第三章16 『少女の初恋』
白椿心音は、2013年の冬に世界を失った。
当時の私は、まだ五歳。
父と母は国家直属の異能力者で、難しい仕事をしていたらしい。
でも、そんなこと分かるはずもなくて……ただ、ふたりとも強くて優しい自慢の両親だった。
──それが、とある海外任務で一瞬で壊れた。
異能力を悪用した宗教団体の摘発。
そこにいた教祖の男が、父を殺し、母を“儀式”と称して弄んだ。
助かったはずの母は、もう誰の方を見ることもなく、病院のベッドで点滴を打たれるだけの人になった。
父は突然いなくなり、母はもう話さなくなり……私はただ、どこにぶつけたらいいか分からない涙を流すしかできなかった。
その後の私は、親戚中をたらい回し。
最初はみんな優しかったけど、それは最初だけ。
──他所の家のご飯なのに、よく食べるわねぇ。
──勘違いしないでほしいんだけど、あなたを置いておくのも、少しの間だけだからね。
──あーもう、夜中に泣かないでよ。明日の朝、仕事早いんだし困るんですけど!
……そんな言葉、聞こえないフリをするのが上手くなっていった。
私は決めた。
嫌われたら、また捨てられる。
だから明るくしよう。優しくしよう。
迷惑をかけないように、愛想良く笑っていよう。
でも、どれだけ頑張っても居場所は増えなかった。
転校ばかりで友達も続かなくて、気づけば私は、どこにいてもお客さんみたいだった。
♦︎
そして、2020年1月。小学五年生の冬。
その日は本当に、なんでもない小さな出来事のはずだった。
親戚の家の子と、宿題のことでちょっとした言い合いになっただけ。
その子が使っていたお気に入りの携帯ゲーム機を外に置き忘れて、私も一緒に探していた。
「心音のせいじゃん! アンタがあたしのゲーム機、ちゃんと見ててくれたら、誰かに持っていかれずに済んだかもしれないのに!」
その子が泣きながら私を責める。
その時ばかりは、私も大いに反論した。
私はあなたのゲーム機に何もしていない。
自己管理の甘さが招いたことでしょって、怒りのまま正論をぶつける。
ほんの、よくある子供同士の喧嘩。
いつもなら大人に仲裁されて終わるはずだったのに──その日の大人は、違った。
泣きわめく自分の子を抱き寄せながら、ため息混じりに、私の方を見もしないで、ポツリと漏らした。
「……早くどこかの施設に行ってくれたら楽なんだけどね」
時間が、止まった。
怒ったわけでも、怒鳴ったわけでもない。
ただ、本音が疲れと一緒に零れただけの声だった。
その何気ない一言が……私の中の何かを、簡単に、残酷に折った。
ああ、そうだったんだ。
やっぱり私は──どこに行っても、邪魔で、いらない子で。
「ちょっとどこ行くの、心音!」
そんな後追いの言葉なんて、耳に入らなかった。
胸の奥が真っ黒な泥水になっていくみたいで、息が苦しくて、喉の奥が痛いのに、何も言えなかった。
気づいたら私は玄関へ走っていて、手が勝手にドアを開けていた。
冷たい空気が肌を刺した瞬間、涙が一気に溢れてきた。
──逃げなきゃ。
ここには、私の居場所なんてなかった。
足は止まらなかった。
走らないと崩れ落ちてしまいそうで、冬の冷気の中を泣きながら走り続けた。
どこかへ行きたかったわけじゃない。
ただ、いらないと言われた世界から、一秒でも早く離れたかった。
途中で出会った野良猫に声をかけた。
一人にしないでと、気持ち悪いくらい必死な声で。
猫は私なんて気にせず、細い背中をひょいっと山の方へ向けて歩く。
それを追いかけて、私も山の中へ入っていった。
気付いた時には、迷っていた。
夜になって、道が真っ暗になって、どこから来たのかも分からなくなった。
山道で足を滑らせて転げ落ちた時は、もう終わりだと思ったけど……落ち葉がクッションみたいに受け止めてくれて、なんとか生きていた。
でも、体はボロボロで、気力も尽きて、川沿いの地面に倒れ込む。
仰向けで空を見上げたら、星が滲んで、寒さも痛みも全部どうでも良くなった。
「もう、どうでもいいや……」
そんなふうに思っていた。
泣きながら小さな声で寒いって呟いた時、誰かの足音がした。
「おーい、大丈夫か! おーい!」
そして、私の初恋は、あの雪の匂いのする夜に始まった。
♦︎
声がした。
暗闇を、雪を踏むみたいなザクッという足音がかきわけてくる。
視界がふらりと揺れ、白い息の向こうに──知らない男の子の顔。
「くそっ、生きてるよな? なんで、こんな寒い時期に山にいるんだよ……。まさか俺と同じで修行中か?」
その声は、冷えきった意識の底にぽちゃんと落ちてくる。
低めなんだけど、まだ子供らしい軽さもある不思議な声だった。
「だれ……?」
自分の声が、ひどく掠れているのがわかった。
「うわ、手冷たっ……! こんな所で寝てたら死ぬって。……ほら、立てる?」
手を掴まれた瞬間、火に触れたみたいに熱かった。
そのあたたかさだけで、泣きそうになった。
助かった、よりも──ああ、生き物のぬくもりってこんなに安心するんだって、それが胸に刺さった。
「だ、だいじょうぶ……歩ける……」
言いながら立ち上がった途端、膝が笑って視界がぐらりと傾いた。
「っと……無理じゃん。ほら、おぶるから」
背中が差し出された。
迷う間もなく、ぐいっと腕を引っ張られる。
「ちょっ……!」
「文句はあとで。倒れたら普通に死ぬよ」
そう言って私を背負う肩は、子供とは思えないくらいしっかりしていた。
ひんやりした夜気の中、その背中だけがぽかぽかして……泣き疲れた目の奥がじんわり温まっていくみたいだった。
彼は迷いもせず、川沿いを歩いていく。
「どうして、ここに人が……?」
「あー、俺? 今ちょっと修行中なんだよ。……先生が無茶ばっか言う人で。今、一週間のサバイバル訓練中」
言ってる内容は無茶苦茶なのに、声は妙に落ち着いていた。
雪の中で普通に歩くこの子は、きっと私の知ってる“普通の子供”とは違う。
「サバイバルって……私と同じぐらいの子供が?」
「君だって何でこんなとこにいんのさ。……もしかして、俺と同じで修行中なの?」
「……違う。親戚の人と喧嘩して、家出してきたの」
「家出ぇ!? こんな真冬に、家出で遭難ってマジで?」
「あなたもこんな真冬に一人でサバイバルなんておかしいでしょ……」
「だよなぁ。先生のこと、俺も最初“頭おかしいんじゃね?”って思ったし」
もう、足りなかった心が一気に緩んで、私の目尻からまた涙がこぼれた。
自分でも分からない。
寒さのせいか、安心のせいか、話した相手がこんなにも人間味のある子だったからか。
やがて、小さなテントの明かりが見えてきた。
「着いたよ、ここが俺のキャンプ場。……ほら、入って」
テントの布をめくってくれる手は、山の夜気の中とは思えないほど温かかった。
中に揺れているランタンの光は弱いはずなのに、不思議と胸に沁みる。
家みたいだと思った。
いや、家なんて……こんな風に優しく迎えてくれたことなんて、今まで一度もなかった。
少年はすぐに水筒を差し出してくれた。
「少しずつ飲んで。あったかいから、喉にしみるかも。……一気に飲むと逆に気持ち悪くなるからさ」
その声があまりにも優しくて、私は言われた通り少しずつ飲む。
喉を水が通るたび、生きている感覚がかすかに戻っていく。
その間に、彼はテントの近くに置いてあった枝を集めてきて素早く組み上げる。
「──紫電」
指先から、かすかな電光が散った。
まるで頼りない赤ちゃんの泣き声みたいな、微かな光。
それが薪に触れると、瞬間的に火がつく。
「わぁ……」
テントから顔を出した私は、いつの間にか出来上がっていた炎に見惚れていた。
「まだ全然弱いけどさ。火種にくらいはなるんだ」
──雷の異能力。
昔から雷は音が大きくて苦手だったが、炎が灯ったその光景だけは今も鮮明に覚えてる。
炎をそっと育て、水を鍋に入れ、火にかける。
その手つきがあまりにも慣れていて、小学生とは思えない落ち着きがあった。
火がぱちぱちと弾け、あっという間に暖かい空気がテントの中に広がった。
バッグを探ると、少年はふっと肩を落とす。
「あー……今日疲れたし、これでいいか。先生からもらった非常食、最後の一個だけど──」
取り出されたのは、カップ麺。
蓋を開け、お湯が注がれた瞬間、
テントの中に温かい匂いが立ちのぼる。
……ぐぅぅぅぅ。
「っ……!!」
ありえないほど大きな音が鳴った。
熱が一気に顔に上る。
命を助けられただけで十分なのに、その上、これ見よがしに腹を鳴らして、空腹アピールで食べ物まで欲しがるなんて図々しすぎる。
恥ずかしくて、私は寝袋にぺたんと倒れこんで、顔を隠した。
「ご、ごめん……今の……聞かなかったことにして……」
「えっ!? あっ……ごめん!いきなりここで注いだら腹減ってるとヤバいよな! ごめん、マジで!」
慌てた声が、どこかおかしくて、でも優しかった。
3分後。
彼は当たり前みたいに、自然に、そっと私にカップ麺を差し出した。
「ほい、出来たよ。お待たせ、食べるでしょ?」
「あ……」
その瞬間──胸が、ぐらりと揺れた。
「熱いから、気を付けて持って────え?」
彼からカップ麺を渡されると、何故だか涙が止まらなかった。
彼が困惑している。
それどころか、いきなり泣き出した私を見て、非常に焦った様子であたふたし出した。
「えっ!? ちょ、ちょっと待って! もしかしてシーフード苦手だった!? それとも匂いキツかった!? どっち!? 俺どうすれば……!」
変な勘違いをする彼が本気すぎて、余計に涙が溢れた。
「ち、違う……。そうじゃないの……」
声が震えた。
涙で手も震えて、カップ麺を受け取ることすらできなかった。
「……こんなに誰かに優しくしてもらったの、すごく久しぶりだったから」
「──っ」
彼はその言葉を見て、表情を変えた。
その奥に明らかに察した気配があった。
家出して、真冬の山で遭難。
同じ年頃の女の子が、そんな状態になる理由。
きっと少年は、分かってしまったのだ。
「……そっか」
そう言うと彼は、そっと膝をつき、割り箸を割った。
「じゃあ、せっかくだし俺が食べさせようか? そんなに手が震えてると、こぼしそうだし」
その声音は不思議だった。
優しいのに、優しすぎて、私が泣くことを全然責めない。
「ほら……あーん」
震える唇に、麺がそっと触れる。
塩気とあったかさで、胸の奥がじゅっと溶けた。
「美味しい……」
「そりゃ良かった。……先生がちょっとしかくれなかった貴重な非常食だから、一口ずつな」
彼は笑って、自分も同じカップ麺をすすった。
その自然さが、もうダメだった。
二人でひとつのカップ麺を分けているだけなのに、それだけで体の芯まで溶かされるみたいに癒された。
食べ終わるころには、涙も落ち着き、手も、心も、ぽかぽかして……そのまま、ふらりと眠ってしまった。
テントの中は、焚き火の香りとカップ麺の湯気でやさしく満ちていた。
「……ゆっくり寝ていいよ」
最後に聞こえたのは、少年が小さく呟く声。
意識が闇に沈む瞬間、私は確かに思った。
──こんな優しさ、知ってしまったらもう忘れられない。
♦︎
──温かい。
冬の山で目覚めたとは思えないほど、身体がぽかぽかしていた。
川辺で倒れかけていた時の、骨の芯まで冷え切ったあの感じが嘘みたいだった。
瞬きを繰り返しながら、私はゆっくりと気付く。
(……あれ? 寝袋……?)
いつの間にか私は、しっかり寝袋に包まれている。
暖かさの理由はそれだけじゃなかった。
なにか。
背中に、腕が回っている。
柔らかい布越しに感じる、確かな温度。
(……えっ)
心臓が跳ねた。
ゆっくり、ゆっくり視線を横にずらす。
そこには、私を抱きしめたまま眠る、あの少年の顔があった。
雪に触れたみたいに白い息をしながら、眉間に少ししわを寄せて寝ている。
寒さに耐えている顔だ。
でも、腕だけはしっかりと私を抱いていて……その熱だけが、やけに強く伝わってくる。
(な、なにこれ……っ)
安心で胸がいっぱいになるのに、同時に息が止まりそうなくらいドキドキする。
こんなの初めてだった。
そこで、あることに気づく。
少年が寝袋に入っていない。
代わりに。
(これ、彼の……ジャケット……?)
寝袋の上から、彼のグリーンの登山用ジャケットが掛けられていた。
つまり彼は、寝袋とジャケットを私に譲って、自分は上着一枚で夜を越えたということ。
(ば、ばか……っ……!! 冬の山でそんなことしたら……!)
背筋が凍る。
もし私より先に倒れていたのは彼だったら──そう思っただけで胸が締めつけられた。
私は勢いよく寝袋を少し開き、寒さに震えながら少年の体を引き寄せた。
ぎゅっと腕を回し、身体を押し込むようにして、同じ寝袋の中へ。
「そんな、冷たいっ……!」
彼の首筋も両手両足も酷く冷たかった。
その事にゾッとしつつも、必死に彼を温める。
一人用の寝袋に二人なんてどう考えても狭い。
お互いの体温が直接当たって、息を吸うたびに胸が触れそうになるほど近い。
でも、そうしなきゃまた彼が凍えてしまう。
それだけは絶対に嫌だった。
「ん……っ……?」
彼が動いた。
薄く目を開け、眠そうにまばたきをする。
そして──
「…………えっ?」
間抜けな声が出た。
そりゃそうだ。
目の前、数センチのところに私の顔。
私は彼を睨んだ。
涙が滲んで、睨んでいるのか泣いているのか分からない。
「なんでっ……!?」
「え?」
「なんで、寝袋入らないで寝てるの!」
「えっ、あ、いや……その……君、女の子だし俺が入ったらさすがに……」
「だからって……っ!! 自分のジャケットまで私に被せて、上着一枚で寝るのなんてどうかしてる!」
「一枚じゃないって、ほら、中にインナー着てるし」
「そういう問題じゃない!」
声が震える。
怒ってるのに、胸の奥が苦しくて仕方ない。
「ここ、冬の山なんだよ!? あなたまで倒れたらどうするの……! 助けてもらった私が、助けた人に死なれたら……どうすればいいの……!」
言ってる途中で涙がこぼれた。
あんなに泣いたのに、まだ涙が残っていたなんて。
少年は慌てた。
「わ、わっ……待って待って! ごめん!ほんとにごめん! そ、そんな泣かなくても……!」
「……っ……だって……なんでそんな……」
「ん?」
「なんで……会ったばかりの私に、そこまでしてくれるの……?」
少年の目が、少しだけ揺れた。
気まずそうで、照れくさそうで、でもどこか当たり前みたいな顔。
「……君が死にかけてたから?」
その一言が、胸の奥に深く刺さった。
なんで泣いているのか自分でも分からない。
でも、涙が止まらなかった。
「自分より可哀想な目に遭ってる人、見捨てる真似なんて出来ないよ」
「──っ!」
私なんかに、こんな優しさが向けられたことが今までなかったから。
寝袋の中で泣く私を、少年はどうしていいか分からない様子でそっと背中をさすった。
「……とりあえず、泣き止んだらさ。なんか食べよ? ほら、また泣いてお腹空いたら大変だし……」
そんなこと言うから、余計に泣けてくる。
寝袋の狭さと、少年の温度と柔らかい声。
全部が、凍りついていた心を溶かしていくみたいだった。
──心音はこの朝のことを、一生忘れない。
そう強く思うようになるのは、もっとずっと先の話。
♦︎
翌朝、私が泣きながら少年を怒鳴り、結局同じ寝袋で温まってから──二人での奇妙なサバイバル生活が始まった。
彼はまず、自分が置かれている状況を簡単に教えてくれた。
「先生に言われてんだ。異能力を使って、冬山で一週間生き残れってさ。倒れそうになったら緊急連絡しろって言われてるけど……出来れば使いたくないし」
あの軽い口調の奥には、強い芯がある。
子供なのに、子供じゃないような、変な子。
そしてルールも教えてくれる。
「山にいる間は、他の人と接触しちゃダメなんだと。食料を分けてもらったり、助けてもらったら修行にならないからさ。それに、子供一人で山にいるのなんて、誰かに見つかったら通報されるし」
「じゃあ……私にカップ麺くれたのは……」
「まぁ、こっちから助ける分にセーフでしょ。多分、先生も分かってくれるって。むしろ、見捨てた方が怒られそうだし」
そう思った瞬間、胸がぎゅっと痛くなった。
彼はルールを破ってまで私を助けてくれたのだ。
午前中、彼は早速食料探しを始めた。
私がテントの中で毛布を抱えていると、外から小さな雷の音が聞こえた。
「──紫電」
空気を震わせる音が山に響き、彼が戻ってくる。
その手には、小さな魚が数匹。まだ息があるようにピチピチ跳ねていた。
「ほら、小魚。軽く感電させて気絶させたんだ。火を通せば食えるはず。一応、バッグには塩胡椒持ってきたし」
誇らしさを見せるでもなく、ただ当然の結果みたいに言う。
川辺で水を触るような感覚で雷を扱っているのが、なんだか現実味がなかった。
山菜を見つける時も、私が不用意に手を伸ばすと、彼はすっと体を挟み込むように止めてくる。
「これは食べられる。こっちはダメ。見た目似てるけど、軸の形が違う」
きのこを拾う時もそうだ。
「色が派手なのはアウト。食べられるやつは先生にもらった写真と照らして探す」
川の水を浄化する時も。
「雷で雑菌飛ばせるって先生が言ってた。でも、そんなに範囲広くないし、使うとめっちゃ疲れるからなるべくやりたくないけどさ」
その一つ一つが、同い年の男の子とは思えないほど手際良く、静かで着実で、頼もしかった。
まるで、私なんかより、ずっとしっかり生きてきた感じがした。
生きる手段を自分で掴み取ってきた人の動きだった。
だから、気付けば私は言っていた。
「……私も、手伝う」
それは、単なる申し出ではなかった。
この少年の隣にいたい。
置いていかれたくない。
そんな願いが滲み出た声だった。
少年は少し眉を寄せて、真面目な目で私を見る。
「いや、君はそろそろ帰った方がいいって。家の人も心配するだろ?」
「……帰れないよ」
心が先に動いた。
考えるより前に、言葉が溢れた。
「まぁ、さすがに一人じゃきついかもな。でも下山くらいは俺も付き合うから──」
「そういうことじゃなくて……! 帰っても、どうせ誰にも喜ばれないし……!」
声が震える。
本当はわかっていた。
帰れないんじゃない。
帰りたくない。
ここから動けば、またあの家に戻らなきゃいけない。
私には帰る場所なんてなかった。
そして、この男の子と離れたくなかった。
どうしてかは、その時はまだ分からなかった。
けれど彼のそばにいると、自分が居ても良いような気がしてしまう。
「私、植物を操る異能力が使えるの。怪我も治せるし、きっと役に立つから! お願い!」
「気持ちは嬉しいけど、俺も一人でやらなきゃ修行になんないし……」
「絶対に邪魔しない……! ご飯だって作るし、夜寒かったら抱き枕にだってなるし──!」
「いやいやいや、だからそういう問題じゃなくて……」
「帰らない!」
「帰れ!」
「やだ!」
まるで幼児の喧嘩みたいな押し問答。
でも私は必死だった。
そんな私を、少年はしばらく黙って見つめて──何か理解したように、静かに息を吐いた。
「……はぁ。分かったよ。先生には、最終日に助けたってことにするよ」
その声が優しくて、胸の奥がぶわっと熱くなった。
「ただし修行は一週間。それまではちゃんと一緒にいる。でも一週間経ったら俺は山を降りるし、その時は一緒に帰ろう」
「……うん」
涙を堪えるのに必死だった。
沈黙が落ちたその瞬間、私はそっと尋ねた。
「ねぇ……あなたのこと、なんて呼べばいい?」
少年は少し考えて答える。
「んー……施設じゃ“翔兄ぃ”って呼ばれてるけど、俺たちって兄呼びされる程、歳離れてなさそうだし、呼びづらいよな」
(施設……)
それだけで、彼がどんな場所でどんな風に生きてきたのかが少し分かってしまう。
痛ましいのに、胸がきゅっと掴まれる。
でもそれより──“翔兄ぃ”という呼ばれ方が、誰かに必要とされてるみたいで、少し羨ましかった。
「じゃあ……翔ちゃんは?」
少年は意外そうに目を瞬き、それからふっと照れくさく笑った。
「ちゃん付けか……。まぁ、じゃあそれで良いか」
その笑顔を見た瞬間、胸の奥が一気にあったかくなった。
どうしようもなく嬉しかった。
私も名乗る。
「私は白椿心音。……心音って呼んで」
「なるほど。じゃあ……ココネ」
名前を呼ばれただけで、頬が熱くなる。
こんな感覚、初めてだった。
──こうして私は、帰りたくない少女として。
彼は、一人で修行する少年として。
奇妙で、でもどこか運命めいた二人きりのサバイバル生活が始まった。
焚き火の匂い。魚の焼ける音。山の夜の寒さ。
そして、彼のすぐ近くにいるというだけで感じる、言いようのない安心。
毎日少しずつ、彼のことをもっと知りたいと思った。
どんなものが好きなのか。
何が嫌いなのか。
どうしてそんな風に強いのか。
どうしてそんなに優しいのか。
もっと知りたかった。
離れたくなかった。
気付けばそれは、願いを通り越して祈りみたいになっていた。
──この少年に会えて、よかった。
そう思う夜が、気付けば当たり前になっていた。
♢
2025年7月6日・日曜日の早朝。
白椿心音は、静まり返ったホテルの一室で目を覚ました。
柔らかいシーツの感触。
近くで規則正しく聞こえる寝息。
両隣には、玲奈とアリシアが安らかな表情で眠っていた。
「……なんか、懐かしい夢を見てた気がする」
寝起きのぼんやりした意識の中に、冬の匂いと焚き火の音が残っている。
手を伸ばせば触れられる距離にいた、あの少年。
寒い夜に眠るふりをしながら、そっと自分に寝袋を譲ってくれた少年。
自分はちゃんとフルネームで名乗ったのに、彼は、どうして名字を教えてくれなかったんだろう。
胸がきゅっと締めつけられる。
昨日、温泉で皆に初恋の話をしたせいか、封じていた記憶の扉がふと開いた。
忘れていたはずの時間が、静かに息を吹き返している。
「翔ちゃん……かぁ」
口にしただけで、胸の奥が温かくも切なくなる。
今、彼はどこで何をしているのだろう。
そもそもどうして、あの年であんな危険な修行をしていたのだろう。
考えれば考えるほど、答えは遠ざかる。
でも、分からないからこそ会いたくなる。
あの日別れたまま、名前ひとつ知らないまま。
だからこそ、もう一度会ってみたい──そんな気持ちが静かに膨らんでいく。
「あだ名を思い出しただけでも奇跡、か……」
あとはあの山の周辺の孤児院から、“翔兄ぃ”と呼ばれている子を探せば──きっと辿り着けるはず。
「でも、会ったところで……何て言えばいいんだろ」
今さら「あなたが私の初恋でした」なんて言えるわけがない。
それでも。
「……せめて、お礼くらいは、言いたいな。向こうは私のこと、覚えてるか分かんないけど」
あの少年が、今もなお、誰かを助けている姿は容易に想像できた。昔と同じように、寒がりなのに誰かを温めようとするんだろう。
そんなことを考えていると、静寂を震わせるようにスマホが震えた。
「……え?」
画面を見ると、表示された名前に心音の心臓が跳ねる。
母の、入院先からの着信。
こんな早朝に。
こんな時間に電話が鳴るなんて。
「……まさか」
何か、嫌な予感がする。
喉の奥がぎゅっと縮まる。
呼吸が浅くなる。
隣の二人を起こさないように、そっと布団を抜け出し、足音を殺してスリッパを履く。
胸の奥に広がるざわめきは、夢の余韻を一瞬で吹き飛ばした。
ドアノブに触れる手が震える。
心臓が嫌な音を立てて脈打つ。
(どうか……どうか悪い知らせじゃありませんように)
そう願いながら、小さな息を吐き、心音はホテルの部屋を静かに抜け出した。
♢
鳴神翔太郎は、いつもよりずっと早く目が覚めてしまった。
時計を見ると、朝の六時半。
ルームメイトの風祭涼介と影山龍樹は、いまだに眠っていたが、翔太郎は眠気よりも胸の奥の焦りが勝っていて、ベッドにじっとしていられなかった。
(……時間的に、今日しか準備できないしな)
そう考えた翔太郎は、ホテルの1階にあるお土産屋へ向かっていた。
まだ開店前の店は、赤い仕切りロープで区切られ、誰も入れないようになっている。
だが遠目からでも、三浦半島らしい名物がずらりと並んでいるのが見えた。
干物や海藻の詰め合わせ、地元限定の可愛いマスコット、オシャレな貝殻アクセサリー。
思っていたより種類が多くて、翔太郎は腕を組んで悩む。
「うーん、どれなら喜んでくれるかなぁ」
海の土産はどれも綺麗だが、特別感に欠ける。
そのくせ、ヘタに凝ったものをあげると逆に気を遣わせてしまいそうで。
「誕生日まであと1日だし……ここで妥協したくないんだよな」
思わず独り言が漏れる。
この夏合宿中に、電子生徒手帳を何気なく見ていて気付いた“あの人の誕生日”。
どうして早く言ってくれないんだ、と焦ったものの、よく考えたら自分から誕生日をアピールするタイプではない。
むしろ、そういうことを隠しがちな性格だ。
だからこそ、ちゃんと祝いたかった。
(もうちょい特別なのがいいよな……アクセサリー? いや、若干重いか?)
そんなふうにロープ越しの店を睨むように眺めていると──ふと、視界の端で、エントランスの方に人影が動いた。
スマホを握りしめ、明らかに落ち着いていない様子の少女。
「……心音?」
白椿心音だった。
髪も寝癖のまま、表情は青ざめていて、ただならぬ気配がある。今にも泣き出しそうなのに、なんとか声を殺しているような顔。
「はい、はい。……そうですか、分かりました」
電話越しの誰かと話しているらしく、肩が小刻みに震えていた。
普段の柔らかな雰囲気とはまるで違う。
胸がざわつくほど切羽詰まった心音の姿が、朝の静寂に浮かび上がっていた。
「はい。……お願いします。私は今、東京にいないので、そちらに顔を出せるかは分かりませんが」
翔太郎は、ロープで閉じられた店のことなど一瞬で忘れ、足を向けていた。
心音はエントランスの柱に寄りかかり、携帯を握りしめたまま、まるで血の気が引いたような顔で電話を切った。
そのまま心音は背中からへたり込むように座った。
「……はぁ」
肩が小刻みに震え、切った直後に深く、苦しそうに息を吐く。
その様子に思わず翔太郎は歩み寄った。
「どうしたんだ?」
心音がビクッと驚いたように顔を上げる。
「あ……鳴神くん。おはよう」
「おはよう。……朝から随分と暗いな。今の電話に何かあったのか?」
しばらく迷うように唇を噛んだ後、心音は小さく切り出した。
「……前に、お母さんが入院してるって話、したでしょ?」
「ああ」
6月上旬に、その話は聞いていた。
心音の父は既に亡くなっており、母は十年以上入院していること。そして孤独になった心音は、親戚の家を転々として過ごしていたこと。
「まさか……?」
「……お母さんが──」
どんどん沈んだ様子を見せる心音を見て、翔太郎の背筋が僅かに寒くなる。
今、最悪の予感が頭をよぎった。
心音はぎゅっと両手を胸の前で固く握りしめ、目を伏せる。
「なんか……昨日の夜中に、病室から月を見た瞬間に暴れたらしくて」
「月を見た瞬間に?」
「うん。お母さん、今はもう、ほとんど廃人なんだけどさ。昔から、月を見ると突然暴れ出す癖があって……特に満月の日なんか、本当に酷いの」
彼女の声が震えている。
「昨日は……特に凄かったみたいで。あまりに暴れて、自傷行為に走ったらしいの。だから看護師さんが異能力で眠らせて……でも、このままだと衰弱死しかねないから、これから緊急手術をするかもって……」
そこまで言うと、心音の目が濡れ、今にもこぼれそうになる。
翔太郎は言葉を失い、一歩だけ彼女に近づいた。
「……合宿から抜けて、お母さんのところに行くのか?」
心音は首を横にも縦にも振れず、ただ苦しげに視線を落とす。
「……どうしようか、迷ってるの。会わなきゃって気持ちもあるけど……今のあの人をどう見ればいいのか、どう向き合えばいいのか……全然わかんなくて」
声は消え入りそうで、すべてを吐き出すような弱さだった。
「……どうしよう。鳴神くん……」
心音の声は震えていて、消え入りそうで、
今にもその場にしゃがみ込んでしまいそうだった。
翔太郎は胸の奥に重く沈むものを感じながら、そっと心音の近くに立つ。
普段は軽口だって叩き合える仲だ。
けれど、彼女の家庭事情なんていう深い部分に踏み込んだことはなかった。
ただ一つ確かなのは──心音は、翔太郎にとって大切な友達だということ。
だから、逃げずに向き合うと決めた。
「心音、自分が後悔しない方を選ぶしかないよ」
「──っ」
「こんなこと、聞きたい言葉じゃないのは分かってる。でも……心音のお母さん、今ほんとに良くない状況なんだろ?」
心音は俯いたまま、唇をぎゅっと噛むだけだった。
翔太郎は、その沈黙の重さを受け止めるように一度ゆっくり息を吸った。
胸の奥が、ズキンと痛む。
妹の陽奈の顔が、冬の空気みたいに冷たく蘇る。
大切な家族を失う直前──自分が何もできず、ただ祈ることしかできなかった無力さ。
だからこそ、誰にも同じ思いをしてほしくなかった。
「……俺も似たような経験があるから分かるんだよ。あの時、もっとこうしていればって。気付いた時には……もう遅かった」
「鳴神くん……」
小さく呼ばれた声は、迷いと不安に揺れていた。
翔太郎の胸の痛みが、少しだけ別の感情に変わる。
──この子には、後悔してほしくない。
「向き合うのが怖いっていう気持ち、分かる。だけど……こういう境目の時は、自分が後悔しない方を選ぶしかないんだ」
「後悔しない方……そんなの、分かってるんだけど……」
心音は絞り出すように言った。
「でもさ……会うのが怖いんだよ。お母さんのああいう姿、何度も見てきたのに……見慣れたはずなのに……もう、耐えられなくて」
翔太郎は静かに首を振った。
「耐えられないって思うのは、心音がそれだけちゃんと向き合ってきたからだよ」
「向き合って……きた、かな……?」
「そうだよ。だって俺、知ってるよ?」
翔太郎は、ふっと表情を柔らかくした。
「6月の初めぐらいに、お花屋さんで黄色のガーベラを買ってたこと。ちゃんと覚えてるよ」
「……っ、覚えてたんだ」
黄色のガーベラ。
その花言葉は優しさ、究極の愛。
心を失い、長い間言葉を交わしていない母に向けられるには、あまりにも痛いほど純粋な花言葉。
「親として接してもらう時間が長い間無かったとしても、それでも病院に通ってた理由は、あの花で分かってる」
心音の肩が震えた。
「私……どうすればいいのか、本当に分かんないよ」
「うん。迷うよな」
翔太郎は一歩だけ近づき、心音と視線を合わせた。
「もし、怖いんだったら──俺も一緒に行く」
「っ……!?」
心音が大きく目を見開く。
驚きと、溢れかけた涙が混じる。
「別に、こういう時に一人で抱える必要なんてどこにもない。俺は心音が後悔しない選択をするなら、それでいいから」
その言葉は、真っ直ぐで、どこにも逃げ場がないほど優しかった。
心音の瞳に溜まった涙が揺れ、こぼれそうでこぼれない。
言葉にならない感情が胸の奥に溢れていく。
「……ごめん……ちょっと、腰抜けちゃって。立たせてもらえる……?」
「もちろん」
翔太郎は遠慮なく肩を差し出した。
心音はそっとつかまり、体を預ける。
──その瞬間だった。
肩の高さ、温度、支える手の位置。
五年以上前の冬山で、あの日、自分を抱えてくれた少年の気配が一気に蘇る。
(……え?)
思わず、ザッと翔太郎の横顔を見つめる。
心音の胸が一瞬、強く跳ねた。
だが、翔太郎に全く気づく様子はなかった。
「よいしょ……っと。立てるか?」
気遣うように持ち上げる翔太郎を見た心音は慌ててぶんぶんと首を振り、涙を親指で拭った。
「……うん、大丈夫。私、お母さんのところに行ってくる」
「分かった。行こう」
翔太郎が力強く頷いたその時、ホテルの自動ドアが音を立てて開き、外から戻ってくるA組の担任・岩井の姿が目に入った。
二人は思わず視線を交わす。
岩井なら、東京への移動手段を何とかしてくれるかもしれない──そんな希望が心音の胸に灯っていた。




