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第十九話「助太刀不要」

「散れ!」


 焦りを含んだ宇禅の声が響いた。

 三人は、それぞれ別の方向へ跳んだ。


 次の瞬間、さっきまでヒイロたちのいた場所を、巨大な拳が叩きつけた。ドン、と重い音。灰色の花が吹き飛び、地面に亀裂が走る。

 ヒイロは転がりながら体勢を立て直し、巨体へ駆ける。

 三人の攻撃が、ほぼ同時に“村長だったもの”へ叩き込まれる。

 ヒイロの黒い剣が、腹を斜めに裂く。

 宇禅の太刀筋が、肩口から胸へ深く走る。

 ノアの刃が、脇腹を抉る。


 確かな手応え。肉を断ち、赤い血が吹き出す。

 さらに畳みかけ、この怪物を完全に亡き者にしようとする。


 ────だが。



「──嘘、だろ」


 ヒイロの目の前で、信じがたい現象が起きる。

 斬り裂かれた傷口から吹き出していた血が止まった。赤黒い筋肉が蠢き、瞬く間に繋がっていく。まるで最初から傷などなかったかのように、平然と立っている。


 巨大な腕が振るわれる。たったそれだけの動きで、空気が裂けた。

 宇禅は刀を構え、その一撃を受け止めた。足が地面に食い込むが、踏みとどまる。

 しかし、防ぎ切れなかった衝撃の余波が、風圧となってヒイロとノアを叩いた。


「うおっ!」

「くっ!」


 視界が跳ねる。身体が宙へ浮き、背中から花の海へ叩きつけられる。肺から空気が押し出され、呼吸ができない。一瞬、視界が白く染まった。ノアも同じように吹き飛び、転がりながら地面に刃を立てて止まった。


 ヒイロは朦朧としつつも、なんとか立ち上がる。

 

『やるな……宇禅』


 村長だったものが口を開く。その声は二重だった。ひとつは、レルナ村で聞いた、掠れた老人の響き。もう一つは、聞いたことのない男のもの。耳に届いた瞬間に鼓膜の奥を撫で、骨の内側へ染み込むような、若くて──それでいてどこか古い声。


 宇禅の刃が、一瞬止まる。


「まさか……」

『この器は長く保たんが、少々楽しむとしようか』


 言葉の端に、笑いが混じる。

 “器”。確かにそう呼んだ。自らの肉体を。つまり、今目の前にいる存在は、村長の肉体を内から支配している。

 しかも、器が壊れることを織り込み済みで。

 村長だったものの皮膚が、瞬間だけ脈打つ。筋肉が膨張と収縮を繰り返し、骨が軋む音がした。


 偽りの身体に宿る何かは手を頭上に掲げる。

 空気がる。

 形を整え、色を成し、そこに現れたのは一振りの剣。血のように赤黒い刃。柄には髑髏の装飾が施されている。


「何故、邪魔立てをなさるのですか。アレス様」

 

 宇禅が刀を下げ、静かに問うた。相手の真名と共に。


 アレス。

 オリュンポス十二神の一柱。

 ゼウスの息子で、理性なき破壊と残忍な闘争を司る戦神。

 そんな神が、何故冥界(ここ)へ?


『いやなに、そこの小僧をぶち殺してやろうと思ってな。少し遊んだららせてくれるか?』

 

 またしても何故という言葉がヒイロの頭に浮かぶ。神が自分を殺したがっている。意味不明だ。理由がない。少なくとも、自分はSNSでアレスを誹謗中傷していない。いや、仮にしてたとして、誹謗中傷はいけないことだけど殺すほどの罪か?でも誹謗中傷が原因で自殺する人もいるくらいだし、実際にされたらぶち殺してやりたくなるんだろうな。てかそもそも神はSNSをするのか?


 ぐるぐると回る思考。現実逃避からか、頭の中が混沌としてくる。


「ヒロさんは、殺させません」


 凛とした、けれど鋼のような硬度を持ったノアの声。その一言が、弾かれたようにヒイロを現実へと引き戻した。


「ええ、彼の冒険を、ここで終わらせるわけにはいきません」


 宇禅が静かに、だが揺るぎない意志を込めて同意する。

 刀の柄を握り直し、きっさきをアレスへと向ける。


『じゃ、仕方ないな、全員死ね』


 アレスの口が、裂けるように吊り上がった。

 脅しではない。宣告だった。絶対的な暴力を、これから行使するという予定の読み上げ。


 戦神の剣が、冥界の赤い大気を斬り裂き、咆哮と共に振り下ろされる。

 

 アレスは最も近い場所にいた者、つまりは宇禅を獲物に定めた。

 刀と剣が激突する。火花が散り、金属音が響き渡る。

 一撃目は重い。二撃目は速い。三撃目は、理不尽だ。

 宇禅の刀が火花を散らし、刃の軌跡だけが白く残る。受け、逸らし、踏み込み、僅かに斬り返す。

 だが──斬れたはずの傷が、また閉じる。

 それでも宇禅は刀を振るう手を一切止めない。

 アレスも、豪快に笑いながら剣を振り回す。


 剣戟は、嵐だった。

 それは武芸という言葉では括れない。

 一方は人の極致と呼ぶべき『技』。

 一方はただ蹂躙するための『暴力』。


「くっ……!」


 加勢したいが、行けない。

 二人の周囲に渦巻く凄まじい密度の殺気が、透明な壁となってヒイロを拒絶している。隙がない。今、自分が入り込んだところで、一瞬で二人の剣に巻き込まれて細切れになる。そう死の予感が告げている。

 ノアもヒイロと同様手が出せずにいるが、いつ自分の出番になってもいいように身構えている。

 

 数十合、あるいは百を超えて打ち合っただろうか。刃と刃が噛み合うたび、乾いた冥界の空気が裂けて金属音が遠くまで伸びた。赤い空に、火花だけが瞬きのように散る。

 戦いは初め、互角だった。いや、技術の純度においては、宇禅が僅かに神を上回っていたかもしれない。

 だが、その均衡は残酷な時の経過と共に、音を立てて崩れつつあった。

 宇禅が、押され始めている。

 冥界にいるだけで、生者は消耗する。ステュクス川を渡る前、彼は慣れると言ったが、これは慣れればなくなるものではない。呼吸するたびに、宇禅から何かが少しずつ削れているのだ。

 アレスの猛攻に防御一辺倒となり、一歩、また一歩と後退していく。押されながらも形は崩れていない。だが、踏み止まるための余力が、目に見えて薄くなっていた。


「宇禅さん!」


 ヒイロはいてもたってもいられず、地を蹴った。脳裏で鳴り止まぬ、終わりを告げる弔鐘を無視して。


 アレスが剣を振り下ろす。

 宇禅は刀で受けるが、膝が沈む。地面の亀裂が小さく広がり、砂が舞った。受け止めたのではなく受けさせられた衝撃だ。


『楽しめたよ、じゃあな!』

 

 軽い声だった。戦いの最中とは思えないほど、雑で、愉快そうで。

 宇禅の首を断とうと、剣が横一直線に振るわれる。

 間に合わない。

 ヒイロの頭の奥で、彼の首が胴から離れ、地面に転がり落ちると死の予感が囁く。


 だが、刃は獲物を捉えなかった。

 宇禅はより深く沈み、横一閃をかわす。膝が地面を擦るほど低い。人が本能で避ける姿勢ではない。狙い澄ました落下だった。

 そのまま独楽のように身体を捻ると、アレスの胴体の中心に刀を突き刺した。刀身に焔が走り、戦神の肉体を灼き焦がす。そのまま真上に刀を斬り上げ、脳天まで断ち切った。

 直後、巨大な焔の柱が立ち昇り、アレスを包み込む。

 絶叫が轟き、その巨躯は瞬く間に黒焦げの炭へと変わり、絶望的なまでの熱量に焼かれながら崩れ落ちる。肉の焦げる匂いが、一拍遅れて飛んできた。


「や……やった、のか?」


 ヒイロは呆然と呟いた。

 宇禅は座り込んでいる。刀を杖代わりにして、なんとか上体を支えている。

 呼吸が荒い。肩を激しく上下させ、生きるために息をするが、息をすること自体が宇禅を蝕んでいるように、額を流れる汗が地面を濡らし、彼の生命力が急速に摩耗していくのが見て取れた。


 ヒイロは慌てて駆け寄ろうとする。

 

 だが、崩れ落ちた黒い炭の底から、不気味な脈動が響いた。


 バキリ、と。

 炭化した皮膚を内側から食い破り、筋肉が編み上げられていく。

 次の瞬間には、アレスは元に戻っていた。焦げ跡も、焼けただれも、切り傷もない。まるで、宇禅の攻撃を全てなかったことにするように。


「な──!?」


 驚愕する暇もなく、復活したアレスが、立ち上がる勢いのまま弾丸と化してヒイロへ肉薄する。


 速い。

 速すぎる。


 今までで一番濃い死の気配。最小の動きで突き出された刃に貫かれる未来。

 避ける。間に合わない。

 防ぐ。間に合わない。


「──っ!」


 最早何をしても悪あがきにしかならないと悟る。


『死ねぇっ!』


 せめて眼だけは閉じずに、目の前の、自分の命を奪おうとする者を睨みつける。


 次の瞬間、右から鈍い衝撃。身体がずれ、死の予感がおさまる。

 代わりに貫かれたのは────


「…………え?」


 言葉にならない音が喉から漏れた。

 宇禅の胸から、剣が突き出ている。血が、彼の白いシャツを赤く染めていく。


『おいおい、邪魔すんなよな』


 アレスが言った。その声には怒りなどはなく、軽薄な不快感しかなかった。


 宇禅は歯を食いしばり、刃から自分を引き剥がすように強引に身を捻った。彼の身体から剣が抜ける。

 そして、ヒイロの襟元を掴み片腕だけで遠くへ投げ飛ばす。


「ぬうん!」


 地面が遠のく。

 次の瞬間、ヒイロは背中から花畑を転がり、花弁が舞う。


「うわっ!」


 急いで起き上がったヒイロの視界に入ったのは、再び斬り結ぶ宇禅とアレスの姿だった。致命傷を負っているにも関わらず、宇禅の刀捌きは先ほどよりも鋭さを増している。

 

「二人とも!行きなさい!!」


 立ち上がって駆け出そうとしたヒイロを止めたのは、他でもない宇禅の声。

 

「ここは私が食い止めます。だから二人は先へ!!」

「そんな!待ってください、俺も──」

「いいえ、助太刀不要、邪魔です!」


 それは、今までの温厚な彼からは想像もつかない、峻厳な拒絶の言葉だった。ヒイロは何も返せず、ただ金縛りにあったみたいに身体を硬直させていた。


「貴方のやるべきことを思い出してください。ペルセポネ様を解放し、冬を終わらせるのです。貴方の冒険は、ここで終わってはならない!!」


 宇禅の声が、痛みに揺れないのが異様だった。

 痛みを感じていないのではない。感じる余裕を削って、言葉に変えている。


 宇禅は一度だけ、肩越しにこちらを振り返った。その瞳は、出会った頃と同じように穏やかだった。


「大丈夫、貴方なら、成し遂げられます」


 最期の別れを告げるような、優しい声。

 宇禅はそれだけを遺すと、血を撒き散らしながら、再び立ち塞がる戦神の影へと突っ込んでいった。

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