第一章15 『策謀と爆発』
4月18日・金曜日。
少し時間は遡り、まだ翔太郎と玲奈が学園に残っており、凍也が車で迎えに行っている最中の出来事だ。
白スーツに身を包んだ氷嶺凍也は、学園島内を走る車の窓から、とある生徒たちの一行を見つけた。
雪村真──確か生徒名簿ではそんな名前だった。
中堅階級の異能力一家の出身で、氷嶺家とも少し前から繋がりのある家系。実力はランキング17位。
そして何より、かつて玲奈に近づこうとして拒絶された過去を持つ。
凍也の口元が僅かに歪む。
「……使えるな」
目の前の少年は、玲奈に対して未練と屈辱を抱いている。
そこに憎しみの燃料を注いでやれば、簡単に焚き付けられるだろう。
丁度、そろそろあの邪魔な少年を排除したいと考えていた。
自分が直接手を下すのではなく、玲奈のクラスメイトという立場の者に動いてもらう方が、遥かにスムーズに事が運ぶ。
「爺や、少し停めてくれ」
「構わないのですか? 玲奈お嬢様を待たせることになりますが──」
「ほんの少しの間だ。構わないよ」
爺やが車を停車させると、凍也はゆったりとした動作で降り立った。
目を向けた先には、何気ない会話を交わしている雪村の一行。
その光景を前にしても、凍也の視線は冷徹に彼らを値踏みするようなものだった。
「雪村真くん、だね?」
「あ?」
話しかけられた白髪マッシュの少年が、訝しげに振り向いた。
耳に幾つものピアスをつけ、態度は悪そう──いや、実際に悪い。
「雪村くん、知り合いか?」
「知らねえな。誰だよテメェ」
凍也は微笑を崩さぬまま、ゆっくりと口を開く。
「僕は氷嶺凍也。2年A組に通っている氷嶺玲奈の兄だ」
その瞬間、雪村を含めた集団の空気が一変した。
凍也が素性を伝えると、雪村を始めとした集団一行が動揺を見せていた。
彼らの反応を見て、どうやら雪村が玲奈に近寄ろうとしていた話が事実だと確信する。
「君は確かランキング17位の生徒だろう? 妹のクラスメイトだから、電子生徒手帳で顔を覚えていたんだ」
「……玲奈の兄貴が、何の用っすか」
雪村の警戒心は明らかだった。
だが、氷嶺家の人間と知ったことで、その態度には僅かに萎縮した色が見える。
──簡単だ。
彼に対し優位に立ち、ゆっくりと落としていけばいい。
「少し妹のことで君に聞きたいことがあるんだ」
「玲奈のことで?」
「ああ。最近、玲奈の帰りが遅くてね」
「……?」
「少し心配しているんだ。学園島には不審者情報もあるし、名家の娘として誘拐の危険性もある。君、何か妹の様子で気づいたことはないかい?」
「──いや、別に……」
「例えば、誰かと一緒にいることが増えたとか?」
「……」
その瞬間、雪村の表情が曇った。
「玲奈は、最近……鳴神って奴とよくつるむ様になりました」
──やはりな。
凍也は無表情のまま心の中で呟く。
「……鳴神。2年生で唯一の新学期からの転入生の鳴神翔太郎くんだね? 確か、この学園で推薦制度を使って入ってきたんだとか」
「ああ、そうだ──そうっす。……多分、妹さんの帰りが遅いのは、鳴神と一緒に居るからで──」
「やはりそうだったのか」
その言葉に込められた冷たさに、周囲の空気が凍りつく。
雪村たちは無意識のうちに背筋を伸ばし、凍也の表情を窺った。
実際には玲奈は帰りが遅くなったわけではない。
玲奈の帰りが遅いという事実は何処にもない。
むしろ、帰りはしっかりとした時間に氷嶺家に帰宅している。
だが、問題はそこではない。
本当の問題は、帰宅時に鳴神翔太郎と一緒という点だ。
車から降りた玲奈は、進級する前に比べて考えられない程に充実したような表情を浮かべていた。
その些細な変化を見逃す凍也ではない。
妹に孤独感を与えて自己肯定感を下げさせる為、できるだけ人と関わらないことを強要していたが、些か最近の妹は目に余る。
原因は、やはり鳴神翔太郎という一人の転校生。
妹が変わり始めている。
それが許せない。
孤独であることに慣れ、誰にも頼らず、誰にも救われず、ただ自分の支配下にいるべき存在が──鳴神翔太郎にという異物によって歪められている。
その事実が、何よりも気に食わなかった。
奴のせいで、妹に何か変化があってはいけない。
玲奈はずっと凍也の下であることを自覚して生きなければならず、誰かと過ごす時間に充実感を求めてはいけないのだ。
「実はね、その鳴神くんっていう子のせいで玲奈が少し困っているんだ」
「──何だと?」
……かかった。
雪村の表情が大きく変わったのを見逃さなかった。
やはり、駒としては完璧だと初対面ながら結論付ける。
凍也は言葉を続ける。
今回は妹を守るため、少しでも彼女の問題を解決しようとしているというフリをして、巧妙に話を進めた。
「鳴神くんという転校生が玲奈に言い寄ってるらしいんだ。どうやら、妹が嫌がっていることも知らずに彼女に近付こうとしている」
「……っ」
「クラスでその兆候は無かったかい? 例えば、玲奈はクラスで鳴神くん以外の誰とも話していなかったりは?」
「……ああ、その通りっす! 授業中も昼休みも、放課後も、いつも鳴神が玲奈の隣を独占してやがる。推薦生の分際で!」
声を荒らげる雪村の顔には、明確な敵意が滲んでいた。
凍也の前という事を忘れているのか、雪村は普段から抱えていた嫉妬や不満を爆発させつつあった。
「やはりそうか。それで、玲奈は必死に耐えてるみたいなんだ。妹はあまり人に頼るタイプじゃないからね」
本当に困った様子で凍也が呟くと、それを聞いていた雪村の取り巻きが、彼に対する不満を好き勝手に言い始める。
「あのストーカー野郎!」
「やっぱり推薦生ってクソしかいねぇんだな」
「雪村くん、どうする?」
周りの取り巻きが雪村に向かって語りかけた。
彼らからしてみれば、思っても見ない話だった。
普段から翔太郎は玲奈と行動を共にし、最近の玲奈は断るどころかむしろ受け入れている様にも取れたのだ。
翔太郎が玲奈を名前呼びしていることもあって、クラスの女子たちは一時期二人が交際しているのではとあらぬ噂を立てた程、今のあの二人の距離感はクラスの誰も近寄れなくなっている。
だが、玲奈の兄が出て来て実態を聞かされた。
それは翔太郎に対し、普段から不満や嫉妬を溜めている彼らにとっては、翔太郎を叩き潰せる大義名分となる。
凍也は静かに微笑む。
彼の本心がどうであれ、雪村の中で翔太郎への敵対心が確信へと変わった。
これでいい。これで十分だ。
「鳴神くんが学園にいる以上、兄として妹を学園に通わせるのもどうかと思ってね。そこでなんだけど、もし良ければクラスメイトの君達から鳴神くんに言ってやってくれないかい? 出来れば、彼が自分から学園に来なくなるのが一番助かるんだけど」
絶好の台詞だった。
願っても見ない好機。
しかもそれが、彼女の実の兄からの頼みであれば尚更だ。
「──ブッ潰す」
握りしめた拳が、僅かに震えている。
激情に駆られた目が、今すぐにでも翔太郎を殴りに行きたいと言わんばかりだった。
「注意の仕方はこっちで決めて良いんすよね?」
「ああ。出来る限り、強めでお願いするよ。妹も本当に困っているんだ」
それは雪村にとって、大義名分。
もう、迷いはない。
「ランキング17位の君を見込んで頼んだんだ。よろしくね、雪村くん」
「──任せて欲しいっす。俺が鳴神をぶっ飛ばすんで」
冷たく言い放った凍也は、振り向きもせずにその場を去っていった。
雪村はその言葉を胸に刻みながら、少しずつ心の中で決意を固めていった。
計画は整った。あとは、駒が動くのを待つだけだ。
冷たく微笑みながら、凍也は背を向けた。
♢
4月21日・月曜日。
週末を挟み、新たな一週間が始まった。
それでも、翔太郎は凍也の言いつけなど意に介さず、いつものように氷嶺家の前まで足を運んでいた。
彼女から拒絶されない限り、何を言われようと関係ない。
しかし、今日は様子が違った。
いつもなら、玲奈を乗せた送迎車が時間通りに門を開けて出てくるはずなのに、その気配はない。
「……?」
不審に思いながら門の前で待っていると、邸内から一人の老人が静かに歩み寄ってくる。
品のある執事服に身を包み、落ち着いた態度で微笑んでいた。
「これは、鳴神さん。おはようございます」
「……あっ、爺やさん。おはようございます」
爺や──氷嶺家に長年仕える老執事。
翔太郎とは、玲奈を通じて顔を合わせる機会が多かった。
彼女を屋敷まで送った後、爺やの運転する車で翔太郎をアパートまで送るのが日課になっていたため、車内で世間話を交わすことも珍しくない関係だった。
だが、今日の爺やの表情はどこか沈んでいる。
「爺やさん、玲奈は? いつもの時間に出てこないみたいですけど……」
「……実は、お嬢様は今日からしばらく休学することになりました。当主様のご命令です」
「何か、あったんですか?」
思わず、翔太郎の眉が跳ね上がる。
爺やは静かに首を横に振った。
「申し訳ありません。氷嶺家の内情、もとい当主様の意向ですので、詳細をお話しする訳にはいきません」
「……そうですか」
「ただ原因を挙げるとするなら、やはりお嬢様が変化した点でしょうか。当主様の意向を背く形ではあったようですが」
「変わった? 玲奈が?」
「ええ。あれほど他人を寄せつけなかったお嬢様が、この二週間で貴方と過ごすようになってから……時折、とても人間味のある表情を浮かべるようになられました。進級する前とはまるで違います」
爺やの声音はどこか柔らかかった。
まるで孫の成長を見守る祖父のような、温かみのある口調だった。
「私自身、正直に申し上げて意外でした。しかし……とても嬉しくもありましたよ。お嬢様は口では素直ではありませんが、側からみれば、貴方と共にいる時間に満足されていたとよく分かります」
爺やは目を細め、静かに翔太郎を見つめた。
「お嬢様がこのまま、また孤独に戻ってしまうのはあまりにも忍びない」
「……」
「使用人の身で出過ぎた事を言いますが、どうか、お嬢様をご友人として気にかけてあげてください」
爺やの言葉には、ただの執事としての忠義以上のものがあった。
それは、玲奈という一人の少女の幸せを願う、長年の家族同然の想いだった。
翔太郎はふっと息をつき、目を細める。
「……氷嶺家にも、アイツをちゃんと心配してくれる人がいたんですね」
玲奈の身を案じる者が、彼女の家の中にも確かに存在する。
それが今は、翔太郎の心を少しだけ軽くした。
だが、それと同時に、爺やの言いたいことが遠回しに理解できた。
おそらく──翔太郎が学園にいる限り、あるいは“あのフードの女”を捕まえるまでは、玲奈はこの家から出てこないだろう。
確かに、彼女の安全を最優先にするのなら、氷嶺家の中が最も適しているのかもしれない。
しかし、それで本当にいいのか?
──あの時の玲奈の顔が脳裏に焼き付いて離れない。
『……これまで、ありがとうございました。鳴神くん』
別れを告げるような、悲しげな表情。
この学園で初めてできた友人に、あんな顔をさせたまま、黙っていられるはずがなかった。
(玲奈が望んでいるのは、そんな事じゃないだろ)
だからこそ、今は目の前の爺やを少しでも安心させるために、翔太郎はいつも通りの調子で笑ってみせた。
「勿論です。玲奈は俺の大切な友達ですから」
その言葉に、爺やは静かに目を細め、小さく頷いた。
♢
結局、玲奈は一時的に休学ということになり、翔太郎は大幅に遅刻。
二時限目の途中から、何食わぬ顔で授業に参加した。
授業終わりの休み時間。
翔太郎の席の周りには、ぞろぞろと何人もの生徒が集まってくる。
「よう、随分な重役出勤ぶりだな。推薦生サマよぉ」
先陣を切って声をかけてきたのは、雪村だった。
その傍らには、彼とつるんでいる取り巻きたちが、いかにも意地の悪そうな笑みを浮かべている。
「何だ、またお前かよ。雪村」
翔太郎は呆れたように椅子の背にもたれたが、雪村は構わず話を続ける。
「玲奈が休んでる理由、知ってるか? お前に言い寄られてウンザリしてるんだとよ」
雪村の口調が悪辣に歪んだ。
彼の言葉に続くように、周囲の取り巻きがニヤニヤと口を開く。
「今までもそうだったけどよ。推薦生のくせに、十傑に近づくとかマジでムカつくんだよ」
「身の程を弁えろって話だよなぁ」
「お前みたいな奴がいるから、十傑が休むことになったんじゃねぇの?」
「クラスの空気にも関わるし、いい迷惑だぜ。ほんと」
「いっそ、お前も休学すれば? そしたら誰も困らねぇよ」
取り巻きたちは次々と好き勝手に言い募りながら、あからさまな嘲笑を向けてくる。
しかし、翔太郎は動じることなく、無言のまま彼らの様子を見ていた。
「お前は朝のホームルームに来てないから知らねえかもだけどよ。ちょうど今日の五時限目、実戦異能訓練で組み手があるんだよなぁ」
「で?」
「俺たちと勝負しろよ」
純粋に聞き返すと、雪村がニヤリと笑って返した。
「俺たち? 一対一じゃなくてか?」
「当たり前だろ。わざわざ一対一やるのも面倒だから、さっさと潰してやるよ。手間を省くんだよ。推薦生を確実に潰す為の効率化ってやつだ」
「タイマンじゃなくてリンチ宣言とは、また随分と大きく出たな。てか、授業の組み手で一対多ってアリなのか?」
「アリだよ。お互いの同意があればな」
雪村もとうとう手段を選ばなくなってきている。
思った事をそのまま言うと、雪村を含んだ集団が腹を抱えて笑った。
「拒否権あると思ってんのか?」
「推薦生サマを、ボッコボコにしてやるからよ」
「逃げたかったら逃げても良いぜ。授業で無事でも、放課後にどうなるか分からねえけどな」
「強がり言うのも今のうちだぞ」
取り巻きたちが一斉に含み笑いを漏らし、翔太郎を囲むようにして立ちはだかる。
「それにな──玲奈の兄貴も、お前には迷惑してるみたいだぜ?」
雪村がわざとらしく肩をすくめながら告げた瞬間、翔太郎の目が細くなる。
「先週の金曜の放課後に、ランキング17位の俺を見込んで、わざわざ頼み込んできたんだ。玲奈の兄貴は注意の仕方は問わないっつってたからな。身から出た鯖だと思って受け入れろよ。推薦生サマよ」
(やっぱり、そういうことか)
玲奈の休学が決まったタイミングで、都合よく雪村たちが絡んでくる。
「この学園に推薦されてまで入学してきたんだ。正当な実力があれば、一対多でもハンデにならねぇよな?」
しかも、わざわざ玲奈の兄としての立場を強調してくるあたり、これは間違いなく奴の仕掛けた策略だ。
(つまり、ここで俺がどう動くかも、試されてるってことか……)
翔太郎は小さく息を吐くと、ゆっくりと立ち上がった。
「分かった」
「……あ? テメェ、状況分かってんのか?」
「どうせ、お前らも退く気はないんだろ? ここで断ったとしても、学校が終わった後に場外乱闘を仕掛けられるんなら、ルールの決まった授業で決着付けた方が健全だしな」
翔太郎は肩をすくめながら、周囲をぐるりと見渡した。
雪村たちの表情には、既に勝ち誇ったような色が浮かんでいる。
ここで何を言おうが、彼らは自分を標的にし続けるつもりなのだろう。
本当なら、こんなくだらない争いに異能力なんて使いたくない。
力は、自分のために振るうものじゃない。
戦うなら、誰かを守るために戦いたい。
だが、今の状況では何もしないという選択肢はあり得ない。
ここで何もしなければ、今後もずっと同じことの繰り返しになるだけだ。
それなら、いっそ学園のルールに則って、この場を正面から打破するしかない。
「五時限目にやるんだろ? なら、まとめて来いよ」
「────っ」
あくまで止むを得ずという雰囲気を崩さずに応じると、雪村たちは一瞬驚いたような顔を見せる。
だがすぐに、不敵な笑みに変わった。
「……へ、へぇ、随分と物分かりがいいじゃねぇか」
「後悔すんなよ、推薦生サマ」
「まあ、せいぜい組み手の最中に泣き言吐くなよ?」
取り巻きたちが次々と冷笑を漏らすが、翔太郎は淡々とした表情を崩さない。
彼らの挑発に乗ったわけではない。
ただ、このままではどうせ逃れられないのなら、受けるしかないだけだ。
(玲奈がいないこの学園で、俺はどう動くべきか……)
それを見極めるためにも、この戦いは避けられない。
翔太郎は静かに拳を握ると、再び自分の席へと腰を下ろした。




