「気の荒い雌牛亭」
「ご無理をなさってはいけませんよ、スロダーリャどの。この前、はしごを踏み外して尻餅をつかれてから、まだ幾日もたっておりませんでしょう?」
「大丈夫だ。同じ失敗は繰り返さないよ」
ここは、王宮の第四文書庫――。
代々の国王や王族に関する文書が集められている。
スロダーリャは、シシルスランガが嫁いでくることがわかってから、第二十八王子に関する資料を探して、何度もこの文書庫に足を運んでいた。
先日は、高い棚の上の文書を取ろうとしてはしごから落ち、その結果、シシルスランガの迎えをイルに頼むことになってしまったのだった。
あまりに頻繁に通っていたので、近頃は、文書庫入り口の老門番が誰何することもなくなった。
スロダーリャは、軽く頭を下げ挨拶するが、向こうは居眠りをしていることさえある。
まあ、ここには盗難を気にしなければならない、値打ちのある資料などないのだろう。
なんとものんびりしたものである。
先ほどイルから受け取った紙片には、ブーヴァンゾ三世が若い頃、その側近を務めていたラトヤンスカという侍従の名前が書いてあった。
第四文書庫の係官に、その名前を言うと、ブーヴァンゾ三世の『日々録』をつけていた者に、そのような名前の者がいたはずだと教えてくれた。
スロダーリャはこれまで、王家の系図など、王子や王女の出生に関する記録を中心に調べをすすめていた。
第二十八王子のほかにも、母親や本人の名前が記録されていない王子や王女が何人かいた。百人以上の王子や王女がいるのだから、それも当然かもしれなかった。
妃となる前に出産した女性や、誕生直後、名付ける間もなく亡くなった子もいただろう。
その場合は、何も記録が残されていない可能性が高い。
「なるほど、『日々録』ならば、もしかすると第二十八王子の母親となる女性との出会いや、王子が誕生した時のことなどが記録されているかもしれない。しかし、陛下が王太子となり、『日々録』が付けられるようになって四十年。おそらく『日々録』は、百冊近くになるのだろうな」
第二十八王子の生年については、ある程度目星がついているので、四十年分の『日々録』すべてに目を通す必要はない。
スロダーリャは、『日々録』が重ねられた棚から、ラトヤンスカが記録した、第二十八王子のことが綴られていそうな数冊を選ぶと、書見台に運んで熱心に目を通し始めた。
*
「それじゃあ、シシルさん。明日も今日と同じ刻限に、マトヴァリシュとここで待っております」
「わかりました。明日は、わたくしが行厨を用意いたします」
「本当ですか? それは楽しみだ!」
「たいしたものは作れません。国にいるときに婆やから教えてもらった携帯食です。お気に召すと良いのですが――」
「召します、召します! シシルさんが作ったものなら、山辛子入りの餅だろうが、苦ニンジンの煮付けだろうが喜んでいただきますよ!」
「いくらなんでも、そのようなものは作りません!」
「ハハハ」「フフフ」と、ひとしきり二人は笑い続けた。
笑い終わった後は、別れの言葉を口にしなければならないとわかっていたので、もう少し一緒にいたかった二人は一生懸命笑った。
「では、また明日!」
「はい、また明日!」
ようやくあきらめがついたイルは、別れの言葉を交わし碧玉門をあとにした。
「男の宿り場」に近い月桃門に着くと、ニヤニヤしながらスロダーリャが待っていた。
「今日はすっきりと晴れているし、見晴らしの丘からの眺めは最高だっただろうね?」
「ええ。シシルさんはとても喜んでくれましたよ。蜂蜜色の町をうっとりと眺めていました」
「それは良かった。こちらも、イルの情報のおかげで少しばかり事情がわかってきたよ」
スロダーリャは、ゆっくり話をするためにイルを「気の荒い雌牛亭」へ誘った。
マトヴァリシュを店先に繋ぎ、イルはスロダーリャと共に人々で賑わう店内へ入った。
「ラトヤンスカは、陛下の『日々録』をつけていた人物だった。わたしが探し求めていた記述も、彼の記録の中にみつけることができた」
「そうですか! では、お知りになりたかったことがわかったんですね?」
「ああ、何となく――はな」
スロダーリャは、第二十八王子の生年前後の『日々録』を、時間をかけて読み込んだ。
その中に、国王が視察に出かけた国境の森で、一人の娘を拾い王宮へ連れ帰ったという記述を見つけた。
しかし、何か複雑な事情がある娘だったのか、その後はその娘に関する記録はいっさいなく、その娘がどうなったのかはわからなかった。
それから一年後あたりの記録に、「第二十八王子様ご誕生」という記述が見られた。
なぜか王子の名前も生母の名前も記載されていないという、出生の記録としてはたいそう珍しいものだった。
スロダーリャは、国境の森で拾ってきた謎の娘が、第二十八王子を産んだのではないかと考えていた。
「ところで、イル、そなたはどうやってラトヤンスカどのの名前を知ったのだ?」
「ダーニマンチェ爺さんですよ。昨日、肩もみをしてやっていたら、突然昔のことを思い出したらしく、『最近会っていないが、ラトヤンスカは元気かなあ?』とか言い出したんです。
ラトヤンスカさんは、ダーニマンチェ爺さんやオンターラ爺さんが王宮で働いていた頃の友達で、陛下の侍従を務めていた人です。俺が小さい頃は、よく『男の宿り場』にも訪ねてきていました。
侍従をしていた人なら、二十年ぐらい前の王宮の様子をよくご存じかなと思いまして――。三人ともだいぶ前に、王宮での仕事は辞めてしまったし、オンターラ爺さんも亡くなったので、近頃は顔を見ることもなかったのですがね――」
「ふうん――。それで、ほかには何か言っていたか?」
「いいえ。その後は、昔飼っていた犬の話を始めて、ラトヤンスカさんのことは忘れてしまったようでした」
ダーニマンチェは、昔、住み込みの料理人として王宮で働いていた。
子どもがいなかったので、妻が亡くなり仕事を辞めた後は、『男の宿り場』でのんびりと一人暮らしをしていた。
たまに、「気の荒い雌牛亭」の調理場へ手伝いに出かけることもある。
「俺を十五まで育ててくれたオンターラ爺さんは、昔は、王宮の夜警をしていたようです。もう亡くなっちまったんで昔の話を聞くことはできませんが、爺さんももしかすると何か知っていたかもしれません」
明日も、二話か三話投稿する予定です。よろしくお願いいたします。