第一話「こんにちは、ミノタウロスさん」
りくさんどろすと申します。よろしくお願いします。
五月。
春も終わりかけ、鋭い風がビルの間を通り抜けて、西日が街を茜色に染めている。そんな夕暮れ時に、秋月ヒイロは大通りを駆けていた。
正確に言うと周りの目も気にせず絶叫しながら街中を全力疾走していた。理由は単純明快。つい先ほど学校の帰り際に、交際していた彼女に別れを告げられたからだ。
「今日付き合ってちょうど七ヶ月だったじゃん!!!なんでよりによって今日なんだよおおおおおおおおおおおおおお!!!!!」
もう、会わない方がいいと思う。彼女の、少し震えた声が耳から離れない。呼吸するたびに肺が、胸が痛んだ。それでも足を止めることはなく、ひたすら市街地の大通りを駆け抜ける。そのまま永遠に走り続けられそうな気がしていたが、もちろんそんなことはなく、体力が尽きて、歩くのと大差ないほどスピードが落ちていく。やがて立ち止まって膝に手をつく。荒い呼吸音と、早鐘を打つ心臓の音だけがヒイロの耳の中で大きく響いた。
「ハァ……ハァ……み、水ぅ」
喉が乾いた。いつの間にか知らない場所にまで走ってきてしまったヒイロは、とりあえず水分補給のために、辺りを見渡して自動販売機かコンビニを探す。
すると、暗くて細い裏路地に入っていったところに自販機が置かれているのを見つけた。
「いや〜助かった……コーラ80円!?やっす、なんで?……まあ、いいか」
異様な自販機の品の安さに若干訝しみつつ、小銭を投入して、ボタンを押した。
その瞬間、眩い光が視界いっぱいに広がった。
「うおっ!?」
目をつぶって腕で目元を覆い隠すが、なぜか目の前が光り続けていた。
「なんっだ…これ!?」
数秒経って、急に光が収まり、真っ暗になる。
瞼を開く前にまず感じたのは、先ほどまでとまるで違う、うだるような暑さ。肌に感じる空気が、やけに乾いていた。次に感じたのは、むせかえるような青々しい草の香り。草むらに鼻を突っ込んだような、野草の香りだ。
「…………え?」
目を開けたヒイロは、その光景を前に、しばらく声が出てこなかった。
ヒイロの眼前に広がるのは、自販機の置かれた裏路地ではなく、起伏に富んだ、荒涼とした大地だった。どうやら山か丘の上にいるらしく、景色が一望できた。まっすぐ前の方を向けば、高層ビルなどの現代の建物は一切なく、広く青い空の下には山々が聳え立っている。大きな岩だらけの地面には、丈の高い草花が所狭しと生い茂りひしめき合っている。後ろを振り向けば、海と、その先に別の陸地が見えた。
「なんだ……これ?」
360度見渡して、そんな呟きが口から漏れた。
咄嗟にスマートフォンを取り出し、誰かに連絡を取ろうとしたが、手の中の板は液晶が真っ暗なまま、何も反応しない。電源ボタンを押しても沈黙し続けていた。肝心なときに限って使えない、と舌打ちする。
とりあえず、人がいないか目を凝らして探すが、見つかるのは木、草、岩ばかりだ。人工的な物が全くないことに一抹の不安を覚える。
「うーん、何もない…誰もいない…」
これからどうしようか、途方に暮れていると────
ドスンッッ!!!
背後に、何かが凄い勢いで落下してきた。
「な、なんだ!?」
慌てて振り返ると、そこにいたのは
「……牛?」
牛の頭。しかし身体は人間のそれに近い。強靭で強大な剥き出しの肉体。毛むくじゃらの両脚の先には蹄がついていた。
ヒイロの頭にとある固有名詞が浮かび上がる。
「えーと、こんにちは、ミノタウロスさん……?」
挨拶も束の間、ミノタウロスが雄叫びをあげてこちらに突進してくる。
「うわああああああああああ!!!」
急いでミノタウロスに背を向け、全力で大地を蹴った。走り出した先は急勾配だが、背に腹は変えられない。雑草に足を取られながらも懸命に駆ける。
しかし、ミノタウロスの現在位置を確認しようと後ろをちらりと見ようとして、足元の石に気付かず躓いてしまう。
「!?や、やべ…ぐっ!うぁっ、うっ、くっ」
ぐるぐると世界が回る。バランスを崩したヒイロの身体は、そのまま丘の斜面を転げ落ちていく。何度か小さく跳ね、強かに身体を打ちつけ、丘の裾野に鎮座する、大きな岩の上で止まった。
「いっ……てぇ」
体のあちこちが鈍い痛みを発している。起きあがろうとしても、これまでに感じたことのない重みが両腕にのしかかり、うまく起き上がれない。丘の上の方に目を向ければ、猛スピードでミノタウロスが駆け降りてきていた。
「うおっやばい!!」
全身から汗がじわっと滲み出てくる。
どうにかして逃げなければと体をよじり、岩から転がり落ちる。
落下の衝撃で痛みに呻き声を上げた次の瞬間、頭上をミノタウロスが飛び越えていった。
そのまましばらく走ってから、徐々に速度を落としていき、停止した。
二メートルを超す巨体がこちらを振り向いて、姿勢を低くし、鼻息を荒くしながら片足で地面を何度も蹴る。
自分を亡き者にしようとする、殺意に満ちたその目を見た。
────────死。
頭にたった一文字が浮かぶ。
体を伝う汗が、急激に冷えていく。
「俺は、死ぬのか」
ヒイロはぽつりと呟いた。
そしてこう思った。こんな、わけの分からない場所で、わけの分からない奴に殺されるのか。
「……ふざけるなよ」
死が近い、限りなく。
そう認識した途端、何かが裏返るような感覚がした。
腹の底の底から、何かが込み上げてくる。それが全身に行き渡って、痛みと重みがどこかに消えた。
ゆっくりと、立ち上がる。
視界の端を、黒いモヤのようなものがちらついている。視線を落とすと、擦りむいた手のひらからモヤが立ち昇っていた。どうやらこれは、傷口から発生しているようだ。
「こちとら振られた直後だってのに……いきなりわけわからん場所にいて、しかも初っ端モンスターに殺されかけるとか、どんな不運だよ!」
口から、勝手に言葉が湧いて出てくる。
「なんか変なの出てきたし……もういっぱいいっぱいなんだよこちとら!!お前に殺される理由もわからねえし!!」
激情が、彼を支配している。
「絶対に生き抜いてやる。やってみろよ。お前に!俺は!殺せない!!」
指を指してそう叫んだ瞬間、ミノタウロスは再び雄叫びを上げ突進してきた。
──このままだと俺は死ぬ
直感としか言いようのない確信があった。
だが、この死から逃れるのは簡単だ。
眼前に迫る2本の角を、ギリギリまで引きつけ、すんでのところで身を翻す。
地面を蹴り、背にしていた岩を蹴って高く跳び上がる。
ヒイロを貫かんとする2本の角の内、左の角に黒いモヤが集まっている。その一点を思い切り蹴る。バキィッ!という勢いのある音と共に、硬いものが割れる感触が足に返ってくる。
「ブォッ!?」
ミノタウロスが悲鳴を上げながら倒れ込む。凶悪な角が、片方折れている。
折れた角を引っこ抜いて右手に持ち、狙いを定める。
────ここだ。
直感が囁く。狙うのは大きな身体の真ん中。恐らく心臓。先ほどと同じように黒いモヤがそこに集まる。
折れた角を手で押さえたまま、ミノタウロスは立ち上がり、こちらを睨みつけながら右足で地面を何度も蹴る。
そして、三度目の突進。瞬きする間もなく彼我の距離は一瞬で縮む。
短く息を吸い、吐くのと同時に、腕を突き出す。
だが、ミノタウロスは頭を振ってヒイロの右腕に噛みついた。
「うっ…ぐううぅぅぅ!!」
鋭い痛みが腕に走る。血がダラダラと流れて、黒いモヤが勢いを増して出てくる。思わず角を手放してしまった──が、
「こん、のおおぉぉぉぉ!!!!」
左手で角をキャッチして、心臓に突き刺した。
びくんと大きく震える身体、大量に出血し、黒いモヤも大量にミノタウロスの胸元から噴出した。たまらず口を離し、ヒイロの身体を放り投げる。
地面を転がるヒイロ。しかし、すぐさま立ち上がり、相手に目を向ける。
モヤは揺らめき、巨体を覆って真っ黒に染める。かと思えば、そのままふわりと消え失せた。
倒れる巨体。そのまま、ぴくりとも動かなかった。
熱が一気に引いていき、身体中の痛みが帰ってくる。特に右腕が強く痛んだ。
目の前のモンスターは、死んだ。俺が殺した。
そう認識した瞬間、痛みと疲れからか、まるで糸が切れたかのように倒れてしまった。
「……なんなんだこれ」
荒く息を吐き、目の前の黒いモヤを見ながらヒイロは言う。そのモヤの主な発生源である右腕を左手で押さえると血のぬるりとした感触が返ってきた。
疲れと失血でぼーっとする頭の中を、いくつもの言葉が埋め尽くしていく。
(ここはどこあいつはなになんで俺があの黒いのは家はどっちどうしてあの子は──)
意識が朦朧としてきて、瞼を開け続けるのが難しくなってきた。
視界が暗くなっていく中、人影がこちらを覗き込む。
現れたのは、びっくりするぐらい可憐な少女だった。真っ白い肌に、髪に、瞳。
(ああ、天使様のお迎えが来た)
そんなことを思いながら、ヒイロは目の前が真っ暗になった。




