第十七話「一般市民です」
音が、消えた。
着水の衝撃は予想よりもずっと小さく、まるで厚い布に包み込まれたような、奇妙な柔らかさだった。
冷たい。けれど、それは皮膚を刺すような冷たさではなく、体温そのものをじわじわと書き換えられるような、静かな侵食。
ヒイロは目を開けた。
視界にあるのは、ただひたすらに深い、濁りのない「黒」だ。
上も下も分からない。
自分が沈んでいるのか、それとも昇っているのか。あるいは、止まっているのか。
もがこうとした指先が、何にも触れずに空を切る。重力という鎖が解かれ、内臓がふわふわと浮き上がるような感覚に、吐き気がこみ上げた。
(息が……っ)
肺の中に残ったわずかな空気が、気泡となって口から漏れ出す。
それは本来、水面を目指して立ち昇るはずのものだ。けれど、その銀色の泡はヒイロの周囲を螺旋状に巡り、どこか横の方へと流れて消えた。
理屈が通じない。物理が死んでいる。
思考が白く濁り始めたその時、足元から──いや、頭上からだろうか──強い力で服を掴まれたような衝撃が走った。
「──っ!」
視界が激しく回転する。
万華鏡の中に放り込まれたように、黒い水面に無数の光の筋が走り、次の瞬間、ヒイロの視界は爆発的な「光」に塗りつぶされた。
ぷはっ、と。
肺に溜まった泥を吐き出すように、ヒイロは水面から顔を出した。
「はぁっ、はぁ……っ! げほっ!」
激しくむせ込みながら、必死に酸素を求める。
喉を焼くような乾いた空気が流れ込み、ようやく自分が「生きて戻った」ことを自覚した。
だが、そこはさっきまでいた森の中ではなかった。
空が、赤い。
夕暮れではない。血の色とも違う、乾いた鉄錆みたいな赤が、空一面に張り付いている。雲は薄く伸びているのに、影を落とさない。太陽らしき輪郭は見当たらず、ただ空そのものが発光しているみたいに、赤い。
「ヒロ君!こっちです!」
声の方へ振り向くと、宇禅が陸の上でこちらに手を振っていた。そのすぐそばで、ノアが周囲を警戒している。
二人の元へ泳いで、陸に上がる。
「なんともありませんか」
「はい、大丈夫です」
改めて周りを見渡すと、荒野が広がっていた。
土は乾ききっていて、ひび割れている。踏みしめると、砂のように細かく崩れて、靴底にまとわりついた。
草は生えていない。あるのは、灰色の石ころと、干からびた何かの残骸だけ。
風が吹く。だが、それは風というより、空気が動いているだけだった。温度がない。湿度もない。ただ、乾いた空気が皮膚を撫でていくだけ。ついさっきまで水の中にいたはずなのに、服や髪が既に乾いている。
遠くに、枯れ木が見えた。
幹は黒く、枝は細く、葉は一枚もついていない。触れれば、音を立てて折れてしまいそうだ。
その枯れ木のいくつかに、炎が灯っている。
荒野には道がない。だが、道の“痕”が残っている。車輪の跡でも足跡でもなく、地面に刻まれた浅い溝が、いくつも同じ方向へ伸びている。
ヒイロたちが出現したのは、そんな“痕”のすぐ横、アルキュオニア湖よりずっと小さい池からだった。
「ここが……冥界」
ヒイロはごくりと喉を鳴らす。うまく言葉にできない、昂揚感のようなものが身体を震わせる。大声を上げながら全力疾走したい、なんて欲求が脳を支配しかける。
頭を振って即座に正常な思考を取り戻す。
死者の世界に来たのだ。そんな呑気な考えでいては、命を落とす可能性がどれだけ高まることか。
それでもヒイロは自分を抑えきれず、声のトーンがいつもより高くなりながら宇禅に尋ねた。
「それで、これからどうします?」
「……そうですね。ええと……」
宇禅の声はヒイロとは対照的に、今まで聞いた中で一番弱々しかった。
驚いて、宇禅の顔をまじまじと見つめてしまう。
いつも穏やかで、それでいて隙のない、刀を鞘に納めたような落ち着きを纏う顔つきが、今は別人のものだった。頬はこけたように見え、眉間には深い皺。目の奥に、ある種の嫌悪──いや、拒絶に近い何かが浮かんでいる。
口を大きく開け、喘ぐように呼吸をするたびに、肩が上下する。
明らかに尋常ではない。
「う、宇禅さん!?だ、だ大丈夫ですか!?」
ヒイロは慌てて宇禅の腕を支えた。その腕が、微かに震えている。
「大丈夫、ではありませんが……少し、時間をください。慣れます」
慣れますという言い方が、逆に不安を煽った。慣れなければならない場所。慣れたくないのに、慣れないと動けない場所。宇禅はその言葉を吐き出すと同時に、喉の奥で何かをこらえるように唇を噛んだ。
「成る程、これが冥界……古参の英雄達が誰も彼も行きたがらないはずです。このような場所とは」
言い終える前に、宇禅が激しく咳き込み。片膝をつく。ヒイロは背中をさすりながら、ノアに声をかける。
「ノア!宇禅さんの様子が……ノア?」
ヒイロの呼びかけに対し、ノアはすぐには反応しなかった。
彼女は凍りついたように立ち尽くし、虚空の一点を見つめている。普段から感情の起伏が乏しい彼女だが、今の無表情はそれとは似て非なるものだった。まるで魂だけが身体を抜け出し、この赤い空のどこかへ吸い込まれてしまったかのような、不気味な虚無。
その白い肌は、死者の死後硬直を思わせる質感に変貌している。
「……ノア、聞こえてるか?」
ヒイロがその肩を揺さぶると、ノアの視線がゆっくりと、機械的な動きでヒイロに向けられた。その淡い瞳の奥には、いつもの理知的な光はなく、どろりとした暗い情動が渦巻いている。
「……懐かしいです。この感じ」
ぽつりと漏れた声は、ひどく掠れていた。
「“死”がすぐそばにある、この感覚。まるであの頃に戻ったみたいで……でも」
ノアは自分の胸に手を当てた。義手ではない方の、左手だ。
「ここが、痛い。いえ、痛いというより──」
言葉が途切れる。
「冷たい、です。凍りつくみたいに」
ヒイロはただ、息を呑むことしかできない。
自分はなんともない。それどころかむしろ調子が上がっている。
何故か。そんなの分かりきっている。自分が、冥王の血を引いているからだ。
冥界は死者の国。生者は本来立ち入るべきではない場所。いや、生者が拒まれる唯一の場所。
そんなところに来て、何もおかしくならないはずがない。冥界に所縁のあるヒイロは、いわばバフがかかっている状態だが、そうでない二人には強烈なデバフがかかっている。
合点はいったが、まだ不思議なことがある。ノアの調子が宇禅ほど悪くなさそうなことだ。
宇禅は身体の芯から崩れそうなほど消耗しているのに、ノアは精神的に揺さぶられてはいるものの、足取り自体は宇禅よりも確かだった。
(どういうことだ……?)
ノアの過去を、ヒイロは何も知らない。
彼女がどんな境遇で育ったのか。どうして片腕が義手なのか。
ただ、この光景を見ていると、嫌な想像をしてしまう。
彼女は、“死”に近すぎる環境にずっといたのではないか。死者が出ることが珍しくないような場所。それこそ、戦場とか。
あるいは────
「お待たせしました、二人とも。行きましょう」
宇禅の言葉が、思考を遮った。
顔色はまだ悪く、額には脂汗が浮かんでいる。
それでも彼は、ヒイロの手を借りずに自力で立ち上がり、しっかりと地面を踏みしめている。その手には刀が顕現していた。まるで、自分を見失わないためのお守りとでもいうように、強く握っている。
「本当に、大丈夫ですか?もう少し休んでからもいいんじゃ」
「いいえ、これ以上は休んでも意味がない。これでも英雄の端くれ、この程度の逆境で音を上げるわけにはいきませんよ」
宇禅は無理に口角を上げ、微かに笑ってみせた。瞳の奥が、ぎらりと光った。
「ノア君は、大丈夫ですか。心ここに在らず、といった様子ですが」
まだぼんやりと立っているノアに、宇禅は声をかける。
「……はい。大丈夫、です」
ノアは頷いた。顔には生気が辛うじて宿っているが、胸に当てた手を離さない。
ヒイロは、二人の様子を見ながら、拳を握った。
(俺がしっかりしないと)
宇禅もノアも、冥界に適応できていない。
ここは、唯一まともに動ける自分が先陣を切るべきだ。
「俺が先頭を行きます」
ヒイロは二人を見た。
「何かあったら、すぐに言ってください。俺が、守ってみせます」
拳で胸をドンと叩いて、自らを鼓舞する。ヒイロの言葉に、宇禅は微笑んだ。
「……頼もしいですね、ヒロ君」
「ヒロさん……」
ノアも、僅かに表情を緩めた。
「じゃあ、出発しましょう。あっち、かな」
何故だか、自分たちの進むべき方向が分かった。というよりは、直感的にそちらに引かれている。何かがあると。
ヒイロを先頭に、三人は荒野を歩き始めた。
歩くたび、靴底で砂が擦れる音がする。それ以外に、何も聞こえない。風の音も、虫の羽音も、鳥の鳴き声も。ただ、自分たちの呼吸と足音だけが、世界に存在する全ての音だった。
空は赤いまま。足元に目を落とすと、そこにあるはずのものがない。冥界には、影が存在しないのだ。
一時間ほど歩いただろうか。
前方に、ふっと人影が現れた。
「前方に人影」
短く告げると、剣の柄に手をかける。
さらに歩いて近づくと、はっきりとその姿が見えてくる。
灰色の、人だった。
服の形はある。腕も脚もある。だが、輪郭がぼやけている。煙を人の形に固めたみたいに、存在が定まらない。意思を持っているようには見えず、ゆっくりとした足取りでヒイロたちと同じ方向へ進んでいた。
「これは……幽霊?」
「そのよう、ですね」
ヒイロの疑問にノアが答える。
幽霊を一人追い越して、先へ進んだ。
さらに一時間ほど経過した。
赤い空は相変わらずで、歩いているのに前へ進んでいる実感が薄い。
その間、幽霊を四度追い越した。段々とその数は増しており、今も先の方に十数人いるのが見える。
見えているものはそれだけではなかった。
川だ。荒野を横切る太い川が見えるようになった。乾いた大地に不釣り合いな黒く太い帯が地面を這っている。
川岸まで近づくと、何十人もの幽霊と、上品そうな男がいた。男は輪郭がはっきりとしており、灰色ではなく、肌の色がある。周りにいる幽霊たちとは別の存在だと分かった。男のすぐ後ろには五、六人乗りくらいの木の小舟が一艘、停まっている。
「おそらくあそこにいるのはカロン。冥界の渡し守です。そして流れているのはステュクス川。憎悪と境界の川でしょう」
宇禅の話を聞いて、ヒイロは大予言の内容を思い出す。
『憎悪と境界の川を越え、
富める者の心臓に至れ』
ここを越えれば、ハデスの館。
思わず、二人を置いて駆け出してしまいそうになる。胸の奥が、焦りで熱くなる。そんな自分を抑えて、ゆっくりとカロンに近づいた。
「あの……カロンさん。向こう側へ渡りたいんですけど」
「渡し賃は?」
カロンは一切表情を変えずに言った。
「え、ああ、お金ですか。ちょっと待ってください。えーっと」
背負っていた皮袋のポケットの中から、硬貨を適当に取り出す。
「これで、足りますか。三人分」
カロンは硬貨を受け取ると、どうぞ、と横にずれ、舟への道を空けた。
三人で小舟に乗る。木の板が軋み、微かに揺れた。カロンも続いて乗り込む。
その瞬間、周りの幽霊たちが一斉に動いた。
ぞろぞろと、舟に向かって歩いてくる。無言で、表情もなく、ただ手を伸ばしながら。
ヒイロは思わず身構えたが、カロンは手に持った長い棒で、幽霊たちを無造作に押し返した。幽霊たちは抵抗せず、押された方向へふらふらと流されていく。
「あの人たちは乗せてあげないんですか?」
「渡し賃を持っていませんので」
少し驚いた顔でカロンは答えた。驚いた、といっても目がほんの僅かに動いただけだ。
「あなた、珍しい人ですね。普通死者は生きていた頃の記憶も朧げで、もっとぼんやりとしているのに。ひょっとして、名のある英雄の方とか?」
心臓が跳ね上がった。
言葉に詰まる。自分がしっかりしなければと決意したばかりなのに、ここが死者の国だとすっかり失念していた。
「……いや、ただの学せ──でもなくて、ただの、一般市民、です」
カロンから目を逸らす。手が勝手に動いて、アポロンから貰った月桂冠をギュッと掴む。これのおかげで今自分たちは死者なのか生者なのか曖昧なはず。頼むからバレないでくれ。
もしバレたらどうなるのだろう。舟から突き落とされるとか?
川に目を落とす。川は暗く、黒く、油のようだ。
正体不明の骨、死んだ魚、錆びた槍の穂先、首の取れた人形──あらゆる“廃棄物”が浮いて渦巻いている。
少なくとも、夏に楽しめるレジャースポットなどではない。
率直に言って、泳いだらそのまま死にそうだ。
舟がゆっくりと動き出した。
カロンが棒で川底を突き、舟を前へ進める。水音は、ほとんどしない。ただ、舟が水面を滑るような音だけが、静かな響く。
不意に、隣に座るノアが手を握ってきた。
驚いて、ノアを見る。彼女はこちらを見ていない。ただ、川を見つめたまま、ヒイロの手を握っていた。
生きている者が自分以外にもいると、確かめるように。
ヒイロは何も言わず、ただ手を握り返した。
その手は、冷たかった。




