揺れる心
ブーヴァンゾ三世が、白孔雀宮へ戻って間もなく、スロダーリャが文書庫へやってきた。
老門番は珍しく目を覚ましていたが、スロダーリャは会釈さえ忘れて門をくぐり、文書庫の出入り口へ突進していった。
この日のスロダーリャの訪問先は、第四文書庫ではなく、世界情勢や各国の地理歴史に関する資料がある第二文書庫だった。
係官に「メンジザバール王国の情勢について調べに来た」と言うと、さっさと棚に向かい、『メンジザバール王国内乱秘史』と題された数冊の文書を見つけ出した。
間諜たちが密かに集めたメンジザバール王国の内乱に関する情報を、年代記のようにまとめたものだった。
棚の前に座り込むと、スロダーリャは急いで文書の表紙をめくった。
求めていた記述は、一冊目の途中で発見することができた。
王弟派が挙兵してまもなく、王太子妃を国外へ脱出させようとしたが、チューロデーサ王国との国境あたりで行方知れずとなり、その後亡くなったということが記されていた。
しかし、記録した間諜の私見として、亡くなったというのは王弟派側の発表であって、実際は遺体も見つかっておらず、王太子妃が逃げ延びた可能性もあると追記されていた。
(王太子妃ザーラハムーラ様が、我が国との国境付近で消息を絶った時期と、陛下が国境の森で娘を拾って連れ帰った時期は一致する。おそらく、その娘こそザーラハムーラ様なのだろう――)
しかし、そこで疑問が一つ生じた。
一夫一妻制を厳格に守るメンジザバール王国の王太子妃は、どんなに請われようとブーヴァンゾ三世の妃になるはずがない。
第二十八王子を産んだのがザーラハムーラ妃であるのなら、その父親は夫であるメンジザバール王国の王太子以外に考えられない。
「王子の立場や身の安全を考え、とりあえず誕生日をずらして、陛下の子どもであるかのように、第二十八王子として記載したというわけか――。王子は王太子の嫡男となるわけだから、そのぐらいの用心深さは必要だったのだろう。陛下ときたら、ああ見えてなかなかの知恵者ではないか!
そうであるなら、外国に出したりはせず、王子は陛下の目がしっかり届くところで、ひっそりと育てられているに違いない。白孔雀宮内か、少なくとも王宮の中で――」
スロダーリャは、再び棚に手を伸ばし、別の文書を探し始めた。
タハトイルリリム三世やザーラハムーラ妃の肖像を確かめておきたかった。
そして、ついに『メンジザバール王国・王族貴族人物録』という文書を見つけ出した。
そこには、間諜たちが調べ上げた、メンジザバール王国の王族や貴族の特徴や性格、そして肖像が詳しく記載されていた。
タハトイルリリム三世とザーラハムーラ妃の肖像を見て、スロダーリャは愕然とした。
それぞれの特徴をはっきりと受け継いだ人物を、彼女はよく知っていた――。
想像通り、その人物は王宮でひっそりと、だが健やかに暮らしていた――。
生きていれば、第二十八王子は、その人物ぐらいの年頃に育っているはずだった――。
*
イルは後悔していた。
その場の勢いで、とんでもないことをシシルスランガに申し出てしまったから――。
「シシルさん……、あの、もし……、もしですよ、もし第二十八王子様が……、本当に、どういうわけか本当に、どこにもいらっしゃらなかったら……、そのときは、良かったら……、俺と夫婦になりませんか?!」
シシルスランガは、ぽかんと口を開けたまま、しばらく声を出すこともできなかった。
何かの事情で、第二十八王子との結婚がかなわなかったとしても、シシルスランガは、簡単にはサクティマラタック王国へ帰ることはできない。それが王家のきまりである。
チューロデーサ王国にとどまり、身分を捨てて生きていくか、どこかの神殿へ駆け込み、巫女になって神に祈る生涯をおくるか――、選択肢は限られていた。
きっとイルは、スロダーリャからそんな事情を伝えられ、シシルスランガの行く末を気づかうあまり、おかしな申し出をしてきたのだ――と、シシルスランガは思った。
「あっ……、わっ……、す、すみません! み、妙なことを、言っちまいました! き、聞かなかったことにしてください! ほ、本当にすみませんでした……。も、もう帰りましょうか? だ、第二十八王子様に……、は、早くお手紙を、書かねばなりませんしね」
イルは、最後のグオングアを口の中へねじ込むと、「本当に、旨いな!」とつぶやいて、そそくさと立ち上がった。
木に繋がれているマトヴァリシュが、出発を促すように「オーヒーーッ!」と鳴いた。
シシルスランガは、親切で陽気なイルのことが嫌いではなかった。
イルは、彼女が作ったグオングアを「旨い、旨い」と言って、夢中で食べてくれた。
引き取ったマトヴァリシュを可愛がり、よく世話をしてくれた。
彼女が楽しい時間を過ごせるよう、いつも気を配ってくれた。
だが、慎み深い彼女は、それらを特別なものと考えるべきではないと思っていた。
二人は、言葉少なに帰り支度を整えた。
日が陰ってきたせいか、ウパティヤカーコの花も何だか色あせてきたように見えた。
ただでさえ寂しい帰り道は、いっそうもの悲しく辛いものになった。
イルが手綱を引くマトヴァリシュの背で揺られながら、シシルスランガの心も揺れていた。
自然と溢れてきた涙をそっと拭いながら、シシルスランガは、名前も居場所もわからない第二十八王子に、心の中で恨み言を言った。
(第二十八王子様、あなたがいけないのですわ! あなたが早くお姿を見せてくださっていたら、お声を聞かせてくださっていたら、わたくしの目も耳も心も、そちらだけを向くことができましたのに――。このままでは、わたくしは見てはいけない夢を見てしまいそうです――)
白く耀く王宮の塀や建物が見えてきても、シシルスランガの気持ちが晴れることはなかった。
二人がそれぞれの憂いを抱えたまま、ようやくたどり着いた碧玉門の横には、厳しい顔つきでスロダーリャが立っていた。
そして、その横にはニルマカーラ隊長と王宮警備隊の面々が、眉をぴりぴりさせながら並んでいた。
ちょっと事情がありまして、続きは夜の投稿となります。