第一章18 『踏み込む覚悟』
あの日から、翔太郎が玲奈に電話をかけるのは、もはや毎日習慣のようになっていた。
日が沈み、街が静寂に包まれる頃、彼はスマートフォンを手に取り、いつものように玲奈の番号を押す。
コール音が数回鳴り、それから少しだけ間が空く。
『もしもし』
いつもの、少し眠たげでそれでいて澄んだ玲奈の声。
翔太郎は無意識に口元を緩めた。
「よう。今日も話し相手が欲しくて電話したぞ」
『学園にお友達はいないんですか?』
「こんな風に電話する人はまだいないな。何人かとは連絡先を交換はしたけど」
『……』
「玲奈?」
『なんでもないです。それで、今日は何の話題を提供してくれるんですか?』
玲奈が感情を感じさせない声色ながらも、話題の提供を要求してくる。
少し前までは、わざわざ毎日電話しなくてもいいのでは?と呆れ気味だったが、最近はそんなことを言わなくなった。
翔太郎が夜22時過ぎに電話をかけると、玲奈はため息をつきながらも応じ、他愛のない会話を交わすのが習慣になっていた。
「まだ雪村は学園に来ないんだよな」
『雪村くんが?』
「取り巻きの連中は一応来てて、目が合うたび気まずそうな顔されるんだけど、雪村が来ないってのは少し不安かも」
『案外、寂しいんですか?』
「いや、まあどうだろう。一応、出来れば仲良くしたいっていうのが本音だけど」
そんな風に、雑談をするだけで時間が過ぎていく。
通話時間は大体10分前後。
長い時は30分ほど話して、翔太郎が「そろそろ切るわ」と言い、玲奈が小さく頷く。
玲奈が本心で凍也に従っているのならば、こうして翔太郎と会話を続けることもないだろう。
彼女の中のささやかな反抗なのかは翔太郎には分からなかったが、夜の通話に彼女が出ない日は意外にも無かった。
4月24日・木曜日の夜。
その二日間、翔太郎は変わらず夜に電話をかけ、玲奈と話した。
『鳴神くん、本当に毎晩電話してくるんですね』
「って言っても、まだ三日目だろ」
『気を遣わなくて良いと言いましたが』
「いや、こうでもしないと玲奈の様子が分からないしさ。休学中の間は、学園で何があったか教えてやるって約束しただろ?」
『……でも、兄さんに聞かれたらまずいです』
「だからって、気にして何もしないのはもっとまずいだろ」
玲奈は何かを言いかけて、結局黙った。
それ以上は否定しなかったから、翔太郎もそれ以上は何も言わず、学園での出来事を話し続けた。
玲奈の返事は控えめだったが、それでも会話を続けるだけで、ほんのわずかでも彼女の気持ちが軽くなればいいと思った。
──しかし。
その日の晩、電話が突然切れた。
「──玲奈?」
唐突な終話音に、翔太郎はスマートフォンの画面を見つめる。
電波が悪かったのかと思い、もう一度かけ直す。
コール音が鳴る。
鳴る。
鳴る。
──出ない。
もう一度かけるが、やはり応答はなかった。
呼び出し音が鳴るだけで、留守番電話にすら繋がらない。
それまで日課になりつつあった出来事が、いとも簡単に断たれた瞬間であった。
まるで、玲奈という存在がすべての繋がりを絶たれ、どこか遠くへ行ってしまったような──そんな感覚に、翔太郎は静かな焦燥を覚えた。
窓の外を見上げる。
月は静かに輝き、冷たい夜風が吹いていた。
嫌な予感がする。
理由も根拠もない。ただ、胸の奥がざわつく。
──何かが起こっている。
そう確信した翔太郎は、再び玲奈の番号を押し、コール音を聞きながら、夜の静寂に身を預けた。
♢
4月25日・金曜日の放課後。
放課後の零凰学園は、部活動や課外授業に向かう生徒たちでまだ賑わいを見せていた。
しかし、そんな喧騒とは無縁の場所──学園の正門前に、一人の男が立っていた。
氷嶺凍也。
白のロングコートを纏い、端整な顔立ちに冷たい威圧感を纏う男。
並の生徒なら、目を合わせることすらためらうほどの存在感を持っていた。
そして、彼の視線の先には翔太郎がいた。
「やあ、鳴神翔太郎くん」
「アンタは……」
翔太郎が歩み寄ると、凍也は微動だにせず、静かに口を開いた。
「鳴神くん。忠告は済ませたよね? 僕は、君が妹にとって必要ないと告げたはずだよ」
「何の話だ?」
「僕が気付いていないとでも思ったのかい?」
「送り迎えの話か? だからアンタの言う通りにして、送り迎えは辞めるって方向になっただろ」
最も、玲奈は今、休学して学園にすら行けてない訳だけだが。
「そっちじゃない。──僕の目を盗んで、妹に関わるなんて、随分と勝手をしてくれたじゃないか」
「……」
「妹には、ある程度の折檻は済ませておいた」
その声音には、薄らとした嘲りと冷淡な支配欲が滲んでいる。
翔太郎は無言のまま立ち止まり、鋭い視線を凍也へ向けた。
「玲奈に何をした」
凍也は僅かに口元を歪める。
「心配しないで欲しいな。それ相応の教育を施したまでだよ」
「教育?」
「なに、多少は痛みで分からせる必要があったと思うけどね」
その一言で、翔太郎の拳が音を立てて握られた。
玲奈の電話が突然繋がらなくなった理由。
最悪の予感が、現実になる瞬間だった。
翔太郎は無意識に拳を握る。
玲奈が電話に出なかったこと。
その原因を最も聞きたくなかった相手から、最も聞きたくない形で突きつけられた。
──妹を殴る兄貴など、聞いたことがない。
「アンタ、玲奈をそんな風に縛り付けて、それで本当に満足か?」
「満足? いや、当然の義務を果たしたまでだよ。玲奈は氷嶺の名を背負って他の家に嫁ぐ者だ。そんな人間が当主である僕の意向に従うのは当然だろう?」
凍也はまるで、「玲奈がどう思うか」など最初から考慮する必要もないとでも言うように、当然の事実を述べるような口調で言った。
玲奈の意思などどうでもいい。
氷嶺家の一員として、当主の命令に従う。
それこそが彼にとっての当たり前なのだ。
翔太郎は奥歯を噛みしめた。
「わざわざ学園まで来たんだ。俺に何か用があって来たんだろ?」
「よく分かってるじゃないか。鳴神翔太郎」
凍也は一歩前に出た。
「玲奈に二度と関わらないと約束しろ。それができるなら、妹の休学を解除しようじゃないか」
「俺がここで口約束して、アンタがそれを信じる人間とは思えないけどな」
「ああ。だからこそ、僕は君の自主退学を要求しよう。要求しているのはこちらだから、もちろん学園の転校に際しての費用は氷嶺家で負担する。君が玲奈のことを本当に思うなら、それが一番賢い選択だとは思わないかい?」
「……」
やはり、そう来たか。
つまるところ凍也のやろうとしていることは、玲奈の環境を元に戻すということだ。
鳴神翔太郎という異物が現れた事で、多少なりとも、玲奈に心身に影響が出ていることが凍也にとっては許せなかった。
つまり、その原因である翔太郎が居なくなることで、学園は元の空気に戻り、その中で玲奈を返すという事になる。
「それとも、やはり自分の身の方が大事かい? それならそれで良いけどね。玲奈はこのまま氷嶺家で教育するから」
「つまり、今の玲奈はアンタのせいで家から出れないって事なんだな」
「僕のせいじゃない。君のせいさ」
「俺のせい?」
「君があの子に余計な情を移すから、玲奈は無駄な感情を抱いた。……それがどれほど愚かなことか、理解させる必要があったんだよ」
無駄な感情。
友達と遊ぶこと。
帰り道を誰かと歩くこと。
たったそれだけのことで、玲奈は教育されるべき存在に成り下がるのか。
──そんな考えを持つ人間を、翔太郎は知っている。
目の前の男と、かつて自分を落ちこぼれだと冷遇した鳴神家の兄たちが重なった。
玲奈は、こんな男のもとで生きてきたのか。
翔太郎は凍也を睨みつけながら、ゆっくりと口を開いた。
「無駄な感情って何だよ。友達と遊んだり、帰り道を一緒に帰ったり、ただ電話することが玲奈にとってどんな悪影響があるんだよ」
「────」
翔太郎の冷静な一言に、凍也が僅かに眉を吊り上げた。
氷嶺家の環境を何も知らないからこそ言える無神経な発言が、酷く癇に障る。
一方、翔太郎も奥歯を噛みしめていた。
玲奈はずっと孤立していた。
家でも、学園でも、誰にも心を許せずにいた。
それがようやく変わろうとしていたのに──目の前の男は、それを平然と踏みにじったのだ。
「君が退く気がないのなら、それでも良い」
凍也は冷笑を浮かべ、言葉を続ける。
「君にとって、雪村くんは大した障害では無かったらしい」
「──っ」
「彼らを差し向けたのが僕であると、もう察しはついているんだろう?」
悪びれる様子もなく、凍也は告げた。
それどころか、自主退学しない限り手を緩めるつもりはないとまで言い切る。
「学園には、推薦生の君をよく思っていない者がまだまだいる。僕が一言声をかければ、君を排除しようとする者はいくらでも出てくるだろうね」
それも事実だった。
雪村だけではなく、クラス内では影山も推薦制度を否定している。
もっとも、影山は喧嘩を売られない限り、自分から仕掛けるタイプではなさそうだが。
「随分、平然と卑怯な真似ができるんだな。それでも本当に名家の当主か?」
「僕が直々に君を叩き潰しても良いんだけどね。さすがに国から認められた能力者が学生を潰したとなると、他の名家への示しが悪い。それに、妹は縁談も控えていることだし」
凍也の目には、迷いの色が一切なかった。
玲奈を支配し、自分の手の内に留めておくことしか考えていない。
「さあ、どうする? 君の答えは二つに一つだ」
翔太郎は拳を握りしめたまま、目の前の男を睨みつける。
屈するつもりはない。
だが、今ここで殴ったところで、何も変わらないことも理解していた。
「玲奈に伝えときな。氷嶺凍也」
「ん?」
「俺は退学もしないし、絶対に玲奈のことも見捨てない。それだけは変わらないってな」
その言葉に、凍也の表情が僅かに変わった。
冷笑は消え、代わりに目の奥に黒い感情が滲み出す。
「……」
微かな沈黙の後、凍也の左手がすっと上がる。
一瞬、空気が張り詰めた。
翔太郎は咄嗟に身構える。
全身の神経が研ぎ澄まされ、戦闘態勢へと移行する。
——来る。
そう確信した瞬間──
「……ここでは駄目だな、人目が多すぎる」
凍也は目を閉じ、すっと左手を下ろした。
その動作は冷静そのものだったが、その場の空気は凍りついたままだった。
さっきまでの威圧感が残滓のように漂い、肌にまとわりつく。
「また近いうちに学園に来る。その時、もう一度話をしよう」
「何度話をしても、俺の気持ちも答えも変わらないと思うぞ」
翔太郎は睨みつけるように言い放つ。
すると──
「──あまり調子に乗るなよ、低俗な推薦生が」
突然の、氷の刃のような声音。
先ほどまでの冷静な態度とは明らかに違う、冷酷で凍てつく殺意。
「君がこうして凍えずに立っていられるのも、氷嶺家当主たる僕の慈悲であると知れ」
直後、翔太郎の背筋に鋭い悪寒が走った。
まるで、氷の牢獄に閉じ込められたかのような感覚。
凍也がこの場で殺す気になれば、本当に行動に移していたのではないか──そう錯覚させるほどの威圧だった。
だが、翔太郎は一歩も退かず、ただ睨み返す。
数秒の沈黙ののち、凍也はその場を踵を返して去っていった。
冷気の残滓だけを残して。
翔太郎は静かに拳をほどき、深く息を吐く。
──今のは、威嚇か。
それとも、警告のつもりか。
どちらにせよ、迷う理由はなかった。
電話を切断したのは、やはり凍也で間違いない。
そして、玲奈は今も──あの家の中で閉じ込められている。
翔太郎は低く呟いた。
「……そろそろ動く時かもな」
凍也の背中を睨みつける。
玲奈をこのまま放っておくつもりはない。
そして──この男に、いつまでも好き勝手させるつもりもない。
♢
その日の夜。
アパートの狭い一室。
机の上には開きっぱなしの教科書と、冷めたままのカップ麺。
しかし、翔太郎の視線はそれらを捉えていなかった。
彼の手にはスマートフォンがある。
画面には一人の連絡先が映っている。
剣崎大吾。
翔太郎をここまで導いてくれた男で、彼が世界で最も信頼を寄せる人間だ。
迷いはあった。
けれど、今日の凍也とのやり取りを思い出した瞬間、その迷いは消えた。
翔太郎は深く息を吸い、通話ボタンを押す。
呼び出し音が二回鳴ったところで、聞き慣れた低い声が応じた。
『久しぶりだな翔太郎。どうした、こんな夜遅くに』
「先生。今、時間取れるか?」
『今はホテルだ。何かあったのか?』
すぐに異変を察するあたり、長い付き合いなだけあって流石だった。
翔太郎は部屋の窓際に座り、重い口を開いた。
「ちょっと、この前話した氷嶺玲奈のことで相談したいことがあって」
『話せ』
その言葉に、翔太郎は学園での四月に起きた出来事を語り始めた。
玲奈の休学、雪村の件、凍也の差し金、そして今日の脅迫。
剣崎は途中で口を挟むこともなく、ただ静かに聞いていた。
話し終える頃には、翔太郎はいつの間にか拳を握りしめていた。
思い出すたびに込み上げてくる怒りを、必死に押し殺しながら。
そして、電話越しに剣崎が静かに問いかけた。
『翔太郎、お前に一つ聞いておきたい事がある』
剣崎の声が静かに響く。その口調はまるで、何かを見抜かれているような鋭さを持っていた。
「なに?」
翔太郎の返事は簡潔だったが、その裏には決して揺るがない思いが込められていることが伝わる。
『お前は会って一ヶ月も経ってない同級生を、なぜそこまでして助けようとする?』
その問いは、誰もが感じる疑問だった。
翔太郎自身も、この疑問を意識していないわけではなかった。
普通、こんな短い間に出会った人間のために、ここまで踏み込むことはないはずだ。
それができるのは、普通の人間ではない、と思うかもしれない。
だが、翔太郎はすぐに答えを出していた。
「玲奈の環境が、昔の陽奈にそっくりなんだ」
その言葉を口にした瞬間、胸の奥で何かが鳴った。
過去に蓋をしていた記憶が、ふとした拍子に溢れ出す。
「自由なんてどこにもなくて、家のしきたりと、決められた未来に押し潰されそうになって、それでも必死に生きようとしてる」
その言葉を続けると、今度は翔太郎自身がその痛みを感じた。
陽奈も玲奈も、どうしても重なって見えてしまう。
決して自由を得られない環境で、必死に自分を作り上げていく姿。
それはまるで、翔太郎が守りきれなかった妹の姿そのもので。
「でも──心のどこかでは、きっともう諦めてる」
翔太郎の声は震えていなかった。
だが、その言葉にどこか力がこもっていた。
心の中で、過去の悔恨がうねりを上げる。
あの時、陽奈を救えなかった自分を、今もずっと責め続けている。
『……』
剣崎は一言も発さない。
だが、その沈黙は決して無言ではない。
翔太郎の言葉の重さを噛みしめているようだった。
「だから……」
翔太郎の声が少しだけ強くなった。
「だから──今度こそ助けたい。あの子の力になりたい」
『その子は、お前の助けは望んでないかもしれないぞ。本心で兄に従ってる可能性も無くはない』
「かもしれない。俺が助けたいって思うのも、結局のところただの自己満足だよ」
『だったら──』
「でもそれは、玲奈と直接会って話をしてみない限りは分からない」
『……』
「少なくとも、側から見ると陽奈みたいな境遇の子を、もう一度見捨てるような真似は俺には出来ないよ」
その言葉に、翔太郎の胸の中にあったすべての迷いが消えていった。
あの時の陽奈に対する後悔と、悔しさと、無力感を乗り越えるために、
今、自分ができる最善のことをしなければならない。
その一言に、これまでのすべての思いが込められていた。
電話の向こうで、剣崎が微かに息を吐く音が聞こえる。
その吐息の中に、翔太郎が感じ取るものは、まるで一緒に戦う決意のようなものだった。
『……そうか』
剣崎の一言は短かったが、その後ろにある意味を翔太郎は理解していた。
剣崎が何を言いたいのか、それが分かった。
ただの一言ではなかった。それが翔太郎の決意を試すかのように、温かくも鋭い。
短く、けれどどこか納得したような声だった。
そして、剣崎は思い切ったように言った。
『だったら、強行突破しかねぇな』
「強行突破?」
翔太郎はその言葉をすぐに理解できなかったが、剣崎の響く声から、それがただの冗談ではないことはすぐに分かった。
『そうだ、お前が助けたいって気持ちが本当なら、氷嶺玲奈を家から連れ出せばいい。正面から堂々とな』
「あの……でも、例のフードの女がまた来るかもしれないんだよ? 凍也の言う通り、氷嶺家が玲奈にとって一番安全な場所なのは間違いないんだし、もしまた襲撃されたら──」
『だったら、お前が守ってやればいい』
剣崎は一切の迷いを見せず、鋭く言い放った。
『いいか、翔太郎。仮にフードの女が現れようが、その兄貴が何を仕掛けようが、彼女を氷嶺家から引き剥がして、普通に学園に通わせることがお前の目的なんだろ? 凍也が玲奈の安全を盾に取るなら、お前が玲奈の代わりに盾になればいい』
翔太郎はその言葉に強く息を呑んだ。
自分が玲奈を守る──それは、今まで選択肢にはあったが、実行はしていなかった。
陽奈を守れなかった自分を、翔太郎はどうしても守り手として肯定できなかったからだ。
「俺が……盾に?」
『そうだ、お前ならきっとできる』
剣崎はその言葉を、強く、信じたように発した。
翔太郎には、まだ自分でも気づいていない強さがあると信じているのだろう。
『幸い、その子は十傑なんだろ? スクールマネーも大量に持ってるはずだ。しかも放課後に学園島の施設に、特に遊びに行ってないなら浪費もしていない筈だ。それを使えば、女子寮に移れるから住む場所は簡単に変えられる』
「確かに」
翔太郎はつい口を挟んだが、その思いをすぐに打ち消した。
でも、やっぱり引っかかる部分がある。
自分が玲奈を助けることができるのか──心の中で、迷いが渦巻く。
『まあ、もしその子の寮費が足りなくなった場合は……翔太郎、お前が何とかしろ』
「費用を何とかしろって言われても、俺1162位でスクールマネーもあんまり持ってないし……」
剣崎の声が少し冷たく、しかし確信に満ちて響く。
『違う。何も女子寮に移るだけが選択肢じゃないって事だ』
「というと?」
剣崎はしばらく沈黙を保ってから、思い切り言い放った。
『最悪、その子の了承を取って、俺が契約したそのアパートに住ませてやれって言ってんだ』
「なっ──」
翔太郎は言葉を詰まらせ、驚きと動揺が一気に顔に浮かんだ。
その提案がまさかの同居だなんて――どうしても実感が湧かなかった。
すぐにその言葉を否定したくなったが、口をつぐんだ。
『お前の覚悟はその程度か?』
剣崎の声には、怒りともとれる冷徹な響きがあった。
何も分かっていない自分が愚かに思え、翔太郎は一瞬、息を呑んだ。
『縁談が決まっている女を連れ出すって言うのは、そういうことだ。彼女だけでなく、氷嶺家全体の問題にもなるから、お前の我儘と自己満足を押し通すなら、その全責任を負う必要がある』
その冷たい言葉に、翔太郎は自分の胸の奥で何かが弾けるような感覚を覚えた。
確かに、自分は玲奈を助けると言っても、最初から彼女への逃げ方を提案しているだけで、逃げた先のことは何も考えていなかった。
彼女を本当に守る覚悟なんて、自分にはまだ無かったのだ。
『とはいえ、同居は最終手段だ。だけど、もしその子を助けたいという気持ちが本物なら、どこまで覚悟を決められるかが試される時だ。彼女自身がどうしたいかも大事だが、お前が何をするか、それで決まるんだ』
「……分かった」
翔太郎は深く息をつき、強く覚悟を決めた。
それでも胸の中で揺れる思いを抑えきれず、言葉にすることができなかった。
自分の覚悟が、ここで決まるのだ。
玲奈を助けるためには、自分の心の中で決着をつけなければならない。
でも、気になることがまだ残っている。
「でも、ここまで相談しておいてだけど、氷嶺家が黙って無いと思う。学園って親の許可がなければ休学解除って出来ないんじゃないか?」
『そんな事はない。高校はもう義務教育じゃないからな。学園側からしても本人の意思が一番に尊重される』
「学費を盾に氷嶺家が玲奈を脅すって可能性も──」
『お前、忘れたのか?』
剣崎が淡々と言い放つ。
『零凰学園は国家主導の学園で、個人の学費は政府が全額出してる。生徒や家庭への負担は一切存在しないから、学費を理由に保護者が無理やり退学させることはできない。つまるところ、玲奈が家を出ることさえ決めれば、氷嶺家の当主だろうが何だろうが手出しできないんだ』
「……ってことは」
『そういうことだ。単純に氷嶺家の嬢ちゃんに家出の相談をしろってこと』
翔太郎は言葉を失った。
まさかそんな選択肢があるとは思ってもみなかった。
『大事なのは、その子本人がどうしたいかだ』
「どうしたいか……」
『名家生まれじゃ、家に縛られてる能力者っていうのもそこまで珍しい話じゃない。お前が説得に来たとしても、拒絶される可能性の方がずっと高いだろうな』
「……」
翔太郎はその言葉を静かに受け入れた。
自分がどんなに強く助けようとしても、玲奈の心が決まらなければ無意味だ。
そしてその心を動かすのは、自分の手にかかっている。
『だからこそ、お前が一緒に考えてやれ。家に縛られたままじゃ、その子はずっと笑えないだろ?』
剣崎の声は、珍しく優しい響きを持っていた。
翔太郎はその声を聞き、ふと立ち止まる。
自分が玲奈を助けたい理由――それが、心のどこかで自己満足であることを、やっと認めた。
「……分かった。やってみる」
『いい返事だ。それじゃ、事が済んだらまた連絡するんだ。こっちも夜空の革命の情報は引き続き集めておく。何かあったら俺からも連絡しよう』
「ありがとう。先生」
通話が切れた後も、翔太郎はスマホを握ったまま、しばらく動けなかった。
窓の外に広がる夜の街。
さらにその向こうに、玲奈が閉じ込められている氷嶺家がある。
「でも、あの子は家から連れ出される事を望んでいるのか?」
その言葉は、誰に言うでもなく、ただ静かに夜の闇に消えていった
翔太郎の心には、どうにか何とかしてやりたいと思いつつも、心のどこかで迷いが残っている。
次に玲奈と話せたとして、彼女から拒絶された時、助けたいという気持ちがブレてしまわないか、それだけが不安でならなかった。