第十三話「ずるいです」
ヒイロたちは宇禅の指揮のもと、レルナ村まで帰還し、ジーンが率いていた訓練生たちと合流した。
誰もジーンが倒れたなんて言いふらさなかったが、戻ってきた全員が一様に険しい顔をしていたので、そのうち気がついた。彼に、何かあったのだと。
印が頭上から消滅したことに、ヒイロは安堵していた。これ以上、変に視線を集めたくなかった。
だが、ヒイロは印があった時以上に身を縮こませ、なるべく他人の目に入らないようにしていた。特に、ノアに。
村の広場には、簡易の焚き火がいくつか焚かれていたが、肌を刺すような冷えはあまり和らがない。さっきまで初夏だったはずなのに、季節が一段階ずれたみたいだ──とヒイロはぼんやり思う。
吐いた息が、うっすら白い。
それに気づいた瞬間、周りの訓練生たちも口々に「冷えてきたな」「どうなってんだ?」とざわつき始めていた。
ヒイロはその輪から、そっと距離を取った。
荷車の裏手に回り込み、建物の影に腰を下ろす。背中に当たる土壁の冷たさは、気温が下がっているせいだろうか。きっと違う。
視界の端では、宇禅が村人たちと手短に話をし、別の訓練生がジーンの運搬の準備をしているのが見えた。ジーンは簡単な処置を施され、今は担架の上で眠っている。
耳を澄ませば、訓練生たちの話が聞こえてくる。
「冥王の印が──」
「新入りが半神だった?なんで?」
「冥王に血族なんてあり得ないだろ」
「気色悪」
ぎゅっと拳を握りしめる。この様子だと、ノアにも話はすぐ伝わるだろう。自分が冥王の息子であることも、ジーンが自分を庇ったせいで倒れたことも。
隠れていても無駄だ。そう分かっていても、ヒイロの両足は動いてくれない。
「ヒロさん」
名を呼ぶ声に、心臓がびくりと跳ねる。
逃げ場を探すようにきょろりと視線をさまよわせるが、どうにもならない。観念して顔を上げる。
ノアが立っていた。
白い髪に、冷えた風が細く絡む。無表情に近い顔立ちはいつも通りだが、双眸だけは、ヒイロの姿をまっすぐに捉えて離さない。
「こんなところにいたんですね」
「あー、悪い。邪魔だよな。今どく」
「邪魔ではありません」
ノアは淡々とそう言うと、ヒイロの隣に腰を下ろした。わざわざ、逃げづらい位置に。
暫しの沈黙。
冷たい風が、二人の間を抜けていく。さっきよりさらに一段、気温が下がった気がした。
「印のこと、聞いたよな」
沈黙に耐えきれず口が勝手に動いた。
「はい、少しだけ」
ノアは、こくんと小さく首を縦に振る。その横顔は相変わらず淡々としていて、「怖がっている」とか「引いている」といった色が見えない。だからこそ、余計に本心が読めない。
「ジーンのことも……?」
「はい」
短い肯定。いつもと変わらない調子。
それきり、再び沈黙が落ちた。
このまま陽が沈むまで黙っていられる気もしたが、思い切って口を開く。
「ごめん、俺のせいでジーンが……」
謝罪というより、嘔吐のような言葉だった。
胸の内側にこびりついていた罪悪感が、形を持って吐き出される。
「?何故ですか?」
責めるでも呆れるでもない、純粋な疑問の声だった。
「えっ。いやだって、俺を庇ってジーンがあんなことになって──」
「ジーンは、毒矢で打たれたくらいでは死にません」
きっぱりとノアは言った。
揺らぎも躊躇もない、まっすぐな断言だった。
「それに、少なくとも私は、ヒロさんが死ななくて良かったと思っています。約束、しましたから」
ノアは淡々と、しかしはっきりと言葉を続ける。
ヒイロの視線が自然と彼女に引き寄せられる。
「……約束?」
聞き返した瞬間、数日前のノアの言葉を思い出す。
『生きて、一緒に帰ってきましょう』
生きている。今も。自分も、ノアも。
それは、ジーンが身を挺して自分を守ってくれたからだ。
「だから、ヒロさんのせいでとは、私は思いません」
ノアは、少しだけ言葉を選ぶように間を置いてから続けた。
「ジーンは、ヒロさんを助けようとして、そうしました。それだけです。ヒロさんが悪いから、ああなったわけではありません」
淡々とした口調なのに、その断言はまっすぐだった。
責める色も、慰めようと無理に柔らかくしようとする気配もない。ただ、「それが当たり前だ」とでも言うように告げてくる。
頭では何度も自分に言い聞かせてきたはずの言葉が、ようやく他人の口から形になって届いた気がした。
すぐには信じ切れない。それでも、「全部自分のせいだ」と胸ぐらを掴んでいた冷たい手が、ほんの少しだけ緩んだ気がした。
けれど、胸につっかえたものが全部消えたわけではない。形を変えただけで、そこに居座り続けている。
「それでもさ」
ヒイロは、膝の上で組んだ指をぎゅっと握りしめた。
「ジーンのことは……今はノアの言う通りってことにしとく。でも、それとは別にさ」
ヒイロは、自分の膝を見つめたまま続ける。
「冥王の息子だとか、半神だとかさ。そんな話を急にされて、印まで頭の上に出て……正直、自分で自分がちょっと気味悪いんだよ」
「気味悪い?」
「うん。みんなが『気色悪い』って言ってたの、分からなくもないっていうかさ。俺自身、どう見ていいか分かってない」
自嘲混じりに言葉を並べてから、ヒイロはちらりとノアの横顔を盗み見る。
怖がっているか、距離を取ろうとしているか。
どちらかの色を、無意識に探していた。
「……そうですね」
ノアは小さく頷いた。
(ああ、やっぱり)
胸のどこかが、きしりと鳴る。
「普通に考えれば、かなり珍しい……いえ、前例のない事態だと思います。冥王に血族はいないというのが、これまでの常識でしたから」
「だよな。だから、その、気持ち悪いって思っても──」
「ですが」
ヒイロの言葉を、ノアの静かな声が遮った。
「それは、“珍しい”とか“前例がない”という話であって、“気味が悪い”とは、私は感じていません」
ヒイロは、思わずノアの顔をまじまじと見る。
「……冥王の息子でも?」
「はい」
即答だった。
「冥王は、冥府の王で、死者を管理する神です。恐れられてはいますが、“悪い神”ではありません。少なくとも、私はそう習いました」
ノアは視線を焚き火の方へと向ける。火の粉がぱち、と弾ける音だけが、しばし二人の間を埋めた。
「それに、ヒロさんは、さっきまでと変わりません」
「変わんないって……いや、大分変わっただろ」
「いいえ、変わりません。ヒロさんは、ヒロさんです。私が知っているのは、それだけです」
先ほど、ジーンに対してそうしたように、きっぱりと断言する。
「私と約束を交わしてくれたヒロさんです。模擬戦でゼウクシアさんを相手に勝利を収めたヒロさんです。ミノタウロスと命懸けで戦い抜いたヒロさんです。何も変わっていません」
「わ、分かった。分かったよ」
ノアの怒涛の畳み掛けに気圧される。
「だから────大丈夫です」
ノアがこちらを向いた。淡い色の瞳。
正面から視線を受け止めきれず、ヒイロは思わず目を逸らした。土の上に落ちた二人分の影が、冷たい風に揺れていた。
「……ノアは、ずるいな」
ぽつりと、口が勝手に漏らす。
自嘲とも、呆れともつかない響きが、自分の喉から出たとは思えなかった。
「ずるい、ですか?」
「こっちがぐるぐる考えて、訳分かんなくなってる時にさ。平然と、“そんなの関係ないです”みたいな顔して言ってくるから」
冥王の息子とか、半神とか、ジーンを巻き込んだこととか──頭の中では、さっきから同じ考えがぐるぐると渦を巻いているのに、ノアの横顔だけは、妙に静かで揺れない。
だからこそ、「大丈夫です」の一言が、ずるいくらいにまっすぐ胸の奥に刺さってくるのだと、ヒイロは思った。
ノアは少しだけ考えてから、小さく笑った。
「そうかもしれないですね。私、ずるいです」
気づけば、ヒイロの口元にもほんの僅かな笑みが浮かんでいた。
それに自分で驚き、慌てて表情を引き締める。
ノアは特に指摘もせず、じっとヒイロの横顔を見ていた。
「……ありがとう」
ようやく、その一言だけを絞り出す。
「いえ」
ノアは、いつも通り素っ気なく答えた。
沈黙が落ちる。
さっきまでより、少しだけ穏やかな沈黙だった。
空を仰ぐと、いつの間にか雲が厚みを増している。
村の広場のざわめきも、寒さのせいか徐々に小さくなっていく。
ヒイロの頬に、ひやりとした感触が落ちた。
「……雨?」
思わず空を見上げる。
灰色の雲から、白いものが、ひらひらと舞い降りていた。
「雪です」
ノアがぽつりと言う。
冷えた世界に、音もなく積もり始める白。
季節外れの雪華が、焚き火の炎とレルナの屋根と、訓練生たちの肩に静かに降りていく。
ヒイロは、掌を上に向けてみた。
すぐに、小さな雪片が一つ、そこに落ちて、じわりと溶けた。
◆◇◆
神託とは、特定の人や事物を介して、神々のお告げを伺うものである。人々が神託に尋ねる内容はさまざま。
競技会で勝ちたい。探し物が見つからない。愛しい人と添い遂げたい。
千差万別、十人十色の問いかけに、神々は大抵、謎かけのような答えを残す。
ティリンスのコスモス本部。二重の壁に囲われた中心部、小高い丘の上────ではなく、その麓。ヘラスの三大神託のうち一つは、そこにある。
ティリンスの神託はほとんどの場合、半神が新しく生まれた場所や、転移者の出現位置とタイミングを啓示する。コスモスの英雄たちはそれを聞き、未来の同胞、あるいは奴隷候補を探しに赴く。
もちろん、全ての半神と転移者について予言するわけではない。例外はいる。ヒイロもそうであるし、あの不思議な無職アブレヒムと、相棒シムクもその例外だ。
しかし、神託が間違いであることはない。過程がどうであれ、結果は必ずその文言の通りになる。
そして、今。ヒイロは神託所の前に立っている。
レルナ村からティリンスに戻ってきて、すぐにヒイロだけでここに行くようにと宇禅が命じた。目的は当然、新たなる英雄候補捜索のため──ではない。それはほとんどの場合であって、今回はそのほとんど以外のケースである。
神託所の外観は質素で、装飾もほとんどない。本部や周りの建物とは、見た目はもちろん、纏っている雰囲気までもが異質で、何かが違うと感じさせられる。
吐いた息が、白く曇る。
ティリンスに戻ってきても、この異常な寒さは変わらない。雪はその勢いを少しずつではあるが増しており、天を覆う分厚い灰色の雲を見上げれば、降り止むのはまだまだ先になりそうだ。
視線を正面に戻して、再び神託所を見やる。
扉の隙間から漏れ出す空気は、外気よりもさらに冷たく、どこか乾いていた。石の床から吸い上げた湿り気と、古い香の匂いが混ざり合っている。
ヒイロは覚悟を決め、神託所の暗い入り口へと、一歩を踏み出した。
神託所の中は、外から見た以上に狭く、暗かった。
灯りはほとんどなく、壁に掛けられた数本の松明が、細い炎でかろうじて闇を追い払っている。
部屋の中央、僅かに高くなった石の台に、椅子が一脚。
そこに、女が座っている。
生きている、とは到底言えない姿だった。
干からびた黄色い皮膚。艶を失っている長い髪。頬は落ち窪み、唇は枯れ枝のようにひび割れている。目があるべき場所は暗い穴になり、瞼さえも乾いて張り付いていた。
骨ばった指は膝の上で固まり、擦り切れたキトンと外套が、その痩せた身体を包んでいる。布はところどころ裂け、元の色も判然しないほどに褪せていた。
これがこの神託所の主にして、神々の声を伝える者──巫女だ。
ヒイロは、思わず足を止める。
ぱっと見はただのミイラだ。動いてはいない。息をしているようにも見えない。だが、部屋の空気そのものが、彼女を中心にわずかに渦を巻いているように感じられた。
「えっと、神託を聞きに来ました」
これで聞き方合ってる?と疑念が湧きながらもヒイロは馬鹿正直に尋ねる。
「教えてください、これから俺はどうするべきなのか」
ミイラの口が、軋むような音を立てて、ゆっくりと開いた。
乾き切った歯列の隙間から、どろりとした緑色の煙が、少しずつ這い出してくる。
絶え間なく吐き出されながら、ゆらゆらと形を変えていく。
肩。腕。頭。
輪郭だけの「人」の形が、空中に立ち上がる。足首から下は宙に溶け、顔にあたる部分は空洞だ。
しかし、その空洞の奥で、淡く揺れる光だけが、確かな「視線」のようにヒイロを見つめ返していた。
声が、落ちてきた。
男とも女ともつかない、老人とも子どもともつかない、何層もの声が重なったような響き。
耳で聞いているのに、頭蓋の内側や骨の芯に直接染みこんでくるような感覚だった。
『蒼天の王は怒りに震え、
黄泉の主は愛を手放さぬ。
天と地の狭間にて、光と影が激突し、
灰燼の風が世界を包むだろう。
鎖されし花を連れ戻せ。
憎悪と境界の川を越え、
富める者の心臓に至れ。
されど、刃は既に傍にある。
友の顔をした裏切りは、
誓いよりも早く牙を剥くだろう』
最後の一語が落ちた瞬間、緑の人影がふっと崩れた。
輪郭がほどけ、ただの煙に戻り、ミイラの口の中に消えていく。
静寂が戻った。
さっきまで「声」があった場所が、いきなり空洞になる。石壁の冷たさだけが残り、緑の煙の残滓さえ見当たらない。自分の鼓動と、喉の奥で鳴る乾いた唾の音がやけに大きく聞こえた。
(これが……神託)
頭では何となく理解できたような気がするが、感情が遅れて追いついてこない。ミイラの口から出た言葉が、意味でなく「重さ」として胸に落ち、どこに置けばいいのか分からないまま、ただ沈んでいく。
「……以上?」
自分でも間の抜けた声だと思った。
返事はない。ただのしかばねのようだ。
ヒイロは踵を返し、神託所から出る。扉を開いた瞬間、雪が顔に触れた。ひやりとした粒が頬の熱を奪い、現実に引き戻す。
外は白かった。ティリンスの石畳に、薄く雪が積もり始めている。冷え込みは、レルナ村で感じたそれよりもさらに底が抜けていた。




