第一章20 『連れ出して』
翔太郎は窓から入った瞬間、玲奈の顔が硬直したのを見逃さなかった。
少しだけ申し訳ない気持ちが湧くけれど、それよりも自分の方が興奮しているのは隠しきれない。
「不法侵入です」
玲奈はそう言いながら、一歩後ろに下がった。
その姿を見て、翔太郎は少しだけ笑ってしまった。
この状況で、こんなに怒っているのに、その顔がどこか嬉しそうだって、もう気付いてしまった。
気付いてしまったから、止めることはできなかった。
「第一、女子の部屋に窓から入ってくるなんて、デリカシーが無いどころの話じゃありません」
玲奈は強い調子で言っているが、少し震えているのがわかる。
明らかに動揺してるのが隠せていない。
冷静に考えれば、誰だって自分の部屋の窓から急に知り合いが入ってきたら、動揺もするだろうけど。
「っていうか、制服姿以外の玲奈を見るのは初めてだな」
「いきなり何言ってるんですか?」
翔太郎が視線を向けると、玲奈は寝巻き姿だった。
予想よりも、ずっと可愛らしいデザインのものだ。
真っ白で、リボンがついたフリル付きの可愛らしいタイプの寝巻き。
普段の冷静で理知的な姿とは裏腹に、この一面には少し驚かされた。
彼の視線に気付いた玲奈は、少しだけ顔を赤らめ、視線を避けた。
「……その、そんなにジロジロ見ないでくださいよ」
「いや、別に見ようと思って見てるわけじゃないんだけどな。もの珍しくてつい」
翔太郎は少し意地悪な気持ちで返事をしつつも、心の中では自分がどこか嬉しそうにしていることに気づいていた。
玲奈が気にするようなことではないと思っているのに、なぜか心が少し落ち着かない。
「にしても久しぶりに会えて嬉しいよ、玲奈」
翔太郎は、少し照れくさそうに言いながら、目の前の玲奈を見つめた。
電話が繋がらなくなってから、ずっと心配していた。
今こうして、無事に会えたことが、嬉しくてたまらなかった。
「……怒ってないんですか?」
玲奈の声は、少し不安げだ。
翔太郎がこんな風に気にかけてくれることに、申し訳ない気持ちが湧いてきて、つい目を伏せてしまう。
自分が勝手に距離を取ったような形になっていたから、彼がどう思っているのか気になって仕方がない。
「え、何が?」
翔太郎は首を傾げると、すぐに思い出したように答えた。
「だから、その……電話が急に繋がらなくなってしまったことです」
玲奈が気まずそうにそう言ったとき、翔太郎は少し考えてから、にこりと微笑んだ。
「いや別に? ていうか、玲奈が負い目に感じる必要ないでしょ。あの電話だって、元々俺が勝手にかけてただけだし」
翔太郎は軽く手を振って、無理に玲奈を気にさせることはないと言うように肩をすくめた。
「ですが──」
玲奈は言葉を詰まらせる。
彼の言葉に少しほっとしながらも、心の中でまだ申し訳なさが消えきれない。
「それに、今日の放課後に凍也がわざわざ俺に会いに学園まで来た」
翔太郎の言葉に、玲奈の顔が固まった。
これには驚きとともに、少しの恐怖が湧いてきた。
兄の凍也が、わざわざ翔太郎に会いに学園まで来たなんて。
「ごめんなさい」
玲奈は言葉を漏らしながら、目をそらす。
彼にこんな風に謝らなければならない状況が、また胸に重くのしかかる。
しかし翔太郎は、すぐにその申し訳なさを軽く受け流すように言った。
「だから玲奈が謝る必要ないって」
「でも兄さんはあなたに──」
「まあ、何言って来たのかは多分察してもらったとは思うけど」
玲奈が何も言わずに頷くと、続けて言った。
「だからって、なんで俺がわざわざ凍也の言いなりにならなきゃいけないんだ? そもそも入ったばっかで自主退学しろなんて意味分かんないしな」
その言葉に、玲奈は驚きと安心が交錯した。
翔太郎が言いたいことはよく分かる。
凍也がどんな立場であろうと、翔太郎は自分の意志を貫くタイプだ。
「玲奈に関わるなって言われたら、余計心配になった」
そんな彼が、まさか自分の為に、兄の命令を拒否してくれたことに、何とも言えない感情がこみ上げてきた。
「ってな訳で、様子見も兼ねて友達の家まで訪問しに来たって訳だ」
翔太郎は、いたずらっぽく言いながら、玲奈の反応を見つめていた。
自分がこんな形で玲奈の家に来たことが、少し自慢のようにも思えて、どこか嬉しそうだ。
「……わざわざ、私の様子を確認する為だけにですか? 外には兄さんの結界が張られていましたし、見張りも何人かいたと思いますが」
玲奈は眉をひそめて、翔太郎を見つめる。
外の警備も完璧だと思っていたのに、まさかこんな風に突破されるなんて予想もしていなかった。
そのことに少し驚きながら、少し冷静に彼に問いかけた。
「結界はちょっと穴開けて中入ったよ。それに、誰一人とも戦ってないから警備もザルだったな。この家の構造がよく分かってない俺でも来れたから、これだとフードの女が来たら、だいぶヤバいと思うぞ」
翔太郎のその言葉に、玲奈は思わず息を呑む。
信じられないような話だ。
氷嶺家のセキュリティは異能に関する日本の重要拠点並みの性能を持っている。
それを楽々と突破し、警備の穴を指摘している。
「────っ」
玲奈は言葉を失い、翔太郎を驚きと不安が入り混じった目で見つめた。
彼が本当に言っていることが現実だというのか、何度も考え直してしまうほどに信じられなかった。
「それに、ここにわざわざ来たのは様子見ってだけじゃない」
翔太郎は、余裕を見せるように肩をすくめた。
「え?」
「それがさ、凍也が言うにはな、俺が自主退学しないと玲奈を休学から解除しないって言うんだよ。で、俺が何もしなければそれはそれで雪村たちを送り込んだ時みたいな手を使うって」
その言葉を聞いて、玲奈の心に何か重たいものが落ちた。
兄が彼の退学を目論んでいたのは知っている。
それでも彼が、それを理解した上で、自分の為にこんなにも心配してくれていたことが、少し恥ずかしくなった。
「あなたがそこまでする必要はないです。私なら大丈夫ですから。あなたが学生生活をちゃんと送れるように、私から兄さんに──」
玲奈は焦りながらも、素早く言い返した。
翔太郎に心配をかけたくないと思う一方で、彼が自分のために無茶をしようとすることに、心の中で反発を感じる。
「いやいや、まず話を聞けって。それで、これからどうしよっかな〜って考えた時、一つの妙案を思い付いた」
「……妙案ですか?」
翔太郎は、どこか楽しそうに笑いながら言った。
「ああ。玲奈にとっての妙案でもあり、俺にとっての妙案でもある」
玲奈は言葉の意味が全く理解できない。
翔太郎が何を言いたいのか、その先が全く見当がつかない。
ただ、彼が言う妙案に何かが懸かっていることは感じ取れる。
「凍也から行動を縛られることもなく、フードの女からの警備態勢を整えたまま学園にも通えて、玲奈が内心嫌がっている縁談の件も解消できる最高の手段がある」
翔太郎は満足げに言い放つが、その内容に玲奈はただただ戸惑うばかりだった。
「それは、なんですか……?」
玲奈はその言葉に答えるように問いかけたものの、頭がまだその意味を整理できず、空回りするように思考が進んでいく。
翔太郎の言葉の中に含まれている最高の手段とは、一体何を指しているのか——。
翔太郎が再び口元をわずかに歪め、しかしどこか本気を感じさせるような声音で言った。
「単純な話。俺と一緒に家出しようぜ」
その瞬間、玲奈の思考は完全に停止した。
「────」
言葉にならない息が漏れる。
何を言われたのか理解するまでに、数秒の間が必要だった。
(家出? 私が、この人と?)
ぐるぐると脳内で反響するその言葉は、まるで現実味を持たなかった。
彼がどれだけ突拍子もないことを言っているのか、少しでも考えれば分かる。
それなのに、翔太郎の表情は冗談めかしたものではなく、どこまでも真剣だった。
玲奈は額を押さえ、できるだけ冷静に言葉を絞り出す。
「本当に馬鹿ですか、あなた」
呆れた声だった。
こんな話、真面目に聞く価値もない。
しかし、彼は呆れられたのが意外だったのか、不思議な顔で首を傾げる。
「え、もしかして冗談で言ってると思われてる?」
「もしかしなくてもそうです」
即答した。
「そもそも、あまりに突拍子もない上に非現実的過ぎます」
「いきなり切り出したのは確かに唐突だったよな。分かった、何から聞きたい?」
「全部ですっ!」
思わず強く言い放つ。
こんな内容、まともに聞いている方が馬鹿みたいだ。
なのに、翔太郎はどこか楽しげな様子で、平然としたままだった。
「第一、あなたから説明されたところで、私がそれを了承するとは──」
そう続けようとした玲奈だったが、その言葉は途中で遮られた。
「じゃあ、玲奈はずっと今のままで良いのかよ?」
「────っ」
彼の言葉に、心臓を掴まれたような気がした。
「このまま学園に行けなくて、もし卒業できたとしても兄貴の決めた相手と結婚させられて、これからもそんなので本当に良いのか?」
静かな声だった。
けれど、その言葉は玲奈の心の奥に鋭く突き刺さる。
「……」
答えられない。
今のままで良いはずがない。
けれど、どうすることもできないのも事実だった。
兄の意向に逆らうことは、これまでの人生で一度たりとも許されなかった。
それが氷嶺家の娘として生まれた自分の宿命だと、ずっとそう思っていた。
「凍也の言いなりになって、自分の意志もなく従うだけの人生なんて、それじゃただの人形と同じだ」
「……っ」
「そんなの──生きてるなんて言えないだろ」
人形。
それは、玲奈が自分自身にずっと言い聞かせてきた言葉だった。
氷嶺家の娘として生まれた以上、個人の感情など持ってはいけない。
望みを口にすることなど許されない。
そうやって、何度も何度も自分に言い聞かせてきたのに──翔太郎の声が、鋭く玲奈の心を揺さぶる。
「私は……」
違う、と言いたかった。
でも、言えなかった。
「玲奈がどうして凍也の言葉に逆らえないのかは……俺には、完全には分からない」
翔太郎は、真っ直ぐに玲奈を見つめながら続けた。
「でも、分からなくても言えることがある。玲奈がそんな風に、諦めるために生きてきたんじゃないってことは、短い間過ごしただけの俺にも感じられた」
「────」
「もう一度聞く。本当にそれでいいのか?」
もう、何も言い逃れはできなかった。
この人は、逃げ場を与えてはくれない。
(──なのに、この人は)
相手の世界を無遠慮に踏み荒らしてくる。
仕方ないだとか、諦めるしかないだとか、そんな考えを軽々と壊してくる。
玲奈は、ぎゅっと拳を握りしめた。
「そんなの、良い訳ないじゃないですか」
言葉にした瞬間、何かが音を立てて崩れた。
胸の奥に押し込めていた感情が溢れ出し、もう抑え込むことはできなかった。
「良いわけがない……! ずっと自由に過ごしたかった! 誰かと笑い合いたかった! 誰かの言いなりになってる自分が嫌だった……!」
喉の奥が焼けるように熱い。
胸が苦しくて、息が詰まる。
けれど、それ以上に堰を切った言葉は止められなかった。
「でも……でも、私は氷嶺家の娘だから……! 兄さんの言うことには逆らえなくて、言われるがままに従うしかなくて……!」
玲奈の手が震えた。
それでも、止まらなかった。
「本当は、私がいなければ全部うまくいったんです。私なんて、生まれてこなければ……!」
込み上げる罪悪感が、声を掠れさせる。
ずっと抱えていた感情が、痛みに変わって喉を締めつける。
「私の出産と同時に、母が死んだんです」
その事実は、玲奈にとってただの過去ではなかった。
物心ついたときから、家族の表情に刻まれていた喪失の証。
母の顔を玲奈は知らない。
写真でしか見たことがなかった。
けれど、時折、父が窓の外を見つめる沈んだ表情も、兄が何かを噛み締めるように拳を握りしめる姿も、その全てが母という存在の大きさを物語っていた。
「兄はずっと、母の死を背負って生きてきました。その原因が、私なんです」
どれだけ必死に尽くしても、どれだけ素直に言うことを聞いても、その事実は消えなかった。
生まれた時点で決まってしまっているのだから、挽回の余地など無い。
昔の兄は誰よりも優しかった。
玲奈がまだ幼い頃は、手を引いて歩いてくれたし一緒に遊んでくれた。
たった一人の家族として、自分を大切にしてくれた。
でも──凍也は変わった。
玲奈が成長するにつれ、凍也の目は次第に冷たくなった。
罵倒されることが増え、従わなければ手を上げられるようになった。
兄の変化を、玲奈は理解していた。
──すべて、自分が悪いのだと。
兄が優しかったころの記憶は、玲奈にとって何よりの救いだった。
けれど、それと同時に、兄を変えてしまったのは自分なのだと痛感させるものでもあった。
母を奪い、兄を傷つけたのは自分。
兄は長年、その憎悪を玲奈にぶつけずに耐えていただけで、成長するにつれて鬱陶しくなった妹に対して堪忍袋の尾が切れたのだ。
罪を償う為に、玲奈は耐え続けるしかなかった。
「私は……もう償えきれないほど、兄を傷つけてきました」
だから、殴られるのも、罵倒されるのも、当然だった。
それは罰なのだ。
自分が存在してしまったことへの──。
「だから……だから、私は……!」
声が震えた。
視界が歪み、熱い涙が零れる。
「殴られるのも、罵倒されるのも、全部慣れてるんです。当然なんです。それなのに……っ」
視界の先、翔太郎は動かなかった。
「それなのに、あなたは……!」
彼だけは、玲奈を氷嶺家の娘として見なかった。
近寄り難い十傑の一人としても扱わなかった。
彼にとって、玲奈はただの友達だった。
初めて彼と連絡先を交換した時に、既に自覚していた。
『それに親しくないって言ってるけど、もう俺たち友達じゃん』
『……はい?』
『だって、一緒に夕飯食ってるし、一緒に登下校してるし、なんなら今さっき連絡先交換したし。……どこか間違ってる?』
内心では、あの言葉がどれほど嬉しかったか。
どれほど、心が揺れ動いてた事だったか。
「どうして……どうして、あなたは……!」
翔太郎は決して諦めなかった。
推薦生という理由だけで差別されるという理不尽な状況に置かれても、クラスメイト達に自分から声を掛けて人間関係を構築しようとしていた。
凍也から直接圧力を受けても尚、こうして玲奈と話をする為に氷嶺家に乗り込んできた。
彼は自分の置かれている境遇を、自分の意志だけで切り拓くことができる人間だ。
(どうして、そんな風に生きられるの……?)
自分は、逃げ出すことすらできなかったのに。
苦しくて、辛くて、何もかも投げ出したくて。
それでも、どうしようもなくて──。
「私は……どうしたら」
嗚咽が漏れた。
初めて、誰かにここまで自分の気持ちをぶつけた。
初めて、誰かに本音をさらけ出した。
怖かった。
自分の弱さをさらけ出して、拒絶されるのが。
だけど──翔太郎は、何も言わなかった。
ただ、黙ってそこに立っていた。
玲奈の全てを。
悲しみも、苦しみも、罪悪感も、丸ごと受け止めるように。
涙が止まらないまま、玲奈はしゃくりあげた。
やがて息が乱れ、ようやく言葉が尽きた時、黙って聞いていた少年が小さく笑った。
「良かった」
玲奈は、驚いたように顔を上げる。
「ちゃんと玲奈が本音で話してくれて」
その言葉は、ひどく優しかった。
玲奈の痛みを否定することも、無理に慰めることもない。
ただ、玲奈という人間を、その心の奥底まで受け止めるような声音だった。
翔太郎は小さく息を吐き、ゆっくりと整理する。
(そういうことだったのか)
ようやく理解した。
玲奈が凍也に逆らえない理由を。
玲奈にとって、凍也はただの兄ではなかった。
母を喪わせてしまった相手だったのだ。
彼女は抱えなくてもいい罪を背負い、罰を受け続けることでしか、自分の存在を肯定できなかった。
翔太郎は静かにその姿を見つめる。
そんな話を聞いて、まず最初に一言言わなければならない。
「玲奈。一つ言いたいことがある」
「……なんですか?」
「お前って──めっちゃ不器用な奴だな」
男子の前で涙を流してしまったことに動揺しつつも、頬を赤くさせたまま目元を拭った玲奈に、翔太郎は少しだけ目を伏せて息をつく。
「なんかクラスの皆から凄い幻想抱かれてないか? 今の玲奈って、周りから聞くイメージや話とは全然違うよ」
「……え?」
「だってそうでしょ。玲奈がこんな思いを抱えてるなんて、その上で一人で背負いすぎてることをみんなは知らない訳だろ?」
「背負いすぎてるって……だって全部、私が──」
「生まれてこなければよかったなんて、今ここで玲奈のお母さんが聞いたら、きっと悲しむと思うぞ」
その言葉に玲奈の肩が小さく揺れた。
翔太郎はそれを見て、少しだけ胸が痛んだ。
自分と似たような思いをしているその姿に、どこか陽奈を重ねていたからだ。
「でも、私は……私が生まれたせいで母は……」
その言葉が、玲奈の胸を締めつける。
彼女の中に埋まった痛みが、またひとしずく涙となって流れ出しそうになる。
しかし、不意に翔太郎の声が響いた。
それは、柔らかさを保ちながらも、強い確信に満ちていた。
「それだけは絶対に違う」
その一言は、玲奈の心の中で何かを打ち破るように響いた。
彼の目には冷静でありながらも、彼女に対する深い信念と優しさがこもっていた。
「玲奈は自分のせいだって言うけどさ。玲奈のお母さんは、決死の覚悟で娘を産むって決めたんだろ?」
その問いは、玲奈の内側に眠っていた小さな問いかけを呼び覚ます。
自分のような人間が生まれてきた意味──その答えを、今までどこかで探し続けてきたような気がする。
翔太郎は、そんな玲奈の心を見透かすように、少しずつ言葉を紡いだ。
「玲奈を抱きしめてやる事は出来なかったかもしれない。言葉をかけることも出来なかったかもしれない。でもさ──」
その言葉には、彼女の母親に対する理解と共感が込められている。
もし母が玲奈を抱きしめたとしても、今はそれだけでは済まないと思う。
でも、それでも──それでも、玲奈をこの世に送り出したその決断が、意味を持っていると翔太郎は伝えたかった。
翔太郎は一歩近付く。
その一歩は、まるで冷たい空気の中で手を差し伸べるような感覚を玲奈に与える。
その手が、目に見えない温もりで彼女の心を包み込むような、そんな気がした。
「それでも──玲奈がこの世界に生まれて、幸せに生きていくことを望んだんじゃないのか?」
その問いが玲奈の胸に突き刺さる。
翔太郎の目には、今の玲奈に小さい頃の自分が重なっていた。
彼も、かつては家の中で自分を価値のない存在だと思っていたからだ。
日々、兄弟たちから罵られ、笑われ、時には同じ血が流れていることすら恥ずかしいと言われたこともあった。
唯一、陽奈だけは彼と対等に接してくれた。
しかし、陽奈には他の誰にも無い特別な才能があり、最年少で鳴神家の当主になった。
家に縛られている姿を見ても。翔太郎はどうしても助けられなかった。
陽奈が何度も二人きりで逃げたいと言ってくれた時、その思いに応えてやりたかった。
しかし、鳴神家の為、陽奈の為だと自分に言い聞かせて、それができなかった。
──あの時の陽奈の顔を、生涯忘れる事はないだろう。
「もし玲奈が生まれてこなかったら──俺は、玲奈に出会えなかった」
その言葉が、玲奈の心を捉えた。
翔太郎が言うと、まるで世界が一瞬止まったかのような感覚が広がった。
彼女の瞳が大きく見開かれ、胸が締め付けられる。
こんな言葉をかけられるなんて、思ってもいなかった。
「俺が零凰学園に転校してきたあの日、玲奈が隣の席にいたから、こうして俺たちは同じ時間を過ごしてる。他の奴とは違って、玲奈は俺を推薦生って理由で遠ざけることもなかった」
翔太郎の言葉が続く。
彼の視線は、玲奈を真っ直ぐに見つめている。
「不審者のせいで一緒に帰ったり、初めてファミレスに行ったり、時にはゲーセンとかで時間潰して、会えなかった日でも凍也の目を盗んで電話して、今はこうして玲奈と向き合えてるんだ」
その言葉を聞いて、玲奈はこれまでの出来事を思い返す。
最初はただのクラスメイトに過ぎなかった。
たまたま隣の席になった転校生の男子。
しかし、こうして振り返ると、彼と過ごした時間はどれも不思議なほどに色鮮やかに感じられる。
初めて入ったファミレス。
土砂降りの中で同じ傘に入った帰り道。
ゲームセンターで全てを忘れてひたすら楽しんだ時間。
夜中に兄の目を盗んで通話し、彼と交わした何気ない雑談。
「そんな何気ない時間が続くって、凄いことだと思うけどな」
それらは、どれも兄の言うくだらない時間でしかなかったはずなのに、今は確かに心に強く残っている。
それが、彼と共にあったからこそ、特別な瞬間になったのだと気付く。
「玲奈が自分のことをどう思ってもさ、俺は玲奈に会えて良かったって思ってるよ」
その言葉が、玲奈の胸にじんわりと広がった。
自分が他の誰かの人生に影響を与えている──そんな事は考えたこともなかった。
でも、翔太郎がこうして言ってくれることで、少しだけその意味を感じ取れた気がする。
彼にとって、自分がこの世界にいて良かったと思えることが、生きる上でこんなにも大事だとは知らなかった。
玲奈は何かを言おうとしたが、その言葉はうまく口から出てこなかった。
ただただ、心の中で溢れそうになる感情を必死に抑え込んだ。
涙がまた込み上げてきそうだったが、玲奈はそれを必死にこらえた。
唇を噛みしめ、涙を堪えるその姿は、まるで弱さを見せたくないかのように見えた。
翔太郎は、そんな彼女を見て、少しだけ目を細めた。
その表情には、どこか柔らかさが含まれている。
玲奈の気持ちを大切にし、無理にどうこうしようとしない──その優しさが、彼女の心を温かく包み込んだ。
その言葉は、玲奈の心の中に深く刻まれた。
まるで長い間閉ざされていた心の扉が、少しずつ開かれていくような感覚を覚えた。
心の奥底で誰かに認めてもらいたかった自分。
その自分を、今、翔太郎がしっかりと見てくれている。
「……っ」
玲奈は、涙がこぼれないように必死にこらえた。
彼女の胸の中で、ずっと締めつけられていた何かが、ほんの少しだけ解けたような気がした。
それは、安堵でもあり、また新たな希望の兆しのようにも思えた。
翔太郎が自分を大切に思ってくれている──その気持ちが、温かくて、胸の中で優しく広がっていった。
だけど、それとは別に家から出られない理由がある。
「ここを出ても、意味がないです」
玲奈の声は、まるで心の底から絞り出すような重さを帯びていた。
彼女が目を逸らしながら言うその言葉の裏に、どれだけの深い痛みと絶望が隠れているのか、翔太郎には何となく感じ取れた。
しかし、そんなことを言われても、彼女がその壁を越えることを、翔太郎は簡単に諦められなかった。
「それはどうして?」
優しく問いかけたその声に、玲奈の瞳が微かに揺れた。
翔太郎がどんなに優しく言っても、彼女の心には深い傷があって、それが簡単には癒えないことは分かっていた。
でも、目の前にいる玲奈が苦しんでいるのを、ただ見過ごすことはできなかった。
何か、少しでも彼女の心に届く言葉を探していた。
「ここを出た私には──どこにも居場所がありません」
玲奈は唇を震わせながら、重い口を開く。
その声は、まるで何かに縛られているかのように、ひどく小さく震えていた。
「ずっと分かっていました。今までだって、私の居場所なんて本当にあったのかも分からない」
玲奈の声は弱々しく、それでもどこか諦めきったようだった。
彼女が自分の居場所を求めることが、どれほど辛いことなのか、翔太郎は痛いほど理解できた。
「氷嶺家にいるってことだけが、私の世界だった。だから、外に出たところで──また、居場所を失うだけだと思うんです」
それは、どんなに外の世界を見ても、どこかに戻ってきても、根底からここは自分の居場所だと感じられるような空間がないということ。
自分を認めてもらえない恐怖。
愛されていないことの虚しさ。
それが玲奈の言葉に表れていた。
「出たところで、また諦めるしかないのなら」
玲奈は静かに、何かに縋るように呟く。
「希望を抱いた上で再び絶望するくらいなら、この場で人形をやっていた方がマシなのではないかと思うんです」
その言葉に、翔太郎は心の中で何度も反論しようとしたが、それを言葉にすることができなかった。
彼女が感じてきた孤独。
家族に受け入れられずにずっと堪えてきた気持ち。
その全てを、翔太郎は無視できなかった。
「私には居場所がありません」
その言葉が、翔太郎の心に深く刺さる。
それは、玲奈が今までずっと感じてきた孤独、苦しみの全てを象徴するような一言だった。
でも、それでも何かをしてあげたかった。
ただ見守るだけでは、玲奈は永遠にその苦しみから抜け出せない。
「だから、あなたの提案には──」
「だったら、俺がその居場所を作ってやる」
玲奈が言葉を続ける前に、翔太郎はその言葉を遮った。
少しでも早く彼女に自分の決意を伝えたかったから、これ以上彼女に傷付いてほしく無かったからこそ──翔太郎の心から、自然にその言葉が溢れ出た。
「俺が一緒になって玲奈の居場所を探す。玲奈が自分はここにいても良いんだって思えるぐらい、そんな気持ちになれるまで、俺は絶対に見捨てない」
「ぁ……」
「もし、それでも……玲奈にとって望んでいる居場所が見つからなかったとしたら。これから生きていく上で、どこを探しても納得がいかなかったら──」
次の台詞を言ってしまったら、もう後には引けない。
本来の目的である夜空の革命とは別に、氷嶺家の問題に完全に首を突っ込み、そして最後まで玲奈の面倒を見ると決心することになるから。
その時、心の中で強く感じていたのは、絶対に玲奈を一人にしない、という確固たる決意だった。
もし玲奈が苦しんでいるなら、どうにかしてその苦しみを軽くしたい。
「──その時は、俺が玲奈の居場所になれるように頑張るよ」
今日一番、玲奈の潤んだ瞳が大きく開かれた瞬間だった。
陽奈を重ねて、玲奈を助けたいと思ってここまできた以上、翔太郎は彼女のためにどんなことでもする覚悟だった。
「これから、玲奈が自分の考えとか悩みとか、そういうごく自然な思いすら家族に伝えられないんなら、俺がずっとそれを聞き続けるよ」
彼女がこれからどう思うのか分からなかったけれど、ただ一緒にいることで少しでも支えになれるのなら、これ以上嬉しいことはないと思う。
言葉は、翔太郎の本音がそのまま伝わるように、素直に漏れた。
「……鳴神くん」
彼女の目の奥に、ほんの少しだけ柔らかな光が差し込んだ気がした。
「玲奈の言いたいこと、これからは全部俺が聞く。やりたいことは一緒に手伝う」
翔太郎は再びしっかりと目を見つめながら、言葉を続けた。
彼女の気持ちを無理に変えようとは思わなかった。
ただ、心から、これからのことを一緒に歩んでいこうと心の底から思っているだけだった。
その思いが、どこかしっかりと玲奈に届くことを願って。
「なんで、そこまで──何でそこまでして、私を助けようとしてくれるんですか」
玲奈が震えた声で尋ねると、その問いが翔太郎の胸に再び重く響いた。
どうしてそこまで?
その質問に、翔太郎は迷わず答える。
その理由はただ一つだった。
「だって俺たち友達だろ」
その言葉が響いた瞬間、玲奈の心の奥深くに、まるで小さな火が灯るような感覚が広がる。
今までどれだけ願っても、届かなかった言葉。
ずっと求めていたのに、一度も手に入れられなかったもの。
それが、目の前の少年は、何の迷いもなく口にしている。
友達。
そう呼ばれることが、こんなにも温かくて、胸を締めつけるものだったなんて。
「玲奈が俺のことどう思ってるかは知らないけど、少なくとも俺は玲奈のことを友達だって思ってる」
翔太郎の声は、どこまでも真っ直ぐだった。
玲奈を傷つけるためでも、慰めるためでもなく、ただ彼自身の本心を伝えているだけだった。
だからこそ、玲奈はどう返せばいいのか分からなくなる。
「……でも、そんなの……」
ずっと一人だった。
誰にも必要とされず、ただ家の中の役割として存在していただけだった。
なのに、翔太郎は、最初からずっと自分のことを一人の人間として見てくれていたのだろうか。
そんなこと、信じてもいいのだろうか。
「学校の席も隣だし、初めて会った時からずっと仲良くなりたかった」
玲奈の心が揺れる。
初めて会った時から、仲良くなりたかった?
そんな風に言われたことなんて、一度もなかった。
玲奈という存在を、名前や肩書きや見た目だけで見てくれる人はいても、中身を見てくれた人なんていなかった。
「私は……」
言葉が続かない。
でも、胸の奥がじくじくと痛む。
どうしてこんなにも翔太郎の言葉は、玲奈の心を揺さぶるのだろう。
「玲奈がここから出たいって言うんなら俺が連れ出す。凍也に言いたいことがあるなら、俺が代わりに物申してやる」
そんなこと、出来る訳がない。
今までだって、何度も思った。
この家を出たいと、自由になりたいと。
だけど、それを口にした瞬間、自分の存在が完全に消えてしまうような気がして、怖くて仕方がなかった。
外の世界に踏み出して、本当に何もなかったらどうすればいい?
どこにも行けなくて、結局、孤独に押し潰されるだけだったら──。
「友達にずっと辛そうな顔されるのは、俺も嫌なんだ」
その言葉が、胸の奥に突き刺さる。
翔太郎が、俺も嫌だと言った。
玲奈が苦しんでいることを、ただの他人事として見ているわけじゃない。
他人の痛みを自分の痛みとして考えてくれるなんて。
「嫌なことは嫌だって、はっきり言っていいんだよ」
「そんなの……っ。私は氷嶺家の──」
「だって玲奈は氷嶺家の操り人形なんかじゃなくて、氷嶺玲奈っていう一人の人間だろ?」
その瞬間、玲奈の喉の奥から何かが込み上げてくる。
人形じゃない。
お人形さんみたいと言われ続けた今までの人生で、一度も言われたことのない言葉だった。
確かに玲奈は人形だった。
だって人形でいれば、傷付かずに済むと思っていた。
感情を押し殺し、従っていれば、余計な痛みを感じずに済むと思っていた。
だけど──。
「そんなに不安なら、俺が無理矢理連れ出したことにする」
何かを言おうとした玲奈の思考が、一瞬で凍りついた。
翔太郎の手が、玲奈の手を包み込む。
「……っ!」
温かい。
それが、玲奈が最初に感じたことだった。
こんなにも人の手って温かかったのか、と。
誰かと手を繋ぐことが、こんなにも安心できるものだったのか、と。
「鳴神くん」
迷いが、喉の奥で絡まる。
それでも、翔太郎の手の温もりが、心の奥底にまで沁み込んでくる。
怖い。
この手を取ってしまったら、本当にこの家とは縁が切れてしまう。
今まで過ごして来た世界が壊れてしまう。
この先は、本当に自分で考えて生きて行かなければならなくなる。
それでも──。
「──お願い」
思わず、玲奈の声が震えた。
今まで何度も言えなかった言葉が、ようやく形を成して出てくる。
「私を、ここから連れ出して……」
その言葉を言った瞬間、玲奈の瞳から大粒の涙が零れた。
自分で言ったはずなのに、信じられなかった。
でも、翔太郎がその言葉を受け止めてくれると信じていたから、ようやく言えた。
翔太郎の目が、どこまでも優しく玲奈を包み込む。
「玲奈が望むなら、俺がどこにでも連れて行く」
玲奈の瞳が、翔太郎を見つめる。
彼の言葉が嘘ではないことが、痛いほど伝わってくる。
あの時と何処までも同じ台詞だった。
故郷を真っ赤に燃やされたあの日。
陽奈を連れ出して、全てから逃げ出そうとしたあの時と。
「二人で一緒に逃げよう」
彼の言葉が、心の奥底に届く。
その声が、自分は一人じゃないと思わせてくれる。
「今度こそ──絶対、約束守るから」
今度こそ、助けを求めて来た子の手は離さない。
あの時と同じ過ちは、もう二度と繰り返さない。
その言葉に玲奈の涙が止まらなくなり、思わず翔太郎の手を強く握った。
これは夢じゃない。
彼は、本当に自分のことを一人の人間として見てくれている。
もう迷わない。
もう引き返せない。
自分一人だったら、怖くて前に踏み出せなかったかもしれない。
でも、今は隣に彼が居てくれる。
彼は震える少女を見て、優しく笑った。
もう大丈夫だぞと、心から安心させてくれるように。