捌
「……本当に、大丈夫なのでありますか?」
「どういう意味だ?」
鉄之助が黒野と相見えている、同刻、東京府警視庁庁舎。
その隅にある専用の一室で、藤田五郎は部下である高橋の疑問に問い返した。
「いえね、今回の犯人、明らかに只者じゃあないじゃあないですか。それを、あの市村さんに全部任せてしまっていいのかと思いまして。警部の知己である、とは存じていますがね?」
「なんだ。俺の判断が不服か?」
「いえ、そういう訳ではないのですが……」
高橋の脳裏を過るのは、お嬢様と呼ぶ少女をおぶって歩く優しそうな好青年の姿だ。
彼は事実、人のいい性格なのだろうが、一方で荒事向きではないように高橋には思われた。
しかし、そんな高橋の内心を見抜いたように、藤田はふぅっと紫煙をくゆらせると。
「心配ないさ」
そう言い切った。
続けざまに二度、三度と煙を吐き出しながら、藤田は過去を懐かしむように目を細める。
「昔、ある女があいつのことをこう評した。『頗る勝気、性亦怜悧』。あいつは……市村鉄之助は、その通りの男だ」
◆
「――《鬼》だと」
黒野の言葉を聞いた瞬間、全身がカッと弾けたように熱を持った。
決して侵されてはならない聖域を、土足で踏み躙られたような気分だった。
「新撰組を継ぐ、だと……お前は今、そう言ったのか」
「だったらなんだってんだ」
「ならば最早、お前に与えるべき慈悲はひと欠片だってありはしない」
こいつは言ってはならないことを言い、してはならないことをした。
代償は支払ってなければならない。
僕という存在に掛けて、穢された誇りを取り戻さなければならない。
そのためには――この身が灼けようと惜しむまい。
「よく見ておくんだな。本物の《鬼》ってやつが、どういうものかを」
――そして僕は、“鬼”の力を解き放った。
ごう、と炎が渦を巻いて燃え盛る。
僕の手にした和泉守兼定に宿った轟炎が赫灼と夜空を照らす。
起こりうべからざるその現象こそ、理外の力を有する証明に他ならない。
更に荒れ狂う炎は、僕の全身を呑み込み特大の爆薬と成り果てようとするが――僕はその勢いを意志の力で無理矢理抑え込んだ。
……大丈夫だ。まだ、制御できる。
『――――ならば、勝ちなさい、鉄之助。必ず勝って、無事に私のところへ帰ってきなさい』
お嬢様の言葉が脳裏に反響する。
お嬢様は、『市村鉄之助』に帰ってこいと命じた。《鬼》に、ではない。
ならば、どうして畜生へと堕ちられようか。
否――堕ちることなど赦されるはずもない。
この《鬼》に手綱をつけ、乗りこなすのだ。
「……なんだ、それは。なんなんだよ、貴様はああああっ」
取り乱す黒野を前に、僕はゆっくりと口を開いた。
「――《鬼》ってのは、お前みたいに生っちろいモノじゃあない」
――新撰組に《鬼》の副長在り。
嘗て戦歌に謳われ、敵味方の肺腑を震え上がらせた《鬼》の力は、彼女の死と同時に僕の身体へと乗り移った。それはまるで、連綿と人の生き血を啜る、太古からの呪いの如く。
「黒野仁造。貴様にはわからねぇだろうな、この僕の憎しみが。骨髄まで達したこの恨みが。愛した女の死に目にすら立ち会えず、ただ形見に刀の一本ぽっきりを抱きながら、汚泥を這いまわって生き永らえる気持ちはな」
嘆くような独白に呼応して、炎が大蛇の如くうねる。
今や人気のない裏路地は、さながら閻魔の焦熱地獄の様相を呈していた。
《鬼》の本質は破壊の衝動だ。
万物を焼き尽くし、灰燼に帰さんとする獣性。
異形の炎は発露の一側面に過ぎない。
衝動に呑まれれば最後、僕は一片残らず《鬼》と化し、己と己に関わる全てを壊し尽くすまで止まらないだろう。
そう――つい先ほど、お嬢様を殺しかけてしまったように。
だがそれでも、理屈も原理も焼き払い、不利益も因縁も蹴飛ばして。
只この時この瞬間だけは、忌まわしき《鬼》の力で――眼前の敵を討たねばならない!
「――名乗りが遅れたな、黒野仁造。元新撰組副長付遊撃隊、市原鉄之助――参る」
刀を中段に、左足をわずかに退いて斜に構える。
平晴眼。天然理心流の一にして全の構えだ。
長引かせるつもりはない。一瞬で決着をつける。
「何故だ!?」
納得がいかないとばかりに、黒野が口角に泡を浮かべる。
「貴様がかの新撰組隊士であるというのなら、俺たちの同志じゃねえか! 何故俺に賛同しない! 戦いの中でしか生きられないのは、貴様ら壬生狼も同じだろうが!?」
「馬鹿が」
一蹴。
こいつは何もわかっちゃいない。
「僕たちは……新撰組は、旧政府軍である前に、武士であろうとした。お前らのような、無辜の民を殺めて喜んでいるような手合いとは違う。怒りに溺れて弱者を虐げることしかできないお前は、畜生以下なんだよ」
「だがッ」
「それに何より、お前は沖田さんの名を騙った。《鬼の副長》の名を騙った。その所業、万死に値して余りあるッ」
僕の放った摂氏百度の言霊が、黒野を強かに打ち据える。
決定的に、僕たちは訣別したのだ。
最早相手を殺すことでのみ、己が生の意味を証明できる。
「…………糞ったれがァ!」
黒野の胸元に生えた三本目の腕が背後に回る。
外套の陰から取り出されたのは、三本目の小太刀だ。
「この六年、何もしてこなかった臆病者がッ。俺にデカい口叩くんじゃねえッ」
「口だけは立派だが。その三本はお飾りか?」
「…………ッ。あの世で悔いやがれ」
「誠の旗の下に。成敗する」
先に大地を蹴ったのは黒野だった。
地鳴りがするほど強烈な踏み込み。
砲弾と見紛う速度で、三本の刀を構えた黒野が殺到してくる。
「死ねええええええええええッ!!」
怪鳥の如き叫び声と共に、三位一体と化した鋭利が迫る。
僕はコマ送りのように緩慢な時の流れの中、その切先に狙いを定めて――。
――不意に、脳裏にかつての日々、そのとある一景が明滅した。
京は西本願寺の、斜陽差す長閑な縁側。
大声で罵り合いながら柄杓で水を掛け合っている、沖田さんと斎藤さん。
そこへ長倉さんや井上さんが仲裁に入ろうとするが、逆に水を浴びせられやり返し、気づけば大人数での合戦もどきの様相を呈している。
隊士たちは口々に叫びながらも、皆一様に笑顔を浮かべていて。
やがて近藤さんも巻き込んで、宴会もかくやのどんちゃん騒ぎが始まって。
そんな彼らを、縁側に腰かけた僕と土方さんは、苦笑しながら眺めていた。
それは過ぎ去った、もう二度と戻ることのない記憶。
――泡沫が弾けた。
ひゅう、と鋭く呼気。
吐息と同時に――銀閃が三条の軌跡を刻んだ。
時の流れが元に戻る。
すれ違った僕たちは、互いに背を向けた格好で。
「…………なんだ、今のは」
黒野の声は、震えていた。
彼の三本の手に握られていたはずの刀は、木っ端微塵に砕け散っている。
それどころか、自慢の三本腕はその全てが肘上から跡形もなく消し飛び、傷口は真っ黒に炭化していた。
《鬼》の炎を纏った剣先による超高速の三連撃。
嘗て新選組一番隊隊長、沖田総司が十八番の秘剣が、常人離れした黒野の肉体すらもを一切の慈悲なく灰燼と化したのだ。
僕は振り向き、がくがくと痙攣する黒野の背中に告げる。
「……これが本当の、『三段突き』だ。言っておくが、お前の騙った沖田さんは、こんなもんじゃない。あの人は一息に、四度まで突いた」
がくり、と黒野が膝をつく。
柄だけになった刀がこぼれ落ち、カラカラと虚しい金属音を奏でた。
彼は忌々し気に視線だけで俺を振り返る。
「…………化け物が」
「お互い様だ。お前はあの世で、沖田さんに詫びてこい」
蒼白の鋼が夜闇に跳ねた。
黒野の首を斬り飛ばし、そのまま爆炎でもって彼の全身を火達磨と化す。
「……お前が斎藤さんの前に現れなくてよかったよ」
暫し、ぶすぶすと肉の焦げる音が漂ったのち。
後には吹けば飛ぶ灰の山だけが残っていた。
◆
息荒く肩が上下した。
「…………っ」
刀を鞘に納める手が勝手に震える。
焼灰を吸い込んだか、ひりつく喉に唾を滑らせる。
黒野仁造は死んだ。異形の躯体は跡形もなく燃え尽きた。
もう二度と、帝都の夜を沖田の亡霊が騒がせることもないだろう。
事件は解決したのだ。
……帰ろう。お嬢様が、きっと僕の帰りを待ってくれている。
そう思い、踵を返しかけた瞬間だった。
『――――化け物が』
「――――ッ」
その声が聞こえた瞬間、振り向きざまに抜き打った。
切っ先が虚空を裂く。そこには誰もいない。
いない、はずのそこに――蜃気楼の如く、黒野の顔だけが浮かび上がる。
『――――化け物が』
「…………やめろ」
『――――貴様ら壬生狼も同じだろうが』
「やめろっ」
『この六年、何もしてこなかった臆病者が』
「やめろと言ってるんだッ!」
絶叫と同時、業火が吹き荒れた。
無意識に放った灼風が渦を巻き、黒野を――黒野の幻覚を消し飛ばさんとする。
だが――消えてくれない。
それどころか奴の声は、僕の頭の中まで入り込んでくる。
『――――戦の中でしか、俺ぁ生きられない』
『――――鬼になったのさ』
『――――お前も同じなんだろう?』
「……ッ」
髪を掻き毟る。
頬を引っ掻いて、されど振り払えない。
聞きたくないのに、消し去りたいのに纏わりついてくる。
……ああ、そうだ。そうだよ。その通りだとも。
新撰組の仲間たちは、武士だった。
だが、今の僕は……お前と同じなんだ、黒野仁造。
既に守るべきものはなく。
武士としての矜持も、人としての尊厳も、全てを砥石の如く擦り減らし、刀の肥やしにくべてしまって。
この空っぽの器に残るのはただ一つ――ありとあらゆる〈敵〉への赫怒のみなれば。
ならば、僕は――既に新撰組ですらないこの燃え滓は、
「……壊すしか能のない、化け物だとも」
「――――それは違うわ」
顔を上げる。
路地の向こう。白みつつある東の空を背に、ひかりお嬢様が立っていた。
日輪を背負うその立ち姿は、この世ならざるほど美しく、神々しくて。
僕は咄嗟に頭を垂れて膝をつき、反射的に臣従の姿勢を取った。
「……終わった、のよね」
「……はい。全ては、こともなく。お嬢様のお陰です」
「私は何もしていないわ。頑張ったのは鉄之助よ」
そう囁き、お嬢様がすっと身を寄せる。
彼女の細い指が僕の頬に伸び、心臓がどきりと跳ねる。
「……血、出ているじゃない」
「ああ……」
頬を拭う。
そこには確かに赤い血が付着していた。
「多分、砕いた刀の破片が掠めたんでしょう。怪我とも呼べない程度のかすり傷ですよ」
それ以外に思い当たる節がない。
刃粉飛び交うような大立ち回りを演じてこの程度で済んだのなら、無傷と同義だ。
無事に帰ってこいという命令に背かずに済んだことに、僕はそっと内心を撫で下ろす。
「それではお嬢様、帰りましょう。こんなところには、長居するものでは――もがっ」
だけど言葉の途中で、僕の頭はお嬢様に抱き抱えられてしまう。
まずい、このままじゃお嬢様の服に僕の血が……。
「……させないわ、鉄之助」
「……」
「私が、貴方を化け物にはさせない。絶対に、させないから」
お嬢様の声は震えていた。
いや、声だけでなく、身体も。
だから僕はそっと彼女の身体を抱き返す。
お互いの体温を分かち合う雛鳥のように。
「……ええ、ええ。お嬢様。お嬢様がいる限り、僕は化け物にはなりません。そうなってしまっては、お嬢様の面倒を見るひとが、いなくなってしまいますから」
「…………馬鹿」
お嬢様は、ぐすりと鼻を鳴らして。
朝日を背にしているときには気づかなかったけれど、真っ赤に泣き腫らした目許をごしごしと擦ってから。
「――いいわ、それなら死ぬまでこき使ってあげるから。さあ鉄之助、私を家まで運んで頂戴?」
そう、綺麗な泣き笑いを浮かべるものだから。
僕は苦笑して、お嬢様の背と膝に手を回しつつ、「お嬢様。袖で洟を拭くものではありませんよ」と注意した。
ぽかりと胸元を叩いた拳骨の感触が、ひどく暖かく、心地よく感じられる。
――いつの間にか、声はぴたりと止んでいた。