第十一話「贈りもの」
宇禅の身体を食いちぎろうと、四メートル近い猛犬が大きく口を開けて迫る。牙は短い剣ほどの長さで、唾液が糸を引き、獣臭が鼻を刺した。
宇禅は、一歩も退かない。空だった右手の周りに淡い光がすっと集まり、細い刀身の形をとる。次の瞬間には、一振りの刀がその掌に顕現する。
これが環宇禅の生まれた、ガイア11の人々の特徴だ。己の魂から、半身とも言える武器を作り出す。
一閃。
獣の首が遅れて飛ぶ。巨体が土を揺らして倒れ、血が地面に黒い花のように広がった。
「みなさん、無事ですか」
背後の訓練生たちに声をかける。
軽い傷は負っているが、致命傷はない。宇禅は素早くそれを確かめると、湖に向かうように告げ、次の目標へ向かう。
つい先ほど、ほぼ一斉に信号弾が打ち上げられてから、宇禅の行動は素早かった。
一番近い信号弾の打ち上げ場所から、順々に救助に向かう。これで三箇所目。
今いるのは湖から見て南に位置する場所だ。煙が上がった残りの場所は西と北でいくつか。頭の中で簡単な地図を描き、時計回りに進む。
次の開けた場所では、体が棘で覆われた巨大なトカゲが、下級クラスの生徒を串刺しにしようとしていた。
「『熾火』」
小さく呟くと、刀身に戦神アレスからの祝福である炎が走る。鈍い金属光沢が、赤橙の焔に塗り替えられていく。
そのまま刀を縦に振るうと、炎の斬撃が地を這い、トカゲの棘ごと肉を両断し、灼く。悲鳴を上げる暇すら与えない。
「湖へ!」
唖然としている訓練生たちに短く声をかけ、視線だけで怪我の有無を確認する。動くのに問題ないと判断すると、すぐさま次の打ち上げ場所へ。
信号弾は、最も遠い北側が最も早く上がった。
時間が経てば経つほど、煙の位置が頭の中でじわじわと重くなる。ヒイロたち三人の顔が浮かぶ。
早くしなければ。犠牲が出てからでは遅い。
宇禅は森の斜面を蹴る。土と落ち葉を踏み砕く音に、僅かな焦りが滲んでいた。
◆◇◆
銀色の剣が、風を裂いた。
ヒイロは死の予感に背中を押されるように身をひねる。頬のすぐ横を刃が通り過ぎ、数本の髪が宙に舞った。
「速っ……!」
思わず漏れた声と同時に、ロボットの踏み込みがさらに深くなる。
膝のバネをほとんど使わない、滑るような足運び。鎧の軋みも、息遣いもない。ただ金属同士のこすれる音だけが、耳の奥に残る。
冷たい予兆が、絶え間なく鳴り続けていた。
正面から突き。回避。すぐさま返す斬り上げ。しゃがんでギリギリでかわす。
予感がなければ、とっくに体をバラバラにされている。そんな確信だけが、妙に冷静な部分にこびりついていた。
「ヒロ、左!」
カルシノンの声と同時に、ロボットの剣がわずかに角度を変える。
死の予感が、心臓を素手で鷲掴みにしたみたいに強くなる。
ヒイロは反射的に、半歩だけ左へ飛ぶ。
次の瞬間、さっきまでいた場所を、斜めの一閃が薙いだ。
木の幹が、数拍遅れてずるりと傾き、そのまま地面に倒れ込む。
(今のはヤバかったな)
額の汗を拭う。心臓は早鐘を打ち続け、脳内物質がとめどなく分泌され続けている。自分でも、妙な興奮状態なのが分かる。膝が震えるのは、恐怖か、それとも……。
ロボットは一切感情を見せず、ただ機械的に剣を構え直した。
「こっちもいるっての、忘れんなよ!」
カルシノンが、横合いから飛び込んだ。
鋭い踏み込みからの一撃。銀色の胴体に、斜めの斬撃が走る。
金属音が耳を打つ。ロボットの体が僅かにのけ反った。だが、やはりというべきか、傷はついていない。
カルシノンの連撃が続く。
正面からのフェイント、足元への斬り込み、即座に上段への返し。ヘルメスの血に裏打ちされた素早い剣筋に、ロボットの動きがほんの少しだけ追いついていない。
「今だ、ヒロ!」
呼びかけに、ヒイロも飛び出す。左右から挟み込む形で、ロボットに迫る。
銀の剣が、右からの斬撃を受けにいく。
死の予感。だが、今回はヒイロ自身の死ではない。ロボットの死の気配が感じとれた。
予感に従い、剣を握りしめ、ロボットの死角へと滑り込むように走る。
その側頭部を狙って横一文字に振り抜いた。
火花が散る。
ロボットの首が、僅かに傾いた。金属の表面に、うっすらと斬り傷のような痕が残る。
「いける……!」
ささやかな手応え。頭の中で、傷一つつかない正体不明の存在から、「傷のつく敵」に変わった。
カルシノンがさらに追撃しようと踏み込んだ、その瞬間だった。
脳の内側で、さっきまでとは質の違う冷気が弾けた。示したのは、ヒイロでも、ロボットでもなく──
「カルシノン、下がれ!!」
叫ぶより早く、ロボットの動きが変わった。
剣を横に払う動作の途中で、そのまま腕ごと反転させる。
常識外れの関節の捻れ方。人間ならば折れているはずの角度で、銀色の腕がねじ曲がった。
「──っ!」
カルシノンの目がわずかに見開かれる。視線が追いつくより早く、銀の軌跡が下から跳ね上がる。完全に意表を突かれた斬り上げ。
「かはっ──!」
肺の奥から無理やり空気を絞り出したような声と共に、カルシノンの体がぐらりと傾く。左肩から腰にかけて、深い裂傷が走っていた。鎧ごと斬り裂かれ、赤黒い血が一気に溢れ出す。胸元から腹へと流れ落ち、腰布を濡らしながら、ぽたぽたと土に暗い染みを広げていく。
「カルシノン!」
ヒイロが倒れた体に腕を伸ばす。
だが──その瞬間、脳の奥に冷水を浴びせられたような感覚が走った。
銀色の剣先が、自分の心臓へ伸びてくる。そんな未来が、脳裏にありありと焼きつく。
(あ……これまずい)
分かる。予感が告げている。これは避けられない。
(だったらせめて──)
心臓だけは外す。
考えるより先に、体が勝手に動いた。
胸元に突き立つはずだった剣先に、自分から半歩踏み込み、上体をひねる。
「っぐ──!」
鈍い衝撃と共に、肺のあたりを何か太いものが貫いた。
骨を割り、肉を裂き、背中側へ抜けていく感覚。肺の中に、熱い液体がどっと流れ込んでくる。
視界が、一瞬だけ真っ白になった。
遅れて、焼けつくような激痛が脳天まで駆け上がる。
耳の奥で、音が一つひとつ遠ざかっていく。森のざわめきも、血の滴る音も、全部水の底に沈んだみたいにくぐもっていく。
銀色の剣が、ずるりと引き抜かれる。
前のめりに崩れそうになる体を、どうにか片膝で受け止めた。胸から背中へと、冷たい風が抜けるような感覚がする。傷口から、どくどくと血が溢れ出しているのが自分でも分かった。
指先から力が抜けていく。剣の柄を握っていた手も、震えながら勝手に開いてしまう。
地面に落ちた剣が、やけに遠くに見えた。
視界の端で、銀色の足が踵を返す。
(まだ……)
剣を拾おうと手を伸ばしたつもりだった。だが、指は土を掴むだけで、柄には届かない。
胸の奥で、心臓の鼓動が妙に大きく響く。ひとつ鳴るたびに、傷口から命がこぼれていくようだった。
膝が、支えきれずに折れた。
ヒイロの体は、ゆっくりと、重力に従って倒れ込む。
うまく息ができない。体から熱が失われていく。指の先から順に、ぬるま湯に浸けた砂の城が崩れていくみたいに、感覚がさらさらと失われていく。
脳裏に、走馬灯が駆け巡る。ここに来るまでのこと。ここに来てからのこと。
ティリンスの白い病室。ノアの横顔。ジーンの背中。
そして、もっと昔──幼い頃の、あの記憶。
黒いコートの男と並んで立ち、マーチングバンドを見上げていた、あの日。
(……ここで、終わるのか?)
胸のどこかで、かすれた反発が生まれる。
まだ何も返せていない。約束も、守れていない。
このまま死ぬなんて、冗談じゃない!
次の瞬間、心臓が、内側から強く殴られたみたいに強く脈打った。
「──!?」
死の淵に立たされているというのに、体の奥底から、じわじわと何かが湧き上がってくる。
熱──ではない。もっと冷たくて、重くて、冥いもの。
氷水と溶けた鉄を一緒に流し込まれたような感覚が、血管という血管を逆流していく。
ヒイロは、がはっと大きく息を吸い込んだ。肺に飛び込んできた空気は冷たく澄んでいるのに、喉の奥では、煤を噛んだような苦い匂いがした。
体を起こす。
胸のあたりに鈍い違和感を覚え、指先で傷口に触れる。
そこにあったのは、致命傷ではなかった。
血で濡れた布と、その下に走る、細い一本の痕だけ。
肉は既に塞がり、血もほとんど止まっている。
指先から、うっすらと黒いモヤが立ち昇る。それは体温とは正反対の、底冷えするような冷たさを帯びていた。黒いモヤはどんどん濃くなり、やがて全身から立ち昇る。
何かが変わった。ヒイロの中で。決定的に。
剣を拾い上げる。
銀色の人形が、ぬるりとこちらに顔を向けた。黄色い瞳が瞬きもせず、ヒイロだけを捉える。
ヒイロは、足を一歩だけ前に出した。黒いモヤがつられてふわりと揺れる。
ロボットが動く。
銀色の脚が地面を蹴った瞬間、死の予感が弾ける。
突きが来る前に、ヒイロの体は勝手に横へ滑っていた。
刃が頬のすぐ横を通り過ぎる。風すら感じない距離なのに、怖さは無かった。
ここには当たらないと、どこか冷静な自分が断言している。
剣を翻しての薙ぎ払い。これも分かっている。腰をひねるだけで避ける。銀色の腕が、布一枚分ずらしたところを走り抜けた。
「──遅い」
ぽろりと、口からこぼれる。
ヒイロは踏み込んだ。
ロボットの剣を最小限の動きで受け流しながら、空いた側面へと滑り込む。
一太刀、金属の肋の隙間を狙って横薙ぎ。
銀色の胴に、はっきりとした裂傷ができる。
「なるほど。これなら斬れる」
黒いモヤが、刀身に絡みついている。
死の匂いを纏ったそれは、金属の肉体に「終わり」を焼き付けていく。
ロボットが常識外れの角度で腕を捻る。さっきカルシノンを斬り裂いた、あの反則じみた軌道だ。
だが、今のヒイロには分かる。関節が捻れる前に、どの位置に剣先が来るか、感じ取っている。
喉の横を狙った斬り上げ。
半歩下がり、剣を滑り込ませて弾く。
黒いモヤを纏った自分の剣先で、その腕を軽くなぞった。
次の瞬間、ロボットの右手が、肘から先ごと地面に落ちる。
ロボットは、悲鳴ひとつ上げない。ただ、残った左腕で剣を取り直し、足を踏み込む。
「しつこいな、お前」
ヒイロも、前に出た。
今度はこちらから攻める番だ。
予感が幾通りもの人形の死を示す。
左の突き。フェイントからの袈裟斬り。無防備に見せた胴への誘い。
全部、見える。
全部、選べる。
どの「死」を、押しつけるか。
「これで、終わらせる」
踏み込み。
銀色の剣先が、心臓を狙って真っ直ぐ迫る。
死の予感が肺を貫かれると赤く点滅する。
ヒイロは、一歩も引かなかった。
刃の軌道を紙一重で外しながら、逆に懐へ飛び込む。
横一閃。
空気ごと斬り裂く感触のあと、鈍い手応えが腕に伝わった。
次の瞬間、
遅れて、どさり、と重い音。銀色の体が、上下二つに分かれて地面に崩れ落ちた。黒いモヤが切断面から噴き出して人形を覆い、そして消える。黄色い瞳の光も。灯りを落とされたランプのように消滅した。
黒いモヤが、ふっと剣を離れる。さっきまで濃密に纏わりついていたそれは、煙のように薄まり、森の影へと消えていった。
「はっ──」
肺に空気を入れようとした瞬間、胸の奥がぎゅっと痛んだ。
全身から、力が抜ける。
ヒイロはその場に片膝をついた。
視界の端で、崩れたロボットの残骸が、静かに横倒しになっている。
(やった……のか)
実感はまだ薄い。
だが、あの感覚は静まり返っていた。
銀色の人形からは、もはや何の「死」も、こちらへ向けては流れてこない。
剣を地面に突き立て、それを杖代わりにしながら、ゆっくりと顔を上げた。
倒れた仲間と、冷たい鉄屑だけが残る、やけに静かな森がそこにあった。
枝葉を薙ぐ音と、土を蹴る足音が、奥の方から一気に近づいてくる。
次の敵かと反射的に身構えかけたところで、耳に届いたのは聞き覚えのある声だった。
「みなさん、無事ですか!?」
「宇禅、さん」
茂みを割って、黒いスーツ姿の男が飛び出してくる。宇禅だ。
「ヒロ君、怪我は──」
「俺は大丈夫です。けど、カルシノンが……おい、カルシノン、おい!」
横たわるカルシノンのそばに膝をつくと、宇禅も即座に駆け寄る。
鎧の留め具を手早く外し、斬り裂かれた布をめくる。
「……深い」
左肩から腰へ斜めに走る傷口が露わになる。肉が抉れ、黒いモヤが勢いよく噴出し、赤い血がどくどくと溢れ出していた。
「カルシノン君、聞こえますか。意識は──」
呼びかけに、微かに瞼が震えた。焦点の合わない視線がヒイロと宇禅の顔を掠める。
「ヒ、ロ……無事、なのか?」
「ああ、無事だ。今、助けてやる」
ヒイロは意識を傷口へと集中させる。抉れた肉の隙間から、血液だけでなく黒いモヤも出てきているのが見えるようになる。黒いモヤに、減るように念じる。蛇口を閉めて、流れ出る水を止める。そんなイメージ。
応えるように、黒いモヤがじわじわと萎んでいく。さっきまで勢いよく噴き出していたそれが、細くなっていく。
それと一緒に、溢れていた血の勢いが目に見えて弱まり、ぱっくり開いていた肉がほんの少しだけ寄り合う。カルシノンの荒い呼吸が、落ち着いたものに変わる。
「こ、これは……」
「俺の祝福っぽいです。まだ、分からないことだらけだけど」
目を見開く宇禅に、ヒイロは息を整えながら説明する。
さっきまで変なモヤとしか思っていなかったものが、今はやけに生々しく感じている。死の予感と共鳴する、冷たくて重たい何か。
今になってはっきり分かる。このモヤも、死の予感も、まとめて自分の祝福だ。不気味で不吉で、あまり有り難くない能力だが、貰ってしまったものはしょうがない。
カルシノンが何度か瞬きをして、ぼやけていた焦点をはっきりと結ばせる。薄く開いていた瞼が、はっきりと持ち上がった。
「あれ……なんか、痛みが…………え?ヒロ、お前、それ……」
カルシノンの視線が泳ぎ、ヒイロの顔をなぞるように動いた後、その頭上の一点でぴたりと止まる。
息を呑むような、掠れた声。
「ヒロ君……それは」
宇禅もつられて同じ場所に視線を向けた。
ヒイロも、上を見上げる。
そこには、黒と紫のホログラムのようなものが浮かんでいた。空中に直接刻まれた紋章のように、薄く発光している。
先が二又に分かれた槍。闇を切り裂くような鋭い輪郭。授業で見た黒板の絵が、脳裏に蘇る。冥府で独り、玉座に座る死者たちの王。その腕に握られていた二又の槍。
「え、何コレ。消えない」
半分パニックのまま手をぶんぶん振ってかき消そうとするが、触れられない。
「ヒロ君。落ち着いて聞いてください」
動揺のせいか、穏やかな宇禅の声が僅かに震えている。
「それは、いわば贈りものです。神からの」
「贈りもの?」
思わず聞き返す。この立体映像が?なぜ?
「一番最初に贈られるもの……印だ」
カルシノンも、青ざめた顔のまま口を挟む。
「けど、あり得ない。これが、ヒロに、転移者に贈られるはずがない」
「印?なんの?俺に贈られるはずがないって、どうして──」
「これは、神々が自分の血族だと認めるという証明書のようなものです」
ヒイロの言葉に被せるように宇禅がきっぱりと言った。
「もう一度言います。これは、神々が自分の血族にだけ贈る証です」
言葉が、ゆっくりと意味を結んでいくのに、理解の方が追いつかない。神々が?血族に?証?
胸の奥で、何か冷たいものと熱いものが同時にせり上がってきて、呼吸が浅くなる。
「つまり、ヒロ君。貴方は半神だ。神の血を引いている。その神は──」
「ハデス。冥王だ」
カルシノンの言葉が、森の静寂に溶けていく。二叉槍の紋章だけが、やけに鮮明に、ヒイロの頭上で浮かんでいた。




