表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
7/19

第七話「あり得ない」

 うっすらとした明るさが、閉じた瞼の裏に滲み込んでくる。

 目を開ける前に、まず自分の体の重さを感じた。布団の重み、硬いマットレス、少しだけ冷たい朝の空気。ぼんやりとした意識の中で、ヒイロはゆっくりと瞬きをした。

 視界に入ってくるのは、見慣れない天井。白く塗られた漆喰に、木の梁が通っている。

 

 ここは訓練生用の寮。数日前から、この二段ベッドの下段が、ヒイロの寝床になった。

 上段からは、同室の訓練生のいびきが、かすかに聞こえる。名前はアザン。戦神アレスの息子で、中級クラス。模擬戦でノアにやられていた男だ。

 アザンを起こさないように、そっと体を起こす。

 今いる部屋は六人部屋で、今のところベッドは四つ埋まっている。

 粗末な二段ベッドが三つ、左右の壁に向かい合って並び、窓際には共用の机が一つ。石造りの床には、誰かの着替えが無造作に置かれていた。

 近くの棚からキトンとズボンを引っ張り出し、寝巻きを脱いで着替え始める。腰紐をぎゅっと締めて、小さく息を吸い込んでから、寮室の扉を開けた。


◆◇◆


 ここ数日、ヒイロは普通の訓練所生活を送っていた。普通といっても、ヒイロのいた世界の普通とはまるで違う。

 座学では、ヘレネスの言葉『共通語コイネー』の読み書きの勉強。あるいはヘレネスの神話や、ヘラスの地理、歴史、風習について学ぶ。

 実技の訓練では、英雄になるためのありとあらゆる武技を叩き込まれる。剣術に槍術に弓術、パンクラチオンと呼ばれる格闘技も教わる。

 実技の訓練で大活躍、というわけにはいかなかった。

 組み手ではカルシノンに十回以上投げ飛ばされ、弓は真っ直ぐに飛ばず、槍は隣の人に柄をぶつけた。

 唯一、剣は筋が良いと教官に褒められたが、その後、木剣での練習試合をゼウクシアとやる羽目になった。


「ま、あの時は偶々だね、新人クン」


 頭に木剣を叩きつけられ、目を回すヒイロに、ゼウクシアはそう言って鼻で笑った。

 

 頭を振って嫌な記憶を追い出す。

 気を取り直して、朝のランニングを続ける。カルシノンに何かやった方がいいことはあるか、と聞いたら


「走れ。とにかく走れ」


 と返ってきた。その助言を忠実に守っている。


 しばらく運動場ギュムナシオンに併設された競走場スタディオンを走っていると、低い鐘の音が響いてくる。朝一番の鐘だ。これが鳴ると、食堂や学舎が開く。この後、訓練所の開始十分前を知らせる鐘がもう一度鳴るが、その前にみんな起きてくる。同じ時間に鳴るようセットされた、寮の部屋に設置された水時計のアラームが、物凄い爆音でうるさいためだ。

 ランニングを終えて、食堂へ向かう。

 食堂は運動場ギュムナシオンの南西、丘の上にある。坂を登り、長方形の大きな建物に到着する。

 中に入ると既に何人か、早起きの訓練生が長椅子に座って朝食を食べていた。

 ヒイロは適当な席に座る。長机の上には、空の食器が並べられていた。

 目を瞑って、前の世界の食事を思い浮かべる。そうだな、久しぶりにジャンクフードが食べたい。

 目を開けると、某有名ハンバーガーチェーンの朝限定メニューが、食器の上に出現していた。食堂には闘技場アリーナのように強力な魔法がかけられており、イメージするだけで食べたい物が出てくる。

 そのまま食べる前に、チキンエッグマフィンを手に持って立ち上がり、食堂の奥へと進む。

 一番奥には、巨大な炉がある。マフィンを少しちぎり、炉に向かって投げた。

 炉から煙が勢いよく上がってきて、少し吸い込む。良い匂いだ。清涼感のある、ミントの匂い。

 これは、食堂で必ずしなければならない儀式だ。自分の食事の一部を神々へと捧げる。神々は食べ物を焼いた匂いが好きらしい。これを怠ると、二度と食事ができなくなる呪いがかけられる。

 席に戻って、マフィンを頬張る。


「おっす、ヒロ!美味そうなもん食ってんな」


 出来立てマフィンの味に舌鼓を打っていると、横から声をかけられる。

 黒髪の少年が隣に座ってきた。

 新しくできた下級クラスの友達、ティモテオスだ。海と地震の神、ポセイドンの息子。十四歳。


「一口食っていい?」


 マフィンを凝視するティモテオス。もう一度ちぎって彼の口に運びかけ、すんでのところで自分の口に入れる。


「ああっ、そんな」


 悲痛な声を上げるティモテオスの頭に、手刀をコツンと当てる。


「別の奴に自分の食べ物あげると、自分も相手も例の呪いかけられるんだろ?食べたらまずいって」

「あ、忘れてた」


 よく今日まで生きてこれたな、こいつ。


 二人で雑談しつつ食事をしていると、ヒイロの反対側にカルシノンが座った。


「カルシノンじゃん。おっすおっす」

「おはよ」

「おう、二人とも。こいつはまだ未確定の情報なんだが」


 声のトーンを低くしてカルシノンが言う。


「なんでも近々、ティリンスの外で実戦任務らしい」

「実戦任務?」

「そ。こっから南西に行った、レルナって村の近くでな。転移者バルバロイの目撃情報があるらしい」

転移者バルバロイ……」


 転移者バルバロイは、ヘラス中に不定期にやってくる。その多くは、『神託』と呼ばれる予言によって出現場所とタイミングが分かり、英雄が保護しに行くことができる。

 だが、予言できない転移もある。ヒイロもそのパターンだ。

 今回目撃情報のあった転移者バルバロイも、恐らく神託から漏れた転移者バルバロイなのだろう。

 カルシノンが説明を続ける。

 

「ヒロはティリンスの外に出るのは初めてだよな?実戦任務は英雄達が何人もついてきてくれるから、基本的には心配いらない。けど、転移者バルバロイがめっちゃ凶暴でめっちゃ強かった場合、コロッと死ぬ可能性もあるから、気をつけろよな」


 コロッと。


 ティモテオスが、手に持っていた骨付き肉を皿に落とした。


「つ、つまり……そのめっちゃ強い転移者バルバロイ倒したら、オレ凄くね!?よーし、やってやるぞー!!」


 そう言うと、皿に残っていた料理を全て平らげて走り去っていった。


「どこ行ったんだ、あいつ?」

「自主練……とか?」


 ヒイロは曖昧に答えた。


「まあ、いいや。ヒロの今日の予定は?」

「午前は座学。午後の一コマ目がパンクラチオンで、二コマ目は自由」

「じゃ、合流は午後からだな。お互い、頑張ろうぜ」


 食事を終えると、各々の訓練に分かれる。

 一コマ目、座学の内容はヘレネスの神話について。講師はクラウだ。


「神々は数多くいて、その全てを統べるのがゼウス。だけど、ゼウスはこの世界全てを支配しているわけじゃない。父親であり、先代の神々の王でもあるクロノスを打ち倒した後、彼は二人の兄弟と、大地を除いた世界の支配権を分割した。籤引きで」


 壁の黒板には、三柱の神々が籤引きをしている場面が描かれている。


「末の弟ゼウスは、天空を。次兄のポセイドンは海を支配することになった。そして、冥界──死者の国を支配することになったのが、三兄弟の長兄、ハデス」


 クラウが黒板を軽く叩くと、黒板の絵が変化する。雲の上の神殿で宴をする神々の絵と、玉座に座り、そばに三つの頭の犬を侍らせ、二又の槍を持った独りぼっちの神の絵。


「ゼウスはオリュンポス山の遥か上空、天上の神殿に住んでいる。そこで自分のきょうだいや子どもたちと宴をしたり、世界をコントロールしている。一方でハデスは、地下の薄暗い冥界で、毎日増え続ける死者の管理をしている。訪れる神はろくにおらず、宴も開かれない。一説では、冥界を支配するのを嫌がっており、いつか死者の軍勢を率いてゼウスを倒そうと画策している、とも言われているね」


 暗い地の底で、一人寂しく死者の相手。可哀想な神さまもいるんだな、とヒイロは思った。

 そういえば、ゼウスやポセイドンの子どもは会ったことがあるが、ハデスはない。


「先生、ハデスの血を引く半神ヘミテオスはいないんですか?」


 挙手して質問してみる。


「いい質問だね。結論から言うと、いない。ハデスは死の国の王だ。死を司る神が、何かを生み出すなんてことはあり得ない。死者は蘇らないし、転んでも空には落ちない。だからいない」


 クラウはキッパリと断言した。

 誰も異論を挟まない。「そういうもの」だとして受け入れている雰囲気だった。

 けれどヒイロの胸の奥にだけ、ひやりとしたものが残る。妙な居心地の悪さを感じた。

 黒板に描かれた冥界の王の絵から、目が離せない。玉座に座るその影が、教室ではない別の場所から、じっとこちらを見返しているような気がして──その感覚は、終わりの鐘が告げられるまで薄らぐことはなかった。


◆◇◆


 二コマ目の座学も終え、ぞろぞろと廊下に流れ出る人の列に混じる。

 食堂に着くと、朝よりも人が多い。

 長机のあちこちで、訓練生達が好き勝手に喋りながら飯をかき込んでいる。

 ちらちらと、視線を感じる。


「あれが例の……」

「ゼウクシアに勝ったって……?」

「ミノタウロス三体まとめて相手にしたって」


 尾ひれがつき始めた噂を無視して、食堂の中を突き進む。

 空いている席を見つけて腰を下ろし、空の皿を見つめる。

 これ、丼ものとかどうなるんだ?

 試しに想像してみる。甘じょっぱいタレの染みたカツ、卵、白いご飯。

 次の瞬間、皿が変形し丼になり、見慣れたカツ丼が現れた。湯気と一緒に、食欲をそそる匂いが立ち上る。


「こうなるんだ」


 一言呟いて、丼と箸を持って奥の炉に向かう。カツを一切れ、火に放り込む。

 神々の分を納め終えて席に戻ると、向かいの長椅子に白い影が腰を下ろす。


「ご一緒しても、いいですか」


 ノアだ。トレーの上には、この世界らしい素朴なパンとスープ、チーズと焼いた肉が並んでいる。


「あ、うん。どうぞ」


 ノアも、皿の上に乗った肉をひとかけら炉に捧げてから戻ってくる。その動作が妙に丁寧で、儀式というより習慣になっているのだと分かった。


「実戦任務の件、聞きましたか?」


 二、三口食べてから、ノアが口を開いた。

 

「ああ、カルシノンから聞いた。転移者バルバロイの捜索と保護だって」

「どうやら、下級クラスと中級クラスから、籤引きでメンバーを選ぶみたいです」

「じゃあ、行くかどうかは運次第か。なんかドキドキしてきたな」

「ヒロさんは、確定で行くことになると思いますよ」

「え、マジ?」


 ノアはパンをちぎりながら、淡々と続ける。


「ジーンが引率するようですし、直接指名されると思います。私も」

「ノアも?」

「ええ、ご一緒できるかもしれませんね。嬉しいです」


 さらっと言われて、ヒイロは箸を持つ手を止めた。


「ま、まあ、俺なんか役に立つか分かんないけど……」

「ヒロさんが一緒なら、心強いです」


 心臓が、どくりと跳ねた。

 冗談とかお世辞とか、そういうニュアンスが一切ない。真顔で、当たり前のように言われるから余計にくる。


「お、俺なんかより、ノアのほうがよっぽど頼りになるでしょ。強いし」

「一人で戦うより、二人のほうがいいです」


 あくまで淡々と述べるノア。

 だがそこまで聞いてしまうと、もう誤魔化しようがない。“ノアと一緒に行くんだ”という事実を意識してしまう自分がいる。


(やば……ちょっと嬉しいって思ってる場合じゃないだろ)


 熱くなりかけた顔を誤魔化すように、カツ丼をかき込む。


「ま、まあ、その、ジーンに選ばれたら、全力で頑張るよ。一応、“ミノタウロス殺し”の面子もあるし」

「面子、ですか」

「うん、ノアの前で、格好悪いとこ見せたくないし」


 言ってから、しまったと気づいた。

 ノアが、ぱちりと瞬く。


「私の、前だから、ですか?」

「い、いや、その、ほら、ジーンの内弟子だし。色々報告されたら困るというか……」


 苦し紛れの言い訳を捻り出すと、ノアは小さく首を振った。


「そうだとしても、嬉しいです」


 淡い瞳が、真正面からこちらを見つめてくる。その視線に耐えきれず、ヒイロは慌てて丼の中身に目を落とした。


「じゃ、その……一緒にちゃんと帰ってこよう、生きて」

「はい」


 ノアは、ほんの僅かに口元を和らげた。


「生きて、一緒に帰ってきましょう」

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ