だったのに、翔太郎はそれを気にする様子すらない。


「君は、自分が何を言っているのか分かってるのか?」


 凍也が低く問いかける。

 その声音には、少しの苛立ちが混じり始めていた。


「勿論。だって玲奈は氷嶺家の人間だから、当主の命令に従うしかないんだろ。俺は氷嶺家の人間じゃないから、アンタの命令に従う気はない。玲奈は──俺がここから連れて行く」


 煽るように言い放ったその台詞。

 それを聞いた瞬間、今まで冷静さを保っていた凍也の額に青筋が走る。


 玲奈は思わず息を呑む。

 兄がこんな風に感情を露わにすることは、滅多にない。

 それだけ、翔太郎の言葉が彼の逆鱗に触れたということだった。


「初めて会った時から、何となく分かってはいたが──どこまでも勝手な人間だな……お前は!」


 凍也が激昂する。

 これまで静かに言葉を交わしていた彼が、感情を剥き出しにして声を荒げた。


「玲奈の事情を知っているんだろ? 僕の妹は氷嶺家を他の名家と関係を繋ぐ大事な許嫁なんだよ。全く無関係のお前が、名家のしきたりに口を出す事は──」


「そんなの知らねぇよ。俺は氷嶺家の人間じゃないって言ってるだろ」


 バッサリと切り捨てるような翔太郎の声が、広場に響いた。

 まるで、凍也の言葉なんてどうでもいいとでも言うように。


「玲奈は俺が連れて行く。アンタの意思は関係ない。さっき二人で決めた事だ」


 決定事項だ、と言わんばかりの確固たる宣言。

 玲奈はその横顔を見つめ、心臓が強く跳ねるのを感じた。


「……お前は氷嶺家の人間だ」


 凍也の視線が玲奈へと向けられる。

 先ほどまで翔太郎に向けていたものとは違う。

 より鋭く、冷たく、そして圧倒的な威圧感を伴う眼差し。


「ここまでお前を育てて来た僕と、たった三週間の付き合いの彼。どちらについて行くかは考えるまでも無いだろう?」


 低く淡々とした声。

 だが、それは玲奈にとって何よりも強い縛鎖となった。


 玲奈の心臓が強く跳ねる。

 足元から力が抜けていくような感覚に襲われた。


(兄さんの言う通り、なのかもしれない)


 どれほど理不尽でも、どれほど苦しくても、玲奈はこの家で生きてきた。

 自分に無関心な父と死んだ母を除いては、凍也だけが唯一の家族だった。

 どんなに冷たく突き放されても、どれほど厳しく叱責されても、それが当たり前だと思い込もうとしていた。


 ──否、そうするしかなかった。


 罵倒されたこともあった。

 役立たずの出来損ないと言われたこともあった。

 氷嶺家の名に泥を塗るような真似をするなと、何度も何度も言い聞かされた。


 玲奈が感情を見せると、暴力を振るわれた。

 表に出ないように計算された、服の下に隠れる傷跡。

 凍也にとってそれは躾でしかなかったのかもしれないが、玲奈にとっては、ただただ恐怖だった。


 凍也の言葉が、玲奈の体を縛りつける。


(私は……結局、ここから出ることなんて、できないの?)


 無意識の内に握っていた翔太郎の手から、力が抜けそうになる。

 けれど、次の瞬間──翔太郎の手が、玲奈の手をぎゅっと握り直した。


 玲奈は驚いて彼を見上げる。

 翔太郎は、そんな彼女の不安を見抜いていたかのように、いつもの無邪気な笑みを浮かべていた。


 まるで、大丈夫だよと言うように。

 まるで、恐れることはないと伝えるように。


 ──温かい。

 確かに今、凍えるような過去に絡め取られそうになっていた玲奈を、彼の手が引き戻してくれた。




『嫌なことは嫌だって、はっきり言っていいんだよ』


 先程、彼が言ってくれた言葉が、玲奈の脳裏に蘇る。


『そんなの……っ。私は氷嶺家の──』


 そう言いかけた玲奈の記憶の中で、翔太郎は笑っていた。

 真っ直ぐで、迷いのない瞳をしていた。


『だって玲奈は氷嶺家の操り人形なんかじゃなくて、氷嶺玲奈っていう一人の人間だろ?』




 玲奈の心が、揺れる。

 これまで押し殺してきた感情が、沸き上がる。


(私は、兄さんの操り人形なんかじゃない)


 玲奈はぎゅっと唇を噛む。

 そして、ゆっくりと凍也を見た。


「突然の話で申し訳ありません、兄さん」


 兄に逆らうことは、玲奈の中では決して許されないことだった。

 それでも──。


「これから私は鳴神くんと共に、この家を出ていきます。縁談の件ですが、今から氷嶺家を出るので、今回は無かったことにしてください」


 静かに、けれどはっきりと。

 まるで自分自身に言い聞かせるように、玲奈は言葉を紡ぐ。


「今まで──お世話になりました。当主様」


 この言葉を口にした瞬間、玲奈は確かに、自分の殻を破った気がした。

 翔太郎の手の温もりを感じながら、二度とこの家に縛られないと決めた瞬間であった。




 次の瞬間──凍也の背後にあった噴水が、一瞬にして凍りついた。




 澄んだ水が砕ける音もなく、ただ静かに氷と化す。

 それだけではない。彼が座っていた縁石から半径三メートルの地面までが、まるで極寒の地に変わったかのように白く凍りつく。


「「──っ!」」


 異能力の使用──その発動を目の当たりにした瞬間、翔太郎と玲奈の顔が一気に警戒心を帯びる。


「これだけ言っても、まだ分からないか」


 低く、冷たい声。

 まるで冬の風そのもののような、凍てつく響き。


「お前に意思なんて聞いていない。僕は今、言外に命令したんだ。僕に従えと」


 氷嶺凍也。

 これまで無表情を貫いていた彼の顔が、ついに禍々しく歪む。

 一歩、また一歩と近づくたび、踏みしめた敷石が青白く染まり、凍りついていく。

 その光景を目にした瞬間、翔太郎は確信する。


(──確かに強いな)


 A級能力者と言われるだけの事はある。

 夜空の革命ほどの規格外ではないにしろ、確かな実力を持つ異能力者。

 玲奈がこれまでずっと兄に逆らえなかったのは、ただの恐怖や自己肯定感の低さだけではない。

 実力においても、彼女は兄を超えることができないと、心のどこかで諦めていたのかもしれない。


「自分が無責任だとは思わないのか?」


 兄の冷たい声が、噴水広場に響く。


「お前のせいで、氷嶺家にどれだけの損害が出ると思う? 縁談が決まって喜んでいた親戚や使用人の奴らもさぞ悲しむことだろう」


「────っ」


 玲奈の表情が凍りつく。

 兄の声が、幼い頃から何度も聞かされてきた氷嶺家の為という言葉が、玲奈の胸を締めつける。

 例えどんなに嫌でも、氷嶺家のためなら仕方がない。

 これまではそう思ってきた。


「そうだろ、玲奈ぁ!」


 凍也の足が敷石を強く踏みしめると、凍結した敷石から鋭い氷の礫が勢いよく飛び出した。

 凍った空気を切り裂き、玲奈の胸元へと一直線に迫る。その隣に立つ翔太郎の存在など、一切考慮していない攻撃であった。


 玲奈の背筋に悪寒が走る。

 この技は知っている。

 異能訓練の名の下に、何度も何度も繰り返し、体を傷だらけにした技。

 兄に従えなければ、何度でも打ち据えられる──。


 逃げないと。

 玲奈の本能が警鐘を鳴らす。


 だが、もう逃げる必要はなかった。

 ──氷の礫は、玲奈に届いていなかった。


「いや、無責任なのはアンタだろ」


 静かな、それでいて強い声。


 次の瞬間、バチッという鋭い音とともに、氷の礫が粉々に砕け散った。

 翔太郎の右手から放たれた紫色の雷撃が、氷の槍を完全に吹き飛ばしたのだ。


「なっ──」


 凍也の顔に僅かな動揺が走る。


 信じられないものを見るような目。

 まさか、翔太郎如きにこの攻撃が防がれるとは思っていなかったのだ。


 彼の中で翔太郎の存在は、推薦で編入してきた無名の学生に過ぎなかった。

 確かにランキング17位の雪村をあしらう程度の実力はあるかもしれないが、それも学生レベルの話。

 自分のように、政府からの異能力案件をこなし、実戦経験を積んでいる者とは、天と地ほどの差があるはずだった。


 ──それなのに。


「氷嶺家に損害が出るって、なんで当主でもない玲奈に責任転嫁してるんだ?」


 静かに、それでいて確かな圧を持った声が、冷えきった空気を揺らす。


 凍也の眉がわずかに動く。

 苛立ちを煽られるような、嫌な感覚が胸を刺した。


「氷嶺家の当主は玲奈じゃなくて、アンタなんだろ?」


 翔太郎の視線が凍也を射抜く。

 真っ直ぐな言葉が、重く鋭く突き刺さる。


「氷嶺家を何とかするのは玲奈じゃなくて、アンタなんだよ。家を出るって決めた玲奈に、もう家の事情なんか知ったことじゃない」


 玲奈の肩がビクリと震えた。

 隣で紡がれる言葉は、あまりにも正論で、あまりにもまっすぐだった。


 ずっと、家を守らなければ、家の為に身を粉にしなければ。

 そうしなければ、父も、親戚も、使用人も、当主の兄すらも困ると思っていた。


 それが義務で、当然のことで──けれど今、翔太郎は当たり前のように言った。

 氷嶺家を背負うのは自分じゃない。

 本来、それを担うべきは当主である兄なのだと。


「それに氷嶺家が他の名家との強いコネクションが欲しいんなら、親族の許嫁なんて古典的な手に頼らず、アンタが上手く立ち回れば良いだけの話だろ」


「──っ!」


 凍也の眉間に、はっきりと皺が寄る。

 言葉を返そうとしたが、喉の奥が妙に詰まった。


(部外者の糞餓鬼が……)


 玲奈の縁談が決まったからこそ、家は安定する。

 玲奈がいなければ、血筋も家格も危うくなり、周囲の評価も地に落ちる。

 それを回避するために、自分は最善を尽くしてきたはずだ。


 それなのに──上手く立ち回ればいい、だと?


 ふざけるな。

 血筋の責任を一人で負えるわけがない。

 この家を継ぐことの重圧も、しがらみも、何も知らない部外者が。


「そうだな。ただ一つ言えることは──」


 言葉を遮るように、翔太郎が続ける。

 その視線が、凍也の奥底を貫くように、鋭く、そして真っ直ぐだった。


「アンタは、当主として自分が負うべき責任を玲奈に押し付けている。玲奈の自由を奪って、人形にして、当主ぶってるだけの──ただの子供だ」


 その瞬間、玲奈は息を飲み、凍也の眉間の皺が深く刻まれた。


「最後の切り札が妹の縁談頼りな辺り、当主としての責任感の欠片も無いじゃないか。本当に氷嶺家の当主としての自覚があるんだったら、そのぐらいアンタ一人で何とかしてみせてから、玲奈に偉そうなこと言えよ」


 一瞬、沈黙が降りる。


 突きつけられる現実。

 言い返せないほどに、あまりにも明白な事実。


 凍也の手が、無意識に拳を握り締める。

 指の関節が音を立てるほどに力がこもり、凍気がその手の周りを漂う。


 苛立ちが募る。

 胸が、喉が、妙にざわつく。


 母が死に、父がやさぐれたあの日から、自分がこの家を背負うと決めた。

 厳格な家訓を守り、名家としての格式を維持するため、必死にこれまで立ち回ってきた。

 何もしていない、母の最大の死因である憎たらしい妹は、ただ何も考えずに自分に従っていれば良かっただけの筈だ。


 ──それなのに、この男は。


「お前は──」


 目の前の男は、すべてを無意味なもののように言い放つ。

 玲奈の人生を決めるのはお前じゃない、と。

 氷嶺家の責任を負うのは玲奈じゃなく、お前だと。


 まるで、努力してきたことが無駄だと言われているようで──。

 まるで、家を守るためにしてきたことが間違いだったと言われているようで──。


(間違い……? この僕が……?)


 胸の奥に、言いようのない怒りが込み上げる。

 爪が食い込むほどに拳を握りしめ、歯を食いしばる。


 ──だが、それ以上に。


 心のどこかで、翔太郎の言葉が正しいことを理解してしまった自分に気付く。


(違う。僕は……)


 家を守ると言いながら、玲奈にばかり負担を押し付け、

 家の将来を安定させると言いながら、自分の立場すら自分でどうにかできない。


 自分こそが、この家の最大の()()()()なのではないのか?


(違う、そんな筈はない)


 だが、思考を否定すればするほど、翔太郎の言葉が胸に突き刺さる。


「黙れ。部外者のお前に氷嶺家の何が──」


「いいや黙らない。俺は氷嶺家の人間じゃないけど、玲奈の友達である事には変わりない。友達が明らかに嫌がってる事は俺も一緒になって物申すって決めたからな」


 凍也は自分でも驚くほど、掠れた声が出た。

 だが、それでも翔太郎の口は止まらない。


「はっきり言って、アンタ凄いムカつくよ。マジで」


 初めて会った時からこの男が気に食わなかった。

 妹を縛り、散々苦しめたくせに、自分の事を棚に上げて、全責任を転嫁する典型的なエリート凡人。


 鳴神家で育ち、幼い頃から見ていた人間性の腐った兄や姉たちと同類だ。

 心の底から反吐が出る。


「どうした。言い返せないのか? それが現実だろ? それを認めたら、今まで妹に対して偉そうな事を言っていた自分が情けなくなるだけだもんな?」


「違う! 玲奈は氷嶺家の人間として当然の責務を──」


「玲奈に押し付けるなよ。名家の当主なら、自分で全部何とかしろ」


「黙れ!」


 怒声が、凍える夜の空気を切り裂いた。


 彼の背後で、氷の柱がバキバキと音を立てて隆起する。

 拳を握り締めた手のひらから、張り詰めた冷気が溢れ出し、周囲の気温が急激に低下する。


 視界が揺れるほどの冷気の中、凍也の表情は、憤怒と動揺の間で歪んでいた。


「──今から、氷嶺家の侵入者に誅を下す」


 冷徹な声音とともに、凍也の足元から冷気が溢れ出し、瞬く間に敷石が凍り付いていく。

 庭園に植えられた花々が一瞬で白く染まり、霜に覆われていく様子は、まるで冬の嵐が突如としてこの場を支配したかのようだった。


 こうして、氷嶺家の敷地は一瞬にして凍てついた牢獄と化した。


 ──だが、その中心に立つ翔太郎は、眉一つ動かさない。


 彼にとって、この程度の威圧は何の意味もなかった。

 まるで凍也の宣告など、ただの寒いジョークであるかのように、呆れたように軽くため息をつく。


「安心して良い。予め警備は僕が払っておいた。彼らは大事な使用人だ。僕の能力の巻き添えにするわけにはいかない」


 凍也は淡々とそう告げる。


 彼の背後には、氷の棘が無数に伸び始めていた。

 氷嶺家の長男としての冷徹な判断。

 氷嶺家の未来を守るための制裁。


 ──そしてその矛先は、今まさに目の前の侵入者・鳴神翔太郎へと向けられていた。


「だが、お前は違う」


 凍也の目が冷たく光る。


「お前は無理矢理に結界を突破し、氷嶺家の長女を現在進行形で誘拐しようとしている」


 玲奈が息を呑む。

 兄の殺気が本物であることを理解したからだ。

 だが、隣に立つ翔太郎は、まるで何事もないかのように、余裕の表情を崩さずに凍也の主張を鼻で笑った。


「誘拐? 本人の同意もあるのにか?」


「お前のやっている事は、学園島に現れたフードの不審者と何も変わらない」


「は?」


 その例えの意味不明さに、さすがの翔太郎も思考が一瞬止まる。

 だが、すぐに興味を失ったように軽く首を振り、肩をすくめると言葉を続けた。


「それはさすがに心外だな。フードの不審者の話を持ち出したくは無かったんだけど、俺に言わせれば、この家の警備体制じゃ全然守り切れないぞ」


 凍也の表情が微かに歪む。

 翔太郎はまるで他人事のように続ける。


「俺程度が侵入できて玲奈をこうして連れ出してる時点で、もっとヤバい奴らに襲撃されたら、守れるもんも守れないぞ。だったら俺が玲奈を守った方がよっぽど良い」


「…………っ!」


 凍也の額に青筋が浮かぶ。


 ──余裕すぎる。


 目の前の男は、氷嶺家当主からの裁きを受けようとしているにも関わらず、微塵も恐れる様子がない。

 むしろ、まるでこの場の空気を完全に支配しているのは自分だとでも言わんばかりの態度。


(こいつは、一体どこまで僕を舐めている?)


 怒りがじわじわと沸騰し始める凍也の前で、翔太郎は玲奈に視線を向けた。


「言ってくれるじゃないか」


 凍也の声が低くなる。

 その瞳には、確かに怒りが灯っていた。

 ──まるで、かつて翔太郎に敗れた雪村のように。


 玲奈が不安そうに翔太郎の袖を掴む。

 兄の怒りは本物だ。

 翔太郎は、そんな玲奈の様子を横目に見ながら、静かに呟いた。


「玲奈」


「……!」


「後ろに下がってくれ」


 ふわりと、彼の手が玲奈の肩に添えられる。

 その瞬間、体の強張りがふっと解けるのを感じた。

 指先の温もりが、まるで大丈夫だと言ってくれているようで、玲奈は自然と息を吐き出す。


「玲奈は──俺だけを見てろ」


 その言葉に、一人の少女の心臓が跳ねた。


「言ったろ。玲奈の居場所を作るって」


 どこまでも真っ直ぐで、どこまでも頼もしくて、どこまでも揺るがない。

 こんな状況ながら、彼のそんな瞳を心のどこかで格好良いと思ってしまった。

 玲奈の為だけにこんなにも真剣に言い切れる彼の姿が、彼女にはどうしようもなく特別に見える。


「……はい」


 頬を赤らめながら、玲奈は安心しきったように微笑んだ。


 完全な信頼の証。

 だが──それを見た凍也の脳内が、一瞬で真っ白になった。


(何だ、その目は)


 まるで、翔太郎なら凍也に勝てると確信しているかのような眼差し。


(なぜ玲奈が、そんな安心しきった表情で奴を見ている……!?)


 かつて、氷嶺家の名のもとに育て上げた妹が、自分ではなく、ただの侵入者に全幅の信頼を寄せている。


「ふざけるな」


 その事実が──最後の引き金になった。


「ふざけるなぁぁぁぁぁぁぁぁっっ!!!」


 凍也の怒声が、氷嶺家の庭全体を揺るがす。


 割れた噴水の水が天高く舞い上がり、その瞬間に凍結し、巨大な氷の柱と化した。


 それはまるで怒りそのものを具現化したかのように、雷鳴の如き轟音を立てながら翔太郎へと振り下ろされた。

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