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雷鳴のラストピース  作者: 雨車狸
第三章 『白薔薇のレクイエム』
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第三章15 『温泉での一幕(女子編)』

 その日の夜、女子風呂はかなり賑わっていた。

 夜の浴場は、湯気でゆらゆらと白く霞んでいる。

 夕方からずっとはしゃぎ続けたせいもあって、女子たちのテンションはまだ高い。


 その中、十傑三人が揃って入浴してしまったものだから、当然のように注目が集中する。


「うわ、心音ちゃん……すっごい……!」


「やっぱり、十傑って胸のサイズも十傑なんですか……?」


「ちょ、ちょっとみんな落ち着いて!? なんで胸ばっかり見てくるの!?」


 タオルを胸に押し当てつつ、心音が後ずさる。

 しかし、それでも隠しきれない。

 柔らかさと量感が、他の女子とは明らかに段違いだ。


 湯気越しでも分かる迫力に、周りの女子がざわつく。


「何食べたらそんなに育つのかな……」


「いやいや、あれは才能の暴力だって。同じ十傑でもほら、アリシアさんは……アレだし」


「てか、心音ちゃん今日の水着、すっごい似合ってたよ! 男子もめっちゃ見てたよね、今日?」


「あ、あはは……なんか、そこまで視線が下に向かれると凄い恥ずかしいなーなんて……」


 心音はタオルに顔まで半分隠し、耳まで真っ赤だ。

 一方その隣では、アリシアがB組の女子にぐるりと囲まれていた。


「結局のところ、アリシアさんって鳴神くんとは本当に付き合ってないの?」


「付き合ってないって、何回言えば分かってくれるの」


「だってほら、昨日だってせっかく女子部屋でみんなで集まったのに、アリシアさん一人だけ抜け出しちゃうからさ」


「もしかして、鳴神くんに会いに行ってたとか?」


「ふぇ、あぁ!?」


 聞いたこともないようなアリシアの動揺の声が響く。

 心音の友人たちが同じ部屋に集まることが嫌でコンビニに抜け出し、別に約束していた訳ではないが、偶然翔太郎と一緒に行くことになった。


 その後、ブランコでちょっと喋って、彼に今の自分の心境とかも伝えたりして──。


「……ぶくぶくぶくぶく」


「え、何その反応? まさか本当に抜け出して会いに行ってたとか!?」


「アリシアさんって、いつも静かだけど、バスじゃ鳴神くんの肩で寝てたみたいだしさ」


「ほーら、もう正直に白状しちゃっていいんだよー」


「っ……そ、そんな訳ない。私は、そういうのは……分からない」


 しどろもどろ。

 浴場の熱気のせいではなく、アリシアの頬がうっすら紅くなっていた。


 彼女は視線を伏せ、湯船に浸かっていたタオルの端を握りしめる。

 普段の淡々とした彼女からは想像できないほど、妙に落ち着かない仕草だった。


 そして、別の湯船では、玲奈が囲まれていた。


「氷嶺さん、マジで凄かったですよ! 昨日のビーチバレーのあのレシーブ!」


「ありがとうございます。ビーチバレー自体は初めてやったんですが、上手くいってよかったです」


「えぇ!? アレで初心者!? だったら、絶対プロとか目指せるって」


 周りの女子たちからの賞賛に、玲奈は肩まで湯に浸かり、少しだけ気恥ずかしそうに微笑む。


「いえ、そこまで大したものでは無いですよ。翔太郎がサポートしてくれたのもありますし、たまたまです」


「いや、最後のスパイクはたまたまレベルじゃなかったって!」


「しかも、鳴神くんがはしゃいでた時、すっごい嬉しそうだったよね?」


「──っ……! そ、そんな風に見えましたか?」


 玲奈の表情が一瞬で固まり、湯の温度以上に頬が熱くなる。


「だってさー、鳴神くんがなんか笑いながら氷嶺さんを褒めた瞬間、怖いぐらい笑顔だったよ?」


「……っ」


 玲奈は、湯の表面を見つめたまま反論できずにいた。

 確かに、あの時は胸の奥が一気に熱くなって、全身が軽くなった。


 翔太郎が自分の名前を呼んで、笑いながら褒めてくれた。

 あの時は、翔太郎の関心も視線も自分一人だけに向けられていた。

 その瞬間、湯気の中でも分かるほど頬が赤くなる。


「いや、あれは……その……」


 玲奈は目線を逸らし、言葉を探す。

 けれど、出てくるのは妙に素直な本音だった。


「確かに嬉しかったですね。試合に勝てたとかより、彼に認められて褒めてくれた事の方が」


 玲奈がポツリと呟くと、周りの女子たちの空気が一気に高まった。


「えっ、えっ、ちょっと待って、それってもう……」


「いやいやいや、氷の女王がそんな顔するの反則でしょ!」


「これは……もしかして本当に……」


 玲奈は彼女たちの様子に、ますます困惑した。


「じゃあ、やっぱり氷嶺さんは鳴神くんのことが?」


「──分からないんです」


 空気が一瞬で静まり返った。

 玲奈は湯の中で膝を抱え、ぽつりと言った。


 本当に悩んでそうな表情に、これまで黄色い声を上げていた彼女たちは何も言えなかった。


「彼と一緒にいる度に、色々な人から付き合ってるのかと聞かれました。それこそ……私に告白してきた男子からも、直接」


 あまりの質問の多さに鬱陶しく思った事もある。

 ここ数ヶ月で翔太郎の見てないところで告白された回数は、両手の指では足りない。

 いっそ、本当に翔太郎と付き合ってることにしようか、考えたことすらあった。


「でも、その付き合うとか、好きっていうのが、よく分からなくて……。確かに、彼といると楽しいし、信頼もしています。でも、この気持ちが何なのかは分からないままで……」


 そのまま玲奈は黙りこくった。

 周囲の女子たちが一斉に顔を見合わせると、聞いてるこっちが恥ずかしいと言わんばかりに、何故か照れた笑みを浮かべ始める。


 その時、勇気を持った一人の少女が玲奈に問いかけた。


「でもさ、氷嶺さん。なんで、パートナーに選んだのが鳴神くんだったの? 氷嶺さんはほら、いつも単独で試験に参加してたし、あの時だって、十傑はペナルティ無かったよね?」


 玲奈は、少し考えてから言葉を選んだ。

 この問いにも、そろそろ一つの答えを出さなければならないとは思っていた。


 そして、驚くほど真っ直ぐに言った。


「彼と組んで、試験に参加したいと思ったからです」


 周囲が一瞬固まり、湯けむりが止まったかのような静寂が落ちた。


 玲奈は続ける。


「こんな人付き合いが下手な私に、距離感を考えて接してくれました。それに、私がずっと抱えていた問題からも助けてくれたので。一緒にいると安心するんです。だから……組むなら彼がいい、と思いました」


 玲奈の真剣な声音。

 嘘や飾りの一切ない本物の響きに、周囲の女子たちの脳が一気に蒸発する。


「ちょっ……!?」


「もう、それ答え言ってるようなものじゃ──」


「鳴神くん、すげぇ……!!」


「え? 私、何か変なこと言いましたか……?」


 首をかしげる玲奈。

 天然で放たれた破壊力が、浴場の空気をさらに騒然とさせる。


 その喧噪の中、ひときわ冷えた音が響いた。


「チッ」


 すると、遠巻きに玲奈たちを見ていた女子の一人が舌打ちをしていた。


 彼女はD組の西宮清香(にしみやきよか)

 学園ランキング71位。

 西宮もまた、十傑の座を狙う生徒の一人。

 特に、末席である氷嶺玲奈が1番の狙い目だと思っている。


(へぇ……氷嶺玲奈って、そんな顔で一人の男のことを惚気るタイプだったんだ)


 瞬間、西宮の目に宿ったのは、このネタは使えると確信した捕食者の光。

 この試験で彼女を揺さぶる為にも、少し意地悪するのも良いかもしれないと思い、声を上げた。


「ふーん、氷嶺さんって一人の男子にそこまで信頼寄せるタイプだったんだ。道理でこの間までずっとぼっちだったくせに、鳴神くんと一緒にいるとこばっか見るなーって思った訳だ」


 挑発とも嫌味とも取れる声音。

 玲奈はきょとんとしつつも、すぐに言葉を返す。


「……一人の男子というか、翔太郎にだけですけど」


 そんな彼女の宣言に、またもや玲奈の周りにいた女子たちがキャーっと、黄色い声を上げる。


 だが、西宮は確信した。


(これは完全に弱点か? 鳴神翔太郎のことが)


 玲奈のウィークポイント。

 そこを攻めれば、彼女を必ず揺らせる。

 この試験で十傑を奪うチャンスまで見えるほどに。


 ニヤリと唇を歪めながら、西宮はわざと軽い調子を装って言い放つ。


「じゃあ、もし私が鳴神くんを狙うって言ったら、どうする?」


「なっ、西宮さん急に何を──」


「いやいや、例え話だって。そんなマジにならないでよ」


 玲奈のクラスメイトから非難が飛ぶが、基本的に自分よりもランキングが下の生徒を見下してる西宮にとっては、どこ吹く風と言った様子だった。


 軽やかな笑み。

 しかしその奥にあるのは悪意そのものだ。


「でも〜? ぼっちの氷嶺さんがそこまで信頼を寄せるぐらいなら、あの鳴神くんなら、あんまり接点のない私にも優しくしてくれそうじゃん。ね?」


 わざとらしく肩をすくめて、もっともらしく続ける。


「だってほら、B組のアリシアさんにもなんか面倒見てあげてたみたいだし? 女なら誰でも良さそうじゃない?」


「ちょっ、西宮さん! 氷嶺さんの前でそれは──」


「だったら、私が近付いて、ちょーっと下着でも見せれば……鳴神くんって、そういうの拒まないタイプでしょ?」


 その一言。

 玲奈の表情が音を立てずに固まった。

 さっきまで翔太郎の話をしていたときの柔らかい微笑みが、跡形もなく消える。


 もっと反応するなら、して欲しい。

 第十席の弱さを丸裸にするという好奇心が、今の西宮を突き動かしていた。


 周りの女子たちがこれ以上は辞めるように訴える視線を向けてくるが、それでも、西宮は決して辞めない。


「私、今フリーだし? 氷嶺さんも付き合ってないんだったら、いっそ私が鳴神くんのことを狙っちゃおうかなぁって──」


 その瞬間、バシャァッと湯面が爆ぜるほどの勢いで、玲奈が立ち上がった。


 西宮が思わず息を呑む。


 ──そこに立つ玲奈は、自分の中にある黒い感情を一切自覚していないくせに、誰よりも恐ろしい雰囲気を纏っていた。


 氷のように静かで、燃えているように冷たい。

 心臓が掴まれるような圧に、周囲の女子たちすら声を失う。


 玲奈は何も言わず、西宮の正面まで歩く。

 湯気が玲奈の肌を撫でるたび、浴場がさらに冷たく感じられるほどの迫力。


「……」


 ──冷たく、静かに。

 氷のような視線が落ちる。


「ひっ!?」


 西宮は一瞬で背筋を硬直させた。

 試験中ですら見たこともない彼女の凄まじい気迫。

 まるで心の底から大切にしている宝物を盗られそうな子供、と表現するのが甘いくらいに刺々しく、冷たい眼光だった。


 西宮は湯船に浸かっているにも関わらず、小刻みに震え始めていた。


「翔太郎に、なんですか?」


 線の切れた琴のように掠れた声色。

 素朴な質問の形をしているのに、逃げ場のない重さ。


 西宮は即座に両手を振った。


「じょっ、冗談だって! 本気で言ってないってば!」


「そうですか」


 玲奈は淡々と、しかしどこか満たされぬ影を落とした声で続ける。


「……別に、私は彼とは付き合ってないので、翔太郎に何をしようとあなたの自由ですけど」


 自由だが、翔太郎に変なことをするなという念押し。

 言葉に出ていない圧が、浴場全体に沈殿する。


 ブンブンと首を縦に振る西宮を見て満足したのか、玲奈はそのまま何も言わず元の位置に戻り、沈むように腰を下ろした。


 周りの女子たちは固唾を飲んで見守りながらも、思わず戦慄しながらちょっと興奮していた。


「ふぅ……」


 湯気の立ちこめる浴場の片隅。

 玲奈は胸元まで湯に沈み、ぽつりと小さく息を吐いた。

 さっきまで西宮に向けて噴き出した感情が、不思議なほど胸の奥でざわついている。


(……翔太郎)


 目を閉じると、自然と彼の顔が浮かんでしまう。


(冗談とは言っていましたが、もし本当にあの人に迫られたら……翔太郎、どうするんでしょう)


 さっきの西宮の挑発を思い返しながら、湯の表面を指でなぞる。

 翔太郎はあんな露骨に迫ってくる女子に対しても、きっと表情ひとつ変えない。


 だって、今だってそうだ。

 家出して転がり込んできた自分を、あの少年は驚きながらも受け入れた。

 一緒に生活して、距離も近くて、同じ空間に異性がいるのに──まるで動揺する素振りがない。


(……不思議な人ですよね、翔太郎は)


 だからこそ、仮に西宮が誘惑したところで、多分彼は困った笑顔を浮かべるだけだろう。


 そこまでは理解できる。

 だが、湯の表面を見つめながら、玲奈の胸がすこしだけ強く疼いた。


(……でも)


 もし翔太郎が、自分の知らない誰かのところに行ってしまったら。


 そのもしもを想像した瞬間、胸の奥に、先ほどの西宮へ向けた感情とは全く違う。

 もっと重たくて、強くて、黒い感情が静かに沈んでいく。


(……嫌です。絶対に嫌です。だってそれは……なんか……よく分からないけど……嫌なんです)


 自分でも言語化できない感情。

 ただ、彼が誰かに奪われ、自分の元から離れるかもしれないという可能性を想像しただけで息が苦しくなる。


 理由は分からない。

 どうして胸がこんなに痛むのかも分からない。


 だけど。


(翔太郎との生活は、いつまで続くんでしょう……)


 ぽつりと心の中で零したその言葉に、玲奈は自分で気付かぬまま、静かに目を伏せた。

 湯気の向こう、その横顔には僅かに影が落ちていた。


 湯気がふわふわと立ち上る大浴場に、甲高い声が弾けた。


「ええっ!? 心音ちゃん、恋愛経験ゼロってマジで!?」


「ちょ、ちょっと声大きいって!」


 耳まで真っ赤にしながら、心音が慌ててタオルで頬を隠す。


「そんなの、みんなに知られたら恥ずかしいから──」


「えぇ!? 普段、B組の男からもあんなに話しかけられてるのに、本当に誰とも付き合ったことないの!?」


「絶対一人ぐらいと付き合ったことあるでしょ? 学年違う先輩から告白されたの見たって子もいるんだけど!」


「そ、それは確かにされたけど……!」


 別の湯船に浸かっていた玲奈とアリシアも、思わずそちらを見る。


「心音が恋愛経験ゼロ……?」


「ちょっと意外」


 玲奈はぽかんと目を瞬かせて、小さく呟いた。

 アリシアも、気になっているのかちらちらとそちらを盗み見る。


「えぇ……。そんな、大げさだってば」


 心音は胸元まで湯に沈みながら、視線を泳がせる。


「第一、私まだそんな年じゃ──」


「高校一年生で、そのルックスなら彼氏の一人や二人いてもおかしくないよ!」


「そうそう! 心音ちゃん絶対、昔一人ぐらい……!」


「いや昔って言われても、小学生の頃からそういうの無いからね。私」


 湯気の中で、心音の肩が小さくすくむ。

 柔らかい雰囲気の彼女に、女子たちの好奇心は火がついたままだ。


「……失礼します」


 玲奈は一度、湯船からすっと立ち上がった。

 濡れた長い黒髪から雫が落ちる。


(前は、心音の話を聞けませんでしたし……)


 5月中旬頃の話になる。

 心音と水橋と共に、零凰学園の近くにある公園でガールズトークを繰り広げていた。


 あの時、彼女からは翔太郎との関係を散々聞かれた。

 次は心音の番となり、彼女の話を聞こうと思ったタイミングで、カレンとゼクスが乱入してきて話が流れてしまった。


 それ以降は、ガールズトークしている余裕など一切無かった。

 あの時流れてしまった話だからこそ、玲奈は今度こそ聞きたいと思った。


(男の子を好きになるってこと……。心音なら、詳しく知ってるかもしれないから……)


 湯を上がり、タオルで軽く体を押さえながら、玲奈は心音たちが集まっている湯船に歩み寄った。


「心音。私もお話に混ざっても良いですか?」


「れ、玲奈? あ、あの……今ちょっと変な話されてるから、出来れば後にしてほしいなーなんて」


「変な話ではないと思いますが」


 玲奈は心音の横にそっと腰を下ろし、肩まで湯に浸かる。


「──続き、私も聞いていいですよね? この間は結局、聞きそびれてしまったので」


「うわ、十傑二人並ぶと画面強っ……」


 周りの女子たちが小声でざわつく。

 心音もだが、玲奈が学年トップクラスの圧倒的美少女なのも相まって、十傑の女子二人が並んでいる様は絵になるものがある。


「じゃあ、改めて聞きますね。心音ちゃん」


 さっき質問していたA組の女子が、再び身を乗り出した。


「恋愛経験ゼロって本当なんですか?」


「……本当、だよ」


 観念したように、心音が小さく頷く。

 女子たちの間から、もう一度マジかという感嘆が漏れた。


「じゃあさ、付き合ったことないにしても──」


 今度は別の女子が目を輝かせる。


「好きな人は? 今じゃなくても、昔でもいいから!」


「前に誰かと付き合ってたとかでもいいよ? 幼馴染とか!」


「い、いないってば。付き合うとか、本当にそういう経験は一回もなくて……」


「じゃあ、“誰かを好きになったこと”は?」


 それは、誤魔化しが効かない質問だった。


 心音の綺麗なまつ毛が、一瞬だけ震える。

 玲奈も、その瞬間を見逃さなかった。


「心音」


 玲奈は、声を少しだけ柔らかくする。


「それは、私も聞きたいです」


「れ、玲奈まで……」


 逃げ場は完全に塞がれていた。

 心音は、湿った指先で湯面をそっと撫でるようにしながら、ぽつりと息を吐く。


「……一人だけ、います」


 その一言があまりに静かだったからこそ、大浴場にいた全員が一瞬息を止めた。

 湯気がゆらりと揺れ、まるで心音の言葉を閉じ込めるように濃くなる。


「えっ、マジで!?」


「やっぱ居るんじゃん!!」


「ちょ、ちょっと落ち着いてぇ……!」


 女子たちが一斉に心音の周りへ寄っていく。

 心音は肩まで湯に沈めながらも、逃げるように視線を彷徨わせ、絞り出すように口を開いた。


「付き合ったことはないし、向こうにも好きですなんて言ってないよ? でも……」


 自分の胸の辺りに視線を落としながら、心音は苦笑いのような、照れたような表情を浮かべる。


「その人が、初恋だったの」


 その言い方があまりにも慎ましくて、純情そのもので、聞いていた全員が胸を撃ち抜かれた。

 あまりの可愛らしさに、湯気よりも熱くなるのを感じる。


 玲奈も思わず目を奪われ、息を飲んでいた。


(……心音も、こんな顔をするんですね)


 普段の彼女の天真爛漫で明朗快活な雰囲気とは違う、どこか年相応の恋する女の表情。

 もし今の心音を見たのが異性だったら、いや、異性じゃなくても、抗える人間はいないのではとすら思ってしまう。


 心音は、少し恥ずかしそうに笑いながら話を続けた。


「……小学生の時ね。冬の山で迷子になったことがあったの。泣きながら倒れてたら、偶然、キャンプしてた同い年くらいの男の子が助けてくれて……。すっごく寒かったんだけど、その子が必死に抱きしめてくれたり、焚き火の前で話をしてくれたりして……」


 語る声が自然と柔らかくなる。

 湯気の中で、心音の表情がふわりとほころぶ。


「あの時の私は、色々あって自暴自棄になってた時だから、優しくされただけで胸がぎゅっとなっちゃって。ちょっと頑張っただけで褒めてくれたりしたの。それが嬉しくて、気づいたら……好きだなって」


 我ながらちょろい女ですなー、と心音は恥ずかしさを誤魔化すように頭を掻いた。


(っ……可愛い……)


 同性の玲奈ですら、思わず可愛いと思ってしまった。


 自分で恋をすることを想像した時にも、この温度は感じたことがない。

 それほど心音の初恋の語り方は清らかで、触れたら壊れてしまいそうで、だからこそ眩しい。


「あの男の子と過ごした時間を思い出すと、胸の奥が温かくなる。もう、随分長い間会えてないけど、好きになった人なら、人生の中でその子一人だけだよ」


 周囲の女子たちはすでに湧き立っている。


「えー、何それ! すっごい羨ましい初恋エピソードなんだけど」


「若干吊り橋効果入ってそうだけど……」


「それ以来、本当に会ってないの? 実は零凰学園にいたりしないの?」


 心音は首を横に振り、耳まで真っ赤にして湯に沈みかけた。


 同時に、心音の話を聞いていた女子たちは、爆発するような悲鳴が湯気の中に弾けた。


「尊すぎる……!」


「いるんじゃん、ガチのやつ!」


「その人って、それ以来本当に会ってないの? 実は零凰学園の生徒だったり?」


「いやー、無い無い。てか、私もそこまで顔をよく覚えてる訳じゃないんだよね」


 質問が四方八方から飛び交う。

 心音は両手で顔を覆いながら湯に沈み、目だけを出してプカプカ浮かぶ。


「第一、私も小さかったし切羽詰まってたからさ。その人にもう一度会えたとしても、あの時のお礼は言っても気持ちを伝える気はないし、本当に思い出として昇華してるって感じかな」


 その小さな笑顔があまりに大切そうで、聞いているこちらがムズムズするほどで──玲奈は思わず、胸に手を当てた。


(……心音がこんなに大切そうに想える相手。どれだけの徳を積んだら、こんな女の子に好きだったなんて言わせられるんでしょう)


 もちろん、玲奈はその男の子の正体が誰であるなど知る由もない。

 ただ、こんな可愛い初恋を持つ心音に対し、胸の奥がチクリとした。


 初恋を知らない玲奈にとっては、これが羨望なのかすらも、よく分からない。


 それでも、玲奈は静かに口を開いた。


「……とても素敵な初恋なんですね、心音」


 その優しい声色に、心音が驚いたように顔を上げる。


「玲奈……?」


「はい。こんな風に誰かを大切に思えるなんて……すごく素敵だと思います。こっちが羨ましいと思ってしまうぐらい」


 玲奈の言葉に、心音はくすぐったそうに笑い、湯気の向こうでその表情はほんのり桜色に染まった。


 その言葉に、心音の胸がきゅっと鳴った。


 あくまで、初恋かもしれないと思って語っただけだ。それが本当に恋愛感情なのか、自分で自覚したことはない。


 なぜだか、少しだけ胸がざわつく。

 心音がその男の子を好きになったきっかけは、自分のピンチを救われたからだった。

 もし、自分がこれから、誰かを好きになることがあるとすれば、そんな存在なのでは──。


「とりあえず!」


 まとめるように、誰かが両手を叩く。


「心音ちゃんに、好きな人がいるってことだけは分かった!」


「えー、初恋かぁ。その人ともう一度ちゃんと会えるといいね」


「い、いやぁ……そんな大げさな……!」


 からかわれながらも、心音はどこか嬉しそうに笑っていた。

 湯気の向こうで、その笑顔はいつもより少しだけ、柔らかく見えた。

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