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第十二話「お前が」

 湖までの道のりを、ヒイロは半分、夢の中を歩いているような感覚で進んでいた。

 宇禅が布で包んだティモテオスの遺体を抱えつつ先頭を歩き、そのすぐ後ろを、片腕をヒイロに預けたカルシノンが歩く。ヒイロはカルシノンの体重を支えているはずなのに、自分の足取りの方がふわふわしている気がした。さっきまで戦っていた森の匂い──血と金属の匂いが、まだ鼻の奥にこびりついている。

 頭上には、まだ二叉槍バイデントの紋章が浮かんでいる。足元の土を踏む感触や、カルシノンの体温はやけに鮮明なのに、「自分が何者か」という一番肝心な部分だけが、まだ身体に馴染んでいない。


「もう少しで湖です。足元に気をつけて下さい」


 振り返った宇禅の声が、どこか遠くから聞こえてくる気がした。

 木々の切れ目から、やがて視界がふっと開けた。鈍い青緑色の水面が、木立の間から顔を覗かせる。アルキュオニア湖のほとりだ。

 湖には、森の各地に散らばっていた訓練生たちと、ジーンがいた。何人かは血と泥にまみれ、応急処置を受けている。


「おう、お前ら無事──じゃないな。何があった?いや待て、ヒロのそれは──」


 こちらに寄ってきたジーンが、抱えられた布包みとヒイロの頭上を一目見て足をとめた。


「ティモテオスくんが亡くなりました。それと、ヒロ君に印が現れました」


 宇禅の報告は簡潔だったが、その一言で空気が一段階重くなる。

 ヒイロの頭上に、自然と視線が集まった。


「なんだあれ」

「印?」

「あいつって転移者バルバロイなんじゃ……」


 小声のはずの囁きが、水面に落ちた小石みたいに、同心円状に広がっていく。ざわ、と風が吹いたように、訓練生たちの輪がわずかに揺れた。

 誰かが一歩だけ後ろに下がる。ティモテオスの遺体を包んだ布と、ヒイロの頭上に浮かぶ黒紫の二叉槍バイデントの紋章。その二つを、視線が行き来していた。

 ヒイロは、居心地の悪さに喉を鳴らす。別に何をしたわけでもないのに、自分だけがまるで「違う種類の生き物」のように見られている感覚。足元の土が急に柔らかくなったみたいに、立っている場所がふわふわと心もとなくなる。


「なるほどな」


 ジーンがぽつりと呟いた。

 夕焼け色の瞳が、もう一度ヒイロの頭上を見上げ、それからヒイロの顔へと戻る。その顔には、納得感と面倒臭さが同居していた。


二叉槍バイデント……つまり、血を引いているのは──」

「ええ、冥王です」


 ざわめきがさらに大きくなる。押し殺した声があちこちで弾けた。


「冥王って……あの?」

「いやいや、冗談だろ」

「でも印が……」


 誰かが小さく悲鳴を漏らし、別の誰かが「縁起でもねえ」と呟く。

 ヒイロの名前を呼びかけかけて、言葉を飲み込む者もいた。

 十数人分の視線が、いっせいにヒイロを刺す。正面から見るのを避けるように斜めから覗き込む者もいれば、露骨に眉をひそめて距離を取る者もいる。


「あり得ねえ……と言いたいところだが、こんなもの見せられちまったらな」


 ジーンは盛大にため息をつきながら、真っ白な頭をがしがしと掻く。


「転移者かつ、冥王の息子…………よりにもよって冥王、か」


 ぼやきとも愚痴ともつかない声が、重く湖畔に落ちた。

 「冥王」という音だけが、やけにくっきり耳に残る。

 それが自分の父親の話だと、頭では理解しているはずなのに、意味だけがするりと指の間から零れ落ちていく。


(……冥王の、息子)


 頭のどこかで、誰か他人の話を聞いているような感覚があった。

 「冥王」という単語だけなら、授業で聞いた覚えがある。冥府の支配者。死者たちの王。地上に姿を現すことはほとんどない、厳格で冷徹な神。

 その神の「息子」が、自分。


(そんなわけ、ないだろ)


 即座に否定したはずの言葉が、口からは出てこない。舌がうまく回らなかった。

 胸の内側で、常識と現実がぶつかり合っている。転移者。高校生。訓練生。ヒイロ。

 そこに「半神ヘミテオス」「冥王の血」というラベルが、雑な落書きみたいにべたっと上書きされた気がした。


「な、なぁヒロ。なんか寒くないか」


 肩を担ぐカルシノンが、小刻みに震えながら囁く。

 一瞬、怪我の具合でも悪くなったのかと焦るが、ヒイロ自身の肌にも、針の先でちくちく刺されるような冷気がまとわりついてくるのを感じた。森の中とはいえ、ここは開けていて、初夏の日差しがしっかりと差し込んでいるのに。


「お前の、その……印のせい、ってわけじゃ……ないよな」


 カルシノンが、視線を泳がせながらぼそりと言う。冗談めかした調子を装ってはいるが、声は少しだけ強張っていた。


「さあな。そこまでは分からねえよ」


 ジーンが肩をすくめる。


「ただ一つ確かなのはな、ヒロ。お前はもう、“ただの転移者バルバロイ”じゃねえってことだ」


 その言葉が、妙に重く胸に沈んだ。


(ただの、転移者でない。

 ただの人間でも、もうない……?)


 視線の先で、布に包まれたティモテオスの遺体が静かに横たわっている。

 さっきまで「ただの友達」だった存在が、一瞬で「死者」に変わった。

 そして、自分は一瞬で「人間」と「神の血族」の境目に立たされている。

 「違う」とか「冗談だろ」とか、何でもいいから口にしてしまえば、この悪い夢は少しは薄まってくれる気がした。

 けれど、喉の奥で生まれかけた言葉は、どれも形になる前に砕けて消えていく。


 ティモテオスは、もう戻ってこない。

 自分は、もう元の自分には戻れない。

 頭では分かっているのに、心のどこかがそれを拒んでいる。

 何かを言おうと口を開きかけて、結局何も出てこなかった。

 代わりに出てきたのは、やけに他人行儀な感想だ。


(俺の人生、いつからこんなことになったんだ?)


 自販機の前で、安いジュースを選んだ時か。

 ミノタウロスに襲われた時か。

 さっき、ロボットに胸を貫かれた時か。

 どこからかは分からない。ただ一つだけ確かなのは、「元に戻る地点」がもう見当たらない、ということだった。


「……詳しい話は、ティリンスに戻ってからだ」


 ジーンがぽん、とヒイロの肩を軽く叩く。

 その仕草には、慰めとも諦めともつかない、複雑な色が混じっていた。


「今はまず、生きてる奴らを全員連れて帰る。それからだ。」


 その言葉を聞いても、まだ実感は薄い。

 ただ、どこへ向かっているのか分からないまま、ヒイロは静かに頷いた。


 ────その瞬間だった。


 脳の奥を、氷の針で突き刺されたような感覚が走った。


「ッ──!」


 視界の隅が、ぐにゃりと歪む。

 時間が一瞬だけ、きしむように遅くなる。

 銀色のなにかが、木陰からこちらへ向かって一直線に飛んでくる。

 胸ではなく、眉間。

 死の予感。

 ロボットと戦った時と同じ、いやそれ以上に鮮明な「終わり」の感触。

 反射的に体を動かそうとするが、「間に合わない」という確信の方が早かった。

 足も腕も、今からでは届かない。

 視線だけが動いて、死の気配のもとを捉える。

 倒したはずのロボットの、上半身だけが木の陰から半身を乗り出していた。

 斬り離された腹からは、黒く焦げた配線のようなものが覗き、まだ微かに火花が散っている。

 さっきは沈んでいた黄色い瞳に、再び鈍い光が宿っていた。

 顔の真ん中やや下あたり、口にあたるはずの滑らかな金属板が、上下に分割されている。

 ヒイロとロボットを結ぶ直線上に、白銀しろがねに輝く矢が見えた。


(終わった──)


 条件反射で、まぶたがきつく閉じる。

 耳の奥で、空気を裂く鋭い音が弾けた。


 そして、すぐ目の前で、何かが重くぶつかる音がした。


「……え?」


 痛みが来ない。

 おそるおそる目を開ける。


 視界一杯に、黒い背中があった。


 黒い背中が、ゆっくりと折れ曲がる。

 その姿が、布に包まれたティモテオスの遺体と一瞬重なった。

 さっきまで笑っていた仲間が、気づいた時にはもう動かなくなっていた光景。胸を貫いた銀色の刃。血の匂い。


(また、目の前で──)


 喉の奥がひゅっと狭まり、息がうまく入ってこない。手足の先からざあっと血が引いていく感覚に、思わずその場に固まりかける。

 けれど、二度と同じ光景は見たくなかった。

 気づいた時には、ヒイロはジーンの身体に飛びついていた。


「ジーン!」


 ジーンの体がぐらりと傾いたのを、慌てて両腕で抱きとめた。ずしり、と信じられないほどの重さが肩にのしかかる。その胸には、ヒイロの脳天を貫くはずだった、銀の矢が刺さっている。


「ったく、ぼーっと立ってんじゃ、ねぇぞ……」


 ジーンが苦しげに息を吐きながらも、無理に口角を上げる。

 ロボットの方に目をやると、宇禅が駆け、首を刎ねていた。首が宙を舞い、さらに燃え上がった。


「ジーン!大丈夫か!ジーン!!」

「大丈夫だ。おれは死なない」


 冗談めかした声音だが、その額には大粒の汗が浮かんでいる。

 震える手で矢を抜いて、投げ捨てた。


「くそ、毒か」


 舌打ちしながら、ジーンは低く呟く。

 夕焼け色の瞳が、真正面からヒイロを捉えた。


「いいか、ヒロ」


 呼びかけと共に、その手がヒイロの胸ぐらをぐっと掴む。冗談にしては、指先に妙な力がこもっていた。


「おれがどうなろうと関係ねえ。冥王の息子だろうが、転移者バルバロイだろうが、関係ねえ。ここから先は──」


 言葉を探すように、短く息をつく。


「お前が、やり遂げろ」


 短く、それだけを言い切る。

 ヒイロの胸ぐらを掴んでいた手から、すっと力が抜けた。

 ジーンの指先が滑り落ち、がくりと首が垂れる。


「ジーン!? おい、ジーン!!」


 返事はない。さっきまで睨みつけてきた夕焼け色の瞳が、半ば閉じかけている。


「ヒロ君、そのまま支えていてください」

 

 駆け寄ってきた宇禅が短く告げると、懐から小瓶を取り出して、中身をジーンの傷口にかける。口からも摂取させ、手首に指を当てる。


「意識はないですが、脈はあります」


 周りの訓練生たちが、ほっと息をつく。

 宇禅の言葉は、ヒイロには届いていなかった。ただその場に膝をついたまま、ジーンの体重を支え続ける。

 腕が震えているのは、重さのせいだけじゃない。


(お前が、やり遂げろ)


 たった一言が、頭の中で何度も反響する。

 何を、どこまで、どう「やり遂げる」のかなんて、正直さっぱり分からない。

 冥王の息子とか、半神ヘミテオスとか、そんな肩書きはまだ現実味を帯びてこない。


 でも──視線の先で、布に包まれたティモテオスの遺体が、黙って横たわっている。


(少なくとも……これ以上、誰も死なせたくない)


 それだけは、はっきりしていた。

 冥王の息子とか関係なく、転移者バルバロイとか半神ヘミテオスとか関係なく──ヒイロとして。


 胸の奥に沈んだ重石を、そっと両手で抱え直すみたいに意識を固める。

 ぐらつく足元はまだふわふわしている。それでも、さっきよりほんのわずかだけ、立っている場所の輪郭が見えた気がした。

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