王宮での暮らし
「スロダーリャ様の名代イルが、隣国サクティマラタック王国より嫁いでこられた、シシルスランガ様を王宮へお連れいたしました! 門をお開けくださいませーっ!」
イルの呼びかけに応えるように、王宮の分厚い門戸が重々しい音を立てて開いた。
門の中には、いかめしい鎧甲で身を固めた王宮警備隊が控えていた。
先頭に立つ隊長のニルマカーラが、厳しい目つきでイルを睨みながら言った。
「遅いぞ、イル! スロダーリャどのからの連絡で、我らがここに待機してどれほどたったと思う? 王宮警備隊はそれほど暇ではないのだぞ!」
王都の入り口に着いたとき、イルは、スロダーリャへの使いを出し、あと一時ほどで到着することを伝えたのだが、事情があって少しばかり遅れてしまったのだった。
「申し訳ありません、ニルマカーラ隊長。今度、『気の荒い雌牛亭』で、ルーペヤ酒を一壜おごらせていただきますので、どうぞお許しください」
「ビヤーリの塩漬けも付けてくれよ! それなら許してやってもよい」
二人のやりとりを聞いていたシシルスランガは、刻限に遅れたのは自分のせいであるのに、イルが責められているのをすまなく思い、ついニルマカーラに声をかけてしまった。
「隊長どの、聞いてくださいませ! もとはといえば、わたくしが悪いのです。刻限を守ろうと急ぐイルどのに、噂に聞いていたケダパータの池に集まる青い水鳥を見たいと無理を言ってしまいました。
イルどのは、わたくしの願いを聞き入れ池に案内してくれました。その結果、あなたをお待たせしてしまったのです。どうか、イルどのをお許しくださいませ」
マトヴァリシュから降り、両手を合わせて懇願するシシルスランガを見たニルマカーラは、部下たちと共に大慌てで彼女の前にひざまずいた。
「これは、これは、たいへん失礼をいたしました。姫様にいらぬ気づかいをさせてしまい、申し訳ありません。
イルとわたしは、旧知の仲。いつもこのような冗談交じりのやりとりを楽しんでおります。けっして、姫様が心配されるようなことではありません。
ここより、陛下の御座所である白孔雀宮までは、我らがご案内いたします。スロダーリャどのもそちらでお待ちでございます。ご用意いたしました馬車にお乗り換えください」
シシルスランガは、この国に来て初めて王女らしい扱いを受け、警備隊士に手を取られながら可憐な白い馬車に乗り込んだ。
マトヴァリシュの手綱を握り、イルがほっとしたような顔で馬車の横に立っていた。
「ここまでありがとうございました、イルどの。あの、マトヴァリシュのことをしばらくお願いしても良いでしょうか?」
「はい、シシル様のご婚礼が終わり、新しいお住まいが定まるまで俺が預かっておきますよ。この二日間でお互い気心も知れたので、上手くやっていけそうです。心配いりませんよ」
「あの……、イルどのは、どういうお立場の方なのでしょうか?」
「俺の立場、ですか? 俺は、まあ、王宮の便利屋みたいなもんです。いっつも、王宮のどこかで、俺以外の誰も引き受けないような雑用をこなしています。姫様も御用がありましたら、遠慮なくお声をかけてください。それじゃあ、俺はここで――」
シシルスランガは、何かまだいろいろと伝えたいことがあるように思ったが、イルは、マトヴァリシュを連れて、白孔雀宮とは反対の方へ行ってしまった。
(さようなら、イルどの……。マトヴァリシュを引き取るとき、きっとまた会えますよね?)
遠ざかって行くイルとマトヴァリシュの後ろ姿を、ちょっとだけ切ない気持ちになってシシルスランガは見送った。
*
壮大な王宮の最奥にそびえ立つ白孔雀宮――。
大広間に通されたシシルスランガは、国王ブーヴァンゾ三世と対面した。
「遠路ご苦労であったな、シシルスランガよ。そなたを心より歓迎する。婚姻の儀までは、まだ日がある。この王宮に部屋を用意してあるゆえ、それまでそこでゆるりと過ごしながら、王子妃教育に励むが良い。
こちらにおる侍従のスロダーリャと侍女たちに、そなたの身の回りのことはすべて任せてある。何なりと申しつけるように――」
玉座の前にひざまずき頭を垂れていたシシルスランガは、その顔を上げて国王の後方に控える人々を見た。
侍従のスロダーリャは、男性のような衣服を身にまとった女性だった。
口元の小さなほくろが印象的な美しい人物で、二人の侍女を後ろに従えていた。
「シシルスランガ様、スロダーリャでございます。少々働き過ぎまして、姫様のお迎えを人に頼むこととなりました。ようやく回復いたしましたので、これよりは精一杯姫様のお世話をさせていただきます」
「よろしく頼みます、スロダーリャどの」
国王との謁見を終えたシシルスランガは、スロダーリャに導かれ王宮に用意されている自室へ向かうことになった、のだが――。
長い長い回廊を抜け、螺旋階段を何度か上り下りして、一度建物の外に出た後、再び回廊を歩き、もうどこをどう歩いてきたのかもわからなくなった頃、ようやくスロダーリャが歩みを止めた。
「シシルスランガ様、こちらがあなた様のお部屋でございます」
「は、はい……」
シシルスランガの目の前に、小さな白い家が立っていた。
周りには同じような白い家がいくつも建っていて、おおぜいの女たちが忙しそうに出入りしていた。
近くには井戸があり、洗濯や水くみをしている者もいた。
「あの……、ここは……?」
シシルスランガが、小さな声で問いかけると、家の扉の鍵をガチャガチャと鳴らしながら、スロダーリャが答えた。
「ここは、『女の宿り場』でございます。王宮の反対側には、『男の宿り場』もございます。他国から嫁いでいらしたのに、お相手を早々になくしてしまわれた方や嫁ぎ先でお相手を失いお戻りになった方、そして、そうした方々の従僕だった方など、いちおう王族や王宮に関わる方々ではありますが、行き場をなくした人々が気楽にお暮らしになっております。
ここに暮らす者は、許可を得て王宮の外へ出ることもできますし、仕事を見つけて働くこともできます。
シシルスランガ様を王宮までお連れしたイルは、『男の宿り場』に住んでおります。どういう理由でかは、本人も知らないようですが――。そういう者も少なからずおります」
苦笑いを浮かべながら、スロダーリャはゆっくりと家の扉を開けた。
家の中は、掃除が行き届き、必要なものがきちんと揃えてあった。
寝室には、気持ちよく休めそうな寝具が準備されていて、台所や居間もすぐに使えるように整えられていた。
「わたしは、白孔雀宮に出仕していないときは、ここから近い碧玉門という通用門のすぐ側の家で暮らしております。ご婚礼の儀が執り行われるまでの毎日、昼前は王子妃教育のお時間となりますので、わたしがこちらへお迎えにうかがいます。何か、急ぎの御用があれば侍女たちにお命じください」
「本日よりシシルスランガ様の侍女を務めさせていただきます、カンドラーマでございます」
「同じく、サムジャサナでございます。どのような御用でも遠慮なくお申しつけください」
スロダーリャに促され、シシルスランガの前に進み出た二人は、双子の侍女だった。
シシルスランガは、どことなく二人に似た人物に会ったことがあるような気がしたが、それが誰であったかを思い出すことはできなかった。
「お食事はここでもご用意できますが、当面は、白孔雀宮の厨房から運ばせることにいたしましょう。夕食まで、沐浴をすまされ、しばしご休息をおとりください。ではまた後ほど」
スロダーリャは、挨拶をすると、侍女たちに沐浴の準備を指示して白孔雀宮へと帰って行った。
扉が閉まった途端、シシルスランガは、手近にあった椅子に崩れるように座り込んでしまった。当たり前だが、王宮に着いてからは、ずいぶんと気を張っていたのだった。
イルの穏やかな笑顔や彼とのんびり旅した二日間が、今ではひどく遠いことのように思われ、不思議な懐かしさがシシルスランガの胸を満たした。