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雷鳴のラストピース  作者: 雨車狸
第一章 『氷結のマリオネット』
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第一章9 『氷嶺家』

 翔太郎と玲奈が足を踏み入れたのは、学園島にあるセントラルモールと呼ばれる巨大商業施設だ。

 その一角にあるファミレスへと向かうと、夕食時ということもあって店内はほどよく賑わっていた。


「結構広いな」


 翔太郎は店内を見渡しながら、適当に空いている席へと腰を下ろした。

 玲奈も向かいの席に座り、メニューを手に取る。


 だが──次の瞬間、玲奈の手がぴたりと止まった。


「どうかした?」


 翔太郎が不思議に思って尋ねると、玲奈は少し居心地悪そうに視線を逸らした。


「……あの、実は」


 珍しく言い淀む彼女の様子に、翔太郎はますます疑問を深める。

 玲奈が言葉を選ぶようにためらうのは珍しいことだった。


「……私、こういうお店に来たことがなくて」


「え?」


 思わず聞き返した翔太郎だったが、玲奈は冗談めかすこともなく、真剣な表情のままだった。

 彼女の言葉が嘘ではないと理解し、翔太郎は驚きのあまり言葉を失った。


「ちょっと待て。それって……外食が初めてってことか?」


 玲奈は黙って頷く。

 高校2年生にもなって、外食未経験などあり得るのだろうか。

 一瞬、何かの冗談かと思ったが、彼女の表情はあまりに真剣で、とても嘘を言っているようには見えなかった。


「……家で全部用意されるのが当たり前でした。学園に来てからも、自炊して弁当を用意し、後は真っ直ぐ帰っているので、こういう場所に来る機会がなくて」


「マジかよ……」


 思わず呟く。

 家で用意されるのが当たり前。

 普通の家庭環境ならばそれは当然なのだろう。

 ただ一度も外で食べた経験がないとは、どんな学生生活なのか、翔太郎には正直よく分からなかった。


 学園でも彼女は常に凛としていて、周囲と適度な距離を取っている印象がある。

 別にコミュニケーション能力に問題がある訳ではない。

 話しかければ普通に返してくれるし、同級生の翔太郎とも必要な会話は交わしている。

 ただ、深い関係を築こうとはしていない。


 ──それとも、築けなかったのか?

 ふと、疑問が湧く。


「学園に一緒に行くような人とかいないのか?」


 言った瞬間、翔太郎はしまったと思った。


 考えなしに口に出してしまったが、これってつまり「お前、友達いないのか?」って聞いてるようなものだ。

 玲奈がどういうつもりで一人でいるのかも分からないのに、軽々しく踏み込むようなことを聞いてしまった気がする。


「ごめん。今の凄いデリカシーが無かった──」


「構いません。事実ですから」


 恐る恐る玲奈の顔を伺うが、彼女は特に気にした様子もなく淡々と答えた。

 そこで一度言葉を止めて、手元のメニューを指でなぞった。


「家庭の都合で、昔から自由行動があまり許されていなかったんです」


「家庭の都合って……」


「こんな風に外食したり、放課後にどこか寄り道をするのとか、ですね」


 玲奈の言葉に、翔太郎は黙り込む。

 彼女の家庭事情はよく分からないが、高校生にもなって放課後の行動を完全に制限いるのは普通ではない。

 そういえば、彼女はいつも授業が終わればすぐに帰っていた。

 まるで、決められたレールの上を淡々と歩いているかのように。


「でも……ずっと行ってみたいとは思ってました。ただ、なんとなく機会がなくて」


(──機会がなくて、か)


 いや、機会ならいくらでもあったはずだ。

 彼女のような立場なら、学園で声をかける人間は大勢いただろう。

 それでも玲奈は今まで一度もこういう場所に来たことがなかった。


 つまり、彼女自身がそういう機会を避けていたか、もしくは避けなければならなかったのか。

 翔太郎が思考を巡らせていると、玲奈はふっと目を伏せた。


「その点、今日はちょうどいい機会でした」


「どういう意味?」


「帰宅している最中に、不審者に襲われて、あなたに助けてもらった……そのお礼、という名目なら私も外食する理由になるでしょう?」


 まるで自分に言い聞かせるように呟く玲奈に、翔太郎は息を飲んだ。


 いきなり食事に誘ってきたのは、落ち着いた場所でじっくり話がしたかったというわけではないのかもしれない。

 むしろ、ずっと叶わなかった()()()()()を、今日という出来事を口実にして実現しようとしているのではないか。


「これなら家族に何か言われても、あなたという証人がいますから大丈夫ですね」


 玲奈は僅かに笑ったが、その笑顔にはどこか無理をしているような影が見え隠れしていた。


「なるほどな」


 少しだけ玲奈のことを誤解していたかもしれない。

 教室にいた時の冷たい口調や、どこか近寄りがたい雰囲気とは違って、今の彼女は驚くほど自然に見える。

 出会ってから初めて、彼女に対して人間味というものを感じた気がした。


「じゃあ、今日はしっかり食べて帰らないとな。何頼む?」


 玲奈は再びメニューを開いたが、また手が止まる。


「話には聞いていましたが……種類が多いですね。どれがいいのか、全く分かりません」


「本当に初めてなんだな」


 翔太郎は少し呆れながらも、メニューを覗き込んだ。


「じゃあ、ハンバーグとかは? メニューにも人気ナンバーワンって書いてあるし」


「……それが無難なんですか?」


「少なくとも、ハズレじゃないだろ。他はまた次来た時にすれば良いんじゃない?」


「次、ですか……」


 玲奈は小さく呟きながら、どこか新鮮な響きを感じているようだった。

 だが、すぐに気を取り直したように翔太郎を見て、少し考え込む。


「ところで、あなたは普段何を食べているんですか?」


「俺?」


「ええ。私のことを聞く前に、まずはあなたがどんな食生活をしているのか、知っておきたいです」


「まぁ、基本家で作るのは和食系が多いな。味噌汁に焼き魚とか、揚げ物とか」


「和食派なんですね」


「って言っても、別にこだわってるわけじゃないけど。食べられれば何でもいいし」


「随分と適当なんですね。では、好きな食べ物は?」


「甘いものとかかな。スイーツ系なら基本何でも好きだ」


「……え?」


「ん? なんか変なこと言った?」


「意外ですね。あなたが甘党だったなんて。全くそうは思いませんでした」


「俺のこと今までどう思ってたんだよ……。疲れた時は誰だって甘いものが食べたくなるでしょ?」


「いえ別に。むしろ少し可愛らしいと思いました」


「可愛らしい……」


 翔太郎は思わず言葉を詰まらせ、視線を逸らす。

 そんな彼の反応を見て、玲奈はさらに面白そうに微笑んだ。


 その表情は、教室での無愛想さとはまるで別人だった。


 自分でも驚くほど、自然に会話が続いている。

 冷たく距離を取るタイプだと思っていたが、こうしてみると意外と普通──いや、むしろクラスの誰よりも話しやすい。

 玲奈自身はそんな変化に気づいていないのかもしれないが、翔太郎にはそれが不思議でならなかった。


「それで、そっちは何が好きなんだ?」


「私は中華料理ですね。特に辛いものが好きです」


「へぇ、辛いの得意なんだ?」


「ええ。四川料理とか、辛ければ辛いほど美味しいと思います」


「俺、そういうのはちょっと苦手かも」


「では、今日は中華料理にしましょうか?」


 玲奈の笑顔がどこか楽しげに見えて、翔太郎は一瞬驚いた。

 本当に嬉しそうな、無邪気とも言える表情だった。


「ファミレスに中華料理ってあるのか?」


「メニューを見た限りは無いみたいです」


「そりゃそうか」


 玲奈は少しだけ残念そうにメニューを閉じる。


「とりあえず、今日はハンバーグにしとかない?」


「ええ。では、そうしましょう」


 玲奈はウェイトレスを呼び、注文を伝える。

 メニューを手放すと、どこか満足そうに息をついた。

 翔太郎はそんな彼女を横目に見ながら、ふと考える。


(もしかして……この子は、こういう時間をずっと欲しかったのか?)


 友達とファミレスに行く。

 そんな当たり前のことすら、今まで彼女には許されなかったのかもしれない。


 玲奈はいつも通りのつもりなのかもしれないが、翔太郎にはそうは見えなかった。

 今日の彼女は、間違いなく今までで一番普通の高校生らしい。


「……まあ、たまにはこういうのも悪くないか」


 翔太郎はそう呟きながら、玲奈の穏やかな表情を見つめていた。




 ♢




 食事もほぼ終わり、テーブルには空になった皿と飲みかけのドリンクが残るだけだった。

 玲奈は静かにグラスを傾けながら、考え込むように視線を落としていた。


 そんな彼女の様子を見て、翔太郎は軽く背伸びをしつつ、意を決したように口を開く。


「なあ」


「何ですか?」


「そろそろ本題に入ってもいいか?」


「そうですね、元々はその話の為に私から誘ったんでしたよね」


「単刀直入に聞くけど、どうしてあのフードの女について行ったんだ?」


 その問いに、玲奈の指がピクリと動いた。


「……」


「知らないやつに、しかもあんなに怪しい奴にいきなり話しかけられて、素直について行くなんて普通じゃないだろ」


 翔太郎からもっともな事を言われた玲奈は静かにグラスを置く。

 その指先は僅かに強張っているように見えた。


「少し、私の家の話になります」


「……?」


 突然、話が脱線したようにも思えた。

 しかし、玲奈の真剣でいて、どこか躊躇ったような口調を聞くと瞬時に本題であると悟った。


「私は氷嶺家という氷の異能を持つ由緒正しい家系の長女として生まれました。長女、といっても七つ上の兄がいて、氷嶺家の当主は兄です」


 名家の話か、と翔太郎は少し身を正した。

 正直、名門や家柄の話には親近感がある。

 翔太郎は才能無しの落ちこぼれであったが、鳴神家自体は間違いなく雷の異能の名家であった。

 そして、この現代の異能社会にも名家が数多く存在する世界なのは理解している。


 ましてや、兄絡みとなると尚更他人事とは思えない。

 玲奈は一拍置いて、少し視線を逸らした。




「今、私には縁談の話が来ています」




「……は?」


 思わず間の抜けた声が出た。

 思い切り後ろからハンマーで殴られた気分だ。

 唐突すぎるカミングアウトに口を開けるしかなく、二人の間に数秒の沈黙が流れる。


「いきなりこんな話を聞かされたら、そういう反応になるのも無理はないですね」


 玲奈は少しだけ口元を緩めたが、それはどこか自嘲めいていた。


「去年の今頃まで遡りますが……兄から、高校卒業と同時に他の名家の元へ嫁ぐように命じられました」


「命じられたって……それ、つまり強制ってことか?」


「ええ。家のために生きろと、昔から言われてきましたから」


 玲奈は感情のこもらない声でそう言ったが、翔太郎には直感で理解した。

 彼女が、それが当たり前であると思い込もうとしているだけだということが。


 彼女が家の話を口にした時、教室で話している時とは比較にならない程の冷めたような声音になっていた。

 初めてファミレスに入って無邪気な様子を見せていた先ほどまでとはまさに別人だ。


 だが──聞いてしまった以上、翔太郎としては気持ちの整理が追いつかなかった。


「それはまた、凄い世界の話だな」


 どこまで踏み込んでいいのか分からず、言葉を選びながら呟く。

 玲奈はそれに答えず、小さく息を吐いた。


「そして……先ほどのフードの人物からは、氷嶺家の縁談の話を詳しく知っていると言われました。自分は氷嶺家と嫁ぎ先の関係者だと」


「そういう事だったのか」


 ようやく、玲奈があのフードの女について行った理由が見えてきた。


 それならば、多少怪しくてもついて行ってしまうかもしれない。

 そもそも、名家同士の縁談ともなれば、外部にその話が漏れること自体が不自然だ。

 玲奈としては、相手の正体を隠しているのも、向こうのコンサルタントか何かだと考えたのかもしれない。


 だが──翔太郎は、それがそう単純な話ではない気がしていた。


 夜空の革命は神出鬼没な組織だ。

 奴らの情報網は異能社会の中でも群を抜いている。


 氷嶺家の情報管理が甘いとは思えないが、玲奈に狙いをつけていた組織がどこからか縁談の話を聞きつけ、それを餌として使った可能性もある。


「あなたに話すのを躊躇ったのは、フードの人物から聞かされたのが私の家庭事情だったからです」


「まあ、確かに俺には関係ない話だって思ったってことか」


「ええ。でも……あなたには危ない所を助けてもらいましたし、黙っているのも変でしょう?」


 玲奈は、どこか素っ気なくそう言った。


「となると、あのフードの女と特に関係があるわけじゃないんだな?」


「はい。特に知り合いでもないので、もちろん警戒はしていました。最悪、異能力でどうにか出来るとも思っていましたが……」


 玲奈は肩を竦める。


「あなたの見たものことが本当なら、私が後ろを向いた瞬間に仕掛けてくるとは思っていませんでした」


「怪しい奴相手に警戒心が無さすぎるんじゃないのか?」


「……確かに、あなたの言うとおりですね」


 玲奈は苦笑した。

 翔太郎は彼女の表情を見ながら、何とも言えない気持ちになる。


 あのフードの女は何故、玲奈を狙っていたのか。

 玲奈の縁談は、本当にただの名家同士の取り決めなのか。

 ──そして、それに夜空の革命が絡んでいる可能性は?


 考えれば考えるほど、全てが繋がっているようで、どこか噛み合わない。


「ひとつ聞いていいか?」


「何でしょう?」


「……その縁談、本当に受け入れるつもりなのか?」


 気がつけば、そんな言葉が口をついていた。

 玲奈は家庭の事情に踏み込まれたことに、少しだけ驚いたように翔太郎を見たが──すぐに、静かに微笑んだ。


「……さあ、どうでしょうね」


 彼女の答えは、曖昧だった。

 その笑顔がどこか悲しげに見えたのは──多分、気のせいではないのだろう。




 ♢




 ファミレスの自動ドアが開くと、外はまるでバケツをひっくり返したような土砂降りだった。

 街灯に照らされた雨粒が白く霞み、道路は水たまりだらけになっている。


「うわ、結構降ってるな。予報だと曇りだったんだけどな」


 翔太郎は店の軒先で立ち止まり、ポケットから折りたたみ傘を取り出した。


「濡れずに帰るのは無理そうですね」


 玲奈もため息混じりに呟くが、特に動揺した様子はない。

 しかし、特にバックから折りたたみ傘を出す様子を見せなかったので、翔太郎はもしやと思い聞いてみた。


「もしかして、傘持ってないのか?」


 翔太郎がそう尋ねると、玲奈は少し呆れたように肩をすくめた。


「持っていません。逆にあなたがちゃんと用意している方が驚きました。晴れの日でも折りたたみ傘を持ち歩くなんて、案外しっかりしているんですね」


 相変わらずの減らず口だったが、翔太郎は流すように傘を開く。


「とはいえ、ここまで降るとは予想外でした。あなたは先に帰ってください。私はもう少し雨が弱まってから帰ります」


「マジかよ」


 思わず玲奈の顔を覗き込むと、彼女は空を見上げ、どこか諦めたような表情を浮かべていた。

 この雨がいつ弱まるかなんて分かる訳がない。


「相合傘でいいなら、家まで送ってくけど」


「結構です」


 即答だった。

 まるで断る準備をしていたかのような速さである。

 下心なしの善意だというのに。


「いや、さっき飯奢ってもらったし」


「私から誘ったのですから、奢るのは当然です。それに危ないところを助けてもらいましたし、一応十傑なので1162位のあなたと違ってスクールマネーは大量に持っていますから」


「金持ちアピール?」


「違います」


「てか、よく俺の順位を覚えてたな」


「クラスで四桁の順位を自慢している人を見たのはあなたが初めてだったので」


 無自覚なのか意地悪なのかは判断に困るが、さらっと十傑とランキング最下位付近の格差を見せつけてきた。


「そこまで気を遣わなくても大丈夫ですよ」


「いや、そういう問題じゃない。不審者の件もあったんだし、むしろ一人で帰らせるわけにはいかない」


 玲奈は黙ったまま翔太郎を見つめた。


「相合傘が嫌なら傘だけでも渡す。ただし、今日は家まで送る。これ絶対な」


「あなたがその傘を私に渡したら、家に着く頃にはびしょ濡れですよ。その状態で私の後ろについてくる気ですか?」


「仕方ないだろ。傘一つしかないんだし」


 そう言いながら、翔太郎は当然のように傘を差し出してきた。


 ──そこまでしなくてもいいのに。

 玲奈はそう言いかけたが、彼の真剣な表情を見て言葉を飲み込む。


「はぁ……」


 深いため息をつくと、玲奈は傘を押し戻した。


「突き返しても、俺の考えは変わらないから」


「違います。濡れたまま後ろをついてこられる方が周りの目が気になるので迷惑です。一緒の傘でも構いません」


「なんだ、結局相合傘でいいのかよ」


 思わぬ展開に翔太郎は内心安堵した。

 濡れずに済むのは単純にありがたい。


 しかし、玲奈はまだ動かない。

 周囲を気にしているのか、少し戸惑っているようにも見えた。


(そんなに大げさに考えることか?)


 翔太郎は首を傾げ、あっさりと言った。


「どうした? 入らないのか?」


 玲奈は一瞬ためらった後、観念したように歩み寄る。


「……では、お言葉に甘えます」


 僅かに顔を引き攣らせながら、傘の下に静かに入ってきた。

 折りたたみ傘はコンパクトな分、二人で入るには少々窮屈である。翔太郎は傘を少し傾け、玲奈ができるだけ濡れないように気を配る。


「そういう気遣いは必要ありません」


「え?」


 突然の拒絶に、翔太郎は思わず聞き返す。


「私を濡らさないために、自分が濡れる必要はないと言ったんです」


 玲奈は真っ直ぐ翔太郎を見つめていた。

 その表情は淡々としていたが、どこか微かに不満げな色も混じっているように見えた。


「そんな風に見えたか?」


「ええ」


 あっさりとした返答だった。


「でも、自分が濡れないんだし、それで良くない?」


「あなたが濡れるので困ります」


 即答だった。

 まるで当然のことのように。


 翔太郎は一瞬、言葉に詰まる。

 玲奈の言葉には彼なりの気遣いをあっさりと跳ね返す冷静さがあったが、それと同時に彼を案じているのも確かだった。


「アンタ、意外と強情だな」


「そうでしょうか?」


 玲奈は小首を傾げる。

 自覚はなさそうだったが、少なくとも翔太郎にはそう見えた。


「さっきの送っていくって話もそうだけどさ。人からの善意を、普通そこまで嫌がるか?」


「あなたがしつこかったから折れただけです」


 玲奈は僅かに頬を膨らませた。

 いつもの冷静な態度からすれば、少しだけ素の部分が見えた気がする。


 翔太郎はそんなことを思いながら、苦笑混じりに言った。


「俺がしつこいって言われるのは珍しいな。これでも引っ越す前の地域では、案外頼りにされてたんだけど」


「……自覚がないのなら、それも問題かもしれませんね」


 玲奈は小さく息をつき、ふっと視線を逸らす。

 雨の音が二人の間を埋めるように響いていた。


 それでも、会った時と比べると、ほんの少しだけ彼女の警戒が解けたような気がして、翔太郎は傘を少しだけ傾けた。


 尚も濡れないように気を遣ってくる翔太郎に、玲奈は小さくため息を吐いた。

 その表情には先ほどまでの硬さがなく、どこか自然な雰囲気が漂っていた。


 玲奈はふと、翔太郎の腕が少し濡れ始めているのに気づく。自分に傘を寄せすぎたせいだ。


「もう少し、こっちに寄ればいいじゃないですか」


「え?」


「あなたばかり濡れるのは不公平です」


 翔太郎はわずかに逡巡したが、ゆっくりと玲奈の隣へ寄った。

 肩がかすかに触れそうな距離感になる。


「これで良いか?」


「……まぁ、さっきよりはマシですね」


 雨音が会話を包み込むように響いている。

 二人は言葉少なに、ゆっくりとバス停へ向かって歩いた。


 ──思えば玲奈とこんな風に並んで歩くのは、今日が初めてだった。

 と言っても知り合ってまだ二日なのだが。


 教室ではどこか距離があった彼女が、今はすぐ隣にいる。

 ふと、横目で玲奈を見ると、彼女もまた黙ったまま前を見つめていた。


「……何ですか?」


「いや、別に」


 玲奈がこちらを向き、少し怪訝そうに首を傾げる。

 翔太郎は適当に誤魔化しながら、傘を支え直した。


 ──土砂降りの雨は、まだしばらく止みそうになかった。




 ♢




 電車を乗り継ぎ、ようやく辿り着いた先は、まるで別世界のようだった。


「……すっげぇ」


 翔太郎は無意識に呟いていた。


(武家屋敷みたいな鳴神家とは正反対だな)


 目の前に広がるのは、まるで映画のワンシーンのような大豪邸。

 高い塀に囲まれた敷地の奥には、重厚な門構えと格式を感じさせる洋館のような大邸宅が佇んでいる。

 門の先には整えられた庭が見え、雨に濡れた石畳が幻想的に輝いていた。


「ここまでで大丈夫です」


 玲奈の声に、翔太郎は現実に引き戻される。


「送ってくださり、ありがとうございました」


 玲奈は傘から出て、軽く会釈した。

 彼女の表情はいつも通り冷静だったが、どこか柔らかい空気が混ざっていた。


「別に。危ない目に遭ったばかりなんだし、当然だろ」


 翔太郎は気にした様子もなく答えると、玲奈は少しだけ口元を緩めた。


「それでも、お礼は言わせてください」


「……まあ、無事に着いたならいいけど」


 軽く肩をすくめたその時、門の向こうから足音が聞こえた。


 雨音に紛れるようにして、一人の男が傘を差しながらこちらへと歩いてくる。


(ん?)


 背筋に、微かな警戒心が走った。


 男は二十代前半ほどだろうか。

 玲奈と同じ綺麗な黒髪と青色の瞳を携え、端正な顔立ちをしている。

 姿勢は良く、仕立ての良いスーツが品の良さを際立たせていた。

 しかし、整いすぎた立ち居振る舞いがどこか作り物めいて見え、翔太郎は瞬時に「苦手なタイプだ」と悟った。


(こいつは……鳴神家の人間と同じ匂いがする)


 幼い頃から翔太郎を落ちこぼれと見下してきた、今は亡き両親や姉、兄たちの顔が頭をよぎる。

 表面上は礼儀正しく、それでいてどこか見下すような名家の人間が発する独特の空気。


 男は玲奈に視線を向けると、穏やかな口調で話しかけた。


「玲奈、こんな時間まで出歩いていたのか。連絡をくれたとはいえ、あまり遅くなるのは感心しないな」


「申し訳ありません。兄さん」


 玲奈は僅かに眉を寄せたが、特に反論はせず謝罪する。

 口調は優しげだが、言葉の裏に含みがあると翔太郎は直感でそう感じ取った。


 男は玲奈の返事を聞くと、今度はゆっくりと翔太郎に視線を移した。


「君が玲奈を送ってくれたのかな?」


「まあ、はい。そうです」


 翔太郎が淡々と答えると、男は微笑を浮かべ、優雅な仕草で軽く頭を下げた。


「それはどうもありがとう。僕は氷嶺凍也(ひみねとうや)。玲奈の兄だ」


 傘を軽く持ち上げながら、男は静かに名乗った。

 その声音には一切の濁りがなく、礼儀正しく、洗練されている。


「鳴神翔太郎です」


 翔太郎は最低限の礼儀として名乗り返したが、やはりどこか居心地が悪い。


 氷嶺凍也。

 玲奈の兄にして、彼女に無理やり縁談を押し付けた張本人。

 その事実を知っているからこそ、翔太郎はこの男に対して良い印象を持てなかった。


 凍也の振る舞いは完璧だった。

 立ち居振る舞いから滲み出る余裕、優雅さから玲奈の兄というのも納得できる。

 だが、それだけに引っかかるものがあった。


(妹を無理やり嫁がせようとしてる兄貴か)


 穏やかに話してるが、自分の妹を勝手に嫁に他の名家に出そうとしてる兄貴という時点で、どんな顔で話されても信用できない。


 そう考えると、礼儀正しさも皮肉にしか思えない。

 本人にとっては当たり前のことなのかもしれないが、それを押し付けられる側の気持ちを考えたことはあるのか。


 翔太郎は思わず玲奈に視線を向けた。

 彼女は特に動揺することもなく、静かに兄を見つめ返している。

 まるで、こうして対峙することに慣れているかのように。


(兄貴、ね……)


 妹を持つ者として、その立場を理解できないわけではない。

 孤児院の子供たちにとっても、翔太郎は兄のような存在だった。

 だからこそ、兄というものは守るべきものだと知っている。


 玲奈が嫌がっていたのを知っている。

 本人は表に出していなかったが、あのとき確かに迷いがあった。

 だからこそ、こうして平然と兄として接する凍也に、翔太郎は違和感を覚えた。


 礼儀正しさの裏にあるものが、見えない。


(こういう奴が一番タチ悪いんだよな……)


 表面上は優しい兄を演じながら、実際は玲奈の人生を勝手に決めつける存在。


「玲奈を気遣ってくれたこと、兄として感謝するよ。玲奈は時々、自分のことを後回しにしがちだからね」


「別に、大したことはしてませんよ」


 翔太郎は内心どの口が言ってんだも呆れつつも、適当に流した。


「玲奈から不審者の話は既に聞いている。君と外で食事を済ませてきたことも。まあ何にせよ、無事ならいい」


 玲奈の方を見ると、彼女は何も言わずただ静かに兄を見つめている。

 だが、その沈黙が全てを物語っていた。

 慣れているのか、諦めているのか──はたまたその両方なのか。


 凍也は彼女を一瞥し、ふっと息をつく。


「鳴神くん、玲奈をここまで送ってくれて感謝するよ。玲奈も嫁入り前の大事な妹だからね」


「……いえ、特に気にしないでください」


 翔太郎は表面上、そつなく答えた。

 だが、凍也を一目見た時から本能的に感じていたものが確信へと変わりつつあった。


(こいつは、苦手なタイプだ)


 理知的で、穏やかで、礼儀正しい。

 だが、その根底にあるのは揺るぎない価値観の押し付け──名家に生まれたからには、こうあるべきだと決めつけ、その道を当然のように敷いていく者の考え方。


 それは、翔太郎が鳴神家にいた頃、陽奈以外の家族たちから押し付けられたものとよく似ていた。


「お前は落ちこぼれだ」

「家の名を背負う者として相応しくない」


 そう言われ続け、見下されてきた日々。

 だからこそ、翔太郎はそんな価値観を否定し、努力だけで戦えるだけの力量を身に付けて、今の道を選んだ。


 凍也もまた、玲奈に同じようなものを強いているのではないか──そんな考えが頭をよぎる。


 翔太郎は、傘の柄を少しだけ握り直した。


「では、そろそろ失礼します」


 玲奈がそう言い、軽く会釈する。


 翔太郎もそれに倣い、凍也に一礼して背を向けた。

 しかし、歩き出す直前、不意に凍也の視線を感じた。


 まるで、何かを確かめるような眼差し──それに翔太郎はほんの一瞬だけ、微かに眉をひそめた。

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