薔薇と茶会と婚約解消と その三
第十五王妃をはじめとする、多くの王妃たちや王女たち、王子妃たちからの訴えで、ツェリーニ公女と第二十三王子の婚約が見直されることになった。
一夫多妻のこの国においては、女性たちは協調性や思いやりを何よりも重んじる。
ツェリーニ公女は、チューロデーサ王宮という共同体にはなじめない人物であると評価されてしまったのだった。
最後は国王の判断で、この婚約を正式に解消することが決まった。
そして、宮廷医により、「酷い気鬱の病を患っているので、安らかな環境の中で養生することが肝要」と診断されたツェリーニ公女を、兄であるセルナス公子が家臣を伴い迎えに来ることになった。
「――というわけで、まもなくセルナス様が到着されます。事前に何もかもお伝えしてありますので、カスタニャス様は、いかにも傷ついたという様子でセルナス様とご一緒にお国へお戻りになってください」
侍女たちも付き添うのを嫌がってしまったので、茶会の一件以来、スロダーリャが一人でカスタニャスの世話をしている。
薬もスロダーリャが受け取りに行っているので、宮廷医も顔を見せなくなった。
二人は、誰にも気兼ねすることなく、穏やかな時間を過ごしていた。
「スロダーリャどの、あなたには、何とお礼を申せば良いのか――。頬の傷は、もう大丈夫ですか? つい、やり過ぎてしまって、ご迷惑をかけました。どうか、お許しください」
本来の好みらしい草色の簡素なドレスを身にまとったカスタニャスは、スロダーリャの頬のあたりに目をやりながら、すまなそうに言った。
「ご心配には及びません。もうすっかり傷は癒えましたので――。ツェリーニ様は、今回の件で相当評判を落とすことになりましたが、お抱え画家どのとは結婚しやすくなったことでしょう。あと少しで、なにもかも上手く片付きます」
「ええ、あと少しですね。たぶん兄は――、一人で先にやって来ると思います」
「セルナス様は、妹思いの愛情深いお方なのですね」
「フフフ……、そうかもしれませんが、そうでないかもしれません。何しろ変わり者ですので――。スロダーリャどのとは、気が合いそうな気もしますが、いろいろと面倒な人物なので気をつけて相手をしてください。フフフ……」
カスタニャスの言葉どおり、その日のうちに白馬に跨がったセルナスが、マントをなびかせ一人で王宮へやって来た。
異例の来訪に、偽物ではないかと疑う者もいたが、耀く銀髪と暗い紫色の瞳は、カスタニャスにそっくりで、彼が大公家の血を引くものであることの何よりの証拠であった。
セルナスは、国王への拝謁が許されると、婚礼の支度金と同額の詫び料と大公から託された詫び状を差し出し、妹の不行跡を深く謝罪した。
そして、数刻おくれて到着した迎えの家臣団を指図し、あっという間に帰国準備を整えると、世話をかけたスロダーリャにも礼を言いたいと言って執務室を訪ねてきた。
秘密の話をしやすい場所はないかと言われ、スロダーリャはセルナスを庭の四阿へ案内した。
*
「いろいろとお世話をかけましたね、スロダーリャどの。あとは、わたしにお任せください。これ以上ない理想的な結末を迎えられたことを、近いうちに必ずご報告します。
こちらの不手際で、チューロデーサ王家には、たいへんなご迷惑をかけました。あなたからのお申し出がなければ、今頃どうなっていたか――。どうかこれからも寛大なお心をもって、我が大公家をお導きください」
四阿を吹き抜ける夕刻の風が、軽く目を伏せたセルナスの銀色の髪を揺らしていた。
スロダーリャは、彼がまとう不思議な雰囲気に気圧されながら、何とか足を踏ん張り隣に立っていた。
宗教学を学んでいると聞いているが、もっと怪しいことも学んでいるのかもしれない。
早く話を切り上げセルナスから離れるべきだと、頭の中で誰かが叫んでいた。
「無事に解決できてようございました。これも、セルナス様がわたしの言葉を信じ、大公様や公太子様を説得してくださったからです。わたしも、カスタニャス様とツェリーニ様のお幸せを心より願っております。
大公家と王家の絆は、このぐらいのことで揺らぐものではありません。またいつか縁を結ぶこともありましょう。どうかそのときは、もう少しお手柔らかにお願いいたします」
「ハハハ……、心しておきます。しかし――、もしかするとそれほど時を経ず、縁を結ぶことができるかもしれませんよ?」
「えっ?」
スロダーリャに向けられたセルナスの暗い紫色の瞳が、強い光を放っていた。
辺りが少し暗くなったように感じ、スロダーリャは思わず体を震わせた。
低くなめらかな声が、何かの呪文のようにスロダーリャの耳にしみ込み、心に響いた。
「侍従をしておられるけれど、確かあなたは、ブーヴァンゾ三世陛下のお子で、第十九王女様なのですよね? フフフ……、幸いあなたもわたしも未婚であるし、年も近い。あなたとわたしが結婚すれば、両家の縁を繋ぐことはできますよ。いかがですか、スロダーリャどの?」
自分に向かって伸ばされたセルナスの両腕に、スロダーリャがふらふらと倒れ込みそうになったとき、聞き慣れた野太い声が彼女を呼んだ。
「スロダーリャどのーっ! どちらにおいでですかーっ!? スロダーリャどのーっ!」
はっとしたスロダーリャが振り向くと同時に、セルナスが小さく舌打ちした。
二人が四阿にいるのに気づき、ニルマカーラが険しい目つきで走ってきた。
うっすらと微笑んでいるセルナスを、不快感を隠そうともせずにじろりと見つめながら、ニルマカーラはスロダーリャに報告した。
「御出立の準備が整いました。すでに、ツェリーニ様はご乗車になり待っておられます。お急ぎとのことですが、今宵は北バグルビマの王家の離宮にお泊まりいただきます。
国境まで我ら王宮警備隊が同行し、明日の昼過ぎには大公家の迎えの方に引き継ぐ計画です。
あの……、同じ馬車でお立ちになるのでしたら、セルナス様もお急ぎください」
いつの間にか、セルナスとスロダーリャの間に割って入るように立っていたニルマカーラは、早く出て行けと言わんばかりに、右手を四阿の入り口の方へ差し出しながら言った。
セルナスは、相変わらず謎めいた微笑を浮かべながら、スロダーリャにゆっくりと頭を下げてささやいた。
「それでは、また近いうちに――」
言葉の余韻も消えぬうちに四阿を飛び出すと、セルナスは木立に紛れ姿を消した。
スロダーリャとニルマカーラは、慌てて後を追ったが、彼に追いつくことはできなかった。
結局セルナスは、カスタニャスの馬車には乗らず、帰国の行列にすら加わらなかった。
どんな手段や経路で出国したのかわからなかったが、後日スロダーリャ宛てに、「万事上手くいったので、いずれ改めて礼を述べに行きたい」という書状が届いたから、無事に帰国したのは間違いなかった。
スロダーリャは、何となく不吉な感じがして、読み終わった書状を細かく引き裂くと、急いで皿の中で燃やしてしまった。