妖刀迅譚
今季一の冬将軍が襲来してからはや七日、ピンと張った糸のような空気を一気に弾き飛ばすように、打音と火花が奔る。
途轍もない力に弾かれ、脚を縺れさせながらも次に備えて、濡れた土に身を突き立てた。
呼吸が短く浅くなり、肩が激しく上下する。息の仕方を忘れてしまった肺が悲鳴を上げ、早鐘を打つ身体に待ったをかける。
臓腑が内側から張り裂けるような感覚に陥り、止め処ない痛みが滲みだしている。視界がるつぼの様に歪み、今まさにこの状況が危機に置かれていることをありありと物語っていた。
それでも思考は絶えず眼の前の存在に向け続ける。それを怠り、一寸ばかりの油断がもたらすものは文字通りの命取り。
歪みに歪んだ視界の底から迫る真赤の焔。燃え盛る殴撃が容赦なく肩口に牙をむく。
吸い込まれるようにその身を狙い来る一撃を、惣一郎は寸での処で同じく炎を宿した刀身での防御を試みた。
振り下ろされた無刃の斬撃が、受けの姿勢に入った鐵器を鋭く殴りつけた。
(―――ッッ!!)
ギィィンッ!と金切りの悲鳴と共に、得物越しに強かに打ち付ける衝撃と、凄まじい熱を受け、得ずして弾き飛ばされるように距離が離れる。
規格外の力を以て、弾かれたその身が軽く宙を舞い、背中から地面へと吸い寄せられる。衝撃を避けるべく受け身を試みたがその力を殺し切ることはできず、二、三回程転がり、動きが止まる。
すぐさま体勢を立て直し、より一秒でも長くその意識を保っていられるように、改めて霊器を構え直して次の手に備えた。
柄を握る力が弱まるのを気合で踏み留める。身体が早くも言うことを聞かなくなってきた。その間、僅か数合。二、三分での打ち合いでの出来事だ。
熾士との「実践的な修練」が始まって一週間。師が言うには、修練を次の段階に進めるためには彼に一太刀入れなければならないという、明らかな無理難題。
この短期間で特に何かを掴めるわけでもなく、半ば逃げ回るように殴撃を躱し続け、技を繰り出しては返り討ちに遭う。それを延々と繰り返す無間地獄が繰り広げられていた。
「腰が引けてるぞ!」
「全ての攻め手に備えろ!」
弱腰の身の上に叱咤と指摘と共に降り注ぐ、合いの手すらも許さぬ程の深紅の雨霰。
「ウゥッ!」
熾士の打突の連綿に惣一郎は呻き声で返答することしかできなかった。
ガキン!と更に勢いを増す剣戟と指摘が一回り続き、言葉が途切れた一拍。熾士の手元からこれといった予備動作も無く連撃が繰り出される。
(────ッッ!!)
なけなしの反射神経と生存本能のみを頼りに身を捩り、地を蹴り、火の手から逃れる。
その幾つかを衣や薄皮に掠りながらもどうにか躱しきり、殴撃が撃ち込まれたその瞬間に技を差し込む。
(──今!!)
生じた隙間を無理矢理にでも広げるため、左足を力強く踏み込み、捩じれた体を撥ね戻す様に『炬真清火』を繰り出した。
「ヤアッッ!」
いつぞやの時とは違って、万全の状態で放たれた一撃に対して、熾士は表情一つ変えずに、回避行動を見せることなく、刃筋を見据えていた。
(──!?)
熾士の余裕極まる行動に驚愕の眼差しを向けるが、踏み込みを加えた技を引っ込めることはできない。刃を緩めることなく押し出し続ける。一方の尚久は、眼前に垂れ下がってきた蔦を押しのけるような風体で赤い線を鎬で遮るように軽く小突く。
「──なっ!」
熾士の受け流しによって打ち上げられてしまった渾身の炎は行き場を失い、チリチリと霧散し、周囲の空気をほんの僅かばかり暖めた。
瞬き一つすら許されないほどの出来事、ハッとして目線を戻した時には既に全てが遅すぎた。
視界が赫に染まっている。
日食の際に見られる「紅炎」が上下左右から迫り、全身に降りかかる。半円を描くような連撃を覆い被せるように幾重にも放つ、炎鳳流其之壱弐『鏡紅炎』。
刹那の出来事は、燧士が体勢を立て直すまでの悠長を許してくれるほど生易しいものではなかった。
次の瞬間、咄嗟に妖力で身を固めた惣一郎の肉体を、過剰としか言いようがない焔の奔流が飲み込んだ。
「グゥッ!!」
連撃が炸裂し、技の力が身体を押し上げ、身体を伸び立たせる。鈍く鋭い痛みが知覚を支配し、容赦なく意識を抉り抜いた。
全身のあちらこちらから煙が上がる。痛みと焦げ付く感覚しか残っていなかった腰から下がふいに落ちるのを意識の縁で感じ取った。
焔の獣に脚を食い尽くされてしまったかのように身体が地に吸い寄せられる。
原形をとどめていない意識の中、弱くも未だに燻っていた闘志を最後の力と共に絞り出し、得物を土に突き立てた。両膝を付き、霊器を杖代わりに寄りかかりながらも雀の涙ほどの意地でギリギリの身体と意識をどうにか保つ。
「ハァッ…、ハァッ…」
切れ切れになる意識の中、残心を終え、霊器を納めた尚久が眼の前に立っている。
「倒れなかったことは評価するが、まだ全てが甘いな」
「・・・」
「しばらくは動けないだろう。今日はここまで、振り返りを怠らないように」
「はい……、ありがとう…ございました……」
上から降りかかる言葉に顔を向けることすらできず、ただ距離の合わないを刃先を見つめ、出された指示に最低限の返事で答えることしかできなかった。
灰一つ程の根性を使い果たした燧士は厳しい寒さに熱を抑え込むのを任せながら、立ち去る熾士の足音を尻目に、まだ白が遺る地に縋るように倒れ込んだ。
身を焼く痛みから解放され、ようやく歩を進めることが出来たのは、ちらつき始めていた雪が薄く白化粧を施した頃になってからだった。
カタカタと音を立てたソイツが不自然な挙動で動き出し、まともに動けるようになった身に迫る。
永鶴山妖術修練場。ここは幾層の結解が施され、妖術に関する修練を積むことができる場である。そして、普段の修練場とは異なるあるものが配置されている。
今、相手しているものは戦闘訓練用傀儡。兵部省と工廠の管理を行っている工部省、霊迅衆お抱えの傀儡士が修練の効率化を目指して、試行錯誤の末に創り出した代物であり、技術の粋をこれほどかという程に詰め込んだ自動人形である。
地を踏みしめながら迫り来る絡繰人形に対して、こちらも地を蹴り動き出す。互いの距離が瞬く間に縮まり、間合いに入る数瞬前、人形の飾り気のない無骨そのものな得物と、惣一郎の朱を点した刀が、ほぼ同じ軌道の放物線を描いた。
打ち合った霊器がほんの少し鬩ぎ合い、太刀筋を逸らせる。すかさず繰り出される人形の連撃を得物で迎え撃ち、的確に対応する。
打ち合うこと暫く、人形の構え方が少し変わったように見えた。この傀儡には動きをあえて慣れさせないように、幾つもの動きや剣術を組み込んで逐一切り替わるような術式、機構が組み込まれているという。
以前にも、こいつの動きが切り替わった時に強烈な一撃をもらって地に這いつくばったことを思い出し、霊器を構え直す。半歩距離を取り、次の一手に備える。
刹那、素早い動きで得物が振るわれた。
動きをいちいち確認して対応できるほど、今の惣一郎には経験や反射神経、余裕など何もかもが足りていない。横薙ぎを山勘で身をかがめて躱す。
絡繰ならではの無機質ながら力強い一撃は手近の空気を巻き込み、少しばかり先が焦げてしまった髪にやや強い風を伝えて通り過ぎていった。
今の一撃をもろに食らっていれば、いくら妖力で身を固めていても昏倒は免れなかっただろう。安堵の気持ちを混ぜ込んだ息を素早く吐きだし、横目で傀儡の様子を確認する。
痛烈な一撃を振り抜いてもなお、微塵たりとも動きの起伏や残心を見せず、相手の挙動を掴むことすらできないような得体の知れなさに少しの気持ち悪さを感じた。
しかし、そんな考えを巡らしていられるほどの時間はない。降ってきたほんの少しの隙を逃すことなく、反撃へと移る。
顔を上げ、相手が次の一手へと移るよりも早く、下段からやや斜め上に向かって身体と共に『焔』を跳ね上げる。
「ハアッ!」
カンッ!と硬いもの同士を痛烈に打ち付けた証が静寂を駆け抜けた。
横腹に決まった技を受け、|生気が感じられない手強い師範《絡繰人形》は一先ず動きを止める。
「ふぅ…」
数分経たずの熱戦を終え、掌に残る確かな手応えを忘れぬように得物を鞘に収めながら、内にこもる熱に染まった息を吐き出す。
「お見事!」
パンパンと手をたたく音と共に賛辞が背後から聞こえてきた。
まるで入り込む機会を見計らっていたかのように霜を踏み鳴らしながら、向かってくる影を一瞥し、その声に答える。
「お前も来てたか、矩秀」
「ああ、近くを通ったらお前の掛け声が聞こえてきたからな」
「よっ」と手を上げながら近づく同胞に確信にも似た問いかけをぶつける。
「ってことは盗み見してたな?」
「人聞きの悪いことを……まあね。」
冗談めかして軽く睨みつけると、矩秀は気まずさを逸らすかのように目線を逸らしつつ、問いを投げ返す。
「…そういや今日の打ち合いはどうだった?」
「見ての通りてんでダメだ、ありゃ強すぎる」
「だよな、俺もボロボロだよ」
溜息交じりの返答に、やれやれと大袈裟に身振りを加えて同意する様に苦笑いで応える。
二人揃って、ぶっ飛ばされ、焼かれて、土まみれのボロボロな体たらくだ。悲しいことに、すっかりそれがいつもの光景になっている。
熾士に完膚なきまでに叩きのめされている姿を見慣れている燧士達にとって、この程度では両者ともに心配の言葉すら出ることはなかった。
「やっぱりまだまだ打ち合いにもならんな」
ボヤキ始める矩秀に同情しながら、首を軽く回す。こうも毎日、何度も何度も、ボロボロにされてしまっては愚痴も零れるもの。
「ああ、だからの自主練だけどな」
落ち込んでしまった空気を一新するように自動人形を手の甲で軽く小突く。沈黙を保つそれは返事をするかのよう小気味いい打音を鳴らした。
「そうだな。じゃあ、おれも少しばかりやっていくかね」
「おいおい、申請はどうすんだよ?」
頷きと共に放たれた一言に、少々の困り顔を混ぜ込んだ表情を添え、軽く思いとどまらせる。
この戦闘傀儡は管理の問題などの理由から、申請を経ないと使ってはならないという決まりとなっている。当然、無断使用は御法度だ。もしそんなことをしでかそうものなら、兵部からの大目玉は必至。
「終わってから共同使用に書き換えとくさ」
「怒られるんじゃねぇの?」
どうにも嫌な予感が顔をちらちらと覗かせている。そんな言い知れぬ不安を携えてもう一度軽く制止する。
「あぁ…まぁ、そん時はそん時よ」
「・・・なら了解、ほらよ」
一瞬の逡巡の後に、どことなく呑気な様子で伸びをする同輩に、呆れと「こいつはどうにかするだろう」という諦観を込めた溜息と共に、傍らに置いたままの霊器を投げ渡す。
「おう、すまんな」
「そうと決まれば、起動するぞ」
「ああ、それと少しさっきの動きは見てたから、一応、少し歯車の配置変えといてくれないか?」
「わかった、少し出力も上げとくぞ」
(どうせ怒られるならねぇ……)
もし、兵部からお叱りが来るとなれば、惣一郎も共犯になるだろう。こうなれば死なばもろともというやつである。
「手厳しいねぇ」
苦笑する青年を尻目に、人形の背中にあるふたを開き、歯車を組み替える。
この絡繰には内部にある大きめの歯車の位置を変えることで絡繰の動き方を変えることが出来る機構が備わっている。
続いて、隣にあるツマミを調節する。動き方のみならず、歯車の嚙み合わせを変えることで攻撃の強度や、速さを自在に変えることが出来る。
つまみをいじりながらもこんな代物を造り出せる傀儡士の発想と技術にただただ脱帽する。
この戦闘人形は傀儡師と兵部省の血が滲むような努力の結晶なのだ。しかし、当の本人にとって、それがどれほど凄いことなのかは、これからも知る由も学もないのが悔やまれるところではある…。
何も知らぬ惣一郎にも理解できることはある。ここで作業をしくじって壊すようなことがあれば、謝罪行脚は確実ということ。
訳も分からぬ絡繰の内側に鎮座する部品を組み替え、ツマミを右側へ少し動かす。
ほんの少しの悪戯心で出力を跳ね上げたい気持ちがないと言えば噓になる。
しかし、そんなことをしようものならば矩秀渾身の『雷火』が脳天目掛けて叩き込まれるのは目に見えているので、気持ちをこの人形にそっとしまい込み、ふたを閉じる。
「よし。それじゃ、俺は後ろで見てるわ」
「ああ、何か足りなかったら言ってくれよ」
「おう、任せろ」
矩秀が人形に向き合い、得物を構える。惣一郎は立ち合いを邪魔しないよう、手近にあった岩の雪を払い、腰掛ける。
「次は俺な」「分ってるって」
33尺先で待機時間を終えた傀儡が、滑るように動き出し、一方の矩秀は横中段に構えて突撃を敢行する。
距離が一気に縮まり、出力が上がった傀儡の得物と、燧士の豪腕から送り出される霊器が交錯する。
鼓膜を大きく震わせるほどの音が白に染められた森林を駆け回った。
二人がかりで傀儡相手に打ち合いを展開すること数刻。
日がすっかりと姿を隠して白と黒の勢力図がせめぎ合う頃、いい感じに湯気を立てている鏡面に指を浸ける。
「よし・・・」
丁度良い温度に整えられた桶に身をゆっくりと沈めた。
「いっつっ…」
寒空が芯までこびり付いた身と傷に真新しい湯が染み渡る。
永鶴山には山奥に所在している割には水が豊富にある。一つの山を丸々切り拓いたこの地にはそこかしこに湧き水があり、さらに、近場の山々には幾つもの溜池が備えられているからだ。そのおかげで約半年前まで滅多なことでは入ることのできなかった湯に浸かれている。
だが、先人の大いなる努力の賜物である治水施設があるとはいえ、やはり水はかなり貴重だ。じゃぶじゃぶと使うことなどおいそれとはできない、節水にはなかなかに気を遣う。その一環で風呂の水は三日ごとに入れ替える。それ故に、三日に一遍の一番風呂こそ、日頃の疲れを洗い流し、気持ちを切り替える至高の妙薬なのである。
(・・・)
身を沈めること数分、心地よい温度の湯は寒さに侵された心身を程よく解し、思わず顔をしかめてしまう痛みと引き換えに疲れを風呂桶に押し流してくれる。
波打ち、上下する木桶の縁をただぼんやりと視界に納め、一切の思考を閉ざさんと試みる。しかし、痛みへの適応を終え、熱を帯びてきている頭の半分を占めていたのは、これから起こる面倒事への嫌気であった。
それもそのはず、この家の湯屋は母屋から少し離れた場所にあるため、湯上りから戻るためには極寒に身を放り込まなければならない。
こんな造りで建築に及んでしまった名も知らぬ大工に恨めしさすら覚えるが、防火の観点を考えれば当然のことなのだろう。
なにしろ与えられた立場で文句を垂れるのも非常に格好がつかない。
「はあ…」
これから迎えに行く冬の針地獄への旅支度として、心の臓に至るまで熱を巡らせるために身も憂鬱な心も湯にそっと溶かし込んだ。
所変わり、居間。湯気を立ち昇らせた茶碗を持ち上げ、糧を望む。椀の中身が手招きし、鼻腔を擽り、激情を掻き立てる。
稗や粟等に混ぜ込んで拵えた雑穀米を味噌が利いた魚と共に口に運ぶ。いくら以前よりも米を食せるようになったとはいえ、水と同じで白米なんて代物は大変貴重であることには変わりない。これまた雑穀米が食卓に並ぶのも必然である。
「結局、俺はお咎めなしで済んだんだけど、矩秀は居残りになってたな…」
永鶴山に来てから早数カ月。家族全員で夕飯を摂れるようになったこともあり、各々の新しい生活を知るために今日あったことを互いに報告することが日課になっている。
真新しい話に興味津々に耳を傾ける皆の様子を見ることが、惣一郎の一日の終わりの楽しみになっていた。
湯気を立てる真鮒の煮つけを箸で取り解しながら、修練の顛末を脳裏に復刻させる。
兵部へと終了の報告と共に共同利用への変更を行ったまでは良かった。しかし、案の定と言うべきか退室の寸前になって矩秀は残るように指示されたのだ。傀儡の管理を担っている役方の眼がいつもより一段と鋭く光っていたので、しばらくは抜け出せないのは確実だろう。
先刻まで余裕綽々でいたわりに、いざお叱りが来るとなると悪さを働いた子犬の様に下を向き、目で助けを求めていた同輩に内心で南無と唱えつつ、逃げるようにそそくさと兵部を出たのだ。
「今日はこんな感じだったかな」
「じゃあ、次は俺だね。今日は手習いで・・・
惣一郎に続き、皆それぞれ語り出した簡単な一日の報告に頬を緩ませ、耳を傾ける。
何気ない日常の一幕。それでも一人一人の新たな生活や楽しかったことなどを心に刻み込んで、さらに激化していく明日への活力にする。
皆の今日の様子を一通り聞き終えて、再び意識を膳に戻す。今日の副菜は、鮒の煮付けと、大根の味噌汁、漬物。
なんの変哲もないただただ普通の料理ではあるが、どれもふみが辣腕を振るった珠玉の逸品だ。
取り崩す途中だった鮒を口に運ぶ。隠れ里から樽ごと引っ張り出してきた自家製味噌と生姜の薫りが口内に目いっぱいに広がり、一噛みすれば、鮒の旨味が浸み出で味噌と混ざり合う。
沁みだした魚の旨味と味噌の塩味が混ざり合い、生姜の確かな薫りを堪能しつつよく咀嚼して、小骨に気を付けながら噛み崩したそれを嚥下する。
喉元から肚に向けて泳ぎだした鮒は、生姜の仄かな辛みと風味を残し、舌と鼻腔を心地よく盛り立てる。
天賦の才か、この数年の間に少ない食材でどうにか皆が満足できるように試行錯誤してた賜物なのか、ふみの料理は毎日食していても唸るほど絶品だ。
実際、数年前に惣一郎が空腹に耐えかねて出先で捕まえ、その場で塩焼きにした時には、臭みが強く嗚咽しながら完食した経緯があった、それ故にふみの経験と技術にただただ頭が下がる。
そうした気持ちと共に浮かぶ言葉を飾ることなく、いつものようにふみの料理の腕を褒める。
「この鮒、味噌がいい感じに効いてて最高だよ!」
「ありがと!来週には寒ブリが入ってくるから楽しみにしててね!」
脂の乗った身と、未だ頭の片隅に残る遠い昔の旨味を思い出しながら、徐々に近づく夢見心地の足音に憧憬を抱く。
「へぇ、ぶりかあ、楽しみだなあ…」
「いつぶりかなぁ・・・」
「私も腕によりをかけて作るからね!」
「ん?弥助…今…」
ハッとした時には時すでに遅し。条件反射で思わず完全に要らない返答をポロッとこぼしてしまっていた。
「忘れて!今の忘れて!」
当の本人は気恥ずかしさから手を振って、大声で遮る。しょうもないシャレと、それを丁寧に拾い上げてしまった愚か者による見事なまでの連携が、一瞬にして和やかな会話の流れを断ち切ってしまった。
(しまった…言わなきゃ良かった…)
夜の静寂の中で薪がパチパチと爆ぜる音のみが主張をしている。場が瞬く間に静けさに飲まれてしまった気まずさを感じ、心中で大いにたじろいた。
当の元凶はしんとなった雰囲気をどうにか変えるべく、咄嗟に太助に話を振る。
「そういえば太助、仕事探しは順調か?」
(余りにも無理矢理が過ぎたか…)
あまりにもいきなり話題を投げられた太助はギョッと眼を見開く。
だが、面倒極まる鏃を突きつけられた太助は、猛省している惣一郎の意図を察したのか、やれやれと呆れながらも答える。
「うん、いい感じだよ。皆も自分たちで手習いも行けるようになったからね」
「いい仕事先が見つかるといいな。」
「そのことなんだけどね、実は!来月から俺も霊迅衆に出仕することが決まりました!」
「おお!そうか!」
「どこに勤めることになるか決まってから言うつもりだったんだけど…、都津崎さんにどこか仕事先を紹介してもらえないかお願いしたんだ。」
満を持して発表するつもりだったのだろう。予定変更を余儀なくされて、ジト目で咎める太助の追求を目線を逸らして躱しながら、すまないと心の中で唱える。
「そしたら本部に紹介状送ってくれたんだよ…」
いつも世話になりっぱなしの御大に心の中で全力で座礼しながら、平静を装う様に少し飲みやすくなった茶を啜る。
「そうか、後で礼をしにいかなきゃな…、でもいきなり仕事に行って大丈夫なのか?」
「最初は下働きからだから大丈夫って兼房さんは言ってたけど…。それにそこで手習いから面倒見てくれるんだって」
「そいつは助かるな、頑張れよ」
「もちろん。 ……でも、惣兄こそ、最近傷だらけだけど大丈夫なの…?」
太助の一言を起点に皆の心配そうな視線が惣一郎へと向かう。皆一様にその問いかけに言外に同意しているように見えた。
刻みつけられた傷と今も身体中に遺る痛みをしかと感じながらも、霊迅衆第四燧士は至って安心させるように柔らかな顔で答える。
「ああ、心配するな。」
まだ諸々の事情を理解できていないながらも心配そうな面持ちで隣に座るかねの頭をポンポンと撫でる。
「それに、矩秀もいるからな、思ったよりはきつくないぞ」
「でも・・・」
みよが更に苦悶にも似た面持ちで言葉を紡ごうとする。彼女自身、惣一郎の気持ちも理解出来ているだろう。
しかし、彼の想いと自らの心情の間で板挟みになっているのか、相応しい言葉を紡ぎ出せてはいないようだ。
察した惣一郎は、そんな彼女を瞳で静止しつつ答える。
「大丈夫だ。なにより、皆がここで待っていてくれるから、俺は頑張れるんだ」
正直かなりつらい所もある。しかし、家族の為であればどんな逆境すらも乗り越えられる。そんな偽りのないありのままの気持ちを真直ぐに伝えた。
「じゃあ、私たちは惣が思い切り動けるように支えてあげなくちゃね!」
燧士の事情も心境も最も理解しているふみがすかさず、気の利いた合の手を入れる。
心配こそすれ、数ヶ月前の話し合いを経た今、皆を思う惣一郎の行動を咎める者はいなかった。ふみの言葉に年長組がうんうんと頷く傍らで、年少組が「おー!」と気炎を上げている。
「みんなありがとう、助かるよ」
(ありがとう、ふみ)
言葉の裏で、助け舟を出してくれたふみに目線で感謝する。一方の少女も目配せでそれに応じる。
「それはそうと、どこに出仕するか決まっているのか?」
本日二度目の話題逸らし。太助は少し呆れながらも、こんなことは想定していたかのように答えた。
「しばらくは他の人達と持ち回りで働くみたい…、その後に太政部で配属先を伝えられるみたいだよ」
ようやく飲めそうな温度にまで落ち着いたおかわりの汁物をくいっと呷る。
「へえ・・・、そんな感じなんだねぇ……」
ふみの一言に頷く。
「まあ、どこに行ったとしてもしっかりと仕事に取り組むんだぞ?」
「安心してよ!それにちょっとは家庭の足しにするからさ!」
たび重なる話題逸らしの標的にされた腹いせか心なしか悪い笑みを浮かべる太助。心強い言葉と共に降ろされる腕が、先刻の『鏡紅炎』に炙られた肩に食い込む。
「痛ぇって!叩くな叩くな!」
(この野郎っ…)
気付かぬうちに一段と力を増した掌が、格好つけに少し反発するかのように、数刻前に降りそそいだ打突の雨の傷をバシバシと確かに打ち抜く。
グエエッという短くも情けない悲鳴を上げながら、猛追する掌を必死に静止する。普段弱みを見せないように努めてきた大黒柱のあまりにも情けない姿に、皆一様に笑い出す。
(まぁ、いいか…)
皆が頬を緩ませ、笑っている。己の情けない姿が基になっているのは少々解せないところもあるが、そんなことは些末なもの。
暗がりを赫に染めている灯りを映した瞳をそっと閉じ、苦悶に引き締まる口元を緩め、ただジンジンと響く痛みにじっと耐えるのであった。
やっと書けた…!
次はもっと早く描き終えるぞ…!