第一章10 『友達』
翔太郎は帰宅するなり、すぐにスマホを取り出し剣崎へと電話をかけた。
数回の呼び出し音の後、聞き慣れた声が応じる。
『どうした、翔太郎。こんな時間にしては、ずいぶん焦った声だな。まさか、もう学園で根を上げたなんて言うんじゃ────』
「よく聞け、先生。今日、夜空の革命の尻尾を掴んだかもしれない」
『……何だと?』
一瞬の沈黙の後、剣崎の声が低くなる。
今までの軽い調子とは打って変わり、鋭い緊張感がにじんでいた。
翔太郎は短く息をつき、今日起こった出来事を一通り説明した。
氷嶺玲奈という少女が黒フードの女と接触し、そこで自分が助けに入ったこと──そして、黒フードの女が発した決定的な一言。
『やっぱり生きてたんだ……?』
電話越しに、剣崎の声が僅かに低くなる。
「ああ。あの口ぶりからして、俺のことを知ってるのは間違いない。幹部格じゃなかったとしても、関係者であることは確実だと思う」
『なるほどな』
剣崎は短く呟くと、一拍の沈黙を挟んだ。
翔太郎が知る限り、彼がこうして黙る時は、何かを慎重に考えている時だ。
『で、その氷嶺玲奈って子は、ちゃんと家まで送ったんだろうな?』
剣崎の声がわずかに低くなる。
「当然だろ。夜空の革命かもしれない連中に狙われて、放っておくわけにはいかない」
翔太郎が即答すると、電話の向こうで小さく息を吐く音がした。
『ならいい。まだ断定はできないが、これでお前の周りが騒がしくなる可能性は高いぞ』
「それは俺も思ってる。でもだからこそ、玲奈の近くにいた方がいいかもしれない」
『……ほう?』
剣崎の声が僅かに興味を帯びる。
翔太郎は言葉を続けた。
「クラスでも隣の席だし、氷嶺家のことも含めて色々と情報を集めやすい。それに、もし夜空の革命が玲奈を狙ってるなら、組織の動きも掴めるはずだ」
剣崎は少しの間、考え込むように沈黙する。
玲奈は氷嶺家の長女だ。
当然、その家系には多くの異能者がいるはずで、鳴神陽奈が狙われたように、組織が有力な能力者を狙う理由はいくつも考えられる。
しかし、問題は彼らが何を目的にしているのか。
玲奈個人に何かしらの価値があるのか、それとも氷嶺家そのものが標的なのか。
『──悪くないな』
剣崎は慎重に言葉を選んだ。
『彼女を助けるついでに、夜空の革命かもしれない連中の動向を探る。翔太郎にとっても、ここでの関わりは無駄にはならないだろう』
「そうだな……だけどあの子自身、あまり周囲に頼るタイプじゃなさそうだし、気付かない内に何か仕掛けられてる可能性もある」
翔太郎は今日の玲奈の様子を思い返す。
縁談の話もそうだが、彼女は一人で背負い込む傾向がある。
それを狙われたのだとしたら、次もまた同じような罠にかかる可能性は十分にある。
「それに、あの子にはもう一つ問題がある」
翔太郎が少し言い淀むと、電話の向こうで剣崎が短く息をついた。
『まだ何かあるのか?』
「さっき黒フードの女の話の中に出てきただろ。縁談の話が来てるらしい。兄貴から強制されてるみたいでな」
『……今どき縁談とか本当にあるのか? 今は令和だぞ。その凍也って奴は、妹の同意なしに縁談を押し通す気か』
剣崎の声に呆れが滲む。
翔太郎も同じ気持ちだった。
『彼女本人は嫌がってるのか?』
「まあ……あまりいい顔はしてなかったな」
あの時の玲奈の表情を思い出す。
ファミレスで一緒にいたときの彼女は、どこか気を抜いていた。
初めて店に子供っぽく興味津々でメニュー表を開き、何処か楽しそうに翔太郎に食べ物の話題を振ってきた。
だが、氷嶺家の屋敷で見た玲奈は違った。
兄の前で彼女はまるで仮面を被ったかのように、冷え切った表情をしていた。
『じゃあ、翔太郎。お前が助けてやれ』
剣崎が当然のように言った。
「……は?」
思わず聞き返す翔太郎に、剣崎はまるで子供に言い聞かせるような口調で続ける。
『友達が嫌がってるなら、放っておくな。お前が助けられるなら、助けてやれ』
「いやいや、縁談とか家の問題だぞ? しかも会ってまだ二日でそこまで仲良くないし、俺が口出しできることじゃ──」
『夜空の革命の件といい、縁談の件といい、お前はたった二日で十分過ぎるほど深入りしてる。それに……お前は、そういうのを見過ごせるタチか?』
翔太郎は言葉に詰まる。
剣崎の言う通りだった。
本当に放っておけるなら、そもそもこんなに気にしていない。
『ただし、距離感を間違えて深入りしすぎるなよ』
剣崎の声が少し低くなる。
『氷嶺家そのものを敵に回したら、彼女のことも、組織のことも探るどころじゃなくなる』
「……言われなくても分かってるよ」
翔太郎は軽く息を吐いたが、胸の奥にはどうしようもない引っかかりが残っていた。
玲奈が狙われた理由。
夜空の革命の真意。
そして──彼女自身が抱えているものを、どこまで知るべきなのか。
「……俺にできる範囲で考えるさ」
『それでいい。お前は昔からそういう奴だった』
剣崎はどこか楽しそうに言った。
翔太郎も釣られて小さく苦笑しながら、通話を切る。
スマホをテーブルに置き、ソファに背を預けながら、翔太郎は天井を見つめた。
──玲奈は本当に、あの家で幸せなのか?
ファミレスで見せた、年相応の少女らしい表情。
家の前で見せた、感情のない人形のような顔。
その落差が、どうにも気にかかって仕方がなかった。
翔太郎は小さく舌打ちし、髪をかきあげる。
「……俺に今何ができるか、だな」
独り言のように呟き、ベッドに転がりながら目を閉じた。
玲奈のこと、夜空の革命のこと──考えるべきことは、山ほどあった。
♢
氷嶺家の門の前に、一見すると場違いと思える制服姿の格好の少年が立っていた。
翔太郎は腕を組みながら、大豪邸を見上げる。
「……改めて見ると本当に凄いな。昨日は夜だったからあんまり見えなかったけど、こうして見るとマジで大豪邸じゃん」
門は威圧感たっぷりにそびえ立ち、手入れの行き届いた庭が奥まで続いている。
豪邸に住む玲奈と、長い間孤児院に住んでいた翔太郎。
勿論、あの孤児院も大切な実家である事に変わりはないが、あまりにも違う環境に、少しだけ遠い世界に来た気分になる。
「だけど、それはそれだな」
そんなことを気にする性格でもない翔太郎は、ポケットに手を突っ込み何気なく門の前で待機する。
「しかし、どうやって呼び出せばいいんだ?」
昨日、玲奈と連絡先を交換する機会はなかった。
インターホンを押せば出てくるかもしれないが、まずはしばらく待ってみることにする。
通学時間が近づけば、玲奈は必ず出てくるはず。
そう考え、翔太郎は門の前で腕を組んで待っていた。
──だが、五分経過。
──十分経過。
登校時間が近付いてくるが、全然出てこない。
「アイツ、まさか寝坊か?」
玲奈の性格的にそれはなさそうだが、昨夜は不審者に襲われたので、不安で眠れなくなったという可能性がゼロとは言い切れない。
「そうなると、やっぱり呼び出すしかないか」
翔太郎はインターホンの方へと歩を進めた。
しかし、ボタンに手を伸ばした瞬間──
「何をしているんだい?」
背後から、低くも穏やかな声が響いた。
振り向くと、白いスーツを優雅に着こなす氷嶺凍也が立っていた。
昨日の夜も会った玲奈の兄。
その礼儀正しい佇まいは変わらず、朝から隙のない出で立ちをしている。
「確か鳴神翔太郎くん、だったかな」
「……おはようございます」
翔太郎は形式的に挨拶を返しつつ、やはりどこか居心地の悪さを感じた。
昨日、一目見た瞬間に本能的に悟ったこと。
それは、凍也が自分の兄たちと同類の人間だということだった。
表面上は穏やかで、紳士的で礼儀正しい。
だが、その奥にあるのは管理する側の冷徹な視点。
それが玲奈に向けられている以上、翔太郎としては良い印象を持てるはずもない。
「それで、朝からウチに何か用かい?」
凍也は冷たい微笑を浮かべながら尋ねる。
「玲奈を迎えに来ました」
翔太郎はあくまで自然に言い放つ。
「昨日のこともあるし、一人で登校させるわけにはいかないと思って」
「なるほど、兄としては妹想いのクラスメイトがいてくれるのは喜ばしいよ。でも一つ言わせてもらうけど、妹が君にそんな事を頼んだのかな?」
「頼まれてないけど、勝手に決めました」
その言葉に、凍也の目が僅かに細められる。
二人の間の空気が徐々に冷え込んでいくが、視線を向けられる翔太郎はどこ吹く風と言わんばかりに、ポケットに手を突っ込んで門の前から動かない。
「随分と強引だね」
凍也は小さくため息をつき、呆れたように肩をすくめた。しかし、その目は笑っていない。
「玲奈は僕の妹だ。家族として、彼女の安全は当然考えているつもりだよ」
その言葉の裏に滲むのは、警告に近い響きだった。
お前が妹のことを考える必要はない、と言外に告げている。
「それなら、なおさら問題ないっすね。俺も考えてるんで」
だが、翔太郎はどこ吹く風といった様子で、軽く肩をすくめる。
まるで凍也の言葉がただの世間話にしか聞こえなかったかのように。
「余計なお世話──そう言っているのが分からないかい?」
「は?」
凍也は静かに言い放った。
目は細められ、声には微かな棘がある。
しかし翔太郎は、それをさらりと受け流すように首を傾げる。
この男は──ただの無邪気な田舎者ではない。
気づかないふりをしているのか、それとも真正面からぶつかるのを避けているのか。
凍也は内心で舌打ちしつつ、淡々と告げる。
「今日、玲奈は氷嶺家で手配した車で学園まで行くと決めている。君は妹を心配してきてくれたんだろうが、無駄な手間をかけさせたね」
翔太郎は一瞬考え込むような素振りを見せたが、次の瞬間、あっさりと頷いた。
「ああ、そうだったんすね。じゃあいいですよ。俺もその車に乗って学園まで行くんで」
「……」
凍也の冷たい微笑が、わずかに歪んだ。
眉が一瞬だけ、ほんのわずかに吊り上がる。
「──図太い神経をしているね」
「よく言われます」
翔太郎は肩をすくめ、まるで他人事のように笑う。
凍也は小さくため息をつき、目の前の少年を値踏みするように見つめた。
「残念だけど、氷嶺家は君の同乗を許可していない」
「そうですか。でも、それなら玲奈に確認させてもらいますよ。アイツが一緒に乗っても良いって言ったら、良いですよね?」
「……」
「昨日みたいなことがあったんだ。車に乗ってるからって、襲われないとは限らないだろ?」
翔太郎の言葉に、凍也の目が僅かに鋭くなる。
氷嶺家の人間でさえも及び腰になっている事態に対し、まるで当然のように首を突っ込む男。
だが、単なる無鉄砲ではない。
危機を理解した上で、それでも玲奈を守ると決めているのだ。
凍也はほんの僅か、翔太郎という存在を厄介に思い始めていた。
「……そう。なら、妹がどう判断するか見させてもらうとしようか。ただ君は今日、一人で学園に行く事になると思うけど」
凍也は微笑を浮かべながら、しかしどこか冷ややかな目をしたまま言い残し、ゆっくりと背を向けた。
翔太郎は門の前で、凍也の背を見送りながら小さく息を吐く。
(……こっちも、アンタがどう出るか見させてもらうとするか)
彼の言葉を額面通りに受け取るほど、翔太郎は世間知らずではなかった。
数分後、門の前で待っていると一人の少女がこちらに近付いてきた。
「……あなた、本当に何を考えてるんですか?」
玄関から現れた玲奈は、呆れたように翔太郎を見下ろしていた。
「迎えに来た」
「必要ありません」
「何言ってんだよ。あの不審者ってまだ捕まってないだろ。さっきすれ違った兄貴から何も聞かなかったのか?」
「聞きました。その上で私も兄と同意見です。一人で学園まで行ってください。通報しますよ?」
玲奈の目が明らかに警戒の色を帯びている。
「一応、昨日は感謝してくれてたじゃん。通報なんてやめようぜ」
「当然です。朝っぱらから家の前で待ち伏せするなんて、あなたの方がどう考えても不審者です」
「不審者扱いって……。席が隣同士のクラスメイトだろ?」
「知りません。とにかく、もう帰ってください」
玲奈は冷たく言い放ち、さっさと迎えの車が駐車している場所へと歩き出そうとする。
だが、翔太郎はそんな態度にひるむどころか、まるで当然のように並んで歩き出した。
「ほら行くぞ」
「だから勝手についてこないでください」
「いや、置いて行かれるのも困るし」
「……私が困るんですけど」
「そりゃないだろ。結構門の前で待ったんだからな? 車に乗せてもらえないと遅刻確定なんだよ」
「知りません。というか、そもそもあなたと一緒に行く約束なんてしてません」
「えー、昨日あんなに仲良く話したのに」
「誰とですか」
「俺と」
「……はぁ」
玲奈は心底呆れたようにため息をつき、腕を組んで翔太郎をじろりと睨んだ。
翔太郎はそんな彼女の反応に、心の中でぼやく。
(一緒に飯も食ったし、雨の中送ってやったのに、ため息つかれるほどのことか?)
玲奈のドライな態度は今に始まったことではないが、それでももう少し愛想があってもいいんじゃないかと思う。
とはいえ、玲奈がそう簡単に懐くタイプじゃないことは昨日一日で十分理解した。
この手の距離感を保つ奴は、孤児院の子供たちにも結構いた。
特に面倒くさいとは思わない。
むしろ、こういう相手には少し強引なくらいがちょうどいい。
それに──こうして押しかければ何とかなるんじゃないか、というのは半ば確信めいた考えだった。
「あなた、本当に図々しいですね」
「まあ、たまに言われるな」
「自覚があるなら直してください」
「そうは言っても、こんな朝っぱらから俺と押し問答してるのしんどくない?」
「しんどいです」
「じゃあ、俺も乗せてってよ」
「……なぜそうなるんですか」
玲奈は呆れたように眉をひそめ、チラリと門の前に止められている黒塗りの車を見た。
翔太郎もその視線を追いながら、ちらほらと向けられる周囲の好奇の目を意識する。
朝から制服姿の少女と男が玄関先で押し問答しているのだから、そりゃ目立つだろう。
玲奈もそれに気づいているのか、うんざりとしたように息を吐いた。
「……分かりました。さっさと乗ってください」
「お、やっと許可が出た」
「許可した覚えはありません。仕方なくです」
「まあまあ、そこは大目に見てくれよ。これでも心配してんだぜ?」
翔太郎は軽い調子で言いながら、当然のように後部座席に乗り込んだ。
「爺や。お願いします」
玲奈は横目で彼を睨みつつも、結局何も言わず助手席に座る。
そして運転手に合図を送ると、車は静かに発進した。
──その様子を、邸宅の窓から一人の男が冷たい眼差しを送っていた事を翔太郎は気が付かなかった。
♢
車内の静けさの中で、翔太郎は助手席に座った玲奈に声を掛けた。
「昨日は大丈夫だったか?」
玲奈は少し驚いたように顔を向ける。
「はい? 大丈夫も何も、帰りはあなたに送ってもらったじゃないですか」
「いや、そうじゃなくて家の中のことだよ。何か、あの兄貴に言われたんじゃないかなって」
一瞬、二人の間に沈黙が流れる。
玲奈の表情が固まり、翔太郎の嫌な予感が的中したことを感じた。
玲奈はしばらく黙っていたが、やがて小さくため息をついた。
「……」
恐らく玲奈の態度からして、普段の行動や人付き合いさえも、凍也によって徹底的に管理されているのだろう。
名家同士の許嫁という立場からして、そのような管理も当然と言えば当然だ。
だが翔太郎には、それが彼女にとってどれほど窮屈で息苦しいことか、少しだけ見当がつく気がした。
不審者に襲われたことを考慮しても、自分が全く知らない男が妹と二人で帰るというのは、確かに警戒されても仕方がない。
凍也が過剰に反応しても、それはある意味役目を果たすことに必死なだけで、過剰反応だとしても責められることではない。
だが、玲奈の顔に浮かぶ微かな不快感はどうしても無視できなかった。
「なぁ、嫌だったら嫌だって、あの人に言ったらどうだ?」
玲奈は軽く肩をすくめ、言葉を返す。
「別に、何も思っていません。というか、家族でもない人に口出しされたくありません」
翔太郎はその答えに少し驚いたが、すぐに謝罪した。
「……確かに今のは出過ぎた真似だったな。ごめん」
すぐさま謝罪するも玲奈からの反応はなく、ただ黙って窓の外を眺めている。
翔太郎は沈黙に耐えかねて、話題を変えようと鞄からスマホを取り出し、玲奈の方へ向けた。
「……なんですか?」
玲奈の冷たい声に、翔太郎は軽い調子で言い放つ。
「連絡先交換しようぜ」
「お断りします」
彼女の即答に、翔太郎は思わず顔を上げる。
玲奈の顔には明らかな警戒の色が浮かんでいた。
「え? なんで?」
「1年生の時から、あなたみたいに男から連絡先を何度も聞かれるのはうんざりしてるんです。正直、断るのすらも疲れました」
玲奈は冷たく答える。
翔太郎は何故彼女がそういう考えに至ったのか、すぐに別の思いが浮かぶ。
雪村を例にしても分かりやすいように、1年生の頃から彼女は様々な男に言い寄られてきたのだろう。
その度に冷たく断り続け、断る事にすら疲れてると来た。
そこから導き出される答えは──
「もしかして俺、ナンパ師か何かだと思われてる?」
「違うんですか?」
「違うわアホ」
今度は本気で驚いたような表情を見せる翔太郎。
その後、ちょっとした間が空き、車内には気まずい沈黙が広がった。
翔太郎はその言葉に少し心外だと感じていた。
普段、どんな風に思われているのか、気になるところだったが、玲奈と同性だったらもっと楽に会話ができるのにと少し考えた。
「とはいえ、あの不審者は俺も追ってるんだ。奴が捕まってない以上、日頃から連絡を取れる状態にあった方がいいだろ?」
「聞いてもいいですか?」
「なに?」
「なぜ、あなたがそこまであのフードの女を追うのか、分かりません。成り行きで助けてもらいましたが、本来であれば後は警備の人たちに任せればいい話では?」
その問いには、翔太郎も即答を避けてしまう。
確かに、玲奈の言う通りだ。
警備の人たちに任せればそれで済む話だ。
しかし、彼がこれほどまでに関わる理由は──
翔太郎は少し考え込む。
夜空の革命の話をしても玲奈を混乱させるだけだろうし、今はこの事を説明する必要はない。
どうすれば納得してもらえるか。
「まあ、確かに警備に任せればそれでいいんだけどさ。俺が関わる理由は──」
翔太郎は少し言葉を濁した後、考えた末に言い訳を作った。
「俺が関わることで、少しでも早くあの女を捕まえることができるから」
「それじゃ答えになっていません」
「だって、もしまた何かあったら、後悔するのは嫌だろ?」
玲奈は無言で翔太郎を見つめた後、冷たく言った。
「つまり、明確な理由はなく、ただ被害者を出さないためにあのフードの女を追い続けているということですか?」
翔太郎はその問いに対して、力強く頷いた。
「まあ、そうだな。ひとまずはそれで納得してくれ」
その言葉には、玲奈に対する気遣いと、警備が手を回しきれない現実が込められていた。
翔太郎はしっかりとした口調で続ける。
「でも、俺が気にしてるのは君の安全第一だから。少しでも早く、この問題を解決したいだけなんだ」
玲奈はしばらく黙って翔太郎を見つめ、その後、肩をすくめて小さくため息をついた。
「あなたが図太い人間なのか、お人好しなのか、もう分からなくなってきました」
「お人好しだと思ってくれてるなら、協力すると思って連絡先をくれない?」
「……」
玲奈は一瞬、言葉に詰まったがすぐに冷静さを取り戻す。
どうやら、翔太郎の言葉にうまく乗せられた気がしたが、ここで断ったところで学園内で人目も気にせず連絡先を聞いてきそうだという予感がしていた。
ならば今、車内で済ませておいた方が後々の面倒を避けられるだろう。
そう考えた玲奈はどこか言い訳がましく感じながらも、諦めたようにスマホを取り出した。
翔太郎がその画面を見て、思わず口を開く。
「……ん? あんまり登録先いないのか?」
「はい。家族と学園の関係者ぐらいで十分ですから」
「マジかよ」
一年以上、零凰学園に通っていて、家族と教師の連絡先しか持っていないなんてあるのだろうか。
何となく、玲奈がどんな学校生活を送っていたのかが、翔太郎の頭の中で浮かんできた。
しかし、その考えを振り払うように翔太郎は玲奈との連絡先を交換し終えた。
「オッケー。わざわざありがとな、玲奈」
玲奈は一瞬、冷たく彼を見つめ、息を吸った。
「──ちょっと待ってください」
「どうした?」
翔太郎が素直にお礼を言いながら、携帯を鞄の中にしまおうとしたその時、冷たい声が車内に響いた。
「鳴神くん。私はあなたに名前で呼んで良いと許可した覚えはありません」
翔太郎は一瞬、驚きの表情を浮かべたが、すぐに軽く肩をすくめて答えた。
「ん? ああ、うん。別に許可されてないし」
なんて事のないように返すと、玲奈の眉が分かりやすいぐらいに吊り上がった。
「なんか名前で呼ぶとまずいのか?」
「……大して親しくもない相手に名前で呼ばれて、周りに変な風に思われたくないです」
「変な風?」
翔太郎にとってはピンと来ない感覚だった。
孤児院では子供たちが全員名前で呼び合っていたため、逆に「名字なんだっけ?」というパターンの方が多かった。
玲奈が雪村の名前呼びを拒絶したのを思い出すが、それも理解できず、むしろ雪村に同情したほどだった。
「……」
一方、玲奈は頭を抱えたくなる気持ちで、翔太郎が自分の気持ちを全く理解していないことに気づいた。
彼女にとって、人付き合いはほとんど経験のない領域だ。
周囲との距離を意図的に取ることが、今の自分のコミュニケーション方法だった。その為、他人、特に異性に対しては、最低限の距離感を保つことが重要だと考えていた。
だが、翔太郎のように、いきなり馴れ馴れしく声をかけてくる人物が現れたら、これまで自分が築いてきた静かな空気感がすべて崩れてしまうような気がしてならなかった。
そして相手が異性なら、その感覚はなおさら強くなる。
「それに氷嶺って呼ぶのなんか嫌なんだよな。ほら、兄貴の凍也と区別付かなくなるし」
「……」
さすがに初対面の時に名前呼びなどはしない。
実際に、心音の時はそうだったし、彼女も下の名前で呼ぶ事を快く許可してくれた為、そうしているのだ。
「それに親しくないって言ってるけど、もう俺たち友達じゃん」
「……はい?」
「だって、一緒に夕飯食ってるし、一緒に登下校してるし、なんなら今さっき連絡先交換したし。……どこか間違ってる?」
全て事実を言っただけなのだが、翔太郎がそれらを淡々と告げた瞬間、玲奈の顔が側から見る分には面白いぐらい固まった。
次の瞬間、玲奈は顔を翔太郎から逸らし、窓の方に向けて視線を戻した。
「え、なぜ目を合わせない? さすがに傷付くんですけど?」
翔太郎の言葉が予想外に響いたが、玲奈は黙ったまま答えた。
「…………ください」
その言葉を聞いた翔太郎が驚いた顔をして振り向くと、玲奈はさらに表情を引き締めて、強く窓の外を見つめ続けた。
「え?」
「……勝手にしてください、と言ったんです」
玲奈は真顔を保とうと必死で窓の外を見ていたが、心の中では予想以上に動揺が広がっていた。
──友達。
なんて事のない言葉だった。
その言葉が彼女の中で何度も響き渡る。
自分がそう認識されることに、少しの戸惑いと、思ってもいなかった未知の感情を感じていた。