第七話「あり得ない」
うっすらとした明るさが、閉じた瞼の裏に滲み込んでくる。
目を開ける前に、まず自分の体の重さを感じた。布団の重み、硬いマットレス、少しだけ冷たい朝の空気。ぼんやりとした意識の中で、ヒイロはゆっくりと瞬きをした。
視界に入ってくるのは、見慣れない天井。白く塗られた漆喰に、木の梁が通っている。
ここは訓練生用の寮。数日前から、この二段ベッドの下段が、ヒイロの寝床になった。
上段からは、同室の訓練生のいびきが、かすかに聞こえる。名前はアザン。戦神アレスの息子で、中級クラス。模擬戦でノアにやられていた男だ。
アザンを起こさないように、そっと体を起こす。
今いる部屋は六人部屋で、今のところベッドは四つ埋まっている。
粗末な二段ベッドが三つ、左右の壁に向かい合って並び、窓際には共用の机が一つ。石造りの床には、誰かの着替えが無造作に置かれていた。
近くの棚からキトンとズボンを引っ張り出し、寝巻きを脱いで着替え始める。腰紐をぎゅっと締めて、小さく息を吸い込んでから、寮室の扉を開けた。
◆◇◆
ここ数日、ヒイロは普通の訓練所生活を送っていた。普通といっても、ヒイロのいた世界の普通とはまるで違う。
座学では、ヘレネスの言葉『共通語』の読み書きの勉強。あるいはヘレネスの神話や、ヘラスの地理、歴史、風習について学ぶ。
実技の訓練では、英雄になるためのありとあらゆる武技を叩き込まれる。剣術に槍術に弓術、パンクラチオンと呼ばれる格闘技も教わる。
実技の訓練で大活躍、というわけにはいかなかった。
組み手ではカルシノンに十回以上投げ飛ばされ、弓は真っ直ぐに飛ばず、槍は隣の人に柄をぶつけた。
唯一、剣は筋が良いと教官に褒められたが、その後、木剣での練習試合をゼウクシアとやる羽目になった。
「ま、あの時は偶々だね、新人クン」
頭に木剣を叩きつけられ、目を回すヒイロに、ゼウクシアはそう言って鼻で笑った。
頭を振って嫌な記憶を追い出す。
気を取り直して、朝のランニングを続ける。カルシノンに何かやった方がいいことはあるか、と聞いたら
「走れ。とにかく走れ」
と返ってきた。その助言を忠実に守っている。
しばらく運動場に併設された競走場を走っていると、低い鐘の音が響いてくる。朝一番の鐘だ。これが鳴ると、食堂や学舎が開く。この後、訓練所の開始十分前を知らせる鐘がもう一度鳴るが、その前にみんな起きてくる。同じ時間に鳴るようセットされた、寮の部屋に設置された水時計のアラームが、物凄い爆音でうるさいためだ。
ランニングを終えて、食堂へ向かう。
食堂は運動場の南西、丘の上にある。坂を登り、長方形の大きな建物に到着する。
中に入ると既に何人か、早起きの訓練生が長椅子に座って朝食を食べていた。
ヒイロは適当な席に座る。長机の上には、空の食器が並べられていた。
目を瞑って、前の世界の食事を思い浮かべる。そうだな、久しぶりにジャンクフードが食べたい。
目を開けると、某有名ハンバーガーチェーンの朝限定メニューが、食器の上に出現していた。食堂には闘技場のように強力な魔法がかけられており、イメージするだけで食べたい物が出てくる。
そのまま食べる前に、チキンエッグマフィンを手に持って立ち上がり、食堂の奥へと進む。
一番奥には、巨大な炉がある。マフィンを少しちぎり、炉に向かって投げた。
炉から煙が勢いよく上がってきて、少し吸い込む。良い匂いだ。清涼感のある、ミントの匂い。
これは、食堂で必ずしなければならない儀式だ。自分の食事の一部を神々へと捧げる。神々は食べ物を焼いた匂いが好きらしい。これを怠ると、二度と食事ができなくなる呪いがかけられる。
席に戻って、マフィンを頬張る。
「おっす、ヒロ!美味そうなもん食ってんな」
出来立てマフィンの味に舌鼓を打っていると、横から声をかけられる。
黒髪の少年が隣に座ってきた。
新しくできた下級クラスの友達、ティモテオスだ。海と地震の神、ポセイドンの息子。十四歳。
「一口食っていい?」
マフィンを凝視するティモテオス。もう一度ちぎって彼の口に運びかけ、すんでのところで自分の口に入れる。
「ああっ、そんな」
悲痛な声を上げるティモテオスの頭に、手刀をコツンと当てる。
「別の奴に自分の食べ物あげると、自分も相手も例の呪いかけられるんだろ?食べたらまずいって」
「あ、忘れてた」
よく今日まで生きてこれたな、こいつ。
二人で雑談しつつ食事をしていると、ヒイロの反対側にカルシノンが座った。
「カルシノンじゃん。おっすおっす」
「おはよ」
「おう、二人とも。こいつはまだ未確定の情報なんだが」
声のトーンを低くしてカルシノンが言う。
「なんでも近々、ティリンスの外で実戦任務らしい」
「実戦任務?」
「そ。こっから南西に行った、レルナって村の近くでな。転移者の目撃情報があるらしい」
「転移者……」
転移者は、ヘラス中に不定期にやってくる。その多くは、『神託』と呼ばれる予言によって出現場所とタイミングが分かり、英雄が保護しに行くことができる。
だが、予言できない転移もある。ヒイロもそのパターンだ。
今回目撃情報のあった転移者も、恐らく神託から漏れた転移者なのだろう。
カルシノンが説明を続ける。
「ヒロはティリンスの外に出るのは初めてだよな?実戦任務は英雄達が何人もついてきてくれるから、基本的には心配いらない。けど、転移者がめっちゃ凶暴でめっちゃ強かった場合、コロッと死ぬ可能性もあるから、気をつけろよな」
コロッと。
ティモテオスが、手に持っていた骨付き肉を皿に落とした。
「つ、つまり……そのめっちゃ強い転移者倒したら、オレ凄くね!?よーし、やってやるぞー!!」
そう言うと、皿に残っていた料理を全て平らげて走り去っていった。
「どこ行ったんだ、あいつ?」
「自主練……とか?」
ヒイロは曖昧に答えた。
「まあ、いいや。ヒロの今日の予定は?」
「午前は座学。午後の一コマ目がパンクラチオンで、二コマ目は自由」
「じゃ、合流は午後からだな。お互い、頑張ろうぜ」
食事を終えると、各々の訓練に分かれる。
一コマ目、座学の内容はヘレネスの神話について。講師はクラウだ。
「神々は数多くいて、その全てを統べるのがゼウス。だけど、ゼウスはこの世界全てを支配しているわけじゃない。父親であり、先代の神々の王でもあるクロノスを打ち倒した後、彼は二人の兄弟と、大地を除いた世界の支配権を分割した。籤引きで」
壁の黒板には、三柱の神々が籤引きをしている場面が描かれている。
「末の弟ゼウスは、天空を。次兄のポセイドンは海を支配することになった。そして、冥界──死者の国を支配することになったのが、三兄弟の長兄、ハデス」
クラウが黒板を軽く叩くと、黒板の絵が変化する。雲の上の神殿で宴をする神々の絵と、玉座に座り、そばに三つの頭の犬を侍らせ、二又の槍を持った独りぼっちの神の絵。
「ゼウスはオリュンポス山の遥か上空、天上の神殿に住んでいる。そこで自分のきょうだいや子どもたちと宴をしたり、世界をコントロールしている。一方でハデスは、地下の薄暗い冥界で、毎日増え続ける死者の管理をしている。訪れる神はろくにおらず、宴も開かれない。一説では、冥界を支配するのを嫌がっており、いつか死者の軍勢を率いてゼウスを倒そうと画策している、とも言われているね」
暗い地の底で、一人寂しく死者の相手。可哀想な神さまもいるんだな、とヒイロは思った。
そういえば、ゼウスやポセイドンの子どもは会ったことがあるが、ハデスはない。
「先生、ハデスの血を引く半神はいないんですか?」
挙手して質問してみる。
「いい質問だね。結論から言うと、いない。ハデスは死の国の王だ。死を司る神が、何かを生み出すなんてことはあり得ない。死者は蘇らないし、転んでも空には落ちない。だからいない」
クラウはキッパリと断言した。
誰も異論を挟まない。「そういうもの」だとして受け入れている雰囲気だった。
けれどヒイロの胸の奥にだけ、ひやりとしたものが残る。妙な居心地の悪さを感じた。
黒板に描かれた冥界の王の絵から、目が離せない。玉座に座るその影が、教室ではない別の場所から、じっとこちらを見返しているような気がして──その感覚は、終わりの鐘が告げられるまで薄らぐことはなかった。
◆◇◆
二コマ目の座学も終え、ぞろぞろと廊下に流れ出る人の列に混じる。
食堂に着くと、朝よりも人が多い。
長机のあちこちで、訓練生達が好き勝手に喋りながら飯をかき込んでいる。
ちらちらと、視線を感じる。
「あれが例の……」
「ゼウクシアに勝ったって……?」
「ミノタウロス三体まとめて相手にしたって」
尾ひれがつき始めた噂を無視して、食堂の中を突き進む。
空いている席を見つけて腰を下ろし、空の皿を見つめる。
これ、丼ものとかどうなるんだ?
試しに想像してみる。甘じょっぱいタレの染みたカツ、卵、白いご飯。
次の瞬間、皿が変形し丼になり、見慣れたカツ丼が現れた。湯気と一緒に、食欲をそそる匂いが立ち上る。
「こうなるんだ」
一言呟いて、丼と箸を持って奥の炉に向かう。カツを一切れ、火に放り込む。
神々の分を納め終えて席に戻ると、向かいの長椅子に白い影が腰を下ろす。
「ご一緒しても、いいですか」
ノアだ。トレーの上には、この世界らしい素朴なパンとスープ、チーズと焼いた肉が並んでいる。
「あ、うん。どうぞ」
ノアも、皿の上に乗った肉をひとかけら炉に捧げてから戻ってくる。その動作が妙に丁寧で、儀式というより習慣になっているのだと分かった。
「実戦任務の件、聞きましたか?」
二、三口食べてから、ノアが口を開いた。
「ああ、カルシノンから聞いた。転移者の捜索と保護だって」
「どうやら、下級クラスと中級クラスから、籤引きでメンバーを選ぶみたいです」
「じゃあ、行くかどうかは運次第か。なんかドキドキしてきたな」
「ヒロさんは、確定で行くことになると思いますよ」
「え、マジ?」
ノアはパンをちぎりながら、淡々と続ける。
「ジーンが引率するようですし、直接指名されると思います。私も」
「ノアも?」
「ええ、ご一緒できるかもしれませんね。嬉しいです」
さらっと言われて、ヒイロは箸を持つ手を止めた。
「ま、まあ、俺なんか役に立つか分かんないけど……」
「ヒロさんが一緒なら、心強いです」
心臓が、どくりと跳ねた。
冗談とかお世辞とか、そういうニュアンスが一切ない。真顔で、当たり前のように言われるから余計にくる。
「お、俺なんかより、ノアのほうがよっぽど頼りになるでしょ。強いし」
「一人で戦うより、二人のほうがいいです」
あくまで淡々と述べるノア。
だがそこまで聞いてしまうと、もう誤魔化しようがない。“ノアと一緒に行くんだ”という事実を意識してしまう自分がいる。
(やば……ちょっと嬉しいって思ってる場合じゃないだろ)
熱くなりかけた顔を誤魔化すように、カツ丼をかき込む。
「ま、まあ、その、ジーンに選ばれたら、全力で頑張るよ。一応、“ミノタウロス殺し”の面子もあるし」
「面子、ですか」
「うん、ノアの前で、格好悪いとこ見せたくないし」
言ってから、しまったと気づいた。
ノアが、ぱちりと瞬く。
「私の、前だから、ですか?」
「い、いや、その、ほら、ジーンの内弟子だし。色々報告されたら困るというか……」
苦し紛れの言い訳を捻り出すと、ノアは小さく首を振った。
「そうだとしても、嬉しいです」
淡い瞳が、真正面からこちらを見つめてくる。その視線に耐えきれず、ヒイロは慌てて丼の中身に目を落とした。
「じゃ、その……一緒にちゃんと帰ってこよう、生きて」
「はい」
ノアは、ほんの僅かに口元を和らげた。
「生きて、一緒に帰ってきましょう」




