第十五話「行けます」
病室を出ると、廊下の空気が一段冷たかった。息が喉の奥でざらつく。
行き交う足音は普段よりも多い。誰もが早足で、何かを運び、誰かを探し、短い言葉だけを交わしては去っていく。廊下の端には濡れた足跡が続き、溶けきらない雪が靴底から床に落ちて、小さな水溜まりを作っていた。
何もかも、突如やってきた冬のせいだ。もっと正確に言えば、自分のせいでもある。
そう思った瞬間、背中の奥がひやりとした。理屈じゃない。噂がどうこうではなく、胸の中の罪悪感が勝手に因果を結びつけてくる。ゼウスとデメテルが怒って雪を降らせている──それは分かっている。それでも、引き金になったのが自分だと言われれば、否定する言葉が見つからない。
また少し拳を握り締めながら、ヒイロは医療棟の正面口から出て、訓練所の方に向かい始めた。敷地の石畳は薄く白く縁取られ、踏むたびに靴底がきゅ、と鳴った。すれ違う訓練生たちの視線が、ほんの一瞬だけこちらに引っかかっては外れる。頭上を確かめるような目つき。印が消えたことに気づいているのか、それとも「印の主」を見たくて見ているのか。どちらにせよ、居心地の悪さだけが残る。
訓練所の敷地内にある寮の自室へと入るタイミングで、楽が小走りで追いついてきた。
「おい、ヒロ!」
楽は布袋を一つ肩から下げている。布の口が半分開いていて、中から革紐や布の端がのぞいていた。準備品だと、一目で分かる。
「急に行くなよな。このあと、外壁の南門集合だってよ」
「あ……」
間の抜けた声が出てしまう。
早くこの問題を解決しなければという思いに駆られて何も考えずに出てきてしまった。集合場所すら聞かずに、どうやって集まるつもりだったのか。頭の片隅では分かっていたはずなのに、身体が先に動いてしまった。
「ごめんごめん、忘れてた。ありがとう」
「忘れてたって、お前なあ。あ、そうそう」
楽は布袋をこちらに差し出した。
「これ、クラウ先生が持ってけって。色々入ってる」
楽が布袋の口をこじ開け、中身をガサガサと探る。
「包帯。止血用の粉。解毒薬。火種と……あと、これ」
取り出されたのは厚手の外套だった。灰色っぽい布で、裏地が起毛している。
触れた瞬間、指先にじわりと温かさが残る気がして、ヒイロは目を細めた。
「ありがとう」
「お礼ならクラウ先生にな。あ、アンブロシアとネクタルもあるぞ!やったな」
薄い布に包まれたブロック状の完全栄養食のような見た目の食べ物と、宇禅がジーンに飲ませていた半透明の液体が入った瓶が出てくる。
「それって確か、神々の食べ物と飲み物だろ。劇的に傷が治るけど、摂取しすぎると身体が燃えて死ぬっていう」
「用法用量を守って正しく使えば大丈夫だよ」
そう言ってアンブロシアとネクタルを布袋の中にしまう楽。できれば使いたくないな、とヒイロは思った。
楽と一緒に自室へ入り、扉を閉める。
一枚板を挟んだだけで、外の厄介ごと全てが遠のいた気がした。けれどその分、胸の奥のざわめきがはっきり聞こえる気もした。
部屋はヒイロが朝起きて出て行った時と何も変わらなかった。粗末な二段ベッド。窓際の机。床には誰かの着替え。窓の隙間から冷気が忍び込み、ヒイロの肌を薄く撫でる。
ベッドの脇にしゃがみ込んで、下の隙間に手を突っ込む。指先が金属の角に当たり、硬い感触が返る。
取り出したのは小さな金庫だ。入寮する際に手渡された、最低限の個人財産。ふとした拍子に紛失しそうな小ささの鍵を、鍵穴に差し込んで、ひねる。かちり、と乾いた音。
蓋を開けると、中には硬貨が数枚入っている。
無造作に全部の硬貨を引っ掴んで、楽が持ってきてくれた皮袋の中、ポケットになっている部分に突っ込む。
「全部持ってくのか?ちょっとくらい残してもいいんじゃ……」
「何かあって足りなかった時、死ぬほど後悔しそうだから」
「確かに」
やり取りしながら、次は近くの棚から、着替えを引っ張り出す。
替えの下着を二枚袋に詰めたあたりで気がついた。
冥界って、入口どこ?
地下にあるのは知っている。感覚的に、なんとなく死者の国が地下というのは納得できる。しかし、どうやってそこまでいけばいい?
「……もしかして、スコップとかいる?」
「は?なんで?」
「いや、冥界の行き方とかよくよく考えたら知らないなって」
「お前ねぇ……」
呆れたようにため息をつく楽。いや、これは完全に呆れている。
「冥界への入り口は色々伝承とかあるけど、一番有名なのはエリス地方のハデス神殿だな」
「じゃあ、俺たちも最初そこに行くのか?」
と、尋ねるヒイロ。
「うん、そうじゃねえかな。いやなんでお前が何も知らないんだよ」
「なんも考えずに出てきちゃった……」
「先行き心配だなあおい!」
楽のツッコミをスルーしつつ、ヒイロはさらに尋ねる。
「で、エリス地方に行くんだよな。ティリンスからどのくらいなんだ?」
「うーん、普通に歩いたら、多分三日か四日はかかるかな」
なるほど、返しながら、三枚目の下着を袋に詰めようとして、やめた。最低三日も歩いて、さらに冥界という未知の領域に踏み入れなければならない。なら、荷物はなるべく軽い方がいい。
「よし、あとは武器庫に行って剣取ってくる」
言い終えるより先に、ヒイロは半歩だけ扉の方へ体を向けた。
「……ちょっと待て」
楽の声が、低く引っかけるように飛んできた。止めるための大声じゃない。逃がさないための声だった。
ヒイロが振り返ると、楽は口を開きかけて、いったん閉じた。言う順番を間違えないようにしているみたいに。
「俺さ。正直、こういうの向いてないんだよな」
笑いにする調子ではなかった。自分に言い聞かせるような、苦い吐息の混じった声。
楽は視線を外さず、続ける。
「ジーンのとこで生き残って、なんとかしてきたけど……結局、俺は“強い側”じゃない。分かってる」
そこで一瞬だけ目を伏せ、すぐにヒイロを見た。逃げ道を塞ぐみたいに、まっすぐに。
「だからさ。お前みたいに、決めたら動けるの、すげえと思う。……いや、ほんとに」
持ち上げる言葉なのに、どこか悔しさが滲んでいた。羨望というより、追いつけない現実の確認に近い。
ヒイロが何か言う前に、楽は言葉を発する。
「でも、こんな俺でも言えることは、あると思う」
楽の瞳が、真っ直ぐヒイロを見据える。
「“冥王の息子”とか、そういうのはどうでもいい。俺は、お前に、無事で帰ってきてほしい」
言い切って、楽は少しだけ息を吸った。次の言葉だけが、妙に重くなる。
「ちゃんと戻ってこい。俺は、ここで待ってるからな」
気休めじゃない。励ましというより、約束の押しつけに近い言い方だった。
ヒイロは一瞬だけ言葉に詰まり、喉の奥で何かを飲み込んだ。
「……分かった」
短く答えて、ヒイロは扉に手をかけた。
(約束、二個目)
頭の中で呟いて、少し足早に武器庫に向かう。
ヒイロの向かった武器庫は闘技場の中にある部屋ではなく、それ単体の建造物である。寮と学舎の中間地点に位置する、かなり立派な建物だ。普段は受付で武器持ち出しの許可を取るが、今は誰もいない。受付を横切って、剣の置かれているスペースへ。
多種多様な剣が壁にかけられ、あるいは服みたいに吊るされ、あるいは無造作に立てかけられている。
正直、ヒイロには剣の良し悪しは分からない。振ってなんとなく手に馴染むような気がしたりしなかったりである。
しかし、今ヒイロは一振りの剣に引き寄せられていた。強烈に。
無造作に置かれた剣の群れの中、奥の奥。埃をかぶっているそれを手に持つ。鞘から刃を引き抜く。
「黒い……」
思わず感想がこぼれた。
剣は黒かった。柄も、鍔も、刃も。とてもシンプルな、両刃の剣。
しかし、その刃の放つ鈍い光に、目が吸い寄せられる。
この武器庫に入った瞬間から、何故だかヒイロはこの剣があると分かっていた。
「それ、冥界の剣らしいぜ」
声に驚いて剣を取り落しそうになる。
振り向くと、そこにいたのはカルシノンだった。
「カルシノン!?き、傷は……?」
「おかげさまですっかり元気!……とはいかないけど、まあなんていうか、抜け出してきた」
タハハ、と笑いながら傷口を撫でる。
「…………」
「…………」
お互い、何も言い出せずにいた。
改めて面と向かうと、どうしても思い出してしまう。ティモテオスの死に様。ロボットとの死闘。
「ごめ──」
「ごめん!」
謝ろうとして、先に謝られた。何故?
「俺が弱かったせいで、ヒロを危険な目に遭わせてしまった」
カルシノンは視線を落とし、歯を噛む。言葉の端が少し震えた。
「俺、昔っからダメな奴だったんだよ。訓練にもろくについてけなくて……もう19なのに、未だ下級クラスの落ちこぼれ。でも、最近は調子よくってさ。図に乗ってた」
吐露した言葉は、自嘲だった。ヒイロは咄嗟に何も挟めず、ただ剣の鞘を握ったまま聞いていた、
「模擬戦の時、すぐにゼウクシアにやられて、まともに戦うことすらできなかった。お前はちゃんと戦って、しかも勝ったのに」
言い終わると、カルシノンは一瞬だけ顔を歪めた。羨望と惨めさが、半分ずつ。
「ティモテオスが勝手に先走った時も、ちゃんと止めるべきだったんだ。でも、まあいいかなんて思って、止めなかった。俺が、もっとちゃんとしてれば……」
言い切る前に、カルシノンは一度息を吐いた。自分の中の何かを押し戻すみたいに。
「で、おまけにお前のことも守りきれず、逆に助けられた。情けねえよな。本当は俺が、守る側のはずなのに」
最後の一言が、床に落ちた。
「別に、そうは思わない」
ヒイロの声は、思ったより落ち着いていた。慰めようとして出た声ではなく、ただ事実を伝える声。自分でも不思議なくらい、言葉に迷いがない。
「カルシノンがいてくれたから、訓練所にすぐ馴染めたし、森でも、あの転移者二人と戦った時、頼りになった。ロボットの邪魔さえ入らなければ、お前のおかげで制圧できてたはずだ。俺の中ではずっとカルシノンは頼もしい人だ」
言いながら、ヒイロはわざと相手の目を見た。逃げ道を残さないためだ。否定される前提で組み立てた言葉に、否定を許さない芯を通す。
「どこがだよ」
カルシノンは短く吐き捨てたが、声が上擦っていた。反射で突っぱねたくせに、突っぱねきれていない。
「少なくとも、俺は助かった」
ヒイロは言い切ってから、息を整える。自分の言葉の重さを確かめるみたいに、いったん口を閉じた。
「ティモテオスのことに関しては、正直何が正しかったのか分からない。仮に止めてたとしても、三人とも助からなかったかもしれない。現に、俺もお前も死にかけた」
“死にかけた”という語が出ても、胸の内側は揺れなかった。怖いというより、ただ状況の説明をしている感覚に近い。だからこそ、その淡々とした言い方が逆に現実味を増して、カルシノンの顔色を少しだけ変えた。
「だからそれは俺が──」
「それにあいつだって、“誰のせいで死んだか”なんて、決めてほしくないと思う。今、俺たちがすべきことはそれじゃない」
言葉を重ねた瞬間、ヒイロ自身の喉にわずかな痛みが走った。言いながら、分かっていた。これはカルシノンを救うための言葉であると同時に、自分が“これ以上”を増やさないための言葉でもある。
「…………神託、聞いたのか」
カルシノンがぽつりと尋ねた。さっきまで自分を責める言葉ばかり吐いていたのに、その一言だけは落ち着いていて、むしろ確認に近い響きだった。
ティリンスに戻ってすぐ宇禅に「神託所に行け」と言われるのを聞き、武器庫に足を運んでいる姿を見れば、誰だって察しはつく。
「ああ」
「……冒険、行くのか」
「ああ。失踪したペルセポネを探しに、冥界へ行く」
「そうか」
カルシノンが目を瞑って俯く。しばらく黙って、何かを飲み込んだように喉が動く。意を決したように口を開く。
「森からレルナ村に戻ってきた時、村人たちが話すのを聞いた。アルキュオニア湖は、冥界に繋がってる、不吉な湖だって」
「アルキュオニア湖?」
ヒイロは思い出す。不思議と引き摺り込まれそうな雰囲気を持った、森の奥にあったあの湖。
「もしこの話が真実だとしたら、冥界まですぐに行ける。もちろん、ただの湖って可能性もあるけど」
そう言うカルシノンの言葉には、どこか自信のなさを感じられた。穿った捉え方をするなら、行ってほしくない、とでも言いたげな。
「ありがとう。試しに行ってみるよ」
ヒイロは短く頷いた。言葉を盛らない方が今はいい。
「あ、ちょっと待てよ」
カルシノンは短剣の置かれている範囲のところまで行って、山をかき分ける。
「これがいいかな」
そんな言葉と共に差し出したのは、一本の短剣。
「これは……?」
「ケルベロスっているだろ?首が三つある、冥府の番犬。そいつ対策だ」
渡された短剣を鞘から引き抜くと、思わず目を細めた。薄暗い部屋の中なのに、剣身はきらきらと輝いていた。
「ケルベロスは光るものが好きだから、こいつを放れば追いかけていくはずだ。その隙に突破するんだよ」
「……こういうところだよ、頼りになるの」
ヒイロがそう言うと、カルシノンは照れ笑いのように口元だけを動かした。けれど、その笑みはどこか乾いていて、目の奥までは届いていない。
短剣を渡した指先が、ほんの一瞬だけ名残惜しそうに鞘を撫でたのが見えた。まるで「役目を終えた道具」を手放す仕草みたいに。
短剣を鞘に収めた瞬間、金属が触れ合う乾いた音が、やけに大きく響いた。
その音に合わせるみたいに、カルシノンの視線が一度だけヒイロの腰元へ落ち、すぐ逸れた。
「他になんか準備するものは?」
「いや、ないと思う」
「……そっか」
カルシノンが短く頷く。そこに、安堵が混じったようにも見えたし、別の何かが沈んだようにも見えた。どちらなのかを確かめる余裕はない。ヒイロは腰の短剣の位置を無意識に確かめて、掌を離す。
「ありがとな。助かった」
「礼を言われるようなことじゃない」
そう言いながら、カルシノンは視線を合わせない。武器の山の影に目を落とし、何かを探しているような、探していないような顔をする。
「……無事に、戻ってこいよ」
「当たり前だろ」
軽く返したつもりだった。けれど、言葉の端が少しだけ硬かったのを自分でも感じた。戻ってくる──その言い方が、やけに遠い場所を指している気がして。
ヒイロは武器庫の扉へ向かい、そこで一度だけ振り返る。
「カルシノンも、ちゃんと休めよ」
「……ああ」
返事は小さかった。雪の匂いが混じった冷気が、開けた扉の隙間から流れ込んでくる。ヒイロはそれに背中を押されるみたいに外へ出た。
外の白さに目が痛む。訓練所の中庭は薄く積もった雪で輪郭がぼやけ、普段なら聞こえるはずの笑い声や掛け声も、どこか遠い。皆が忙しなく動いているのに、世界だけが静かだ。
南門へ向かう途中、靴底が雪を踏む音だけが規則正しく続く。息を吸うたび喉が冷える。
外壁の南門は、すでに人の気配が集まっていた。門の前、灰色の空を背にして、宇禅がまっすぐ立っている。隣にはノア。白い髪に雪がひとひら乗っても、払いもしないで、淡い瞳だけをこちらに向けている。
ヒイロが近づくと、宇禅が一歩だけ前に出た。
「準備は整いましたか、ヒロ君」
「はい……行けます」
ノアが小さく頷く。言葉はないのに、それだけで「了解」が伝わってくる。
門の外から吹き込む風はさらに冷たく、雪を細く舞い上げた。ヒイロは肩をすくめるように息を吐き、二人の横に並ぶ。
逃げ道はもうない。
そして、不思議と──それを嫌だとは思わなかった。




