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第九話「早起きだ」

 波に揺られること、約四十分。

 船はレルナ村に到着した。

 海風に混じって、別の匂いがかすかに鼻を掠めた。湿った土と、草の青い匂い。


 渡し板がかけられ、訓練生が順番に桟橋へと降りていく。ヒイロも列に続き、ぎしぎしと音を立てる板の感触を確かめながら地面へ足を下ろした。

 目の前には、小さな村が広がっている。

 白い漆喰の壁と、赤茶けた瓦屋根の家々。ところどころ、石積みの塀と、干された洗濯物が風に揺れていた。

 ティリンスのような高い城壁も、立派な柱廊ストアもない。代わりに、緩やかな丘と、遠くにこんもりとした森の影が見える。

 初夏の日差しが、村全体を柔らかく照らしていた。


「ここが、レルナ……ここもアルゴリスなんだよな?」

「そうだぜ、ヘラスのアルゴリス地方、レルナ村。ナウプリアから、アルゴリス湾を挟んで反対側にある」

「レルナっていえば、ヘラクレスのヒュドラ退治だよな!オレ、ヘラクレスがいっちゃん好き」


 などと雑談を交わしていると、桟橋の先で人の輪が出来はじめた。


「ようこそ、コスモスの方々」


 前へ出てきたのは、白い髭を蓄えた老人だった。

 擦り切れているがきちんとしたキトンを身につけて、上に外套ヒマティオンを纏っている。顔には深い皺が刻まれているが、その目つきは意外なほどしっかりしていた。


「レルナの長、フィロクセノスと申します」

「ジーンだ。転移者バルバロイの目撃情報について、詳しく聞かせてもらえるか?」


 村長の話によると、目撃された場所は主に二箇所。

 アルキュオニア湖と呼ばれる湖の近くと、ポンティノス山という山の頂上付近だ。

 レルナの村は、アルゴリス地方の海岸線にへばりつくように広がっている。東側には、さっき船で渡ってきたアルゴリス湾の穏やかな水面が開けている。反対の西側には、アルゴリスを囲む山々の稜線が連なっていた。

 そのうちの一つが、ポンティノス山。山の東麓から流れ出ている川の向こう側に聖なるもりが広がっており、その奥にアルキュオニア湖がある。


 村長の説明を聞き終え、簡単な打ち合わせをした後、ジーンの班がポンティノス山へ、宇禅の班がアルキュオニア湖へ向かうことが決まった。

 ヒロ、カルシノン、ティモテオスの三人は列の中ほどに固まり、宇禅に率いられて歩いていく。

 村の外れまでは、畑の間を抜ける土の道が続いていた。オリーブの木が、葉を揺らしている。

 

「のどかだな……」

「そうやって油断してる奴ほど、あっさり食われるもんだぜ」


 ヒイロが小さく呟くと、前を歩くカルシノンが冗談めかして言う。


 やがて人工物が視界に入らなくなり、代わりに進行方向に緑が見えてくる。足元の土が少し湿り始めた。遠くから、さらさらと水が石を擦る音が聞こえてくる。

聖なる杜の境界である川は、それほど広くないが、流れは思ったよりも速い。川岸には、簡素な木橋が一本かかっていた。

 川を越えると、空気ががらりと変わる。

 木々の背丈は高く、枝と葉が頭上に厚い天蓋を形作っている。差し込む陽光は細い筋になり、ところどころで埃と小さな虫を照らしていた。

 鳥の声が遠くなり、代わりに、見えないどこかで水が滴る音が微かに聞こえてきた。


「……なんか、ひんやりしてきたな」


 ヒイロが腕を小さくさする。


「聖域に入ったからな。俺もなんか落ち着かないや」


 カルシノンが前を向いたまま、静かに答えた。


 ヒイロは、歩を進めるごとに胸の奥が重くなっていくのを感じていた。

 息苦しいわけではない。嫌悪とも違う。ただ、どこか知らない場所から視線を投げかけられているような──そんな落ち着かなさ。

 足を止めるほどではないが、意識のどこかがそわそわと騒いでいる。

 森の奥から、見えない何かが呼吸している。その呼吸と、自分の心臓の鼓動が、じりじりと歩調を合わせてくるような奇妙な感覚。これも聖域に入ったせいなのか。


 どれだけ歩いただろうか。木々の隙間から、不意に光が強くなる。視界の先、緑の壁が途切れ、その向こうに開けた空間が見えた。

 一歩、二歩と枝を踏み分けて進むと、森がぱっと途切れる。


 目の前に、静かな水面が横たわっていた。湖面は風もないのに静かに揺らぎ、鈍い青緑色に光を反射している。周囲を取り囲む木々の影と、頭上の空の色が、溶け合うように映っていた。

 水際まで近づくと、足元の土が柔らかく沈む。湿った泥の匂いが、鼻の奥にまとわりつく。


「ここが、アルキュオニア湖」


 ヒイロは思わず、息を飲んだ。

 綺麗、というにはどこか重たい。淀んでいるわけではないのに、湖の中央は底が見えず、覗き込むと自分の影ごと吸い込まれそうな深さがある。

 胸のうずきが、さらに強くなった。

 森の奥から感じていた「視線」が、今は真っ直ぐここから伸びてきているように思える。

 もしこのまま一歩、二歩と進めば、そのまま吸い込まれるように水底に沈んでいきそうな、そんな錯覚を覚えた。


「ヒロ?」


 ティモテオスに呼ばれて、我に返る。


「ああ、悪い、ちょっとぼーっとしてた」

「おいおい、しっかりしろよな」


 慌ててみんなの元に駆け寄る。


「ここを基点にしましょう。三人一組になって、分かれて捜索です」


 宇禅の指示で、訓練生たちは三人一組に分かれ始める。

 ヒイロはカルシノン、ティモテオスと同じグループになった。


「グループの代表者一名に、これを渡します」


 宇禅は木でできた、丸いフォルムの小さな拳銃を掲げる。


「引き金を引くと信号弾が発射されます。怪物に遭遇した時や、転移者バルバロイに襲われた時、これを上に向けて撃ってください。くれぐれも、無茶はしないように」

 

 そう言って、懐から袋を取り出す。明らかに銃がひとつかふたつしか入らない大きさだったが、魔法の袋なのか、銃は全グループに行き渡った。


「では、捜索開始!」


 訓練生たちが、あちこちに散っていく。

 ヒイロたちは湖の北側から捜索を始める。


「大声で呼びかけるのはダメなんだっけ」

「相手を必要以上にビビらせるかもしれないし、もし凶悪な奴だった場合、自分達の居所がバレるからな。やめておいたほうがいい」


 三人で獣道を進んでいく。湿った土と落ちた葉の感触が靴底に伝わる。


「おい、来てみろ」


 カルシノンが二人に呼びかける。しゃがみ込んだ彼の視線の先には、深く踏み込まれた足跡がある。獣のものではない、靴底の平たい跡だった。


「人の足だ。奥へ続いてる」

「こっちか!?よっしゃ待ってろ転移者バルバロイ!!」

「あ、ちょ、待てよティモテオス!」


 ヒイロの制止する声も聞かずに、ティモテオスは足跡の先へと駆けていく。その姿はあっという間に深い緑に遮られ、見えなくなってしまった。

 

「やばい、後追うぞ」


 二人も駆け出す。

 木の根が露出した斜面を降り、巨大な岩の脇をすり抜ける。

 頭上を覆う枝葉がより濃くなり、陽の光をほとんど遮るくらいになった、その時だった。


「おや、シムクよ。今、風が鳴いたぞ」


 よく通る、やけに芝居がかった男の声。


「はいはい、どうせまた“無職の勘”とか言うんですよね。さっきから何回目ですか、先輩」


 続いて、テンションの低い女の声。


 足を止め、カルシノンと視線を交わす。声のする方向へ慎重に近づいた。

 茂みの隙間から覗き込むと、小さな開けた場所が見えた。


「我が勘は、風の変化ひとつ聞き逃さぬ。しがらみも、肩書きも、明日の始業時間すらも持たぬ故の冴えなのだよ」

「でも先輩、さっきその“無職の勘”外して思いっきり泥沼に落ちてましたよね?」


 岩に腰を下ろした下半身が泥だらけの男と、そのすぐそばの倒木に、腕を組んで座っている銀髪の女。

 男の方は、二十代半ばに見える。シンプルなシャツに薄手のコート、ゆるいズボンという、ヘラスでは滅多に見ない服装だ。

 少女の方も、黒いジーンズにパーカーのような上着。


 間違いなく、ターゲットだ。


「おーい。そこの二人。怪我はしてないか?」


 カルシノンが姿を見せて声をかける。ヒイロも、遅れて茂みから出た。

 黒髪の男がこちらを振り向く。目があった瞬間、その瞳が楽しげに細められた。


「おやおや、ついに来たか。森に導かれし、客人たちが」

「どっちかというと、アタシらの方が客人な気しますけどね。わけ分かんない場所にいるし」


 少女が呟く。

 男が立ち上がってこちらに一歩近づいた。


「初対面の諸君、初めまして。私は、無職で非職で社会のあぶれ者な世捨て人、アブレヒム・ヨーステン!」


 高らかに言って、大げさにポーズを決める男。何故か、背後で爆発が起きる。


「無職先輩の後輩、シムク・スミスでーす」

 

 女がひらひらと手を振る。


「俺の名前はカルシノン。ヘルメスの子。こっちはヒロ。君たちは転移者バルバロイだよな?つまり──」

「おっと、いかに無職が世間から白い目で見られる存在といえど、いきなり野蛮人バルバロイ呼ばわりは些か心外だな」

 

 カルシノンの言葉に被せて、アブレヒムが言う。


「あ、うん、ごめん」


 謝罪するカルシノン。


「……なんか、やりづらいな」

「ぱっと見はただのテンション高い無職だな」


 二人でこそこそと話し合う。とりあえず剣に手をかけるような雰囲気ではない。少なくとも、今すぐ襲ってくる類の相手ではなさそうだ。


「ぱっと見とは失礼な。私は練り上げられた結果としての無職なのだよ。さながら熟成されたワイン、あるいは人類社会から丁寧に削ぎ落とされた残滓と言ってほしい」

「残滓って自分で言っちゃうんですね、先輩」


 シムクのツッコミに、アブレヒムはくくく、と愉快そうに笑う。


「俺たちはコスモス。君たちを保護するために来た。一緒に来てほしい」

「ほう、“保護”」


 カルシノンの言葉に“保護”という単語が混じった瞬間、アブレヒムの笑みの形が、僅かに変わった。


「聞き慣れた響きだ。保護という名の、管理。囲い込み。“あなたのため”という甘言で飾られた、立派な檻だ」

「先輩、過去に何があったんですか」

「無職の歴史には常に檻がつきまとうのだよ、シムク。親からの説教、職安のチラシ、自治体のアンケート──」

「最後のやつ関係あります?」


 シムクが淡々とツッコミを入れる。


「別に、檻なんかじゃない」


 カルシノンが肩をすくめる。


「保護して、色々と話を聞いて、訓練所に所属してもらう。飯も寝る場所も用意するし、力の扱い方も教える。何が不満だ?」

「申し訳ないが、私は“所属”というものが、世界で二番目に嫌いでね」

「一番は何なんです?」

「早起きだ」


 即答だった。


「同行するつもりはない。ってことで、いいか?」

「こっちの都合も聞かずに、ついて来いとか、所属しろとか。アンタら何様のつもりですか」


 シムクの口調が、少しだけ荒くなる。


「悪いが、君たちが危険な目に遭わないようにするためでもある。」

「おやおや、実に社会人的な論理だ」


 アブレヒムが、泥に汚れたコートの裾を払う。その仕草すら、妙に芝居がかっていた。


「“危険かもしれないから、先に縛る”。“君たちのため”。──素晴らしい。そうやって世界は滑らかに回っていく。歯車がひとつ増える度にね」

「歯車になるのが嫌だから、無職やってるんですもんね、先輩」

「その通りだ、シムクよ!」


 アブレヒムは指を鳴らし、ピシリとヒイロたちを指差した。


「無職とは、すなわち囚われなき存在。真の自由。たった一度きりの人生、私は自分の好きなように生きて、好きなように死にたいのだ!」


 またも、ポーズを決める。


「もう一度言う。大人しくついてこい。もし、拒否するなら──」

「残念だが」


 またも、アブレヒムがカルシノンの言葉を遮る。


「私は無職だ。誰の社員にも、兵士にも、奴隷にもならない。たとえ相手が、神の子を名乗ろうとも、だ」

「“神の子にすら雇われない無職”ってことですか」

「おお、シムクよ、良いキャッチコピーだ。採用!」


 ふざけた調子のまま、足元の草が、ざわりと鳴った。

 風が、逆向きに流れ込んでくる。

 森の中で一定だったはずの空気の流れが、アブレヒムを中心に、音もなく渦を巻いた。


「ヒロ」

「分かってる」


 それ以上、二人の間に言葉は必要なかった。

 剣に手をかける。


「最後にもう一度だけ言ってやる。大人しくついて来い。それができないなら──」

「嫌だなあ」


 アブレヒムが、楽しげに笑う。


「最後の“もう一度”を、交渉じゃなくて脅迫に使うあたり、実に社会人的だ。では、無職側からも、一言だけ。拒否する」


 少女が気だるそうに立ち上がり、前へ出る。パーカーのポケットから、短い棒を取り出した。

 

「面倒ですけど、先輩の大事な無職ライフを邪魔する人は、全部まとめてアタシがぶっ飛ばします」

「おお、我が後輩の忠義に、思わず涙が出てしまいそうだ……」


 アブレヒムが感極まったように目頭を押さえる。


 ヒイロとカルシノンは同時に剣を抜き、駆ける。

 森の空気が弾けたように歪み、四人の距離が、一気に詰まった。

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