第十六話「後は思いっきり」
外壁の南門の外は、白かった。
雪はまだ細く、しかし絶え間なく降り続いている。風が吹くたび、粉雪が舞い上がり、石畳と土の境界を曖昧に塗りつぶしていった。
宇禅が先に立つ。外套の裾が揺れても歩幅は乱れない。
ノアはその半歩後ろ、淡い瞳で前だけを見ていた。
ヒイロは二人の間に並び、門を背にした。
三人で歩く道すがら、ヒイロは先ほどカルシノンから聞いた話を宇禅とノアに伝えた。
「なるほど、アルキュオニア湖ですか。冥王の神殿へのルートからは外れてしまいますが、そこまで遠回りでもないですし、試しに行ってみましょうか」
二人の承諾を得る。
できれば前回と同じように列車と船を使いたかったが、両方ともタイミングが悪く利用できなかった。
「雪、止みませんね」
ノアがぽつりと言う。感想というより確認に近い声だった。
「止ませる理由がないからでしょう」
宇禅が淡々と返す。
ヒイロは黙って歩いていた。靴底が雪を踏むたび、きゅ、と乾いた音が鳴る。その音が、まるで自分の存在を告げ口しているみたいだった。
神々が怒っている。季節を壊している。地上を冬にしている。雪まで降らせている。
理屈では「ゼウスとデメテルの怒りのせい」だと分かっている。けれど、その怒りの矛先に自分の名が混ざっているのも事実だった。
ヒイロは息を吐く。白く曇った息が、風に引きちぎられて消える。
不思議なことに、怖さは薄い。雪の下に落とし穴があるような不安も、冥界に落ちていく想像の恐怖も、感情としては大きく膨らまない。代わりに、空っぽなところへ重い石を落としたみたいに、ただ「重さ」だけが沈んでいった。
湖に向かう前に、一旦レルナ村に寄ることになった。このまま行くと、到着が夜になってしまう。今日のところは村で一泊し、明日の朝、湖へ行く。
逸る気持ちを抑えて、ヒイロは首肯した。
徒歩での道のりは、とても遠いものに感じられた。
雪のせいで景色の輪郭が薄れ、同じ場所をぐるぐる回っているような錯覚が起きる。けれど宇禅の足取りは迷わない。迷う素振りすら見せない。ヒイロはその背を追い、ノアは淡々と並走した。
やがて、陽が傾き始める。
雲の裏に押し込められた夕陽は、燃えるような色ではなく、濡れた石みたいな鈍い橙色に空を染めていた。光が弱い分だけ、寒さが強くなる。雪は細いまま、執拗に降り続ける。
レルナ村に着いたのは、陽が沈みかけた頃だった。
村の広場に入った瞬間、鼻の奥に刺さる匂いが変わる。焚き火の煙と、食べ物の匂いだ。
焚き火は増えていた。だが火の数が増えたところで、寒さが引くわけじゃない。
厚い布を頭から被って身を寄せ合う子ども。指先を真っ赤にして薪を割る男。小さな鍋を囲んで、薄い粥のようなものをすすりながら震える老人。
普段なら初夏のはずの村だ。冬支度など、まともにしているはずがない。火は貴重で、衣は薄い。畑も家畜も、寒さを前提にできていない。
ヒイロは、足を止めかけた。
(これが──今、起こっていること)
「重さ」が、より強く、大きくなる。
“神々の仕業”。そう、それは分かってる。
けど、その引き金は自分だ。それも良く分かっている。
ノアが小さく息を吐いた。白い息が短く揺れて、すぐ消える。
宇禅は村の様子を一瞥すると、すぐ村長の家へ向かった。迷いがないのに、急いでもいない。けれど、その歩幅の端に“無駄にできる時間はない”という言葉がにじんでいた。
泊めてもらうことになった村長の家は、村の中ではまだしっかりした造りだった。
だが、そもそもアルゴリス地方では冬に雪が降るのは内陸の山岳部などで、沿岸であるレルナ村では滅多に降らないらしい。
故に建物自体の防寒性能が低く、屋内でも底冷えする。火のそばまで寄っても、骨の芯まで温まらない。
村長は、顔の皺をさらに深くして頭を下げた。
「雪が……。まさか、冬になるとは……」
言葉の端が震えている。怒りでも恨みでもない。困り果てた声だ。
ヒイロは返す言葉を探して、喉の奥で詰まった。自分が「すみません」と言っていい話ではない。けれど、何も言わないのも違う。
宇禅が代わりに頭を下げる。
「今夜、一晩だけお世話になります。明け方、森へ向かいます」
村長は頷き、火を強めるように奴隷に合図を送った。
ノアは黙って炉のそばに座り、濡れた外套を軽く払った。ヒイロも同じように座る。火の熱が頬に当たっても、心までは温まらない。
夜は短かった。
眠ったというより、目を閉じていただけに近い。外では風が雪を叩きつけ、家が時々きしんだ。村人の咳が、遠くで途切れ途切れに聞こえる。
ヒイロは、その音の一つ一つが「猶予の残り」を数えているみたいで、落ち着かなかった。
まだ薄暗い明け方、三人は家を出た。
村長が渡した小さな袋には、乾いたパンと干し肉が少し。申し訳なさそうに「これしか」と言う村長の顔を見て、ヒイロは余計に言葉を失う。
森へ向かう道は、昨日よりも白い。
雪は積もりきらない。積もる前に溶け、溶ける前にまた降り、地面だけが常に湿って冷たい。最悪の寒さだ。
森の入り口が見えた。
木々は白く縁取られ、枝は重く垂れている。鳥の声が少ない。森全体が息を潜めているようだった。
入り口の手前に流れている川は、昨日より水かさが増している気がする。水面の端には薄い氷が浮き、流れに砕かれては下流へ消えていく。音はあるのに、冷え切っていて生気が薄い。
そこで、宇禅が足を止めた。
川のほとりに、人が立っていた。
雪の中でも目立つ、白に近い衣。銀色に輝く外套の縁にだけ、金の刺繍が走っている。
背は高く、立ち姿が異様に整っている。風に揺れる金髪が、焚き火の火種みたいに淡く光って見えた。
顔は青年のようで、同時に、歳月を重ねた者の冷たい余裕もある。
こちらが近づく前から、相手は三人を見ていた。
狙いすましたような視線。なのに、敵意とは違う。
ヒイロは喉が乾くのを感じた。
異様な瞳。ヒトにしか見えないが、到底ヒトには思えなかった。
相手が口元だけを僅かに動かす。
「来たか、冥王の子」
声は静かだった。聞くものを落ち着かせるような、骨の内に直接響く声。
「あなたは……」
宇禅が目を見開く。
「久しぶりだね、宇禅」
ニカっと男が笑うと、白い歯が輝いて見えた。というか、全体的に眩しい。
「お久しぶりです、アポロン様」
宇禅が男の名を告げる。
すぐに気がついた。目の前にいるのは、神だ。アポロン。神々の王ゼウスの息子で、オリュンポス十二神の一柱。光、弓術、医療、病、音楽の神。
「ついでにいうと、予言の神でもある」
思考を読まれた。流石は神さま。とても複雑な気持ちになった。
「アポロン様、何故ここに?」
「それはもちろん、冒険へ旅立つ勇者たちへ、贈りたいものがあるからさ!」
アポロンが指をぱちんと鳴らすと、掌に月桂冠が三つ現れる。
「これは『姿ぼかしの月桂冠』。その名の通り、被った者への認識をぼかす。名も、顔も、立場も。冥界は本来ならば生者を受け付けない。だがこれなら、死者たちに紛れることができる」
差し出された冠を、宇禅がまとめて受け取った。
「ありがたく頂戴いたします」
「なに、かまわないさ。これは僕の為でもある」
アポロンは踵を返し、森の奥へと進み始める。
「せっかくだ。湖まで見送ろう」
三人で一瞬顔を見合わせ、すぐについていった。
森は相変わらず鬱蒼としていて、太陽が鈍色の雲に隠れてしまっているせいで、朝とは思えないほど暗かった。歩くたび、雪が混ざった湿り気のある土に、足を取られそうになる。
ブーツに履き替えておいて良かったと心底思った。
「あの、聞いてもいいですか?」
歩きながらアポロンに尋ねる。
「なんだい?」
「俺たちが湖に行くって、どうして分かったんですか?」
「おいおい、僕は予言の神でもあると言っただろう。君たちの行き先を占うくらい、矢を引き絞るより簡単だよ」
至極当然という風にアポロンは笑う。
「それより僕も聞いていいかな?『冥王の息子』って、どんな気分?」
こちらの返事を待たず、アポロンが尋ねた。
その瞬間、心臓がどきりと跳ね、思考が硬直する。
「えっと……まあ、その」
冥王の息子だろうと、自分は自分。そう言い聞かせて、今まで深く考えないようにしていた。
それ故に、突然の問いに何を答えればいいのか分からなかった。
どんな気分。気分ときた。少なくとも、良くはない。
ハデスの息子だと知られてから、周囲の視線は変わった。畏怖、好奇、恐れ。
正直に言えば、『冥王の息子』という肩書きは自分が望むようなものではない。
でも、それを口にするのは——父親を否定するようで、何か違う気がした。
「俺は……俺ですから」
辛うじてそれだけ絞り出す。
「へえ。じゃあ、ハデスに対しては?お父さんのこと、なんとも思わないの?」
アポロンのさらなる問いに、喉元まで声が出かけた。
なんとも思ってないわけないだろてめえふざけんじゃねえぞ!!!
しかし、言葉をぐっと飲み込み、代わりに
「いやあ、どうっすかね。複雑です」
と回答する。
「アポロン様」
宇禅が低い声で割って入る。
「ヒロ君はまだお若い。加えて自分の出自がはっきりしたのはたった昨日のこと。向き合う時間すら惜しんで、我らは冒険に出たのです」
「ああ、すまないね。不躾な質問だった」
アポロンはあっさりと謝罪した。しかし、その笑みは消えてない。
「だが、冥界に行ってペルセポネを捜索するのだろう?ペルセポネはハデスに囚われている。となれば、君は御父上と対面することになるはず。その時君がどうするのか──少し、興味があってね」
アポロンの言葉に、ヒイロは思わず息を呑む。
そうだ。冥界に行けば、ハデスに会うことになる。ほとんど記憶にない父。マーチングバンドを見せに連れて行ってくれた、あの黒くて高い背。顔も朧げだ。
「ヒロさん」
ノアが小さく声をかけた。相変わらずの無表情だが、声には心配が滲んでいた。
「……大丈夫だよ」
ヒイロは首を振った。動揺を押し隠すように、無理に笑みを作る。
「考えても仕方ないことですから。行ってみないと分からないことだし」
アポロンはその様子を見て、
「へえ、そう」
とだけ呟くと、それから口を開かなくなった。
森の奥に進むにつれ、空気が変わっていくのが分かる。雪のせいで水気が増しているはずなのに、やけに乾いている。喉がひりつく渇きだ。
木々が途切れ、視界が広くなった。白と灰の空が広がる。森の出口──ではない。森の中にぽっかり空いた、異物の空間だ。
アルキュオニア湖は、凍っていなかった。
いや、凍っていないというより、凍ることを拒んでいるように見えた。
湖面は黒い。雪が降っているのに、白が乗らない。水に触れた雪片は音も立てずに消え、黒さだけが残る。波はない。風が通っているのに、波紋が生まれない。まるで、水ではなく「穴」を見ているみたいだった。
湖畔には葦が立っている。だが枯れているわけでも、揺れているわけでもない。どれも同じ角度で固まったまま、死んだ時間に刺さっている針みたいに並んでいた。
ヒイロは立ち止まり、靴底の雪を踏みしめた。
きゅ、と鳴る音だけが現実的だった。
怖い、とは思わない。
ただ、吸われるような「手応え」がある。
湖面の黒が、目ではなく身体の内側を見てくる。
「……ここが、アルキュオニア湖ですか」
ノアが言った。声は平坦なのに、言葉の端が少しだけ固い。淡い瞳が湖面をまっすぐ捉えて、瞬きが減っている。
「二人とも、これを」
宇禅から手渡された月桂冠を被る。葉は思いのほか柔らかく、額に触れた瞬間、ひやりとした感触が広がった。
薄い膜で身体の表面を撫でられるような、奇妙な感覚が走る。視界が一瞬だけ揺らいだような気がして、ヒイロは思わず瞬きをした。自分の手を見下ろすと、輪郭が僅かにぼやけているような——そんな錯覚に囚われる。
「あ、冠を被っている者同士には効果ないから、安心してほしい」
アポロンが口を開く。その言葉通り、隣のノアも宇禅も、はっきりと見えている。ただ、二人とも自分の手や腕を不思議そうに見つめていた。同じ感覚を覚えているのだろう。
「さあさあ後は思いっきり行くだけだ。ドボン、と!」
アポロンは軽やかに飛び込むジェスチャーをして、屈託なく笑った。金色の髪と、完璧な笑顔が眩しい。
一般的な女の人がいたらキャーキャー言いそうなこのイケメン神のことを、どうにもヒイロは好きになれなかった。
先ほどの、自らの出自を抉るような問答だけが理由ではない。
アポロンの瞳は笑っているようでいて、その実、ヒイロたちを「意志を持つ人間」としては見ていない。まるで、これから残酷な見世物が始まるのを特等席で待ちわびている観客のような──そんな、温度を欠いた期待の色が透けて見えるのが、たまらなく不快だった。
余計な考えを頭から追い出し、ヒイロは湖の縁まで近づく。水際の石が、異様に冷たい。指先で触れなくても分かる冷たさだ。
月桂冠の葉先に雪が溜まり、額を伝って頬へ落ちる。水滴の冷えが皮膚を刺した。
ヒイロは、胸の奥の棘を押さえつけるように息を吐いた。
ここが本当に冥界へ繋がっているのかは分からない。
カルシノンの話が真実かどうかも分からない。
それでも、ここが「ただの湖」ではないことだけは、三人とも理解していた。言葉にしなくても、足が勝手に慎重になる。
雪が降り続ける。
なのに湖面だけは、どこまでも黒いままだった。
ヒイロはその黒の手前で立ち尽くし、静かに言った。
「……行くなら、ここからだな」
声は小さかったが、迷いはなかった。
決めた以上、確かめるしかない。
宇禅が一歩近づき、ノアも並ぶ。三人の月桂冠に、同じ雪が積もる。
湖だけが、それを受け取らない。
「アポロン様、ここまでありがとうございました」
振り返って、宇禅が頭を下げる。
「いいよいいよ、気にしないで。あ、どうせだし、最後に助言をひとつ──『避けるな、順番を誤るな』。それじゃ!」
アポロンの身体が眩い光を放つ。その強い輝きに腕で目を覆う。光が収まり腕を下げると、光明神の姿は消えていた。
「なんというか、疲れる神さまでしたね……」
「神々とは往々にしてあんなものです」
ヒイロの呟きに、宇禅は淡々と返す。
「準備はできましたか?お二人とも」
宇禅の呼びかけに二人とも返事をする。
「では、まずは私から。もしここが普通の湖だったら、五つ数えてから出てきます」
言うが早いか、宇禅は大地を蹴り、湖に飛び込む。水しぶきはほとんど上がらなかった。沈む、というより“落ちる”だった。
ノアが続く。
跳躍は小さいのに、迷いが一切ない。白い髪が一瞬だけ空に広がって、すぐ闇に消えた。
残ったのはヒイロだけ。
岸辺の雪が、足元で静かに鳴る。背中に、湖からの冷気が這い上がってくる。
ヒイロは息を吸って、吐いた。白い息が一瞬、漂って消える。
カルシノンから貰った短剣を掴む。氷のように冷たい。だが、不思議と身体の熱が上がる。
踏み切った。
身体が空に放り出される感覚は、ほんの刹那。すぐに、湖が近づく。黒いまま、口を開けて待っている。
(ああ、そういえば)
着水する寸前、ヒイロは思い出す。
(アポロンは思考を読んでくるんだから、こっちが嫌がってたのバレてんじゃん)




