第一章19 『遊びに来たぜ』
鳴神翔太郎は、携帯でとある人物に連絡した後、氷嶺家の屋敷を前に立ち尽くしていた。
昼間ならまだしも、夜になればこの屋敷は一層厳重な守りに包まれる。
それは翔太郎が予想していた通りだった。
だが、実際に目の前で見ると、その異常なまでの警戒ぶりに息を呑む。
——氷の結界。
屋敷の敷地全体に、淡く青白い光を放つ結界が張り巡らされている。
単なる物理的な障壁ではない。
これは氷嶺家の異能力による防護結界であり、外部からの侵入を完全に阻むためのものだ。
翔太郎は慎重に結界へと手を伸ばす。
触れた瞬間、冷気が指先に絡みつき、まるで自分の体温を奪おうとするかのように纏わりついてきた。
「なるほどな」
これは単なる壁ではない。
侵入者を凍らせ、行動不能にするための結界だ。
無理に突破しようとすれば、身体が凍りつき、動きを封じられる仕組みになっている。
警報の役割も果たしているのだろう。
もしこの結界を破壊すれば、屋敷の者たちにすぐ感知される可能性が高い。
しかし、翔太郎はすぐに思案する。
この結界の強固さは、逆に玲奈の安全が保証されている事の証でもある。
ここにいる限り、外部からの襲撃を受ける心配はない。少なくとも、フードの女のような敵が手を出すのは容易ではないだろう。
「確かに玲奈を守るって意味なら、ここが一番安全なのかもしれないな」
だが、それはあくまで守られる為の安全だ。
玲奈自身の意志とは無関係に、家という檻の中に閉じ込められているだけ。
何より、彼女がここにいることを望んでいないのなら——それはもう、自由とは言えない。
翔太郎は一度深く息を吸い、決意を固めた。
「本人の意思を確かめないことには、話にならないな」
玲奈と直接話をする。それが今夜の目的だ。
ならば、この結界を突破するしかない。
翔太郎は右手を銃を模した形にして、指先に電撃を纏わせた。
そして、青白い結界に向かい、狙いを定める。
「紫電」
指先から、紫色の雷撃が奔る。
結界の一点に集中して紫電を叩き込み、強引にその力場を裂いた。
結界が弾けるように揺れ、小さな穴が空く。
その隙を見逃さず、翔太郎は素早く身体を滑り込ませた。
直後、結界が修復されるように元の形へ戻る。
だが、翔太郎はすでに屋敷の敷地内にいた。
「ふぅ……なんとか通れたな」
辺りを見回し、人気がないことを確認する。
どうやら今の衝撃では警戒は作動しなかったようだ。
翔太郎は足音を殺しながら、すぐに屋根へと飛び上がる。
氷嶺家の屋敷は伝統的な洋館の作りで、屋根は複雑に入り組んでいた。
ここをうまく利用すれば、内部の気配を察知されずに移動できるはずだ。
「玲奈の部屋は……どこだ?」
翔太郎は注意深く周囲を見渡し、部屋の明かりや配置を確認する。
玲奈の性格を考えれば、家の中心部ではなく、ある程度静かな場所を好むはずだ。
そう考え、屋根伝いに慎重に移動しながら、一つひとつ部屋の様子を探っていく。
途中、屋敷の警備の動きを確認するため、一度屋根の影に身を潜める。
氷嶺家の敷地内には、異能力を持つ護衛が巡回しているのが見えた。
予想以上に厳重な警戒態勢だった。
「……まあ、そりゃそうだよな」
それでも、翔太郎は不敵に笑う。
この程度の警戒を掻い潜れないほど、自分は甘くはない。
「厳重な警備って言っても、俺一人に突破される様じゃ、夜空の革命の襲撃は防げない。このレベルだと、玲奈を氷嶺家に置いておく必要も無いな」
慎重に、確実に。
玲奈の部屋へと、翔太郎は進んでいった。
♢
玲奈は静かに窓の外を見つめていた。
夜の帳が降り、月の光が淡く庭を照らしている。
敷地の外へと続く門は閉ざされ、敷地内には護衛の気配があちこちに感じられた。
この屋敷がどれほど厳重に守られているかは、ずっと前から知っている。
「……」
けれど、ここは本当に守られていると言えるのだろうか?
それとも——ただ閉じ込められているだけなのだろうか。
玲奈は思い出す。
かつての兄の姿を。
——優しかった。
幼い頃に見た兄は穏やかで自信家だった。
頭が良く、異能の才能にも恵まれ、いつも玲奈の頭を優しく撫でてくれた。
生まれてからずっと父に顧みられず、自己肯定感の低かった玲奈にとって、兄は唯一の憧れであり、支えだった。
母を失い、父が無関心でも、兄だけは自分を見てくれている——そう信じていた。
けれど、その温もりはある日、唐突に消え去った。
「昔から、ずっとお前が憎かった」
突き放すような声が、幼い玲奈の耳に突き刺さる。
「お前が生まれてきたから、母さんが死んだんだ」
「……ぁ」
信じたくなかった。
けれど、兄の目は本気だった。
あの頃の優しい兄の面影は、どこにもなかった。
「玲奈。お前に償う気があるなら、これからはずっと何も考えずに、僕の言うことだけ聞いていればいいんだ」
その日を境に、兄は変わった。
少しでも逆らえば怒鳴られ、何をするにも許可が必要になった。
人付き合いは制限され、勝手に友人を作ることすら許されなかった。
「お前が誰と関わるべきか、僕が決める」
外出の自由も奪われた。
誰かと遊ぶことすら許されず、兄が認めた相手とだけ話すよう強要された。
最初は、ただ厳しいだけだった。
——それが、暴力に変わるまでは、そう時間はかからなかった。
「余計なことを考えるな」
「無駄な感情を持つな」
冷たい声が、何度も玲奈を打ち砕いた。
叩かれるたび、髪を引かれるたび、心の中で何かが崩れていった。
どんなに叫んでも、どんなに泣いても、兄は変わらなかった。
──違う。
変わってしまったのは、玲奈の方だったのかもしれない。
いつの間にか、泣くことも辞めた。
誰かに助けを求めることも辞めた。
誰にも期待しなければ、傷つくこともない。
何も求めなければ、絶望することもない。
そうして、少女は感情を手放した。
気が付けば、無表情で過ごすことが増えた。
屋敷の人間たちや、学校の子どもたちにも、何を考えているのか分からないと次第に言われるようになった。
だが、それはほんの始まりに過ぎなかった。
ある日、玲奈は父の命令で、久しぶりに凍也と話をさせられた。
兄は、いつものように冷たい目をして、何事もないかのように彼女を迎えた。
「玲奈、今日はお前に縁談を持ってきてやった。将来的に氷嶺家にとって有用になる名家との繋がりを作る大事なチャンスだ」
「……」
凍也の言葉に、玲奈は顔色ひとつ変えずに黙って座っていた。
「お前には卒業と同時に、僕が指定した名家の跡取りと婚約してもらう」
「……」
「なに、そう不安そうにしなくても良い。出来損ないのお前でも苦労のない様に、僕がしっかりと相手を見定めておく」
その言葉に玲奈は、ほんの一瞬だけ胸が締めつけられる感覚を覚えた。
だが、すぐにそれを打ち消した。
凍也は冷徹な目で続けた。
「分かるだろう? お前が結婚すれば、氷嶺家も将来的に安泰になるし、異能社会において盤石な立ち位置となる」
その言葉を聞いた瞬間、玲奈の心が冷たく凍りついた。
見合い、相手、結婚──すべてが、兄が決めること。
自分の意志とは無関係に、すべてが兄の命令で決まる。
その瞬間、玲奈は自分が生涯添い遂げる相手ですら、兄の命じるものなのだと、初めて実感した。
──私は氷嶺家という冷たい環境の人形でしかない。
その思考が頭の中で何度も繰り返される。
どれだけ自分が何を望んでも、兄の決定がすべてだ。
この屋敷の中で生きている限り、私には何の選択肢もない。
そんな絶望感に囚われながら、玲奈は無表情を作り、兄を見つめ返した。
その目の奥では、もう何も見ていなかった。
「分かりました、兄さん」
静かな答えが返ってきたが、それは兄を納得させるための、ただの反応だった。
玲奈は心の中で何も感じていなかった。
ただ、自分が一歩また、氷嶺家という冷徹な檻の中で動かされる人形であることを、心の底から理解したのだった。
零凰学園に入っても、それは変わらなかった。
最初は話しかけてくる生徒もいた。
けれど、玲奈が少し冷たい態度を取れば、彼らはあっさりと離れていった。
それに、そもそも何を話せばいいのか分からなかった。
「氷嶺さん、よかったら一緒に昼食どう?」
「今度、映画見に行かない?」
「一緒にカフェ行こうよ!」
他人から誘われると、いつも兄の顔が頭をよぎった。
だから断った。断るしかなかった。
「ごめんなさい。家の方針で、放課後は真っ直ぐ帰らなければいけないので」
けれど、本当は行ってみたかった。
年頃の女子たちが楽しむものに、興味を持ったことが無い訳がなかった。
映画も、カフェも、誰かと一緒に出かける楽しさも、羨ましいと思いながら彼女たちを眺めていた。
しかし、緊急な用事が無い以上は、学園島に不必要に留まり続けることを禁止されていた。
そして、誘いを断り続けると、誰も声をかけてこなくなった。
男子からも、話しかけられることはあった。
「君、氷嶺家のお嬢様だよね?」
「ずっと気になってたんだ。ちょっと話せないか?」
けれど、彼らの視線の奥にあるのは、玲奈自身ではなかった。
彼らが興味を持っているのは、氷嶺家という名家の看板か、あるいは玲奈の容姿だけ。
心の中では分かっていた。
彼らは、私自身には興味がない。
そして、それを隠そうともしない者もいた。
「俺は雪村真。聞いたぜ、アンタこの間の試験で一番だったんだってな」
自信たっぷりに言い放つその男は、玲奈と同じ冷気を操る系統の能力を持っているらしかった。
「同系統の能力者として、誇らしいぜ。なぁ、他のクズ共なんか放っておいて、俺と一緒にいないか?」
雪村は、ニヤリと笑った。
「……」
玲奈は何も言わず、ただ静かに彼を見つめる。
けれど、それを拒絶の意思と受け取ることはなく、雪村はさらに言葉を重ねた。
「そんな澄ました顔してるけどよ……俺が楽しませてやるよ」
──まるで、玲奈という人間ではなく、手に入れるべきモノに向けるような口ぶりだった。
彼の言葉が不快だったかと聞かれれば、そんな感情すら湧かなかった。
ただ、「あぁ、またか」と思っただけだった。
──結局、みんな同じ。
私を氷嶺家の玲奈として見ているか、あるいは見た目だけに興味を持っているかのどちらか。
周囲の噂も、次第に変わっていった。
「この学校のランキング上位のヤツらって、基本変人ばっかだよな」
「氷嶺さん、めっちゃ美人なのに全然笑わないし、むしろ怖くね?」
「そもそもあの家、特殊すぎるって。関わらない方がいいって」
そんな声が聞こえてきても、玲奈は気にすることなく、ただ日常を淡々と過ごした。
けれど──
「関わるどころか、最近は雪村が言い寄ってるせいで、誰も近寄らないっての」
そんな言葉を耳にしたとき、玲奈は初めて、小さく息を吐いた。
──なるほど。そういうことか。
思い返せば、最近は女子たちからも話しかけられることが少なくなった。
彼女たちが警戒しているのは、玲奈ではなく、玲奈に執着している雪村も含まれていた。
そうして、玲奈は思った。
もう、人間関係そのものに疲れてしまった。
関わるだけ無駄だ。
どうせ、皆いずれ離れていくのだから。
別に一人が特別寂しい訳じゃない。
ただ、もう誰かと関わることに意味を見いだせなかった。
誰かと繋がることで得られるものよりも、失うものの方が多いと知ってしまったから。
だというのに──唐突に、少女の前に異物が現れた。
「今日から零凰学園の2年A組にやって来ました。鳴神翔太郎です。よろしくお願いします」
2年生になって突然転入してきた、見知らぬ少年。
零凰学園が一応国内屈指のエリート校である事を特に気にしていないのか、あまりに堂々とした姿勢に、玲奈は一瞬だけその存在を認識するも、すぐに自分にとって無関係な存在だと思い直した。
「鳴神翔太郎です。よろしく」
「……どうも」
冷たい響きを伴った彼女の返事に、隣の席になった転入生は少しもひるむことなく、笑顔を見せた。
その後、担任の岩井大我が5月の異能試験の詳細を説明すると、隣に座っていた翔太郎は、じっと玲奈の顔を見ていた。
「……何ですか?」
その視線が煩わしくて、つい冷たい言い方が出た。
最初、玲奈はいつも通り冷たい雰囲気を漂わせていた。
誰とも関わらず、余計な話しかけられることを望まない。
氷嶺玲奈とは学園の中で稀有な存在、十傑の一員として、誰もが避ける存在だった。
話しかけたところで冷たくあしらわれる。それが玲奈に対する周囲の印象だった。
それが日常だったはずだ。
しかし、クラスメイトはいつも通りの玲奈と、転入してきたばかりの翔太郎に興味津々で視線を向けていた。
普通ならば、ここで萎縮し何もなかったかのように口を紡ぐはずだった。
だが翔太郎は、そんな空気をお構いなしに、堂々と玲奈に話しかけてきた。
「えっと、確か十傑の人だったよな? 今日の朝、心音の近くに座ってた」
「そうですけど」
「じゃあ、さっき岩井先生が言ってた試験って一人で参加するのか?」
そんな事が聞きたかったのかと、玲奈はやや面倒くさく感じた。
明らかに態度の悪い自分に、翔太郎は平然と話しかけてきた。
普通ならば、ここで少しは引いて口をつぐむはずだ。
それでも、翔太郎は微塵も気にせず、次々と質問を続けてくる。
「あ、気に障ったならごめん。いや、なんか全然分からなくてさ、こっちに来たばかりで」
頭を掻きながら、少し笑う少年。
その余裕ぶりに、玲奈は一瞬驚きの感情を抱いたが、すぐにそれを押し込めた。
──この人は、私が普通の態度で接することを期待しているのだろうか。
こちらが、あまり人と関わりたくないことをまるで察していないようだった。
どう反応すべきか少し考えたが、結局、業務連絡は早く終わらせておくべきだと思った。
「パートナーがいない場合、単独で参加することになります。十傑は例外として、単独でも参加できますが。あなたはパートナーを決めないと、当日にペナルティが課せられますね」
「やっぱりそうなのか……」
彼は少し考え込み、次第にパートナー選びの必要性を感じ始めているようだった。
その思考の過程を見て、玲奈はまた少し面倒に感じ始めた。
「パートナー選びの基準ってどうすれば良いか分かったりする?」
玲奈の口調は冷たく、無愛想なはずだったが、翔太郎は一向に引き下がらなかった。
そのまま、玲奈に答えを求めてくる。
「あなたの好きに決めればいいんじゃないでしょうか。別に条件はないですが、相手の実力に合わせないと試験に意味がありません」
「実力に合わせるってことは、強い人は強い人同士と組んだ方が良いってことか?」
「一般的にはそうですね」
目線を合わせず、冷たい答えを返す。
これで会話も終わるだろうと思っていたが、翔太郎は次の一言を放ってきた。
「あなたが誰と組むのは自由です。転校初日で大変だとは思いますが、頑張ってください」
「えっと……まあ、色々教えてくれてありがとう。君はもう誰をパートナーにするとか決めたのか?」
「いえ特には」
いつも通り、玲奈は単独で参加する予定だった。
パートナーなど、最初から必要ない。
そう示してきたはずだ。
しかし、目の前の翔太郎は、そんな自分の態度を逆手に取るように、次の言葉を口にした。
「じゃあさ、俺とパートナー組んでよ」
この言葉に、玲奈は思わず言葉を失った。
今まで、誰とも関わらないことで守られてきた自分にとって、この一言は予想外のものであり、想定していたシナリオから完全に外れた。
これまで誰も話しかけてこなかったのに、何故こんな転校生が自分に声をかけてくるのか。
そして、どうしてこんな堂々とした態度で、私に関わろうとするのか──
その瞬間、周囲の空気が変わったことを、玲奈は感じ取った。
学園内での玲奈には、近寄りがたい雰囲気が常に漂っていた。
彼女の周りには、冷徹で無言のオーラが張り巡らされているように感じるのが、ほとんどのクラスメイトの共通認識だった。
誰もが彼女には近づかない。
それが、暗黙のルールのようになっていた。
だが、翔太郎はそのルールを無視して、玲奈の前に立つ。
その無頓着さと、まるで当たり前のように接してくる態度に、クラスメイトたちは一瞬どよめいた。
目を見開き、耳を疑うような反応を見せる者もいる。
玲奈に声をかけるなど、想像すらしなかった行動だったからだ。
そのどよめきの中で、玲奈は冷静さを保とうとしたが、心の中で何かが揺れ動くのを感じていた。
翔太郎の一言が、予想以上に大きな波紋を呼び起こしていた。
──この人は、どうしてこんなにも自由なのだろう。
翔太郎の言葉は、玲奈の内面に眠っていた一線を越えてしまった。
彼女が長年守り続けてきた孤立を、無遠慮に破られてしまったような気がした。
その不安と戸惑いが、彼女を一瞬、言葉を失わせた。
結局、その場ではパートナーの打診を断った。
なんとなく気まずかったが、翔太郎は玲奈には気を遣わせて悪かったと謝り、素直に引いてくれた。
その後の沈黙の中で、玲奈は何とかその場を収め、心の中で冷静さを取り戻そうとしていた。
──あの少年は、やっぱり鈍感すぎる。
自分がどんなに冷たい態度を取ってきたのか、そしてクラスの雰囲気がどうなっているのかを、全く理解していない。
玲奈はただ単純にそう結論づけた。
翔太郎は何も知らずに、自分に声をかけてきた。
そして、彼が少しでも気を使う素振りを見せたことで、玲奈は少し安心したような気もしたが、結局、あの鈍感さが気に障ったのも事実だった。
そして翌日の朝。
学園に到着すると、教室からは何やら騒がしい声が聞こえてきた。
「なあ、聞いたか? 鳴神ってヤツ、推薦制度を使って転入してきたんだってよ」
入ってみると、雪村が目を輝かせながら、翔太郎についてクラスメイトたちに吹聴しているのが見えた。
「推薦だって? そんなやつがこの学園に来るなんて、あり得ねぇだろ」
「まぁ、十傑がどんな立場なのかも全く知らなかったらしいしな。推薦した奴はどんだけ学園にコネを持ってたんだか」
クラスの大半は翔太郎に対して、軽蔑や嘲笑を込めた言葉を投げかけていた。
そんな声が耳に入るたび、玲奈は心底くだらないと思いながらも、何も言わずに黙って席に向かった。
──結局、何も変わらない。
こんなことで、また他人がどうこう言うんだ。
玲奈は、ふと席に腰を下ろしながら、その喧騒を無視した。
自分の中で、翔太郎について少しでも気にかけることが無駄だと感じ始めていた。
そんな中、翔太郎が教室にやって来るのが見えた。
彼は周りの目を感じているのか、少し気まずそうにしていたが、それでも堂々とした足取りで教室に入ってきた。
玲奈はその姿をちらりと見たが、すぐに目をそらした。
「まだ授業始まってないのに勉強してるんだな」
まさか、普通に話しかけられるとは思わなかった。
「予習です」
「そっか」
それ以上、会話が続くことはなかった。
けれど、自分でも何を思ったのか、彼から推薦のことについて聞こうとしていた。
「あなたは推──」
玲奈が翔太郎に向かって口を開きかけた、その瞬間。
「おっ、推薦生じゃねーか!」
煩わしい白髪の男の声が聞こえて来た。
雪村は玲奈が翔太郎に話しかけようとした瞬間を見逃さなかった。
自分の想い人が推薦制度を使って転入して来た奴に自分から話しかけるなど、あってはならないと傲慢に近い考えを持って二人の会話を割り込んだ。
玲奈は翔太郎に推薦の話を聞こうとしたが、その瞬間、心の中に疑問が湧き上がった。
(なぜ、私は彼に推薦の話を?)
自分でもその理由が分からなかった。
ただ、気づけばその言葉が口をついて出かけていたのだ。
いつもなら、こんなことを自分から聞くはずがない。
特に翔太郎のような転校生に。
しかし、何故か彼と話すことで少しだけ、何かが変わる気がした。
それでも、その理由は分からない。
まだ特に話してもいないのに、無意識のうちに、少しだけ彼に興味を持ってしまっていたのかもしれない。
そんな気がして、玲奈は心の中で自分を責めるように目をそらした。
それからというもの、雪村は翔太郎に対し、推薦生のことを強調し、あからさまに馬鹿にする態度を取っていた。
しかし、翔太郎はまるで気にしていない様子で、雪村の皮肉が全く通じていない。
それどころか、彼は自分の1162位をレアだと言って自慢し始めた。
「……っ、ふふっ……!」
初対面で鈍感だとは思っていたが、ここまでとは思わなかった。
目の前の少年が、あまりにも無頓着で、自己主張が強すぎる。
それに対して玲奈は思わず笑ってしまった。
「……っく……ふふ……!」
──あれ、私今笑ってる?
声をあげて笑うなんて、そして口元を押さえて笑ったのは本当にいつぶりだろうか。
思わず笑いがこぼれた自分に、玲奈は驚きながらも少し戸惑った。
「……失礼しました」
慌てて笑いを収めようとした玲奈は、素早く口元を抑え、深呼吸をして一度咳払いをした。
笑いの余韻が体から抜けきれず、少し顔が紅くなった。
「え、なんか笑うポイントあったか?今の」
「笑うポイントって、あなた……本気で言ってたんですか?」
「まあ」
「ふふ……っ……」
再び、玲奈は肩を震わせて笑いをこらえる。
あまりにおかしい。
翔太郎のあまりにも素直すぎる態度が、逆に笑いを誘ったのだ。
鈍感を通り越して、まるでただの馬鹿だと思った。
驚くほど笑ってしまう自分が、どこか滑稽に思えた。
「すみません。続きをどうぞ」
玲奈はその後、笑いをこらえながら、まるで自分の心が穏やかになったような気がして、落ち着きを取り戻した。
彼の最初の印象は、ただの鈍感だと思ったが、実際はただの馬鹿だと気付いた。
不意を突かれて思わず笑ってしまったが、その理由が明確に分かれば、どうということもない。
むしろ、その反応に驚いた自分が少し馬鹿らしく思えた。
──でも、あの時の私は本当に笑っていた。
あまりに些細で、あまりに馬鹿らしい理由で、久しぶりに無意識に笑みが溢れていたのだ。
その事が内心、どうしようもなく嬉しかった。
♢
その日の帰り道、玲奈はフードを被った怪しげな女に声をかけられた。
『氷嶺玲奈ちゃん、ですね?』
玲奈は瞬時に警戒心を抱き、足を止めると、冷ややかな目でその女を見つめた。
「……あなたは?」
女の声は幼さを感じさせるが、どこか不気味な響きがあった。
まるで玲奈をからかうような、遊んでいるような口調だ。
『私は、そうですね……強いて言えば、氷嶺家の関係者の一人です』
「あなたのような人は知りません」
玲奈は冷たく答える。
警戒心が強くなる一方で、女の存在が妙に不安をかき立てていた。
『ごめんなさい、言葉足らずでした。正確に言えば、私は氷嶺家の縁談を知る人間の一人です。どうやら、大変な立場にあるみたいですね、玲奈ちゃん?』
その言葉に、玲奈は不信感を募らせる。
縁談の話を知っている者など、今まで接点を持ったことがないはずだ。
どうしてこんな人物が、自分に声をかけてくるのか。
「……なぜ、あなたがそれを」
女はにやりと笑った気配が感じられ、玲奈は心の中でその微妙な違和感をさらに強く感じ取る。
『お兄さんの凍也くんが、あなたを誰と結婚させようとしているのか、気になりませんか?』
その言葉に、玲奈はさらに警戒の色を深める。
誰にも話していないはずの事を、どうしてこの女が知っているのか。
「……」
沈黙が続いた。
玲奈は一瞬、立ち去ろうかとも思ったが、女は続ける。
『少しついて来てください。ここでは何ですから、人のいない公園にでも移動しましょう』
玲奈はその提案にますます警戒しながらも、目の前の女がどこまで知っているのか、真相を確かめたくてたまらなかった。
だが────。
「早くここを離れろ! あいつが何を企んでたか知らないけど、今危なかったぞ!」
玲奈はその声に振り返った瞬間、何が起こったのか理解できなかった。
目の前に現れたのは、クラスで隣の席の鳴神翔太郎だった。
彼の表情は真剣そのもので、まるで命を懸けて自分を守ろうとしているかのようだった。
混乱した頭の中で、玲奈はその言葉を飲み込むのがやっとだった。
翔太郎の話によると、あのフードの女は玲奈に危害を加えようとしていたらしい。
氷嶺家の縁談の話をする気など全く無かったのだろう。
玲奈は不意を突かれ、女の真意に気づく暇もなく、すでに危険な状況に立たされていた。
玲奈は、翔太郎と行動を共にするようになったのが、まさに成り行きだったことを自覚していた。
最初は、不審者に襲われたことで、お礼をしようと彼を夕食に誘っただけ。
それだけの理由で、初めて彼との会話が生まれた。
不審者から助けてもらった生徒にお礼として食事をご馳走するというのは、凍也の目を盗んで外食をするという自然な流れだった。
──その口実を作るためだけに、彼を誘ったのだ。
ファミレスでの会話は、意外にも嫌な感情を抱くことがなかった。
むしろ、彼と話しているうちに、自分が次々と氷嶺家の内情を話してしまうのが不思議だった。
自然と打ち解けていく自分が、驚きでもあり、少し気恥ずかしくもあった。
翔太郎は、その後も玲奈に対して、ただのお礼で済ませるつもりなどなく、特にあの不審者に対する執着を見せることが多かった。
帰り道も、土砂降りの中、家まで送ると言って譲らなかった。
──まさか、初めて一緒に外食した相手が、初めて帰り道を歩いた相手が、昨日出会ったばかりの少年だなんて、玲奈は思いもよらなかった。
それからというもの、彼との行動が増えた。
最初は不審者の警戒のためだったが、彼が無理矢理連れ回す形で、あらゆる場所に連れられて行った。
動揺していたと同時に、なぜか断れなかった。
今まで誰にも誘いに応じなかったはずなのに、翔太郎だけは別だった。
理由は、今でもわからない。
彼に命を救われたからだろうか?
それとも、初めて一緒に食事をし、帰り道を共にしたからだろうか?
その日々が過ぎていく中で、玲奈は自分の心の中で変化を感じていた。
彼はただフードの女を追っていただけで、特別な意図があるわけではない。
だが、翔太郎はその過程で、玲奈に色々な場所を見せてくれた。
それに、こうして屋敷の中にいる間も毎日欠かさず電話をしてくれていたことが、玲奈にとってどれだけ安心感を与えていたのか、後になって実感することになる。
それでも、何よりも驚いたのは、彼に連絡先を聞かれた時に、素直に交換してしまったことだ。
今まで誰とも関わらないようにしていたのに、短期間で翔太郎が自分の考えを踏み荒らしてきたように感じた。
最初は、彼も他の男と同じように下心があって近づいてきたのではないかと疑ったこともあった。
しかし、翔太郎はそんな様子を一切見せず、むしろ純粋に「仲良くしたい」と言ってきた。
その言葉に、玲奈は困惑し、どう反応すべきか悩んだ。
だが、それが嫌ではないどころか、むしろ嬉しいと感じている自分がいた。
その感情に、自分自身が驚くばかりだった。
♢
「今は……」
今、玲奈の胸の中で最も強く感じているのは、ただ彼に会いたいという気持ちだった。
何も言わずに、ただ会って、そして話をしたい。
それがどんな結果を招くかはわからないけれど、今の彼女にはその気持ちが溢れ出てきて止められなかった。
本当なら、今抱えている全ての事情や感情を、洗いざらい彼に話してしまいたいとさえ思った。
それが正解かどうかはわからない。
ただ、彼にそれを伝えれば、自分の中で何かが変わる気がした。
彼がどう反応するのかもわからない。
それでも、会いたい、会って話がしたい。
それだけだった。
だって、彼は、玲奈のように人との関わりを避けていた自分に無理やり近づき、友達だと言ってくれた。
その言葉は、玲奈にとって思いがけないもので、どこか心の奥に温かいものを残した。
──私は、これからどうしたいんだろう。
その答えが今でも見つからない。
だから、彼に会えば、少なくともその答えを探る手がかりを得られるかもしれないと思った。
「鳴神翔太郎、くん……」
その瞬間、玲奈の部屋の窓ガラスが無遠慮に開かれ、月の光が静かに差し込んできた。
まるで何かが壊れたような、時が止まったような感覚を覚えた。
「呼んだか?」
窓枠を跨いで入り込んできたのは、まるで月明かりに溶け込むように、ひときわ美しく輝く少年の姿だった。
彼の顔は、満月の光を受けて輝き、その影が壁に優しく伸びていった。
夜の静けさの中で、彼の存在はまるで夢のように浮かび上がる。
その瞬間、玲奈は思わず息を呑んだ。
目の前で展開されたその光景があまりにも突然で、そして美しく、あまりにも予想外すぎて、心臓が止まったかと思った。
まるで世界が止まったような、時間の流れが一瞬で凍りついたかのような錯覚に陥った。
「よう、一週間ぶり」
その声に、玲奈は心が震えた。
思わず言葉を飲み込みそうになる。
翔太郎が、自分の心に無遠慮に入り込んできた瞬間。
彼の存在はもはや、玲奈の世界の一部となっていた。
彼がどんな時に現れるか予測もできなかったし、こんなタイミングで目の前に現れるなんて思いもしなかった。
「鳴神くん……? どうして、ここに──」
玲奈が驚きながらも問いかけると、翔太郎は軽く肩をすくめて笑う。
「決まってんだろ」
その一言に、玲奈は胸の中で何かが跳ねるのを感じた。
彼が無遠慮に、自分の世界に足を踏み入れてきた。
あまりに唐突で、そして衝撃的なその再会に、玲奈の胸は強く鼓動を打ち続けた。
会いたいと思っていた相手が、目の前にいる。
自分が本当にやりたいこと、そして本当の気持ちが何なのか、きっと翔太郎に会えば、答えが見つかるような気がした。
彼が来たことで、玲奈の中で何かが動き出した。
「友達の家に──遊びに来たぜ」
翔太郎がそう言って笑った。
この瞬間、自分の中の迷いが少しずつ晴れていくような、そんな感覚を覚えた。