第十四話「要するに」
病室の窓は、白く曇っていた。外の光は雪に反射してやけに明るいのに、部屋の中は薄い灰色の膜を一枚挟んだみたいに沈んでいる。吐く息が白くなるほどではないが、壁に染みついた冷えが、じわじわと骨に滲んでくる。
ベッドが一つ。ほんの一週間前までヒイロの場所だったそこには、今はジーンが横たわっていた。
掛け布は胸元まで。穏やかな顔で、今にも起き上がってきそうだ。だが、身じろぎひとつしないで、呼吸の間隔は長く、とても浅い。
「ま、いわゆる仮死状態ってやつだね」
クラウは椅子に腰掛け、脚を組み、軽い調子で言葉を投げる。
「本来なら即死レベルの猛毒だけど、こいつだから仮死状態でギリギリ耐えてる。呆れるくらいの生命力だよ」
軽く言って、笑うクラウ。けれど、その笑みは口元だけで、目が笑っていない。
視線はずっと、ジーンの喉元と胸の動きを追っている。まるで、確認を怠った瞬間に、止まってしまうとでも言うように。
「まあ、こいつのことはいいとして──どうだった?」
言い方は雑だが、語尾だけが妙に鋭い。
視線はジーンから逸らさず、クラウが言った。
今この場には、ヒイロ、クラウ、宇禅、ノア、楽、そして死にかけのジーンがいる。
宇禅はヒイロのそばに立ち、余計な動きを一切しない。ノアはベッドの近く、淡い瞳で寝顔を見下ろしている。楽は入口寄りで落ち着かなく足先を揺らし、今にも何か言い出しそうで言い出せない。
誰もが同じものを見ているのに、見ているものが違うみたいだった。
クラウの問いかけは誰に対しての言葉なのかが欠けていたが、紛れもなく自分に対してで、言うまでもなく神託のことを聞いているのだとヒイロは理解した。
神託所で、ミイラに言われたものと一言一句違わぬ予言を、今度はヒイロ自身の口から紡ぐ。
予言を聞いて、クラウと宇禅は顔を見合わせる。やはり、とでも言いたげに。
「あの、これって一体何なんです?俺はどうすれば──」
「今から言うのは、コスモスでも幹部クラスしか知らない超極秘事項なんだが」
なんとも軽いノリでとんでもない発言がクラウの口から飛び出る。
「本来は、新入りや奴隷に話していい内容じゃない。けど神託が降りた。もう『知らないまま行け』とも言えない」
楽の表情が強張り、そそくさと出て行こうとして、クラウにジェスチャーだけで制止される。半分絶望、半分悟りの表情を浮かべて直立する楽。
クラウが続ける。
「今、天上界、つまり神々の間で大事件が起きてるんだ」
「大事件?」
自分の声が、思った以上に掠れて聞こえた。
「ペルセポネって知ってるか?冥王の妃だ。彼女は一年のうち冬だけ冥界にいて、春になれば天上界に戻っていく。だが、今年は春になっても戻らなかった」
クラウの説明は、授業の復習みたいに簡素で整っていた。
「つまり……女神が行方不明になったってこと?」
「ただの女神なら良かったんだがな。ペルセポネは神々の王ゼウスと豊穣神デメテルの娘だ。いなくなったことにゼウスもデメテルも混乱して、怒った。色んな神々や半神にまで聞いて回るくらいに」
クラウは肩をすくめた。けれど、その動きすらどこか硬い。
“聞いて回る”という表現の裏に、どれだけの圧と暴力が伴うのか。想像が勝手に膨らむ。
「怪しんだのは冥王ハデス。でも冥王も知らないと言っている。両方の仲はどんどん険悪に。トドメにヒロだ」
「お、俺?」
ヒイロの頭にクエスチョンマークが浮かぶ。何故そこで自分が出てくるのだろうか。
「今までいなかったとされてた冥王の息子。ゼウスとデメテルはこう考えたんだろうな。冥王が自分の息子を使ってペルセポネを攫い、冥界に捕らえていると」
「……ハァ?」
変な声が出た。否定でも怒りでもなく、ただ理解が追いつかない音。
クラウは、そこで初めてヒイロをちらりと見た。ほんの一瞬だけ。
その目が「信じろ」とも「落ち着け」とも言わない。ただ、「そういうことになっている」とだけ告げてくる。
「で、二柱とも地上を滅茶苦茶にしてる。今は初夏なのに冬みたいに寒くさせて、雪まで降らせてる」
「……」
返事が出ない。言葉を挟む余地がないというより、挟んだところで何も変わらない気がした。
レルナの焚き火の熱。白い息。掌で溶けた雪片。全部が、今の説明に綺麗に繋がってしまう。
頭が痛くなってきた。
「最終的には、ゼウスたちオリュンポスの軍勢が冥界に攻め込むかもな」
冗談めいた口調だったが、クラウがそう口にした瞬間、部屋の気温がさらに下がった気がした。
「ですがそうならないために、ヒロ君に大予言が下されました」
先ほどまで黙っていた宇禅が口を開く。
「大予言?」
「神託の中でも特に重要度の高い、解決すべき問題が提示された予言です。この予言が下されたからには、予言の冒険に出なければいけません。他ならぬヒロ君が」
「……ちょ、ちょっと待ってください」
反射的に口が出た。
言葉にした瞬間、自分でも驚くほど声が硬かった。
「行かなきゃ行けないって……俺なんかが行ってどうするんですか。ここは、コスモスは英雄たちの組織でしょ?俺なんかよりずっと強くて賢くて勇敢な人たちがいっぱいいて──」
言いながら、自分の声が情けなく上ずっているのが分かった。
“英雄たち”という言葉を出した瞬間、自分がそこに含まれていないことを確認したみたいで、なおさら惨めになる。
視線を上げれば、宇禅はいつも通り背筋を伸ばして立ち、ノアは黙ってこちらを見ている。楽は口を挟めず、入口のあたりで落ち着かなく指を擦っていた。
クラウは即座に否定しない。笑いもしない。
代わりに、妙に乾いた口調で言った。
「今めぼしい奴らはみんな出払ってるよ。ただでさえここ最近は、ゼウスとデメテルが暴れたりした尻拭いで忙しかったのに、季節までおかしくなったからね」
「出払ってる」という軽い言い回しの裏に、戦場と負傷と死が詰まっているのが分かる。
「だからって俺じゃなくても」
食い下がる声は、ほとんど懇願に近かった。
自分の理屈が崩れていくのを分かっていて、それでも「俺じゃない誰か」を探したい。そう言えば、まだ逃げ道が残る気がした。
クラウは小さく息を吐いた。笑い声ではない。
視線をジーンから外さないまま、けれど言葉だけは真っすぐにヒイロへ飛ばしてくる。
「印が出ただろう。あれはきっと、ハデスなりのヘルプサインだ。助けを求めてるんだよ、ヒロの」
部屋の静けさが一段深くなる。
助けを求めている。その言葉が、ただの説明ではなく、責任の形を持って胸に落ちてきた。
ヒイロは唇を噛み、何か言い返そうとして、できなかった。
冥王の息子だと告げられた時よりも、印が浮かんだ時よりも、今の一言の方が、よほど現実味があった。
助けを求められている。自分に。
その事実だけが、冷えた空気みたいに肺の奥に入り込み、じわじわと居座っていく。
「……俺に、助けを求めるって」
吐き出した声は、掠れていた。自分の声なのに、遠い。
「俺は、俺なんか──」
“ただの転移者だ”と言いかけて、喉の奥で引っかかる。
うまく言葉を吐き出せない。
「正直に言いますが」
数秒の沈黙を破ったのは、宇禅だった。
「ヒロ君、貴方は行かなくても構いません。成功が約束されてはいないし、最悪、命を落とす危険もあります」
行かなくてもいいという許可は、救いのはずなのに、ヒイロの気分は晴れない。この後に続く言葉が、なんとなく予測できたから。
「ですが、行かなければ大勢が死ぬ。それがヒロ君の望みですか?」
問いは丁寧だった。けれど、刃物みたいに鋭かった。
望みかと聞かれた瞬間、選択肢が二つから一つに削られる。
行かない、という答えは、ただの回避ではなく、明確な肯定になる──大勢が死ぬ未来を、自分が選ぶのだと。
ヒイロは唇を噛み、視線を落とした。
自分の掌が震えている。恐怖なのか、怒りなのか、区別もつかない。
それでも、喉の奥から出てきた言葉はひとつだけだった。
「……いいえ」
かすれた否定が、病室の冷たい空気に落ちた。
季節が壊れる。戦争が起きる。冥界に軍勢が押し寄せる。
その中心に、自分の名前が巻き込まれている。
ヒイロは無意識に拳を握りしめる。
嫌だ。怖い。やりたくない。
それでも、何もしないでいて、誰かがまた──その“また”が増える方がもっと嫌だ。
「……行きます」
水面に僅かに立つさざなみのような、小さな声。
それでも、言葉は確かに空気を震わせた。
ヒイロ自身が一番驚いているように、喉が熱い。
「俺が、行きます」
もう一度、先ほどよりも大きな声で宣言した。
言い直したのは、周りに聞かせるためではない。自分に聞かせるためだ。
クラウも宇禅も、ゆっくりと頷いた。慰めでも賞賛でもなく、覚悟を決めた者に対する最低限の礼儀、とでも言うように。
「じゃ、まずは同行者を二人決めないとな」
クラウが軽い調子に戻した。部屋の空気を一段だけ和やかにさせるための、意図的な軽さだと分かる。
「同行者?」
「こういうのは三人って相場が決まってる。あとの二人は──」
「私が行きます」
ノアが応える。行けますではなく、行きます。決定形。
「え、ノア!?」
反射で声がうわずった。止めたいのか、安心したいのか、自分でも分からない。
ノアは首を傾げただけで、表情は変わらない。
「不満、でしょうか」
「いや、不満はないけど。ほら、危ないし」
言い訳めいた言葉が口をついた。危ないのは分かっている。分かっているのに、ノアが行くと言った瞬間だけ、別種の焦りが湧いた。
自分が巻き込んでしまう、という予感だ。
「問題ありません。死線は何度かくぐっています。それに──」
“死線”というノアの言葉には、ひやりとした重みがあった。彼女の過去が、ふと気になった。だが、今この場で踏み込むべきではない、と直感が止める。
「約束は、まだ有効です。『一緒に生きて帰ってくる』──でしょう?」
ヒイロは息を呑んだ。
逃げないで、とは言わない。責めもしない。ただ、交わした約束を当然のように持ち出してくる。
「……そう、だな」
頷きが、少し遅れた。遅れた分だけ、腹の底で決まる。
「ではノアさんで。残りの一人は私で構いませんか?」
「宇禅さんが!?頼もしいです」
言ってから、ヒイロは自分の声が少し弾んでいることに気づく。
頼もしい──本音だ。けれど同時に、宇禅まで巻き込むのか、と胸が痛んだ。
「『剣聖』宇禅にジーンの内弟子、率いるのは冥王の息子、か。面白いメンバーだね。俺はジーンを看るの含め、やることがあるから無理だし、妥当な人選じゃないか?」
「ええっとそれで、俺たちがやるべきことはペルセポネの捜索、でいいんですよね?」
ヒイロの言葉にクラウが小さく頷く。
「予言の内容を紐解いてみよう」
クラウは先ほど聞いたのと同じ言葉を繰り返す。
『蒼天の王は怒りに震え、
黄泉の主は愛を手放さぬ。
天と地の狭間にて、光と影が激突し、
灰燼の風が世界を包むだろう』
「これはそのまんまの意味だね。冥王はペルセポネを捕らえて、ゼウスはそれに怒っている。このままだと両者が激突して世界が大変なことになる」
そのまんま、と言いながらクラウの眉間には軽く皺が寄っている。
簡単な話ではない、と本人が一番理解している顔だ。
「あの、それなんですけど、本当にハデス……父さん……はペルセポネを捕らえているんでしょうか。俺は何にもしてないし、ゼウスたちが勝手に言っているだけなんじゃ」
“父さん”という語が口を滑った瞬間、自分の喉が詰まる。
言った本人が一番居心地が悪そうに、視線を落とした。
「神託の内容に誤りはない。ここはそうだと信じるしかないね」
「う……分かりました」
なんというか、飲み込むしかないものを飲み込んだ味がした。
『鎖されし花を連れ戻せ。
憎悪と境界の川を越え、
富める者の心臓に至れ』
「鎖されし花はペルセポネ。憎悪と境界の川は冥界を流れるステュクス川のこと。富める者は冥王の別名。要するにペルセポネは冥界に囚われているから助けに行けってことだね」
ヒイロの中で、ぼんやりしていたものが線になる。
冥界へ行く。言葉にしただけなら、簡単そうに思えた。
『されど、刃は既に傍にある。
友の顔をした裏切りは、
誓いよりも早く牙を剥くだろう』
「……これって」
「裏切りにあう、ということですね」
ヒイロが言いかけた先を、宇禅が静かに引き取った。
「はっきり言うね、宇禅。まあこれに関しては今はどうにもできないし、後で考えれば良いよ」
“今は”と区切ったのが、余計にヒイロを不安にさせる。とはいえ、信用できる人物も少ないのに、誰が裏切るのかと神経を尖らせ続けてもしょうがないだろう、と割り切ることにした。
「要するに、冥界へ行ってペルセポネを探せってことですね」
言葉にした瞬間、背中の奥が冷えた。
けれど同時に、決めた以上は進むしかない、と身体のどこかが静かに理解していくのが分かった。
これ以上、言葉を重ねても何も変わらない。
ヒイロは一度だけ息を吐き、握っていた拳をほどいた。掌に残る爪の跡が、じんと痛い。
ベッドの上で眠るジーンは、相変わらず身じろぎひとつしない。弱い呼吸音だけが、まだここにいると告げている。
その事実が、慰めにもなれば、責めにもなる。だからヒイロは視線を外した。見続けたら、今度こそ決心が崩れる気がした。
「……準備します」
声は思ったより小さかった。宣言というより、現実に貼り付けるための合図みたいな音。
それでも口にした瞬間、逃げ道が一つ消えるのが分かった。
宇禅が短く頷き、ノアも淡い瞳を一度だけ瞬かせる。クラウは何も言わないまま、代わりに椅子の背にもたれて視線を逸らした。
誰も背中を押さない。だからこそ、逃げられない。
ヒイロは踵を返す。扉へ向かう足取りはまだぎこちない。
それでも止まらなかった。
廊下へ出た瞬間、冷たい空気が肌を刺す。
行く。冥界へ。
そう思った途端、胸の奥で何かが小さく軋んだ。不安なままだ。混乱も消えていない。
それでも、準備をしなければならない。今この瞬間から。




